秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」といい3000人の童男童女を連れ、財宝、財産、五穀の種を持ち東方に船出をしたという徐福。
当時の中国において倭人が長寿であるとの噂が流布されていたが故に、徐福は日本を目指して旅立ったのでしょうか。
日本各地に徐福伝説が残されています。
和歌山県の新宮市も徐福が渡来したとされる地のひとつで、徐福の墓もあります。
徐福の生没年は不詳ですが、2200年ほど前の人であると考えられています。
徐福は「平原広沢」を手に入れそこに留まり王となり帰らなかったとも言われていますし、徐福=神武天皇という説もあります。
和歌山の新宮市に徐福が渡来していて徐福の墓が本物であったとします。
それって「先進国」からやって来てかつ人材も財産も持っていた徐福が、単なる豪族として亡くなったってことですよね?
多くの良家の若者、さまざまな分野の技術者を引き連れ、財宝や五穀の種も持ち当時の「先進国」からやって来た徐福が、倭国では王にもなれず一豪族として亡くなっていったのでしょうか。
和歌山と奈良は目と鼻の先です。
徐福が出発したのが始皇37年なら紀元前210年になります。
卑弥呼の時代よりも随分前の話にはなりますが、徐福がもし木の国の一豪族で終わっていたならば、卑弥呼の都は畿内では無さそうに思うのです。
畿内の人々は中国を崇めたりはしていない、単に異国情緒や目新しい技術をもたらす人々としかとらえていないように感じるのです。
卑弥呼のように魏の権威にすがることなどしないに違いありません。
また、時代は下りますが「国民性」というものが引き継がれるのであれば、「日出処天子 アメノタリシホコ」は卑弥呼と同じ系譜ではないと思うのです。
もし徐福が新宮で亡くなっていたら…という話ですが・・・。
はてさて徐福集団は日本にたどり着いたのでしょうか?