小説 酒屋のおまき③
当時の日本は軍靴の足音が次第に大きくなってきたが、酒屋の仕事は順調であった。何しろ競争しないのである。地域独占が国家のお墨付きで与えられているようなものである。満州事変は起こったが、真珠湾はまだであった頃のことである。常吉が突然病に倒れて、おまきを枕元に呼んでこう告げた。
「わたしが世話をしているひとが砂川町にいる。身寄りのないヒトだ。済まないが、このひとを店員に雇っていることにして毎月の給金をずーと払ってくれ。他の店員には内緒にしておいてくれ。」
おまきはこう応じた。
「ええ知ってましたよ。砂川町ということだけは今知りました。もちろんあなたの言うとおりにしますから、どうぞご心配なく。それだけではあなたも心配でしょうから、私たちの養い妹として戸籍に入れましょう。もちろん、お給金も支給しますよ。わたしも、妹ができてうれしいし子供たちも新しいおばさんができてきっと嬉しいでしょう。」
「そうか知っていたのか。」
おまきの行動は実に早かった。その日のうちに番頭一人を連れて砂川町に出かけた。おまきはごく小さいけれど掃除の行き届いた家に住む上品で小柄な女性にことの顛末を話し、自分たちの養い妹になってくれるように搔き口説いたのである。上品で小柄な女性は、どんな運命でも受け入れる準備のできた人のようである、その場で静かにうなずいた。おまきは、直ちにその場から番頭を戸籍作成の手続きを問い合わせに
役所へ走らせた。もちろんこのことは店の誰にも喋ってはならないと釘を刺しておくことも忘れなかった。
おまきは番頭の去った後、懐から給料袋を取り出し今後あなたは当店の店員の身分になるが出勤の義務はないことを告げた。上品で小柄な女性は事の展開が意外であるのにも関わらず表情に驚きの色も見せずに、その袋を何も言わず受け取った。おまきも腹が立つとかの感情は一切湧いてこない。常吉の入院先の病室の部屋番号と、自分たちは午前中は行くかもしれないが今晩も明日の晩も明後日の晩もずーと病室には赴かないことを告げた。上品で小柄な女性は、また静かに小さくうなずいた。さらに、常吉に万一のことがあってもあなたには知らせないがそれでもいいかと問うた。上品で小柄な女性は、これにも再び静かに小さくうなずいた。
おまきが、作成した戸籍の写しをもって常吉の病室を訪れたのはその五日後であった。常吉はそれを見てわずかにほほ笑んだだけである。そのことがあってさらに数日後常吉は身罷った。五十歳を一つ越えた歳であった。上品で小柄な女性は、常吉の葬儀にはおまきと話がついていたので姿を現わすことはなかった。