嫌がらせではなくても、事のなりゆき上、はしごをおろされたかたちになり、自分だけ浮きあがるということがある。
前述したように私はかつてのひぼし体験者である。
ある教授は大学紛争時に学生課長を兼務した関係上、教授会からも理事会からも孤立し、辞めざるを得ない状況が幾年も続いた。
勝海舟と西郷隆盛に相当する人物がいればよかったのだが、誰も教授に勝や西郷の役割を期待していなかった。
会議を開いても評論や解説や推論ばかりで「私が折衝してみよう」「私を団交に出させて下さい」と行動を起こす人は少ない。
口だけ達者というのは私にいわせると責任回避的である。
ひぼしにされる人間のなかには良心的すぎて、責を一身に引き受けざるを得なくなった人がいる。
それゆえ、自分はだめ人間であると思い込まない方がよい。
逆に、自分をひぼしにした人たちこそだめ人間であると心密かに思った方がよい。
つまり、おとなしければよいというものではない。
内に烈々たる闘志を秘めておくのが健康と長生きのもとにもなる。
若いうちから妙に悟った顔をしない方がよい。
この内に秘めた攻撃精神を起爆剤にして、捲土重来を期すのがよい。
以上、自分がひぼしにあったからといって、すべては自分に責任があると自分をせめない方がよいと説いた。
ところがどう考えても、たしかに自分の落ち度である、自分が馬鹿だった、ひぼしにされて当然である、と判断せざるを得ないこともある。
それでもなおかつ、自分はだめ人間である、自分の人生はこれで終わりだと考えない方がよいとアドバイスしたい。
理由は、自分はだめだったと百万遍自分をせめたところで、心境に変化が生じるわけではない。
心境に変化の起こらないことをし続けるのは意味がない。
ではどうすればよいのか。
「今後、同じような失敗を再び繰り返さないためには、自分はどうしたらよいか」を具体的に考えることである。
たとえば私は今後再びひぼしを体験しないために「人が立派な論評や解釈や推論をしても、ほいほいと動かない。
その人がどう動くかを観察するにとどめる」と決めた。
ずっとむかし助手の頃にも上司にきらわれて閉口したことがあるが「今後は人前で上司の説に反論を加えない」と決めた。
ひぼしの連続、つまり「たらいまわし」にされている人に私はこれまでの人生で何回も出会ったが、自分がひぼしにされていると気付いていない人が意外に多い。
人間にはナルシシズムがあるので気付きにくいのである。
人が私になれなれしく声をかけないのは私に一目おいているからである、といった調子に。
それゆえ、自分はひぼしにされていると気付いている人は、このひぼし体験をプラスに換算できる人である。