動物への畏敬
インディアン部族の共通点は、動物に対する畏敬の念が強いということだ。彼らの “導き役” となる動物は『パワー・アニマル』と呼ばれ、守護神的な働きがあるとされている。
その動物は人によって異なり、必ずしも一種類とは限らない。無論、「ペット」などといったカテゴリーに収まるものではない。
馬やコヨーテ、それに山猫や鷲などについて、彼らは “何と何の中間” と考えているのだろうか。いやおそらく、まったく異なった発想による “位置づけ” をしているように思えるのだが……。
どんな動物も、
あなたよりずっと多くを知っている。 ――ネズパース族の格言
動物にもタブーはある。 ――中西部の部族に伝わる格言
“タブー”が、「動物」にもあるとはまいった。だが逆に動物のタブーを否定するのは、人間の傲慢さというものだろう。ふと我が家の近くに屯(たむろ)する運動不足の猫どもを思い 浮かべた。ちょっと惚(とぼ)けたその表情が、呼びかけている……。
――なんで、そう上から目線で断定するん?
慎ましく食べ、慎んでしゃべる。
そして誰も傷つけない。 ――ホビ族の格言
過去を忘れ、こころから怒りを消し去れ。
どんな強い人間も
そんな重荷に耐え続けることはできない。 ――チェロキー族の格言
感謝する理由がみつからなければ、
落度はあなた自身にある。 ――ミンカス族の格言
何でもない一日一日の日常生活の中に、“世界” や “人生” のすべてが含まれているような気がする。それ以上でも、それ以下でもない……という “確認” こそが、インディアンの原初的な “アイデンティティ” なのかもしれない。
だが「文明社会」の現代人と言われる我々はどうだろう……。
いっそう複雑化する国家、経済社会、行政、そして企業組織等の “器”。その中で足掻いているのかもしれない。
しかも、それらの “器” に貼られた機構、制度、法体系そして先例といった “ラベル” は、いっそう精緻に細分化されていく。“人間そのものが自然の一部である” という “最大のラベル” を塗りつぶしながら……。
ひとりの子供を育てるには、
村中の努力が必要だ。 ――オマハ族の格言
私ごとだが、五歳くらいまで父の実家の八畳一間に、親子五人が住んでいた。
その家には、「退役軍人」(海軍)祖父と祖母。それに、父の実妹である「独身の叔母」が三人。さらに、父の弟(十人兄弟の末っ子で大学生)。
隣家のおばさんに、駄菓子屋のおばさん。斜め向かいにいた大工の棟梁。すぐそばのお風呂屋のおばさんにおじさん。そして、セーラー服のお姉さんに物売りのおじさんたち。
傘の修繕にノコの目立て、包丁研ぎに竿竹屋のおじさん。全身真っ黒の煙突掃除屋さんもいた。進駐軍の兵隊さんも、ジープに乗ってときどき姿を見せた。
それらの人々にいろいろなことを教えてもらい、また可愛がられた。見たこともない絵本やお菓子も貰った。それらの品物の感触や、大人たちの声の調子や表情などは、今でもよく憶えている。
私の前を歩くな、私が従うとは限らない。
私の後を歩くな、私が導くとは限らない。
私と共に歩け、私たちはひとつなのだから。 ――ソーク族の格言
★★★ 何と何の中間? ★★★
――ねえ? あたくしって “何と何の中間” かしら? ……え? “銀河” と “バラ” の “中間” ですって?
……それって、あたくしの「イマジネーション」ってこと? 良いのか悪いのか。……まあ、いいわ。だったら、“銀河の彼方” にして。それに “バラ” よりも “百合” の方がいいわ。
バラはすてきだけど、一歩間違うととんでもないキャラクターへと進んでいきそうだもの。でも……やっぱりここは単に “花” がいいのかも。だったら、いっそのこと “花びら” にしようかな……。
“銀河の彼方と花びらの中間”……。でもこれって、何だか存在がとっても希薄に感じない……。あたくしって、そういうイメージなのかしら?
ねえ? 聞いてる? ね~え? あれっ? 眠ちゃったの?