ひとはいじめをやめられない(中野信子 小学館)再読②
ひとは、お猿さんの子孫であるからサル山のサルを観察すればヒトのことはわかりそうなものである。サルがいじめ合戦をしているかどうか知りたいものである。メスざるはハーレムを作って子育てを共同で行うんだそうだが、その中では順位付けがあって順位を決めるのにいじめらしきものがあるというのをどこかで読んだ記憶がある。雄猿は権力闘争に敗れると、その集団のなかにおいてもらえなくなるらしいが、ヒトの社会に置き換えるとこれはいじめではないか。どうやらお猿さんもいじめらしいことをしているようである。
ならば、ヒトもしていいかというとそうとも思われない。社会全体の能率が極めて悪くなる。組織内でいじめ合戦をやっていると、競合する組織との競争に負けてしまうはずである。現に旧日本軍では、平時にあってはいじめがすごかったが、戦時にあってはお互いに助け合ったらしい。新兵さんは、いじめの凄さに耐えきれず早く戦場に送られることをこいねがったらしい。そのくらい戦場では助け合いをするのなら平時ではいじめをやらなきゃいいのにずいぶんひどいことをやった。なぜ社会全体として損をするのにこんなことをするのか不思議である。
恐らく、平和なときの例えば江戸城内ではそれぞれの集団の中でいじめが行われていたに相違ない。真偽は分からないが、浅野内匠頭はいじめに耐えかねて松の廊下の事件を起こしたという。平時ではいじめをするのは人間の本能のどこかに組み込まれているかと考えてこの本を読むのだが、どうもポイントがずれている気がする。「タダで集団に乗っかっているフリーライダーがいじめを受ける。」というのがこの著者の主張であるが、そればかりが原因であるようにはとても思えない。平時の軍隊内の新兵いじめでは、新兵がフリーライダーであったのか?平和なときには、ヒトをいじめて楽しむというケッタイナ素質がヒトの脳に組み込まれている様に観察される。それが子々孫々に伝わってきたからには、(その資質が人類の生存を助けるという)良い意味を持っていたはずである。そこのからくりを知りたかった。
たとえば、同じ著者のサイコパス(中公新書)には、サイコパスが一定の割合で存在するのは社会には例えば食料にするために動物をあやめることが平気な人材が必要であるからである、との説明がありわたしは思わずヒザを打った。このヒザを打つような解説を期待したがこの本にはなかった。是非著者にはもっと詳しくいじめの場面を観察して、「なぜヒトはいじめをするのか?」という新書を発表して欲しいものである。日本だけでない、諸外国や歴史上の記録を調べて書いてほしいものである。