引用しますーーーーーーーー
エジプトのヒエログリフ
シュメールで発明された文字は、やがてメソポタミア全域に伝わっていきます。
絵文字の段階で伝わったものもありますが、楔形文字として伝わったものもあります。
特に注目したいのはエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)※です。
エジプトでは王朝時代が始まる前後、シュメールと交流があったことは、シュメールの特産品である円筒印章などがエジプトから出土していることから明らかです。
エジプトの聖刻文字は象形文字(絵文字)なのですが、発展段階を経へずいきなり完成された形で表れています。これらのことから、エジプトの聖刻文字はシュメールの影響があった可能性があります。エジプト以外で発見された文字も、それぞれの言語特有の記号が使われていますが、「文字で記録する」ということさえ理解できれば、まねをすることは簡単です。 ーーーーーーーー引用終わり
このように云われています、これからはシュメールからエジプトへの影響があったことは間違いないでしょう。
図 古代文明の年表
ところでこの印章に関しては、縄文時代の早期には同様な技法が土器の模様として使用されていることから、土器を含めて時代的には、縄文早期からシュメール文明への影響があったことが想定できます。
シュメール文明がこよみの起点としていた、春分観測をカペラで行うという星を観測する方法は、縄文時代に太陽こよみの土器の記録から見て、年代的には縄文早期からの影響と考えることが出来るのではないか。
図 6突起土器の年代
またシュメール文明の60進法の数 6は、縄文早期に作られた 6突起土器の半年ベースの月のこよみの影響があると考えることも可能では無いでしょうか。
このようにシュメール文明とエジプトの関係から、遠く縄文時代の影響は、エジプトにまでも及んでいたのでは無いかと考えます。
引用しますーーーーーーーー
楔形文字の特徴
シュメール人が発明した楔形文字はとても有利な特徴を持っていました。
メソポタミアは農作物以外は何の資源もありませんでしたが、粘土は有り余るほどありました。
粘土はとても安価な筆記用具となります。半乾きの粘土版に葦のペンで簡単に記号が書けます。
葦もまたどこにでもあります。粘土板は乾くと頑丈でかびたりすることなく、乾燥した風土の中でいつまでも原形を保つことができます。特に長期保存したいときは、焼成しょうせいして素焼きの板としました。火災によって焼成されたものもあります。粘土板に葦のペンで書く場合、曲線よりは葦の切口を押し付けたり引っかいたりする方が簡単です。
エジプトのヒエログリフ
シュメールで発明された文字は、やがてメソポタミア全域に伝わっていきます。絵文字の段階で伝わったものもありますが、楔形文字として伝わったものもあります。
特に注目したいのはエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)※です。エジプトでは王朝時代が始まる前後、シュメールと交流があったことは、シュメールの特産品である円筒印章などがエジプトから出土していることから明らかです。
エジプトの聖刻文字は象形文字(絵文字)なのですが、発展段階を経へずいきなり完成された形で表れています。これらのことから、エジプトの聖刻文字はシュメールの影響があった可能性があります。エジプト以外で発見された文字も、それぞれの言語特有の記号が使われていますが、「文字で記録する」ということさえ理解できれば、まねをすることは簡単です。
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12.数学と文明
『数の発明』は全12記事からなるWeb連載です。
農耕や牧畜が始まると、人口が増え生活を圧迫し、人びとはますます働かなければならなくなります。ヨーロッパや日本は気象がそれほど過酷ではなく、狩猟採集で十分食料が賄えました。民俗学の調査によると、ある狩猟採集民族は毎日3時間程度働くだけで十分な食料が得られたようです。
また化石の骨の調査より、狩猟民族の骨のほうが農耕民族より、病気や栄養不足などの影響がなく健康だったといいます。狩猟採集時代は、人口もまばらで持ち運ぶ荷物も少なく気ままな生活です。定住し人々が集まると感染症などの病気も増え、持ち物が増えると将来や家族のことを考えなくてはならずストレスがたまります。日本の縄文時代もヨーロッパと同様、文字もなく100以上の数を扱うことができなかったかもしれませんが、人びとは豊かな文化を享受していたのではないかと思われます。
数を記号化することによって、石器人は100までの数を認識することができるようになりました。しかし、100以上の大きな数を扱えるようになるには、人類はそれから何千年もの時を必要としたのです。
オリエントや中国で文明が興ったのは農業革命のためだと言われています。しかし、狩猟採集民族の時代でも、高い文化を持った遺跡がいくつか発見されています。なかでもトルコの南東部にあるギョベクリ・テペの遺跡は有名です。1万2千年ほど前の遺跡で、小高い丘の上に重さ16トンものある巨石が並べられています。近くには人の住んだことを示す証拠はなにも発見されておらず、おそらく宗教的な施設であっただろうと考えられています。
同じくトルコにはチャタル・ヒュユクという有名な遺跡があります。9500年ほど前の遺跡で、約8000人の人が住む集落です。しかし、一人一人が“自分だけのこと”をしており、社会的な分業がなされてはいなかったようです。したがって、歴史学者はこれらを“都市”とか“町”とはみなしていません。
また、ヨーロッパにはストーン・サークルと呼ばれる巨石遺跡があります。特に南イングランドにあるストーン・ヘンジが有名です。5000年~4000年前の遺跡で、宗教的儀式のための施設だと考えられています。ストーン・ヘンジは夏至の日の観測など、天体観測に用いられたことが知られています。
ここで、古代の人々が「数」をどのように捉えていたかを考えてみましょう。ストーン・サークルにはピタゴラスの定理※が隠されている、という説があります。これは、ファン・デル・ヴェルデンという有名な数学者が唱えた説です。彼は大学で広く用いられた数学の教科書を書いていますが、『古代文明の数学』という本も書きました。その中で彼は「偉大な発明・発見は一回きりだ」と述べています。
このこと自体は納得できるのですが、これを根拠に「ピタゴラスの定理はヨーロッパのストーン・サークルが源泉で、そこから中国やバビロニアに伝わり、さらにギリシアに伝わった」と主張します。しかし、この説は成り立つとは思えません。
一番大きな障害は、 新石器時代には文字がなかった ことです。文字(記号)がないと、100以上の数の概念が生まれません。ピタゴラスの定理には掛け算か、あるいは面積といった概念が必要となりますが、はたして新石器時代の人はこういった概念を必要としたのでしょうか。必要のないところに発明や発見は生まれないと思われます。