マコちゃんに援助してもらい、予備校へ通い始めると、ひとりの教師との出会いが待っていた。英語のチューターだった。彼は、「自分が伝えたいことを英訳するように」と言い、そのノートを毎日チェックしてくれた。成績は驚くほど伸びていった。講師は、英訳が芳しくないと、「今良いフレーズが浮かばないので、もう少し時間をちょうだい」と赤いボールペンでメッセージを書いていた。1970年代後半のことである。当時の私学は、3教科の受験。英語の成績が急激に伸びたことによって、わずか半年程度で、国内の私学文系であればすべて合格という模試結果を安定して得ていた。去年の苦い経験はどこへやら。さあて、そうなると、有頂天ぶりが、また、頭をもたげてくる。学びたい分野は決まっているため、関西、関東の私学へと関心が広がる。
初めての一人暮らしや学生生活、想像は際限なく続く。晩御飯を食べながら、治療室をのぞきながら。娘の妄想めいたおしゃべりが、何日も続いた。
「ほぉ」「そうね」マコちゃんもスーちゃんも、根気強く話を聴いていた。しかし、しばらくして、こう言った。
「合格通知を持ってきなさい、話はそれからだ」。
実効性の薄い話や言葉だけが飛び交う会話をマコちゃんは嫌った。イエスは、イエス。ノーは、ノー。会話自体が極めてシンプルだったように思う。前言撤回がほぼ、ないからだ。東洋医学に取り組む者として、曖昧な話は極力避けていたように思える。まして、見立てについては、必ず曖昧な点を明示して、わかりやすく患者さんに伝えていた。寡黙なひとだったが、その言葉にはちからがあり、重みがあった。また、よく勉強していた。治療室に遅くまで残り、点字をなぞり、弱い視力で書籍を読み続けていた。痛みを訴えるひとのための行動であり、信頼や納得、安心を得てもらうための言葉だったことを考えれば当然ではある。
伝えたいこと、伝えたい相手、どんな言葉をどういう順番で使うか、どういうタイミングで渡すか、渡すときにそのまま渡してよいものか、条件付きで渡すべきものか。考えてみると、娘は、ふたりのおかげで通えた予備校と治療室で、ずいぶんと言葉や会話について学んでいる。
翻ってみると、なんとTVで放映される為政者たちの言葉は軽やかなことか、曖昧なことか。5W2Hがないのである。