小学生の頃、よく虐められた。たいがいは、ガキ大将一派に「めくら[1]の子」とはやされ、囲まれていた。怖いことは、怖い。なにせひとり対5人だったり、娘ふたり対6人だったり。しかも、男の子たちである。
ところが、娘には、理解できない。確かに、両親は視覚障害者である。しかし、なんといっても家に帰れば、あちこちに笑い声が響き、患者さんは一様に笑顔で帰っていく。そして、笑顔でやってくる。このどこがどうマズいのか。めくらだから、どうだというのか。いっこうに納得できない。
下校途中に囲まれると、逆に仁王立ちになって「どこがどう悪いのか、言って」と応じていた。虐めっ子たちがどう答えたか、残念ながら記憶にない。記憶にないくらい影響を受けていない。また、親の顔色を見てマコちゃんやスーちゃんに言わずにおくということがなく、虐められたこと、応戦したことをよく話していた。隠す気持ちがないためか、ますます記憶に暗い側面がない。
今なお虐めはなくならず、子どもから大人まで被害の報道が後を絶たない。そして、大人たちの嘘や隠ぺいの報道も後を絶たない。
虐めはなくならない。競争を是として、優劣や上下を物差しの最上位におくような社会では、ますます、増えていく可能性もある。人を押しのけることで生き残れと大人たちが教えているからだ。人とともに生きるということを教えていないからだ。
ネガティブなニュースに遭遇する。その時、ふと思うのである。虐めに耐え、跳ね飛ばすだけの充足感を暮らしのどこか一部分ででも持てていただろうか、と。なにより、誰かと話ができて、ただただ聴いてくれる人は居ただろうか。
抗議も批判もそれなりに必要で、事態への注意喚起を行うという意味では価値があるのだろう。とはいえ、虐めの背後にある人が生み出す物差しにもっと目を向けたい。命に上下はなく、優劣もない。この単純で、難しい事実をどれくらいのひとが素直に肯定できるだろうか。
なお、個人的には、日常の虐めには、努めて優しさでお返しすることにしている。3倍返しくらいだろうか。虐めたことがあほらしくなるほど、優しくするのがよろしいのではないかと思っている。もっとも近年は、虐められた、という自覚さえ持てず、良い意味で愚鈍になっている。気づかないまま、逆になっているケースはないか。これは、気をつけたい。
[1] 「めくら」差別的な言葉として、放送自粛用語とされています。