小説 酒屋のおまき①
大正が昭和に変わったころのお話である。真紀子は酒屋の一人娘でおまきと呼ばれていた。実際は兄が一人いたが、酒屋を嫌って若いころ鍼灸医のもとへ修行に出てそのままその鍼灸医の家を継いでしまった。おまきは、このあまり大きくもないし先が思いやられる酒屋を継ぐことに気乗りしなかった。ただ、明治の初めに秩禄処分で得たわずかなカネを元手に祖父と祖母が苦労して立ち上げた店である、自分の代で終わりというのは許されないことである。子々孫々伝えていかねばいけない。
店には祖父祖母の出身地の村出身の若い店員が常に三名いた。女中も一人いた。店員は昼間はひっきりなしにやってくる客の持ち込む一升瓶に、桶から掬いあげた酒を二合三合と大きな漏斗を使って量り売りするのが仕事である。夕方には、つらい一日の仕事を忘れようと大勢の荷車の運搬人で溢れかえった。夕方の客は、立ち飲みの客である。夕方の客で忙しい時は、おまきも店先に立って仕事をすることが常である。
ある日、仕事が終わってやっと寝につこうかというとき、母親がおまきを呼びに来た。両親は、おまきに店員のなかの一人常吉を婿養子にすることに決めたからと伝えて、祝言の日取りまで決まっていると言った。おまきはその背の低い目つきの悪い店員が嫌いであったが嫌も応も言うことは許されそうになかった。
おまきと常吉の間には、三人の子供が次々生まれたがおまきは決して幸せとは思えなかった。ただ店が何事もなく続いていることだけに幸せを感じていた。一番下の子が小学校に行くようになったある寒い日の朝、おまきの父親は突然病に倒れ、今わの際におまきを呼んでこう言った
「店はおまえのやりたいようにやるがいい。ただどうしていいか分からないときだけは、店を常吉に差配させるがいい。もし常吉が店を大きくしたら褒美にあの男に好きなもの何でも与えるがいい。」
おまきは、父親の手を握りながら必ずそうすると答えたが本当はそうするつもりはなかった。不自由のない毎日であるが何か重大なものが欠けている、まず自分の心を満たすものを探し出さねばならないと常々感じていたからである。