製鉄と化学の街は、幾多の人々の汗によって、日本の高度成長期を支えてきた。生産の煙が誇りだ、といった歌詞が確か校歌の中にあった。今となっては、怖い歌詞である。さて、或る日、洞海湾の絵を描こうと画用紙に向かっていた。12色の絵具とパレットを携えていた。そこへマコちゃんがひょっこりと通りかかり、いつものように、口を出す。
「海は、どの絵の具を使う?」
「青」と「白」。疑いもなく即答した記憶がある。
「ホォ!オトウサンハ ソコニアルエノグ、12ショク ゼンブツカウネ」
「へっ!?」
娘は、両親と違って視覚に問題はない。しかし、見えているようでちっとも見えていないわけだ。短絡的で、愚鈍な観察眼しか持ち得ていないわけだな。自然の海の色は、複雑。すべての絵の具を使って表現しようなどとは、思いもよらない言葉。仰天した。
この時、ひとというのは、何か欠けているものがあると必ずやそれを補う<ちから>を備えているということにうっすらと気が付いた。<ちから>は、凡人のそれに比較するとむしろ並外れて優れているのではないか。
両親が親しくしていた全盲の女性がいた。娘は、その人が大好きで、ひとりでバスに乗り、よく自宅に遊びに行った。年のころ、60歳くらいだったろうか。女性のお孫さんが娘と同じ年だったから、2世代の開きがある人だった。
或る日、「あなたは、天ぷらが好きだったね。お昼に作ろうね」と言われ、思わず「目が見えないのに、どうしてお料理ができるの」と尋ねたことがあった。その人は笑って、こう答えた。「音。音の変化で分かるよ」。
マコちゃんの観察眼と同じである。五体満足などとのんびりかまえている娘は、見ているようで、見ていない。聴いているようで、聴いていない。
マコちゃんや可愛がってくれたおばちゃんのおかげで、街でハンディキャップのある人を見かけると、あの人はどんな<ちから>をもっているのだろうか、と想像するようになった。
オリンピックとパラリンピックはなぜ分かれているのだろうか。なぜ、開会式も閉会式も別々なのだろうか。一切の前提を脇に置いて、ひとの持つ<ちから>に光を当ててみると、新しい世界が見えてきそうに思う。
まだまだ観察が足りない。まだまだ気づいていないことがある。