小説 酒屋のおまき②
おまきは自分は何が欲しいのかもわからないまま十数年がたってしまった。本当の自分とはなんであるのか分からないままである。酒屋は地域独占しているから競争というものは無かった。気を付けるべきは店員が店の金を持ち逃げすることであるが、常吉はそこは抜け目なく仕事をしていたのでお店はまずまず安泰であった。
昭和恐慌のさなかのある日のことである。いきなりお客が来なくなった。タダの一人も来ない。駅の向こうの酒屋もお客がなくなったのか番頭を走らせたところ、帰って番頭の報ずるところは
「客は山のように来ている。全品二割引きの札があちこちにはりだされている。」
という。
無駄な競争をやらないのが暗黙の同意であったはずだが何が起こったのか。
おまきは、父親の言葉を思い出して、常吉さんにすべてを差配させるから何とかしてと告げた。常吉さんは、すぐに店員に当方には三割引きの札を張らせた。そうして一番奥の桶の陰に隠れて入ってくる客の酔いざまをジーと見るのである。二杯目を頼む客が酔っているとみると、品位の悪い酒を上等の酒として売るように店員に命ずる。さらに三杯目を頼むとさらに品位の悪いのを上等の酒としてだす。ただし、何かとうるさそうな客にはこの手は使わない。効果は覿面で、今度はおまきの店に客があふれかえってさばききれないようになった。三割引きながら利益が十分出る状態である。
ものの二週間ほどで駅の向こう側の酒屋は、扉を閉めたままになった。おまきの店はお客で溢れかえるので、近くの空き地を借りて小屋掛けのお店を出すことになった。この小屋掛けのお店はその後本格的なお店に発展することになる。三割引きの札は必要なくなったし急遽田舎から店員をもう五名募集せねばならなかった。店員のしつけはおまきの仕事である、それからのおまきは忙しく働いた。
その二週間の大勝負のあと数年間はすべてが順調に進んだが、それから常吉はあろうことか花柳界に出入りするようになった。田舎から出てきた常吉にとって、それが出世したことの象徴でもあった。ここへ行かなければ、出世したことにならなかったのである。常吉はおまきにも知り合いにもさらには店員にまでも常々
「おカネは儲けるだけでは駄目である。使わないと意味がない。」
と、本当にそう思っているかどうかは不明だが豪語していたのである。おまきは、それを悪い冗談だと信じようとしていた。
今は違うが、当時は上中流階層にとって恋愛は花柳界にしかなかったのである。あたかも高級外車のようにおカネを持ってきたものにだけ売ってくれるというものであった。常吉はそこへ出入りしているのである。しかし今の我々から見ると不思議なもので、おまきにとってはちょうど友人がそこへ出入りしているようなものである。おまきは特別何らかの感想を持たなかったのである。