『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・「演劇」と「殺人」/九大演劇部4回生旗揚げ公演:(中)

2014年11月16日 00時08分45秒 | ●演劇鑑賞

 

 

   頭も眼も冴え始めた。そこで、もう一つの作品『し返し』(作・演出:大園和登)の「演出の言葉」に眼を転じた。次のようにあった――。

 

  《 今回はRE:というタイトルで

  『ふたりきり』はrepeat、『し返し』はrevengeをモチーフに 》

 

   舞台『ふたりきり』は、“愛の成就を求めた殺人” が今後も “繰り返される(repeat)” と言っている。といってそれは、「ストーカー殺人」のような “ちゃちな” つまりは “身勝手な一方通行の殺人” などでは無論ない。

   あくまでも、“史実” としての「田中加代(阿部定)」に忠実なものだ。役名を〈田中加代子〉としたところに、その “覚悟” のほどが窺える。すなわち “相思相愛の男・田中吉蔵の絶対的な独占” のためには、“自分以外の女の介入を一切許(赦)さない” のであり、その究極は “相手を殺める” 以外にはないと断言しているのだ。

   しかも、その “絶対的な独占” は、“男の身体の一部すら他の女には触れさせまい” とするほど “徹底” している。劇中、張込み中の刑事が〈田中加代子〉によって「廃棄されたゴミ」を漁るシーンがある。このような行為は、今日的には「ストーカー行為者」の行動パターンとみなされる。だが筆者には、“女の偏愛的独占の生々しさ” を “想起させるための暗示” のように思われた。

   実際の “史実のクライマックス” となれば、眩暈を起こしそうなほど “シリアスで生々しい精神病理的な性愛シーン” が不可欠となる。今回の舞台では、その “生々しさ” を二人の刑事の “ゴミ漁り” によって “遠まわしに暗示” しながら、“コミカルなやりとり” で軽くかわした演出……。筆者はそのように “読み換え” たのだが……。

   ともあれ、「阿部定事件」を “オマージュ” とした『ふたりきり』は、いわば “本歌取り” を試みたといえよう。「その試み」は残念ながら充分とは言えないが、あえて挑戦した作・演出家、キャスト、そしてスタッフを讃えたい。

       ☆    

   もう一つの舞台である『し返し』は、男の部屋において、その男に殺された女による “不条理なし返し”(revenge)が始まるというもの。洋の東西を問わず、“女の恨みは、死後も際限なく続く” と言うことなのだろう。

   しかし、正直言って “あまりにも簡単に刃物を持ち出し、安易に刺殺” したという印象は否定できない。無論、この「物語」は、男が女を “殺す” ことによって展開するものであり、それを認めざるを得ないわけだが、その分、筆者の中に疑問が残った。

       ☆

   ともあれ、以上の「2作品」は “愛における男女間の愛の行き違い” を題材に、最終的には “偏執・偏愛的な女の情念” をテーマとしている。ある程度の世代の人々には「さほど特別なテーマ」ではないだけに、筆者も今公演の紹介において――、

 

  《「よくある話」と言えるものです。それを、今回の若い作・演出家二人が、どのような切り口で “独自の想像世界” へ連れ出してくれるのか。今から楽しみにしています。》

 

   としていた。「2作品」とも「作・演出家」なりの“切り口らしき”ものが見えたのは確かだが、正直言って、中途半端な感じは否めない。その最大の要因は、《演劇における殺人をどのように表現するか》ということだろう。つまりは、“スタンス” の問題だ。これについては、次回、触れてみたい。

            ☆

 

   2女優を活かしきった男子   

  送られて来た案内状によれば、今回の「4回生」は、女子6名、男子4名であり、その他に男子3名が応援キャスト及びスタッフとして加わっている(1回生1名、3回生2名)。「キャスト」は、女子2名、男子5名ではあるが、「2作品」とも「主役」は女子であり、「スタッフ」は、「制作」以下ほとんどが女子で占めている。実質的に舞台を動かす「照明」と「音響」の操作も女子が担当した。

  つまり、今回の「公演」は明らかに「女子主体」であり、それを「男子」諸君が支えたということだろう。そのため、「大砂美佳」及び「秀島朱理」両嬢は、その責任を背負った緊張の中にあっても、堂々と演技をしていた。

      ☆

   『ふたりきり』で〈田中加代子〉を演じた「大砂美佳」嬢の目線や口調には、“愛情と怨嗟の入り混じった女の情念”を感じさせるものがあった。歳若い役者にしては、その “本質” をよくとらえており、内面からふつふつと湧きあがる “不気味さ” をうまく表現しようとしていたのだが……。

   もっと音響の抑えがあれば、“台詞と台詞との間(ま)” や “沈黙” が活かされたはずだ。何よりも、“不気味さ” がいっそう伝わったと思う。人間の、しかも “複雑な想いが絡んだ女の情念” を表現するには、より繊細な「音響」が要求される。この「音響」については、『し返し』も、同様の課題が残ったようだ。

   一方、 『し返し』の〈シオリ〉を演じた「秀島朱理」嬢。最初の部分は「床座」の演技のため、実は筆者の位置からはほとんど見えなかった。そのため、彼女の声がより強調されて聞こえ、“弾けた感じ”がよく表現されていた。とても “し返し” などするようには見えない清廉なイメージを振りまこうとする女の本性……。あくまでも筆者の想像でしかないが、彼女には、「こういう役」が一番似合っているような雰囲気を感じた。

   ところで〈シオリ〉の「姓」は〈サカキバラ〉であったように記憶している。

   「サカキバラ」……「榊原」……じゃ、ないのだろう。……となると……「酒○薔○」……?! Oh my God! (続く)