中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

ときには原文を読んでみる(方丈記 徒然草)

2023-07-27 12:35:33 | 歴史が得意になる

 

法界寺 画像お借りしました

 社会や国語で文学の作品と作者はよくあげられて、方丈記=鴨長明、徒然草=吉田兼好というのは、ほとんどの人が答えられますね。

でも、その原文を読むことは、高校生、いや大学生、社会人でもほとんどないでしょう。

わたしもしばらく読んでいませんでした。若い人が読んでも面白くない?かもしれません。

また、こんな話をする社会や国語の先生もいないかもしれません。

方丈記は短い文章です。作者が60歳ころなって、世の無常(平安末期から鎌倉時代の戦乱の時代)を感じて、大きな屋敷に住もうが、自然の災害や戦争で一夜で家屋敷は失ってしまう。そのようなことであればと山際に方丈(一辺一丈 いわゆる4畳半くらい)の小屋をつくって住むのです。

鴨長明は和歌集に選ばれる歌人であったが、不遇な人生であった。ただこの住まいに、

魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心を知らず。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして誰かさとらむ。

という世を遠ざけた生活の境地を語ります。

徒然草は世のさまざまなようすを鋭く見た作者のエッセイ集です。

吉田兼好の価値観は、私欲、愛着を捨てて、スマートに生きたいというどこかダンディズムがあります。でも、どこかヒューマンな見方が救いになります。

最後の段に、兼好が幼い時、父に尋ねて、

仏とはどのようなものでしょう?

仏は人がなる。

どうやって仏になりますか?

仏の教えによってなる。

その仏を教えた仏は何が教えましたか?

と尋ねつめると「空よりふりけん、土よりやわきけん」と笑った。

父は「問い詰められて、答えられなかった」と人に話したと終わっています。

全部を読むのはたいへんですが、文献を読むことも良いのではないでしょうか?

 


一遍上人って誰?

2023-07-26 08:02:47 | 歴史が得意になる

 一遍聖絵 画像お借りしました

 

鎌倉時代の文化でややこしいと思うのはおそらく宗教のことではないでしょうか?

とくに鎌倉仏教と言われる新しい仏教が輩出します。

法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ととなえる念仏系、日蓮宗は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」つまり、法華経を唱えます。臨済(りんざい)宗や曹洞(そうとう)宗は中国宋代の禅宗から栄西、道元が開きました。

ところが一遍の宗派は時宗と呼ばれますが、何を教えにしたかよくわかりません。多くの人に念仏の札(六字名号というので「南無阿弥陀仏」を書いた札)を配って回り、踊り念仏と言って、多くの人と念仏を唱えたというのです。

なぜ一遍に注目するかというと、一遍の行いを描いた一遍聖絵、一遍上人絵伝といった絵巻が伝わり、一遍の布教のようすや当時の人々の暮らしのようすがわかるからです。

平たく言いますと、教科書によく出てくる=試験に出るからです。

よく知られるのは、備前福岡(今の九州の福岡ではありません。岡山県です。)

の定期市のようすです。

また、「ウォーリーをさがせ」ではありませんが、画面の中に一遍上人がどこにいるか探すのも面白いです。

こうした新しい仏教は、平安時代のように貴族のためにだけのものではなく、多くの人々に仏教の教えを広めようとしました。

 


南都復興と運慶・快慶

2023-07-25 10:31:33 | 歴史が得意になる

仏像彫刻をよく知らなくても、運慶・快慶はよく聞きますね。

その代表作、東大寺南大門に安置された金剛力士像は近年、解体修理が行われました。

以前は阿形が運慶、吽形が快慶とよく言われました。

さて、解体修理をすると、中から建造に関する文書が出てきました。東大寺の方や仏像研究の先生の注目の中、開封されると意外な内容が書かれていました。

つまり阿形には運慶・快慶二人が、吽形には定覚、湛慶らが携わったというのです。そのほかにも多くの仏師がかかわったことがわかり、彼らの共同制作であったのです。

ふたつの造像に運慶と快慶の造像の違いを見ようとしましたが、もともと阿形と吽形の性格の違いをよく表したと考える方が妥当のようです。

どうしてこのような力強いすぐれた彫刻が作られたか?もちろん運慶や快慶の力量もありますが、南都=奈良の伝統的なすぐれた造像、天平時代にさかのぼる像の存在があったと思われます。

もちろん、鎌倉時代の武士の風潮にも応えたと思われます。また、中国宋代の文化が禅宗を中心にもたらされたことも関連あるのかもしれません。


武士と禅宗

2023-07-24 21:19:47 | 歴史が得意になる

 京都 南禅寺 三門

平安時代末期、中国宋代の禅宗が栄西らによってもたらされました。これを将軍はじめ武士が信仰して、盛んになり、鎌倉と京都に五山の制度による壮大な禅宗寺院が建てられました。

武士が禅宗を信仰したのはなぜか?

一つには禅宗がみずから仏となり生死を問わない、つまり戦に向かう武士の心を支えた。

二つめは禅宗によって中国文化がもたらされ、いわゆる唐物とよばれるいわば宝物を得たいために禅宗寺院に近づいた。

三つめは、平氏のように宮廷文化を採用することで、朝廷に取り込まれるのではなく、禅宗によって新しい武士文化を成立させようとした。

とあげられるかもしれません。

どれが正しいと断定できませんが、幕府や武士が禅宗をさかんにすることによって、日本に禅宗風(中国風)の建築や美術がもたらされ、喫茶の習慣から茶道がさかんになりました。

五山の禅僧はただ仏道に励むだけでなく、中国の文人文化、つまり詩書画をたしなんだり、中国との交渉の使者となるなどの活動を行いました。

こうしたなかから雪舟などもあらわれ、文化の温床となったと言えます。

しかし、しだいに当初の悟りを目指すような修行はすたれて、立身出世をもとめる輩が増えたとも聞きます。

あと、

実は禅僧の出身は武士が多かったということもあります。武士の次男三男は家を継がないので、僧となることがありました。

したがって、武家の子息の学習や就職の場でもあったと思われます。

武士の文化と禅宗は非常に深い関係であったといえます。


源頼朝は足利直義?

2023-07-24 15:32:34 | 歴史が得意になる

 源頼朝とされた肖像画

 

鎌倉時代のイメージはこの像が代表していました。

しかし、近頃は教科書でも使われていません。

多くの人はこれが源頼朝でないという認識が広まったためだと思います。

なぜ源頼朝でなくなったのでしょう?

神護寺の像は描写や刀装具を検討すると、源頼朝の時代のものではなかったのです。1200年前後に描かれたものとは考えにくく、それから100年以上遅れて描かれた可能性が高い。

このことと神護寺への肖像画寄進の事績をあわせると、足利直義が兄尊氏と二人の肖像を寄進していました。

そのために今では足利直義像とされるのです。

どうして源頼朝像になったのでしょう?

どうも江戸時代の初期に徳川幕府が開かれ、ふたたび征夷大将軍源頼朝を大事に考えるようになったときに、この像が源頼朝であろうと思ったようです。

江戸時代に写したものには源頼朝としています。

この肖像画がすばらしく立派だったことが、今日まで残ったのですが、その分、役割も与えられて、別の肖像とされてしまったと思われます。