世の中の大半は「椅子取りゲーム」だ。
誰もが羨むような椅子は
上の方に少ししかなくて
誰もが避けたいような椅子は
下の方に少ししかない
その間には無数の椅子がある。
みんなが自分の可能な範囲で頑張って、
少しでも良い椅子を目指して頑張ってる。
それが世の中だ。
良い椅子に座りたいなら頑張って
別にボロい椅子でもいいのなら頑張らなくて
「好きな椅子に座ってね」
と、大きな「天の声」みたいなものに
言われている感じだ。
たまたま座った椅子の座り心地が妙に良くて
なんとなく一生そのまま座り続ける人もいるだろうし、
「あの子の椅子、いいなー」 と思って頑張って
他の椅子を目指す人もいるだろう。
「椅子なんて、座れればなんだって良いよ」
って価値観の人もいるだろうし、
「少しでも良い椅子が良いに決まってる!」
って価値観の人もいる。
で、世の中っていう
大きな枠組みから考えたら
その椅子に誰か座ろうが、
別に「どーだっていい」ってことだよね。
本人にとっては大きな問題かもしれないけど
今、その椅子に誰が座ってるかなんて
世の中から見たら本当に本当に些細なことだ。
ただ、「座りたい人が座れば?」ってだけ。
これからこの大きな大きな「世の中」に出て行く人達
大事なことはね
「世の中は君のことを見ていない」
ってことだ。
これまでは親の庇護のもと、
大事に大事に見てもらって、
育ててもらってきたはずだ。
「キミには価値がある」
という絶対的な評価を受けながら。
でもね、世の中は
キミに対してそんな評価は下してくれない。
その椅子に座るのは
「本当に座りたいと思って努力をしてきた者」
だけだ。
「座りたいなら、座ればいいよ。
でもね、一番努力をしてきて
その椅子にふさわしい人が座ってね」
そういう仕組みなんだ、世の中は。
足りてないのなら
相応しくないのなら
「えっ?キミじゃないよ笑」
って言われるだけ。
キミは困るかもしれないが、
別にキミ以外の誰も困りはしない。
現実を知りなさい
もしくは
想像しなさい
「別にキミのことは、どうだっていい。
キミじゃなくても全く問題なし。
ただ、キミが望むならば
キミが頑張ればいい。
キミが困るのも苦労するのも
全てキミの勝手さ」