梅日和 umebiyori

心が動くとき、言葉にします。テーマは、多岐にわたります。

表彰より、狙うは鯛。

2021-11-24 05:08:42 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

 

鍼灸会の役員やら北九州市か福岡県いずれかの技能者へ贈る賞やら、数々の栄誉な事柄に、マコちゃんは一切関心がなかった。役員の話は繰り返しあったようだが、すべて断っていた。

我が家は、少し暇になると釣りへ出かけるマコちゃんのおかげで、魚屋さんというものは、さばききれない大きな魚をさばいてくれるところだとしばらく勘違いして子どもたちが育ったような家であった。幼いころは釣りをしてお小遣いを稼ぎ、若いころは患者さんが少し途絶えると釣り竿とともに消えていたらしい。

マコちゃんが何名もの患者さんに感謝されたものに顔面神経痛の治療法がある。顔面への針治療というのは大変な技術が必要らしく、その点が公的な機関から評価されたことがあった。なにしろ本人興味がないため、詳細な賞の名前など憶えていない。表彰式のその日、マコちゃんは不在であり、あたふたしたスーちゃんの曖昧な記憶によって娘に伝えられたものである。その日、マコちゃんは、仲良しの船頭さんと一緒に海の上に居た。表彰状より、魚拓がとれそうな大物の鯛の方がマコちゃんには価値があった。市の関係者の方は困り、スーちゃんも慌てた。式は、数時間後に迫っていた。結局、格好がつかないため、親族の夫婦とスーちゃんに代わりに表彰式に参加してほしいとの要請があった。計3名。これもまた輪をかけたようにくいしんぼうなひとたちで、会での食事がよかったと嬉しそうに話していた。肝心の賞自体の記憶が、はなはだ心もとない。

思えば、それも自然で良いことだと思う。

承認欲求ばかりが肥大する現代にあって、普通に人の役に立って、喜んでもらう。安心してもらう。それだけで十分なはずなのに、やたらと評価を気にし、そして、評価に頼ろうとする。評価はある時点の結果であり、たくさんあるなかのひとつの指標なのに、いつのまにやら、評価が目的と化す。ときに、誤魔化す。

マコちゃん、スーちゃんの治療院は、その真逆であった。

なお、マコちゃんの名誉のために(本人は、どうでもよいだろうが)、おそらくマコちゃんは表彰式に出席をするとは言っていない。断ったはずである。この騒動の発端は、与える側が「賞=栄誉」「賞を断るはずがない」という何の根拠もない驕りや思い込み。至らぬ計算はなかったか。どこかでも似たようなことが度々ある。