本の感想

本の感想など

観心寺如意輪観音像

2024-01-19 13:05:12 | 日記

観心寺如意輪観音像

 昔、観心寺の如意輪観音像(摸刻)を美術館で見て、その色気に感心したことがあった。奈良西大寺の吉祥天女像もそうだが、この時代のヒトは唇の厚いシモブクレの肉感的な女性がお好みのようである。高松塚古墳の女性像の様な感じのヒトが美人とされたようである。

 古代から中世に渡る時代は、何もかもが停滞したと思っていたが、この像を見る限りではそんなことはない。彫刻の技術も凄いし、彫刻家のその像に載せる自分の思いも凄いものがあって、像の前に立つと摸刻とはいえ迫ってくるなにもかがあった。空海が刻んだとか伝えられているそうだけど、いくら何でも空海さんにそこまでの才能はなかったのではないかと疑っている。企画立案して最後にちょっと手を入れた程度ではないのかなと思う。

 さて当時は、如意輪というくらいだから意のごとくお金持ちにしてくれるのかと思い美術館で熱心に拝んでおいたが一向効果が表れない。これは摸刻であったのがいけなかったかと気を取り直し、本物およびその脇侍仏を拝むとたちまち験が現れるかもと観心寺まで出かけた。残念なことに秘仏で年に三日しかご開帳がないそうである。お金持ちになるには、日を合わせて再度行かねばならないようである。秘仏はやむを得ないがお前立にあの摸刻の像を置いてせめて厨子だけでも拝みたいところであるがそれもかなわなかった。(従ってわたしは今のところ金持ちになる兆しもあらわれてこない。しかし日を決めて参詣するのは面倒くさい。必ず金持ちになるなら考えてもいいが。)

 観心寺は、楠木正成が本拠の一つとしたようである。南朝の天皇はこのあたりをうろうろしてから吉野に向かったというから実際は高野山に行きたかったのではないか。それとも南朝は高野山の庇護のもとに成立した統治機構なのかもしれない。高野山や観心寺は室町時代を通じて栄えたと思われるが、何しろ京都には海外との通商で栄えた政権が成立したので高野山は財政的には衰微せざるを得なかったと想像する。通商なかんずく海外との通商は、今も昔も大事である。空海さんは、中世末期に独立王朝をたてたが、遺憾ながら港を持たなかった。播磨の港か堺の港かは知らないが、港は大事であるな、と思いながらこの結構大きな境内を歩きながら考えた。通商を握るものが栄えるのである。

 現に楠木正成は、播磨の福原の港のそばまで戦いに行っている。桜井の分かれというのがその近くのはずである。当時は(キット今も)港がキンの卵を産むニワトリであったのだろう。負けた方の心境を盛んに美化するような話がされているが、なんのことはないお互い欲得ずくの争いであったとみられる。

 してみると如意輪観音に祈ったはずの正成が負けたということになるのか?祈っても無駄になるのか。


浅草の浅草寺

2024-01-18 20:59:14 | 日記

浅草の浅草寺

 京都奈良の寺院を見慣れていると、伽藍はともかく堂宇がこじんまりしていてこれでこれだけの名声のあるのは上がりすぎな気がする。仏像は鋼鉄製の網越しにしか拝めないのでしっかりとは見えない。ここの観音さんに限らずこの網越しの拝観はどうもよくない。せめて透明ガラス越しに拝観できないものか。

 昔も今も都会で生活すると気詰まりになる。自然が少なくて他人との接触が多いと、気散じが必要になる。気散じのためにさらに人ごみの中を参詣するのは間違えた方向のような気もするが、昔から人々はそうしてきた。どうも都会地から人のいないところへ行って気散じをするという風にはならないようである。(本当は野山に一人になりに行かねばいけないはずだがそうする人は少ない。)浅草寺観音は、その人ごみの中で気散じをする人々に愛された仏様であろう。

 江戸の昔から都会地で孤独に暮らす人の中には、気鬱の病に陥る人も多くいたであろう。その人々を支えたのであるからえらい観音さんである。戦後の集団就職、その次の田中角栄の列島改造の時代は、都会に人を移して都会人を作り、その人々が各々貨幣を所有することで国富を増やした時代である。それを押し進めるための政策は多分抜かりがなかったと思われるが、その人々の心の問題を減らそうという政策はあの田中角栄ですら、一切打たなかったと考えられる。各人は各人の費用持ち出しで、例えばこの浅草観音さんのところへ来てささやかなお願い事をし、帰りに仲見世でちょっとしたものを買うくらいの楽しみを見つけて暮らしたと考えられる。

 都会地にヒトを集めるというのは、国家にとってはお得、個人にとってはお得な人と損な人とに分かれると考えられる。たとえお得な人であっても、都会地で暮らすための心の負担は自分で何とかしないといけないということになっているようである。(私はそれはおかしいと常々考えている。うまく行くような施策を打つべきである。)

 一般に各人が自分の楽しみを見つけるというのは、三度の御飯を食べることと同じくらい大事なことなのになぜか等閑にされている。三度の食事に関しては嘘か真か梅干しとウナギの喰い合わせがいけないとまで指導するくせに、一日のうち自分の楽しみの時間はこれだけは取りましょうという指導は一切ないのである。周りのヒトをすべて敵とみて競争しているようでは、身が持ちませんよという指導もないのである。そのような都会に出てきて困っている人を、この浅草観音さんは見守り続けたのであるから功績はかなり大きい。背の高い瘦身の観音像だが庶民の信仰を集めただけの重みが感じられる。


東京の芝増上寺を見てきた

2024-01-18 11:40:20 | 日記

東京の芝増上寺を見てきた

 浮世絵で有名な東京芝の増上寺を一度は見に行かねばと行った。浮世絵と同じ赤色には見えないのはこの百年ほどで色が変化したのか。大門の下を自動車が流れていくのは初めて見た。東大寺の南大門の下を自動車が流れていくのはとても想像できないが、その想像できないことが起こっている。中国の城塞の石造りの門の下を自動車が流れているのを見ても、ああそんなものだろうと思うが、日本の木造の門の下を二車線以上の自動車が流れていくのはびっくりした。

 私は、奈良東大寺のそばで育ったので大抵な木造建築には驚かないが、増上寺の大きさには驚いた。さすが徳川家の菩提所である。周囲に巨大なビルや東京タワーまであるのにこの寺にはずっしりした存在感がある。

しかし、肝心の将軍墓所はごく狭くて質素な石塔が静かに並んでいるだけであった。芭蕉はこれを参観することなかったろうがもし見れば何と詠むだろう、幕府隠密の噂が絶えない人である、将軍に対して失礼な嫌味を言うかどうか見どころである。ここには確認していないが初代と最後の将軍を除いた全員がお入りのようである。巨大権力機構の頂点であるからさぞや凄いと思っていたが、石塔から見て将軍は案外不自由で面白味のない気の毒な人生ではなかったかと想像する。教科書では吉宗は違ったとか書いてあったが、実際のところは入っていない初代と末代を除いてみな同じような人生であったと想像する。個性がない。かろうじて石塔の屋根の形と窓の形に違いがあるだけである。将軍には個性は許さないという組織の縛りが感じられる。大奥に出入りできるからいいなと思っていたが、どうもそうでもなさそうである。

一番驚いたのは、本堂には御本尊が一体だけで脇侍が一切ない。京都の東寺や三十三間堂の千体仏や奈良東大寺の三月堂(法華堂)を見慣れていると肩透かしにあった気がする。あんだけ大きな門があるのにである。

ただし、本堂の中で読経の場面に遭遇したことは幸せなことであった。たった数人で大きなお堂の中が読経の声で一杯になる。お坊さんのお堂の中への出入りの所作は、お能の所作と全く同じである。横笛がないだけで、読経の声を謡の声、御本尊を松の絵、に置き換えれば一幕の能舞台と同じである。おそらくお能は、この宗教の儀式から派生発展したものであろう。儀式であるから歌舞伎の様な派手な立ち回りがないのは当然である。多分お能は、楽しむために見るものではなく儀式に参加して自分の心を鎮めるために見るものであろう。であるから見るにしても数年に一回かせいぜいが年に一回見るものであったと想像される。

どんな宗派でも大きなお堂が必要なはずである。そこで良い音または歌声を聞くことが、仲間との一体感を醸成することになると考えられる。その一体感が宗教の一番のもとになりそうである。聞いた話によると二万五千ヘルツの近辺に仲間との一体感を醸成する音があるそうである。もちろん単独では聞こえないが様々な歌声や楽器から出る音にはこの二万五千ヘルツが乗っかているだろう。ただしCDにするとこの帯域は一切録音されないから一体感を味わうためにはどうしてもよく響く大きなお堂で生の音を聞くことが必要と考えられる。

この音を支配し操作することは、人々を支配し操作することにならないか?なるなら恐ろしいことである。

読経の声を聴きながらそんなことを考えた。


泉涌寺仏舎利と鳴き竜

2024-01-17 20:09:09 | 日記

泉涌寺仏舎利と鳴き竜

 仏舎利が特別公開というので拝観に行った。大きなポットくらいの容器に入っているという。つい今しがたの楊貴妃観音の胎内には三粒入っているという話であったが、こちらのポットには一粒であるという。一粒のポットの方が大きな建物に納まっているのは、楊貴妃観音像のファンである私には承服しがたいものがある。  

シャリというからには、米粒大の大きさのお骨と想像されるが、入滅後も多くの願いを聴き届けねばならないお釈迦さんは気の毒と思いながら、たくさんの心願をお願いしておいた。

 この仏舎利殿には、天井の竜の絵が鳴くという。竜であるからにはどんな大きな声かと期待したがか細い声であるのにがっかりした。柏手を打つとその反響音が鳴き声のように聞こえるらしい。それでも竜の声が小さいとか苦情を言うのははばかられるので、嫌味のつもりで(寺院建築の設計の際に反響を計算してのことだと思い)

「うまいこと設計シャはったんですな。」

とガイドのヒトにいうと

「いや偶然ですわ。」

と正直な答えが返ってきた。ここは「ホンニ昔のヒトは賢こおましたな。」という返事があると楽しいところであったんだが。

 寺の中で竜が鳴くというのは、一種のエンタメであろう。私は、宗教は人間生活の中で軍事と生産消費以外の一切を受け持っていると思っている。その中から医療や教育が分化して今は役所が受け持っている。娯楽も宗教が受け持ってきた。この鳴き竜を思いついた人(多分お坊さんだと思うが)は、ヒトには楽しみが必要であることを知悉していたと考えられる。たまたまお堂の反響が良かったのと天井に竜の絵があったので、こういう楽しみ方を作り出したのであろう。(もちろん寺の発展をも考えての話でもあるが。)頭はこのお坊さんのように使うと他の人の役に立つ。

 私の母親の日記には、遠足へ行ってこの鳴き竜にいたく感激したことが綴られていた。本尊である運慶の三体の仏像(これも近くで見たかったが、遠くからしか拝めなかったのは残念である)も、楊貴妃観音像も、本堂の建物は宋様式でこれが珍しいことも一行も触れられていない。ましてや泉涌寺が皇室ゆかりの寺であることも触れられていない。その日記は、戦前まだ太平洋戦争の始まる前の日付けである。

 


楊貴妃観音

2024-01-15 22:46:13 | 日記

楊貴妃観音

 むかし楊貴妃観音像を美術館で見て、是非ご実家である観音堂にお祭りしてある場面を拝見したいと思い京都泉涌寺へ出かけて行った。美術館では光背も外されているし脇侍仏もないし、なによりガラスケースの中なので雰囲気が良くなかったからである。

 楊貴妃観音像は、来歴はよく知らないが宋時代に宋で宋の彫刻家によって作られて我が国に持ち込まれたのではないかと思う。わが国の運慶快慶と同じ様式で彫られている。宋は中国のルネッサンスというのはこの彫刻を見ても明らかでリアリズムにあふれている。飛行機に乗ってローマパリに行って遠くミケランジェロを見ないでも、ルネッサンスの彫刻はわが国の中にいくらでもあるとわたしは思う。楊貴妃観音像は優れた(多分宋時代の)ルネッサンスの作品だと思う。

楊貴妃本人は唐のヒトであるから、彫刻家は本人を知るはずもない。彫刻家はモデルを宋時代の地位ある女性に頼んで冠をつけ威儀を正した姿を彫ったのではないかと思われる。観音像は男でも女でもない相として彫られるはずだがこれはあきらか教養ある女性として彫られていて、綺麗とか色気があるとかではない、大変な気品があるのである。この彫刻家は、モデルの気品を写し取ることに成功した。千年の時を経て、このモデルになった女性の気品を像の前で感じることができる。私はもう一遍あの気品を味わいたいと考えたのである。

 楊貴妃観音堂は京都泉涌寺の門を入った小さなお堂で確かに光背を付けてガラスケースの中ではなかったが、光が差さないしひどく遠くで見えにくい。そのうえ脇侍仏が十に近い羅漢像でこれが楊貴妃像と同じかどうかすると楊貴妃より大きくて威圧感がある。羅漢像と楊貴妃像の組み合わせはどうもいけない。童女が一人がうちわであおいで、一人が果物の高坏をささげている図でないといけない。行ってみてがっかりした。

 

 この観音堂では、様々なお札を販売している。「美人になるお札」はいいかもしれない。しかし「安産祈願」のお札はちょっとお願いする方向が違うような気がするのだがこのお札が一番値段が高かった。需要が高いのであろう。楊貴妃は美人の代表のように言われているが、その悲劇的な最後を見ると美人であるがために却って損をした例のように思われる。そのうえ傾国の美女とかも言われるから甚だ旗色が宜しくない。従ってお札を売りだす時の宣伝文句には少々難があるヒトである。

  このお堂には若い男のヒトがお参りに来るべきだろう。「自分は器が大きいから、傾国の美女にはしません、是非楊貴妃の様な容色優れて教養ある女性をお恵みください。」とお頼みするのがいい。そのためにももっと近くで明るい照明でお姿を拝見できるようになってほしいものである。