昭和はこんな時代であった
昭和30年台前半の頃はテレビも電話もなかった。 ラジオは音が悪く聞く人は少なかった。新聞の死亡欄には「最後の安政(慶応ではない)生まれの人(女性で写真まで添えられていた気がする)逝く。」の記事が載っていた。
そんなころごく小さかったわたしは、本家の農家へ預けられたことが何度もある。大みそかの数日前のことである。家に近所の若い人が十人近く臼と杵を持ってやってきて、土間で餅を搗く光景を見た。もち米は自宅の竈(へっつい)で大きな釜で炊く。ついた餅は、一家総出でちぎって平たい木の入れ物に並べていくがわたくしは頼りないのであろう触らせてもらえなかった。終わると餅を搗いた人々は臼と杵を持ってまた隣(といっても相当離れているが)へ運んでいく。ちょうどお正月の獅子舞が家々を回るようなものである。
次の日の朝のバスで家に帰ることになっていたわたしは、その夜 晩御飯が済んだ後でまずおじいさんのところへ呼ばれた。四角の木で作られた火鉢に長いキセルの灰をポンポンと落としながら、ラジオから流れる流行歌を聴いていたがラジオを消して
「歌は世につれ、世は歌につれと言うてな。」
とわたくしに講釈をした。とうじませていたわたしは、歌が世相の反映であることは同意するが、歌が世の中を変えるほどの力はないはずである、世が歌につれて変わっていくという意見には反対であると言いたかったが話が長くなってはいけないから黙ってうなずいて聞いておいた。
そのあとおばあさんの部屋に招じられた。建築基準法のない時代につくられた家である、三方が塗り壁で一方だけがふすまであるから昼でも暗い板敷きの間であった。紺色の陶器の丸い火鉢で、灰をかき混ぜる火箸で昼間拵えた丸い餅を火であぶっている。ゴマ塩の髪の毛を後ろで束ねか細い肩を丸めて、それでも大きなはっきりした声で
「若いうちやで、若いうちやで。」
とわたしに対してではなく、餅に対して話しかける。外は雪が降ったのであろう静かである。わたしは、あの火箸の灰が餅につくのを恐れて火箸の先をじっと見つめていた。
おばあさんの言いたいことは多分聖書のどこかにある、「若者よその若きときに喜びをなせ。」ということばと同じであると思う。もちろん聖書なんか知らないひとである。テレビも電話もなかった、ラジオは聞き取りにくかった、学校も高校以上は近くになかった。街から離れていると新聞は朝刊が夕方配達され、夕刊は配達されなかった。それでも人々は智慧のある暮らしをしていた。今知識が洪水のように押し寄せているが、わたしどもは智慧のある暮らしをしているのかを疑っている。
遺憾ながら、おばあさんの忠告に反してわたくしは若いころに喜びをなすことができなかった。なんとも心残りである。