関東電友会 関東中支部ブログ

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電気通信の源流 東北大学 15.工務局長から二等兵に

2023-12-31 18:30:29 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 15.工務局長から二等兵に

 昭和16年末、第三代工務局長荒川大太郎の交代時期が近付いた。次の工務局長は大正12年東北大卆、荒川の後任で無線課長を務めていた小野孝が候補であったが、彼は二年後輩の松前に席を譲ったのであった。松前は調査課長から大政翼賛会の総務部長に転出していたが、小野孝は率先して松前を再び逓信省に復帰させる運動の先頭にたち、逓信省幹部を説いたという。そして彼自身は日本電気子会社に転じた。潔い生き方である。なお、戦後の電電公社施設局無線課長を務めた小野浄治氏(昭和27年東大卆)は孝の令息で、二代続いての同職位である。
 なお、序に記述すると、元電電総裁の米澤滋は第二代工務局長米澤与三七の令息であり、筆者の同期生、辻明氏の父君は元電電公社東京電気通信局長の辻正あった。職位の上下は別として、電電公社内にはご子息を電電内に就職させる例が多く、おそらく数パーセントの比率で居られたように思う。
 松前が工務局長に就任して5日後の12月8日、太平洋戦争が始まった。初戦こそ有利に戦いを進めた日本だったが、工業力に勝る米国に次第に巻き返されていった。昭和19年6月にマリアナ諸島西方の海上で日米機動部隊の決戦が行われ、日本海軍は大敗をした。その大きな原因となったのが、米軍が使用した波長3センチの高性能レーダーと、超小型レーダーを持つ信管を装着した高射砲弾であった。八木がIREで発表した新技術を、米国は大きく進歩させていたのである。サイパン島陥落の責任をとる形で東条内閣は総辞職をした。
 その前年末に兵役法が改正された。それまで満40歳を上限としていた兵役年齢が満45歳にまで引き上げられた。しかし松前は逓信省の局長で、勅任官である。その任免は勅命でしか行えないので自分に召集はないと考えていた。その松前に召集電報が届いたのである。
 松前が倒閣運動の一角を担っていたことを知っていた東条は、退任前にその恨みをはらすべく、首相命令として懲罰召集をしたのであった。逓信省の関係者が、陸軍省に必死に交渉したが効を奏しなかった。松前は二等兵となってサイゴンの南方軍司令部へ送られた。
 このとき、八木秀次は東京工業大学の学長であったが、松前が召集された四月後の昭和19年12月に、内閣技術院の総裁になった。これは松前の根回しによるものだったという。八木は、住友通信工業(現日本電気)社長の梶井剛(元工務局長)と相談して、松前を技術院の参技管に採用する人事を発令した。召集の解除に際しては当然ながら陸軍兵務局の強い抵抗に遭ったが、松前が無事に戦地から帰還できたのは八木の奮闘の結果にほかならない。

<14.技術者運動
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電気通信の源流 東北大学 14.技術者運動

2023-12-24 23:18:11 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 14.技術者運動

 松前は、官庁が法科優先で、技術者の地位が低いことに我慢できず、技術者の地位向上運動を起こした。過去に逓信省の局長はすべて法科出身であり、技術者は電信課長か電話課長止まりであった。工学士が局長になる工務局が新設されたのは大正14年になってからである。
 初代の工務局長は名古屋市の出身、明治33年東京帝大電気工学科卆の稲田三之助であった。彼は早稲田大学理工学部の教授も務めた。
 第二代の米澤与三七は明治39年東京帝大卒である。彼は、昭和40年から52年まで、三期12年間電電公社総裁を務めた米澤滋の父君である。
 第三代の梶井剛(前出)は明治45年東京帝大卒業で、筆者は拝謁の栄に浴したことがある。
 第四代の荒川大太郎は大正8年の東京大学卆業でCCIR(国際無線諮問委員会)第四回総会に日本代表で出席し、活躍された。工務局の初代無線課長でもあり、第15代無線課長を務めた筆者から遥かな先輩にあたる。
 松前は、工務局の技術者を中心として「技術談話会」を結成、逓信省の技術者の地位向上と権限の拡大を求める運動を始めた。三年後には「逓信技友会」に発展し、逓信大臣に技術者の待遇改善と工務局への四課増設を要求するに至った。この要求によって調査課が新設されたことは先に述べた。
 松前の活動は逓信省内だけにとどまらなかった。官庁を横断して各省の技術者に働きかけた。昭和12年には「六省技術者協議会」を結成し、神田学士会館で第一回の会合を開くに至った。六省は大蔵、内務、農林、商工、逓信、鉄道で、後に厚生省も加わり七省となる。
 筆者が電電公社に入社したとき、技術系社員は研究所を含め約40名、事務系社員は約30名であった。これら社員は7、8年後に本社の係長或いは通信部課長レベル、17、8年後に本社の課長或いは中規模の電話局長レベルに昇進する。その後には退社する人が多くなるが、残った社員は27、8年後に本社の局長或いは通信局長になる。ここまでの昇進は、事務系も技術系も全く同じテンポである。
 筆者はこのように、事務系と技術系が同じであることを当たり前のことだと受け止めていた。
 しかし、これは電電公社だけの例外的なことなのであった。逓信省以来の伝統を受け継いでいた、正しくは松前重義の活躍の恩恵に浴していたのである。筆者は電電公社技術局の総括調査役のとき職務上から全技懇(全国技術者懇話会)に出席し、そのことを知った。例えば、通産省の技術系職員は工業技術院院長が最終職位であり局長に昇進した例を筆者は存じていない。そして各省庁の代表から、電電公社の技術者は羨ましいと言われ、驚いたのであった。

<13.松前重義の活躍
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電気通信の源流 東北大学 13.松前重義の活躍

2023-12-24 23:05:42 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 13.松前重義の活躍

 松前重義は明治34年、熊本県上益城郡大島町村長の家で生まれた。曽祖父は熊本藩士であったという。小学5年生のとき熊本市に移ったが、夕刻に町中に電灯が灯ったのを見て電気の勉強を志したというから、かなりの田舎育ちである。
 多くの方は松前重義というと東海大学の創立者だと思う。しかし筆者時代の電気通信技術者はすぐに「無装荷ケーブルの発明者」と頭に浮かぶ。筆者の年代とあえて断ったのは、もっと後の年代になると「装荷」という言葉を教えられることはなく、さらには銅線を使わず光ファイバー通信時代に変るためである。
 装荷というのは、電話信号を伝送するための銅線の対にインダクタンスを付加し、もともとのキャパシタンスを打ち消して、信号が遠距離に伝わったときの減衰量を少なくする技術を言う。コロンビア大学のピューピンにより今世紀初頭に発明された。
 装荷は、音声の減衰を少なくできるが、高い周波数の電気信号が送れなくなる。松前の発明は装荷を止め、抜山教授が研究していた増幅器と濾波器を利用して信号を強くする。高い周波数を送る効果として、音声信号の周波数を高い方に移し、幾つかの音声を重ね合わせ(これを周波数分割多重という)て伝送することが可能になる。
 今から考えると当たり前のことに思えるが、当初「無装荷ケーブル」は、周囲から強い反対を受けた。日本人が考え出した新しいことは誰も信用しない時代だったのである。繰り返し行った試験の結果が逓信省工務局長の梶井剛に認められて、ようやく採用された。梶井は昭和27年に電電公社初代総裁になる方である。
 昭和10年に日本・朝鮮・満州間の無装荷ケーブル建設工事が始まり、14年には東京・奉天間が完成して世間を驚かせた。松前はその功績で電気学会浅野賞を受賞するが、祝金千円をもとに、三鷹の自宅内に私塾「望星学塾」を開設した。早くも教育者としての一面を覗かせたのである。
 昭和12年、工務局に調査課が新設されると松前は初代調査課長となった。5つの係を置いて有為の技術者を集めた調査課は、逓信省の技術参謀本部であった。新技術を開発し、それを電気通信事業の上で活用していく。ここに後の電電公社技術局の雛が誕生したのである。

<12.英国軍が使っていた八木アンテナ
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電気通信の源流 東北大学 12.英国軍が使っていた八木アンテナ

2023-12-17 22:45:55 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 12.英国軍が使っていた八木アンテナ

 昭和17年3月、日本軍が英国植民地シンガポールを占領した後、英国軍が捨てていった兵器を視察するため、技術将校が派遣された。視察団の一人が屑籠の中から分厚いノートを発見し、これとゴルフ場のアンテナらしき設備の写真を陸軍兵器本部に送った。
 兵器本部の命令で、兵器技術指導班が現地に急行した。指導班の将校が捕虜収容所に捕獲されていたノートの持ち主を探し出し、ノートに書かれたYAGIという言葉の意味を尋ねた。
「YAGIというのは、そのアンテナを発明した日本人の名前だ」
そう答えられた将校は愕然とした。指導班は書類を東京の陸軍技術本部に送付した。
 本部はあらためて、東芝の真空管開発のリーダーである浜田成徳を含む三人の電波の専門家を現地に送った。浜田等は確かに八木が発明した指向性アンテナがレーダーに使われていたことを確認した。電波の波長は1.5メートルということも分かった。専門家等は日本人が忘れていた日本人による発明を、敵軍の基地で見せつけられたのであった。
 陸軍の中にも、レーダーの必要性を提案した技術者が居たようだ。しかし彼らの意見は、電波研究部長等の指導者層により
「敵を前にして自分から電波を出すなど、闇夜に提灯をともして自分の位置を相手に教えるようなものだ」
として、拒否されてしまっていた。
 一方、英国は一千万ポンドもの巨費を投じ、数千人の科学者、技術者を動員してレーダーの開発を進めた。日米開戦により大戦に参加した米国も、ただちに英国から技術の供与を受け、マサチューセッツ工科大学にレーダー専門の研究所を設け、やはり数千人の科学者、技術者を集めてレーダーを開発した。
 昭和17年には、米艦隊の主要艦はレーダーを装備していた。これに対し日本の艦船は装備をしていなかった。ミッドウェー海戦において、レーダーを持たぬ日本の空母は真上に敵爆撃機が襲来しているのに気が付かず、飛行甲板に爆弾を投下されて初めて襲来を知り、大敗した。
 この話を聞かされると、明治38年の日露戦争における日本海海戦を思い出す。このとき日本艦隊は、明治36年に開発された三六式無線機を各船が装備し、哨戒艇信濃丸からの無線連絡により敵艦の艦影を確認して、訓練で鍛えぬかれた射撃技術により完勝した。ロシアの艦隊も無線機を装備してはいたが、ほとんど使用した形跡がなかったという。この辺りの話は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に紹介されているので多くの日本人が知っている。三六式無線機は今でも横須賀リサーチパークに浮かんでいる記念館「三笠」に複製が展示されている。
 日本は戦争相手に先んじて無線技術を利用することにより一回は完勝し、さらに次は基本技術を開発しておきながら、自らはその技術を活用することをせず、逆に相手に利用されて惨敗する結果となった。
 無線屋にとって、悲しい戦史である。

<11.陽極分割マグネトロンの発明
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電気通信の源流 東北大学 11.陽極分割マグネトロンの発明

2023-12-17 18:29:29 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 11.陽極分割マグネトロンの発明

 東北大学では本多光太郎の金属材料研究所と勢いを競うかのように、八木が率いる電気工学科が活発な研究活動を続けた。そうした研究の成果の中で八木アンテナに次ぐ大きな収穫となったのが、昭和2年、助教授岡部金治郎による陽極分割マグネトロンの発明だった。
 マグネトロン自身は、強力な磁界の下で電波を発振する特殊な真空管で、1921年に米国のアルバート・ハルが発明した。岡部は磁界をさらに高め、かつ陽極を二つに分割することによりさらに波長の短い電波を発振することを発見した。岡部はこの結果をただちに論文にまとめて「電気学会雑誌」に発表した。
 八木は、昭和3年にニューヨークで開催されたIRE(無線技術者学会)で指向性アンテナと陽極分割マグネトロンを発表した。IREは送られてきた論文の抜き刷りによりこれらの発明を知り、八木に講演を依頼してきたのである。ここで八木は、岡部が新しいマグネトロンで波長が17.5センチのマイクロ波の発振に成功したと発表、聴衆に衝撃を与えた。
 IRE総会の議長は、太陽表面の爆発が電離層を乱し短波通信に影響を与える現象を解明したデリンジャーであった。彼は、
「今日はヤギ・ショック・デーだった。八木博士の講演はエレクトロニクスのクラシックになるであろう」
と述べたという。エレクトロニクス(電子技術)という言葉が米国で使われるようになったのは、この会議から僅か2年ほど前からのことであった。
 その夜、ホテルに戻った八木を米国の弱電メーカーの重役が訪れ、指向性アンテナと陽極分割マグネトロンの特許使用を求めた。また米連邦標準局無線課長であったデリンジャーもホテルを訪れ、指向性アンテナを米政府の航空局でも使わせて欲しいと申し出た。飛行場から指向性アンテナにより発射した超短波ビームを上空の飛行機が捉えられれば、霧の中でも着陸が可能になるというのである。八木は、これらの要請に快く応じた。
 これに反し、日本ではこれらの発明に対して反応が鈍かった。日本の技術者たちには発明があまりに先端すぎたのである。二年前に東京でラジオ放送が始まったばかりであり、技術者はようやく短波の実用化に注意を向け始めた段階で、超短波、さらには極超短波などは夢物語であった。
 唯一、長岡半太郎が委員長を務めていた学術会議の電波研究委員会が発明の意義を認めてくれた。普段は厳しい長岡が「電波研究でも世界レベルの結果が出るようになった」と誉め、東北大の弱電研究を高く評価したのである。
 なお、電気通信学会が電子通信学会と改称したのは昭和42年だから、このときから40年も先のことである。
 昭和4年、八木は文部省に対し東北帝国大学工学部付属の電気通信研究所の創設を申請したが、文部省はその申請を却下した。国家財政に余裕がないというのがその理由である。八木はその後も毎年、研究所創設を申請し続けた。斎藤報恩会の巨額の寄付によって整えられた設備と、八木が率いる研究グループとによって、仙台は日本一の弱電研究の地となっていた。
 明治から大正半ばまで、日本の弱電研究は世界から遅れてはいたが、その中心は逓信省の電気試験所であった。それが、大正末期以降は東北大に移り、「弱電は東北大」との世評が定まった。日本の研究者は皆、仙台まで教えを乞いに来た。弱電を学びたい学生は仙台に集まってきた。
 昭和6年の末までに、斎藤報恩会の寄付によって生まれた研究論文は300編以上、特許登録も30件に及んだ。
 昭和6年、東京、京都、東北、九州、北海道に続く6番目の帝大として、大阪帝国大学の創設が決まった。初代総長には元理化学研究所長の長岡半太郎が就任した。
 大阪大学はまず理学部を中心に設立された。その理学部は、最低限度の体裁である数学、物理学、化学の3学科をもって発足することになった。このとき、八木は阪大の物理学科長に就任し、仙台を離れることになる。
 長岡は「理と工の間を行く物理学科」を頭に描いて居り、そのリーダーは「物理学に根ざした工学」を標榜しつつ研究成果を生み出している八木が適任だと考えていた。長岡は「大学の特色は教授の研究によって決まる。阪大の理学部は、教えることより研究を主体とする学部にしたい」
という抱負を八木に語りかけ、八木はこの言葉に応えることにしたのである。
 昭和7年、八木は東北大電気工学科を本務、大阪大物理学科を兼務とする形で大阪に赴任をした。
 しかし新幹線も、航空機も利用できない時代のことである。大阪と仙台は今日ほど簡単に往復できない。八木の大阪にいる月日が多くなった。
 同年7月、これまで八木に次ぐ二番手の存在であった抜山平一が、東北大の第八代工学部長に就任すると、急速に八木体制が崩れて、抜山体制に変っていった。
 第一は、研究費の配分が抜山の意向に沿うものとなった。第二は、独創的研究路線を実用化研究路線に改めた。第三は、実力主義人事から毛並み主義人事へと変えられた。抜山は「天皇」と呼ばれるほどの権力を持った。抜山と意見を異にした千葉茂太郎教授は東京電気(現在の東芝)に転出させられた。 
 八木が昭和4年に発案し、文部省に設立を申請し続けていたわが国初の電気通信研究所が昭和10年にようやく誕生した。しかしその初代所長は抜山であった。研究所は、自前の建物を作らず、すべての設備を電気工学科から借り、研究者のほとんどは電気工学科の教官が兼務をした。これは八木の構想していた姿と、大きく異なるものであったろう。
 筆者は、これらの件の善悪については評論を避けたい。阪大時代の八木の活躍について省略し、これ以降は、十数年、タイムスリップさせ話を進める。
 なお、後には述べる機会を逸しているので、ここで付記しておく。八木は昭和16年に指向性アンテナの特許延長願いを提出しているが、特許庁がこれを重要特許として認めず却下したため昭和17年8月に15年間の有効期限が切れた。重要性を全く認識していなかったのである。

<10.指向性アンテナの発明
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