今日は震災後まる2年の祈りの日です。
お亡くなりになられた方、被害に遭われた方に、
ご冥福と、お見舞いを申し上げます。
震災当時の自分のこのブログを読み返すと、
当時の気持ちがありありとよみがえってきます。
私は、確定申告の押印を頂きに伺った、文京区白山のお客様のところにいました。
お客様が税務代理権限証書に、名字を書いたところで地震が来ました。
体験したことの無い大きな揺れに、お客様もびっくりされ、
私は、何故かお客様宅の「絵」を、落ちないように一生懸命に押さえていました。
揺れが収まって、テレビを見ていると、あの津波の映像です。
宮城、岩手・・・・そして、故郷のいわき市小名浜の映像。
車が、見慣れた風景が、海にのまれていく。
ふと、いわきにいる母を思い出し、電話をしても全く通じない。
心配したお客様が、固定電話を貸してくださいましたが、全く通じない。
いわきの実家は海や川からから数百メートルですので、
これは今生の別れか・・・・と思いました。
府中の家に戻れば何か連絡が来ているのでは、と思い、
白山のお客様宅を後にしました。
奥様が、帰れなかったら戻ってきて下さいね。と声をかけてくださり、
ありがたかったです。(写真は今年の白山)
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白山から後楽園球場の横を通る頃、歩道は人で溢れていました。
とにかく、前に進むのに時間がかかる。
ああ、これが「有事」なんだなぁ・・・、と思ったことを覚えています。
何とか、裏の道を通りながら新宿に着きました。
腹ごしらえをしなければ、府中まで歩けない、と思った私は、
思い切って「松屋」に飛び込み牛丼を食べました。
時間が早かったので、松屋は不気味なくらい空いていて、
ラジオを聴きながら、とにかく胃袋に食べ物を入れ、
自販機で飲み物を買って、府中に向けて出発しました。
明大前くらいまでは人で一杯。
それ以降は、自分の足との戦い。
月がきれいで、歩きながら、母は大丈夫だろうか・・・
そんなことばかり考えていました。
途中途中で、何軒かの居酒屋さんとか、飲食店が
無料で味噌汁を振る舞っていたり、おにぎりを渡していたり、
日本人って凄いと思いながら、何とか府中の自宅にたどり着きました。
母からの連絡は取れていなかったのですが、
しばらくすると「無事」とのメールが届き、ほっとしました・・・・
それからでした。
原発の事故を、1号機、3号機とも、
生放送で目撃してしまって、これでいわきも終わりか・・・
故郷も、植田タクシーもすべて終わりか・・・
と愕然としました。
地震や津波では気丈だったうちの母も、
原発事故の時は、本当に気弱な声をだしていました。
うちの母はそれでも、地元の公共交通機関の一つとして、
LPGガスの続く限り、お客様を各地に送り届け、
最後に残ったガスで、自社の営業車に乗って東京に避難してきました。
本当に頑張り屋の母には脱帽です。
あれから、2年か・・・・
当時のことを思い出しながら、当時はやった歌などを聴くと、
また涙がにじんでしまいます。
もう、こんな災害が起こりませんように。
もうすぐ14時46分。
祈りを捧げたいと思います。
これは、震災の年、母校の磐城高等学校吹奏楽部が、
いつもの得意の現代曲を吹かず、あえて、「祈り」の曲として選び、
全国大会で演奏したトッカータとフーガです。
[[youtube:p-fh5lvHdwE]]
是非、お聞き下さい。
お亡くなりになられた方、被害に遭われた方に、
ご冥福と、お見舞いを申し上げます。
震災当時の自分のこのブログを読み返すと、
当時の気持ちがありありとよみがえってきます。
私は、確定申告の押印を頂きに伺った、文京区白山のお客様のところにいました。
お客様が税務代理権限証書に、名字を書いたところで地震が来ました。
体験したことの無い大きな揺れに、お客様もびっくりされ、
私は、何故かお客様宅の「絵」を、落ちないように一生懸命に押さえていました。
揺れが収まって、テレビを見ていると、あの津波の映像です。
宮城、岩手・・・・そして、故郷のいわき市小名浜の映像。
車が、見慣れた風景が、海にのまれていく。
ふと、いわきにいる母を思い出し、電話をしても全く通じない。
心配したお客様が、固定電話を貸してくださいましたが、全く通じない。
いわきの実家は海や川からから数百メートルですので、
これは今生の別れか・・・・と思いました。
府中の家に戻れば何か連絡が来ているのでは、と思い、
白山のお客様宅を後にしました。
奥様が、帰れなかったら戻ってきて下さいね。と声をかけてくださり、
ありがたかったです。(写真は今年の白山)

白山から後楽園球場の横を通る頃、歩道は人で溢れていました。
とにかく、前に進むのに時間がかかる。
ああ、これが「有事」なんだなぁ・・・、と思ったことを覚えています。
何とか、裏の道を通りながら新宿に着きました。
腹ごしらえをしなければ、府中まで歩けない、と思った私は、
思い切って「松屋」に飛び込み牛丼を食べました。
時間が早かったので、松屋は不気味なくらい空いていて、
ラジオを聴きながら、とにかく胃袋に食べ物を入れ、
自販機で飲み物を買って、府中に向けて出発しました。
明大前くらいまでは人で一杯。
それ以降は、自分の足との戦い。
月がきれいで、歩きながら、母は大丈夫だろうか・・・
そんなことばかり考えていました。
途中途中で、何軒かの居酒屋さんとか、飲食店が
無料で味噌汁を振る舞っていたり、おにぎりを渡していたり、
日本人って凄いと思いながら、何とか府中の自宅にたどり着きました。
母からの連絡は取れていなかったのですが、
しばらくすると「無事」とのメールが届き、ほっとしました・・・・
それからでした。
原発の事故を、1号機、3号機とも、
生放送で目撃してしまって、これでいわきも終わりか・・・
故郷も、植田タクシーもすべて終わりか・・・
と愕然としました。
地震や津波では気丈だったうちの母も、
原発事故の時は、本当に気弱な声をだしていました。
うちの母はそれでも、地元の公共交通機関の一つとして、
LPGガスの続く限り、お客様を各地に送り届け、
最後に残ったガスで、自社の営業車に乗って東京に避難してきました。
本当に頑張り屋の母には脱帽です。
あれから、2年か・・・・
当時のことを思い出しながら、当時はやった歌などを聴くと、
また涙がにじんでしまいます。
もう、こんな災害が起こりませんように。
もうすぐ14時46分。
祈りを捧げたいと思います。
これは、震災の年、母校の磐城高等学校吹奏楽部が、
いつもの得意の現代曲を吹かず、あえて、「祈り」の曲として選び、
全国大会で演奏したトッカータとフーガです。
[[youtube:p-fh5lvHdwE]]
是非、お聞き下さい。
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