7世紀の中国は南朝の「梁書」などによると、どうも日本列島には倭国のほかにも国があった様子です。
「文身国」は倭国の東北7千里にあり、刺青の習慣があるといいます。
物は豊かで安く、王のいるところは金銀、珍宝、美しい品で飾っている。館の周囲は濠をめぐらし、幅一丈に水銀を流している。市場がある。犯罪には厳しいと書かれているそうです。
なかなか素晴らしい国のようです。
文身国の東5千里には「大漢国」があるとし、武器がなく戦争をしない。風俗は文身国と同じだが言語が違っていると記されています。
こういう記述があると、やはり「倭国」というのは九州を指すのだろうなと思います。
九州が倭国で、扶桑国は関西、北陸が文身国で、関東が大漢国、女国が伊勢あたりでしょうか。
また「三国史紀」には、新羅の第4代王の脱解の出身地である「多婆那国」は倭国の東北1千里にあると記されています。
倭国が吸収したのか吸収されたのか定かではありませんが「日本国」もあります。
祝詞に出てくる「日高見国」もそのほかの国に入れるべきでしょうか。
日本列島がどの段階でどの程度、中央集権が進んでいたのかはわかりません。
しかし、大王という存在があったとしても実際は各地方で自治統括していた時期が長く続いたのだろうなと思います。
「梁書」の段階でも中国では「倭国」と「扶桑国」は別物だったのです。
白村江の戦いに敗れても畿内の政権が存続したのは、中国側の認識のお陰だったのでしょうか。
白村江で敗れたのは「倭国」であり、日本なり扶桑国なりの国には関係がないとみなされたってことはありませんか?
当時の日本列島に広域連合政権があったのであれば、一地方である九州倭国が、朝鮮半島に出兵することに反対する中央政権の蘇我氏を亡き者として白村江の戦いに挑んだのかもしれません。
ひょっとすると八佾の舞を奉納した蘇我氏は、倭国以外の国の王家だったのかもしれませんね。
日本書紀が隠してしまった本当の歴史、事実が知りたいと切に願います。