『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

●演劇鑑賞:『陰湿クラブ』(「陰湿集団」旗揚げ公演)-(上)

2015年04月14日 03時16分22秒 | ●演劇鑑賞

 

  「案内チラシ」は、『陰湿クラブ』についてこう語る――。

   《「陰湿クラブ」? 子どもたちの間で流行っているらしい。姿を見せず、痕跡を残さず、自らの手を汚さずに悪事を働く。……本当にそんなものがいるのか? それは強い? それとも弱い? 少ない? そもそも何の為にいる? ……あ、「陰湿クラブ被害者の会」始めたんですけど、入ります? 今なら事前の申し込みで入会無料キャンペーン中。傍観者大歓迎。》 (※註:「太字」や「下線」は筆者)

 

   上記「太字」の「キーワード」を整理すると――、

   第1は、『陰湿クラブ』という “陰湿な加害主体” (=加害者)。第2は、その “被害者及びその関係者” (=被害者)である『陰湿クラブ被害者の会』。そして第3は、以上「当事者」(加害者・被害者)に対する『傍観者』(第三者)ということになろう。

   今回の「舞台」は、“学校でのイジメ” を “テーマ” としているかのように見える。そうなれば、「いじめる子」に「いじめられる子」に「見て見ぬふりをしている子」となり、「加害者」、「被害者」そして「傍観者」が、一応揃うことになる。

   しかし、ここでの『陰湿クラブ』とは、実は “世の中” に蔓延(はびこ)る “およそ陰湿なるさまざまな意識(思想や考え)や行為(行動や事件)” を示唆している。“世の中” の部分に、“地域社会” や “日本” さらには “国際社会” といった言葉を当てはめて考えるとよく解る。中には “陰湿” のレベルを超え、“陰険” や “陰惨” といったものもあるようだが……。

        ★

   だが、これら『陰湿クラブ』の「関係者」は、「加害者・被害者・傍観者」の「三者」に留まらず、「同調者」や「支援者」などが複雑に絡むこともあるだろう。のみならず、「A」と言う『陰湿クラブ』の「加害者」が、「B」においては「被害者」となり、また単なる「傍観者」ということも考えられる。さらには、「C」なる『陰湿クラブ』の「支援者」や「同調者」が、いつの間にか中心的な「加害者」に……といったことも起こり得る。

   “ややこしい人間関係の相克”によって創りだされ、変化し、消滅していく “陰湿なるもの” ……。それはまた新たに創りだされ、変化し、消滅……を繰り返して行く。「人間社会」が営々と引き継がれるということは、“人間の本質” でもある “陰湿なるもの” と向き合うということかもしれない。いや……待ったなしに、向き合わざるをえないというところだろう。

   たえず “陰湿な意識(思想や考え)や行為(行動や事件)” に眼を光らせ、遅きに失することなく立ち向かうように……この「物語」は、そう投げかけてもいるようだ。

   もっと突き進めて行けば、“人間として生きる” とは、気付かないうちに “自分自身” が、“姿を見せず、痕跡を残さず、自らの手を汚さずに悪事を働く存在” になりうる可能性があるということかもしれない。同時に、自分の身の回りのそのような存在を “安易に許してはいないだろうか” と問いかけることでもあるようだ。

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   今回の「舞台」は、“学校でのいじめ” という “ありきたりのテーマ” を展開しながらも、どことなく “現象学” や “実存主義”の雰囲気、それに “詩情” を漂わせてもいる。

   そのように感じさせた最大のポイントは、まずは高い問題意識に裏付けられた優れた「台詞」にある。次に演技における所作や小道具の使い方に、新しい試みが感じられたからだろう。舞台の場面転換に “ぎこちなさ” があったのはご愛敬としても、 “実験的な試み” という演出や演技の熱い想いは、充分伝わって来た。

   “今この瞬間に生き、この瞬間にしかできない何かを為す……” 。「作・演出家」をはじめとする「キャスト」や「スタッフ」の “意識” を強く感じた。彼等は「演劇舞台」の創造者である前に、自らの “五感” や “認識判断” を鼓舞させながら、懸命に “得体の知れない世の中の陰湿なるもの” と闘っているかのようだ。 

   しかし、我々が生きている “今この瞬間に存在する陰湿なるもの”、すなわち『陰湿クラブ』とは、“その真の正体” とは、いったいどのようなものだろうか。……あれだけ “真実を追究しよう” と懸命に立ち廻った「主人公」の「ジャーナリスト(記者)」は、その本質を掴みえたのだろうか……。 

        ★

   今回の「舞台」は、正直言って “世界の陰湿さ” という捉え難いテーマに、多少競り負けした感は否めない。と言うより、この “あまりにも大きく、あまりにも強い、そしてあまりにも捉え難い本質” など、所詮、“容易に捉えることなどできなかった” のだ。

   無論、そのことは「作・演出家」も「キャスト・スタッフ」も百も承知であるわけだが、食らいつくことを諦めてはいなかった。そこに “青春の力強さと潔さ” を感じた。安易に妥協せず貪欲に“高み”を目指そうとする彼等の “覚悟” が、“まがい物でなかった” ことは確かだ。

   筆者は彼等に対し、将来へ向けた “救いと可能性” を強く感じることができた。その証というほどではないが、帰り際、傍にいた山本・丸尾の両君に握手を求め、気持ちよく家路に就くことができた。 (続く)