関東電友会 関東中支部ブログ

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電気通信の源流 東北大学 10.指向性アンテナの発明

2023-12-11 11:47:43 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 10.指向性アンテナの発明

 仙台市に金融を業として財を成した斎藤善右衛門という旧家があった。その第九代善右衛門が大衆からの非難の高まりを防ぐため、無償の事業、例えば大学の研究に高額の寄付をすることを思い立ち、斎藤報恩会なる財団法人を設立した。東北大は思わぬ寄付者の出現に喜んだ。
 斎藤報恩会からの寄付は、断片的にならないように「共同的大研究」であることが条件とされた。寄付額は年に数万円の規模であり、大学の一講座あたりの研究費が年に数百円程度であった時代には大きな金額であった。
 八木はこの財団の寄付に期待した。この頃の電気工学科は、平山毅が工学部長となり、千葉茂太郎が教授に加わっていた。八木、抜山、千葉の三教授の共同研究として「電気を利用する研究法」をテーマに設定した。この大規模プロジェクトは、5年間にわたり総額21万円の寄付を得ることに成功、電気工学科の研究推進に大きな力となった。
大正13年から平山に代わって第四代工学部長となった八木は、三教授のみではなく助教授や講師に責任を持たせ研究班を作った。八つの研究班は、総勢20名以上の研究者で組織的な研究を始めた。それは弱電に関して、当時の日本においては最大で深い研究となった。
 ところで、指向性アンテナの発明についてである。大正3年の初め頃、一人の学生が発振機と受信機の間に波長計を入れて、共振波長の測定を行っていた。波長計は直径数10センチの単巻きコイルで、1メートルから10メートルまでの波長を測定する。
 学生は受信機が想定していたより強い電力の電波を受信していることに困惑、八木の許に相談をしに行った。八木は実験室に行き、現象を確かめた。そして、波長計の場所を動かすと受信電力が変ることに気が付いた。送信機と受信機の間にある波長計が、受信電力に何らかの影響を与えていたのであった。
 波長計コイルは導体棒に変えられ、送信機の受信側に置いてその場所を動かし、さらに反対側に置き、その場所を動かして受信レベルを測定した。それらの仕事は学生から実験助手に、さらに講師へと代わっていった。
 長期間にわたる数多くの実験の結果として、発振器の前側に送信電波の波長より若干短い導体を置くと電波を導くらしいこと、反対側に若干長い導体を置くと電波を反射するらしいと判断された。これは、まさに電波に指向性を与えていることである。かくて指向性アンテナの概念が確立された。
 八木は英国で師事したフレミングから
「発明に関する個人のプライオリティと経済的利益を守るには特許がもっとも有効であること」「その国の科学や技術の力を世界に知らせる最適な方法も特許であること」
を教えられていた。八木は指向性アンテナの特許申請をすることにした。
 しかし大学の研究者が特許を得るときには、その費用は個人が負担しなければならない。 大学も文部省も特許に対して理解がなかった。また特許を得たあと、権利を継続していくための費用も必要である。八木は伴侶の理解を得る努力から始めなければならなかた。
 大正14年の終りごろ、八木は「電波指向性方式」という題名の特許申請書を書き上げた。指向性アンテナの特許は年末に商工省特許局に申請された。特許が成立したのは大正15年8月である。
 八木は英国でも特許を取得したが、その権利をマルコーニ社に譲渡してしまった。特許維持などの経費の問題であったためかもしれない。このため英国では、この種の指向性アンテナを八木アンテナと呼ぶようになった。
八木自身は「八木アンテナ」と自分の名前をつけて呼んだことはなかった。発見や発明に自分の名前をつけないのがマナーである。「フレミングの法則」の名前も他人がそう呼んだものであり、江崎玲於奈もトンネルダイオードと名付けエサキダイオードと呼んだことはなかった。

<9.電気学会と電気通信学会
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電気通信の源流 東北大学 9.電気学会と電気通信学会

2023-12-11 11:30:15 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 9.電気学会と電気通信学会

 電気学会は明治21年(1888年)の創設で、134年もの長い歴史を有する。初代会長は榎本武揚だが、実質的な創立者は志田林三郎である。志田は設立総会において将来「電話、映像・音声記録、テレビ等の新技術が出現する」ことを予言したことで知られている。ここで、志田について若干の紙面を割きたい。
 郵便の父は前島密であることは周知の通りである。電電公社時代、事業推進に大きな実績をあげた方に「前島賞」が贈呈された。今日でもICTに関し功績のあった方に同賞が贈られている。
 しかし通信に限って言うならば、その先駆者というべき人は志田林三郎である。三原種昭氏が九州支社長を務めていたとき、熊本県出身で郵政事務次官、参議院議員を務めた守住有信氏から、NTTの社員が志田について疎いことを叱責された。三原氏は志田の歴史を詳細に調べ、小冊子を作っている。
 志田は安政3年に佐賀県多久で生れた。幼少時から学問に優れ、藩費により明治5年に工部省工学寮(現在の東大工学部)に入学、ウィリアムウ・エアトンから電信学を学んだ。明治2年に電信科を主席で卒業、翌年にグラスゴー大学に留学して、ケルビン卿の下で物理学や数学などを学んだ。
 帰国後は工務部電信局で働きつつ、幅広い研究を行った。中でも明治17年に隅田川の水面を用いた導電式無線通信実験は、マルコーニの無線実験よりも9年前に行われたことから高く評価されている。明治21年に日本初の工学博士となった。
この年、逓信省大臣だった榎本武揚を会長に据えて電気学会を創設した。第一回総会において、先見性に富む講演をしたことは前述の通りである。
筆者は志田林三郎について、以前にアンリツの元社長、田島一郎氏からお話を伺っていた。田島氏は、安立電気と呼ばれていた同社を現在の姿まで発展させた功労者である。同氏は北原安定氏と同じく昭和15年に早大電気を出られた、筆者の大先輩である。そして、田島氏は林三郎の孫であった。
 田島氏の娘さんがグラスゴー大学に留学された時、彼女と一緒に同大学を訪問されたが、接客担当から林三郎の成績表、卒業論文などを見せて頂いて、感激したという。三代も離れた子孫が留学をされることを、大学も喜んでいたらしい。
 何しろ大昔の記録が大学に残っている。早稲田大学では教授が退職をされるとき、過去に提出をされた卒業論文の始末は担当した教授に任されるしきたりである。私の担当教授はご丁寧にも手紙をそえて私の手元にまで送り返して下さった。グラスゴー大学とは過去を大切にする考え方が違っている。
 ところで、榎本武揚の次の第二代会長は逓信省内信局長林菫氏。外交官で、伯爵でもある。
 第三代は、佐賀県出身の電気工学者で東大教授を務めた中野初子である。名はハツネと読んで男性である。
 第四代の浅野慶輔は東京大学工科大学教授の後、電務局電気試験所(現在の電子技術総合研究所)の初代所長となった。明治36年には、自身の開発になる通信機で長崎―台湾間の通信に成功したという。
 第十二代会長の稲田三之助は、工学部出身者としては初めて逓信省の局長になった方である。それまでは、局長になれるのは法学部出身者だけであった。
 ところで電信電話学会は、当初は逓信省内の私的な研究会として発足をした。昭和2年に社団法人の認可を受け正式な学会となった。昭和11年に電気通信学会と名称を改めたが、電気通信という言葉は八木が最初に使い始めたものである。
 その翌年、電気通信学会に功績賞が新設されると、八木は第二代逓信省工務局長梶井剛と共にその第一回受賞者となった。
 さらに昭和13年、八木は電気三学会(電気、電気通信、照明学会)連合大会の特別講演において
「半導体の諸現象が新しい物理学によって証明されていくと、半導体は非常に有望な材料になる。将来は電気工学全体が材料に支配されるだろう」
と指摘した。「半導体の将来性」、「材料時代の到来」は今日の状況から見ると、恐ろしく鋭い予見であったといえる。
 余談を述べる。筆者が早稲田の電気通信学科に入学したとき、教授から電気通信学会の学生会員になるよう勧奨された。多くの学生は先生の言葉に従った。その多くは卒業後に正会員になったであろう。こんなことは電気学科だけの他大学では経験しないかもしれない。電気通信大学がどうであったかを筆者は存じない
 また、筆者が電電公社の技術局総括調査役であったとき、半分は職務として電気通信学会の調査幹事を務めたことがある。調査幹事の任務に学会の庶務的な雑用も含まれていた。こんな所にも逓信省お抱えの学会のなごりがあった。この頃、電気通信学会の会員数は約四万人で、電気学会と会員数を競っていたと記憶する。


<8.学会誌の占領
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電気通信の源流 東北大学 8.学会誌の占領

2023-12-04 08:27:25 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 8.学会誌の占領

 大正13年の電気学会総会では、東北大からの弱電に関する論文数が議論になった。電気学会雑誌の編集委員会から前年に「当雑誌は貴校からの弱電論文の多数寄稿により内容が一方に偏し一部の会員より不満の声があがっている。ついては貴校よりの寄稿を少しご遠慮いただきたい」旨の通知があり、この点について八木委員から反論したのである。
 電気学会はこの頃、全国に正会員2,600人、準会員2,200人を擁していたが、会員のほとんどが強電分野の研究者、技術者で占められていた。それは、逓信省が通信事業を独占していたため、企業や大学、専門学校等で弱電の研究が育たなかったのであった。
 編集幹事から、最近退会者が増えていることについて、あらためて事情説明があった。これに対し八木はAIEE(米IEEEの前身)など数冊の外国電気学会の機関誌を取り出し、
「これら米国の学会機関誌の中身は弱電の論文が大部分を占めている。ヨーロッパ先進国の電気学会誌も同様だ。世界の電気工学の流れは弱電の方に向っている。我々に迷惑だと言われるのは如何なものか」と反論した。さらに、
「弱電部門の学会誌というものがあれば、そこで発表したい。逓信省に電信電話学会というものがある。弱電の学会そのものである。しかし、外部の者が会員になろうとしても、入れてもらえない。論文を投稿しようとしても、受け付けてくれない」と苦情を述べた。
 電信電話学会は、逓信省の私設学会だった。明治45年に逓信省電気試験所の弱電研究部門が作った研究会が大正3年に電信電話研究会と改称し、さらに大正8年に学会へ名称を改めたものである。事務局も逓信省の中にあった。
 八木は、東北大の工学部を開設した時に、電信電話学会誌のバックナンバーの購入を申し込んだ。しかし、それも断られていたのである。電気学会の編集幹事は逓信省の技術系幹部であったので、八木の苦情に対し
「今後は外部の方々にも電信電話学会に参加できるようにしていきたい」
と答えざるを得なかった

<7.東北大学工学部電気工学科の創設
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電気通信の源流 東北大学 7.東北大学工学部電気工学科の創設

2023-12-04 08:18:13 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 7.東北大学工学部電気工学科の創設

 大正8年、「大学令」が施行され、私立大学、公立大学、単科大学が生まれることになった。帝国大学の分科大学が、それぞれ学部制に改められた。このとき、東北大学にも、理学部より8年遅れて工学部が設置された。
 新設の工学部は応用化学、機械、電気の3学科で開講した。創設時の教授は平山毅(40歳)、八木秀次(33歳)、抜山平一(29歳)である。いずれも東北帝大工学専門部教授からの移籍であった。
 八木は、講義では他大学と同様に強電工学も教えるが、研究では弱電工学を中心とすることを提唱した。
「市電も走っていない仙台で電車工学を研究しても役に立たない。それよりも仙台では、日本が遅れている電波や電話研究をやろう。弱電の研究は強電の研究よりも金がかからないから、世界最先端の研究ができる。力を合わせて10年やれば、弱電では世界一流の大学になれる」と言ったという。
 八木は抜山を工学専門部時代から弱電研究に引き込んでいた。抜山は、八木と入れ替わるようにしてアメリカに留学、ハーバード大学で電気音響学を研究した。抜山は電話振動板研究の大家となり、八木と共に東北大の電気工学科を引っ張る存在となったが、後に八木が大阪大学に転出した後は東北大電気の「天皇」となるのである。
 八木が電気工学科をあげて弱電研究を推進する体制を作っても、当初、学界はもとより学内でさえも理解されなかった。大正9年に日立製作所と三菱電機が設立、12年には富士電機が創設されたが、これらはすべて強電メーカーであった。東北大の学生は真空管など弱電の研究ばかりやっていることで、自分たちの就職に不安を抱く者もいた。これに対し
「間もなく日本にも真空管の時代が来る。就職の心配はさせない。」
「大学の研究は世の中にすぐ役立つものであってはいけない。世の中に先駆けた研究をやる者は世の中には理解されないが、責任を自覚して進まなければいけない。それが新しいものをやろうとする者の道なのだ」
と言いきかせた。半分は自分自身に言いきかせていたのかもしれない。

<6.弱電と強電
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電気通信の源流 東北大学 6.弱電と強電

2023-11-26 18:14:38 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 6.弱電と強電

 ドイツに留学した八木は、ドレスデン工科大学にて高い周波数の電気振動を研究しているバルクハウゼン教授に師事、博士号取得のための研究をすることになった。ドレスデンはエルベ川の谷間に位置したザクセン州の州都で、陶器の町マイセンから近い。
 バルクハウゼンは名著「電気振動学入門」により電波工学の意義を世界に知らしめたことで名高い。電気工学を「強電工学」と「弱電工学」に分類したのもバルクハウゼンである。いかにして強い電力を発生し、それを減衰させないで遠くにまで送るかをテーマとする発電と送配電の工学が「強電工学」であり、弱い電流で仕事をする有線や無線の通信工学が「弱電工学」である、とした。
 八木は、「日本では、弱電はまったく片隅の学問にされている」とバルクハウゼンに語った。
「日本でも弱電の研究をするのは自由なのだが、産業界が強電全盛であり、弱電をやろうとする人間がいない。大学に弱電の講座はなく、電信電話学という講義が一科目あるだけで専任の講師もおらず、毎週、逓信省の技師が講義をしにくるのだ」と八木は嘆いた。
 しかし日本でも最初から強電ばかりが盛んだったわけではない。明治10年、東京帝国大学に初めて電気工学に関する学科が設けられた時は電信学科という名称であった。明治政府が成立した次の年に東京と横浜間に電信が開通した。有線による電話も、ベルが発明した翌年の1877年には取り入れ、都市間の電話交換も明治23年から始まっている。
 八木はこんなことを説明したのちに、弱電が衰えた理由を次のように述べた。
「政府が電信電話を官営の独占事業にした。競争がなかったので、政府は外国から技術を輸入、運営するだけだった。それに対して電力事業の方は、電灯が普及した明治のなかばころから民間会社間で激しい競争が始まった。大資本の電力会社が出現した。そのために大学の電気工学科の卒業生は多くが電力会社に就職し、政府の通信事業に行く者は何年かに一人という状況だ。」
 これを聞いたバルクハウゼンは驚きつつ、「弱電の方が強電よりも理学的で、研究しても面白いのに・・・」と言ったという。
 八木が日本にいた頃から、欧米の学会誌には大学や企業の研究者の弱電研究論文が多く載っていた。すでにいくつかの国では、弱電が独立した学会となり、弱電だけの学会誌が存在していたのである。そのあと、ベルリン工科大学で学ぶうちに八木は、ヨーロッパでは弱電研究者の方が強電研究者より一段と高く尊敬されていることを知ったのだった。
 バルクハウゼンは次のように言った。
「科学は発見し、工学は発明するという。その科学と工学は真空のなかで生まれるわけではない。それぞれの時代の制約のなかで生まれる。科学者と工学者とはそれぞれが自分の社会をつくっていて、排他的な要素を持っている。
 電波の存在を予告したマクスウェルは、生きているうちはその論文はまったく無視されていた。電波を発見したヘルツも、電波が通信に使われるなんて考えもしなかった。このように、自分の発見を、自分で評価することは難しい。どこの国でも、創造は規制の権威への挑戦なのである」
 八木はバルクハウゼンの言葉をかみしめて味わっていた。
 大正3年、第一次世界大戦の勃発でドイツを後にした八木は、スイス、イタリア、フランスを転々としたのちに、ドーバー海峡を渡って英国にたどり着いた。そこで彼はフレミングの師事を受けることになった。フレミングは「電磁誘導に関する右手の法則と、地場の電流に対する力の左手の法則」で知られていた。
 このときのフレミングは、真空管の将来性についての関心でいっぱいであった。フレミングは明治37年(1904年)に二極真空管を発明した。その後に、真空管は電波を発振することや信号を増幅する作用があることが見つかり、その応用が飛躍的に拡大されようとしていた。こうした時代の変化のただ中に、八木は身を置いていたのである。
 八木はフレミング教授の実験助手として、欧州で当時の新しい話題であった光電効果の研究などに取り組んだ。こうした過程で、八木は物理学の領域に深く立ち入ることになり、また電波の領域に取り込まれていった。
 八木はフレミングの著書「無線電信学教科書」にある言葉、
「無線学は非常に魅惑的なものであって、一度この研究に踏み込んだ者は生涯これから抜け出ることはできない」
を実感したのである。
 余談ではあるが、八木はフレミングから英語の言葉遣いについて注意を受けたことから、週に三回、英文学者から英語の教えを受け、代わりに日本語を教えた。八木の英語のレベルは大きく向上したが、相手も八木の教えが役立ったらしい。その相手というのが「源氏物語」を十年かけて英語に翻訳し、日本の古典文学を世界に広めたアーサー・ウェイリーである。
 八木がロンドンへ来てから約一年後、ドイツの飛行船によるロンドンの空襲が激しくなった。八木は残る留学期間を米国で過ごし、祖国へと戻って行った。

<5.八木秀次の登場
7.東北大学工学部電気工学科の創設>



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