古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

古墳の数

2020-12-16 12:02:41 | 歴史

古墳の数って多すぎませんか。

大仙古墳のような大きなものからほんの小さな古墳まであわせると、全国に16万基もありコンビニの3倍の数だという比較がよくなされています。

埋没古墳も数多くあり、一体我々の祖先は3世紀初頭から7世紀初頭の間にどれほどの古墳を造ったのでしょうか。

古墳の数が多すぎて中国の薄葬令などとは関係なく、単に場所がなくなってきたから古墳を作るのを止めたのではないかと、くだらないことを考えてしまいます。

 

大林組の仁徳天皇陵を復元するプロジェクトでは、仁徳天皇陵は15年8カ月の歳月をかけ、延べ680万7千人の人が関わり、現代の金額に換算すると796億円ものお金を使って造られたものだといいます。

1週間に1回休み、1日8時間労働で、工事のピークには1日に2000人も作業をしていたとされます。

鋤や鍬などを作る要員、専門技術の指導者、この大集団に食事などを用意する後備えも含め、この場所に一時に6000人もが集中して古墳を造っていたと想定されるそうです。

仁徳天皇陵は特別に大きな古墳ですが、前方後円墳だけで全国に4800基、あるいは5200基もあると言われています。

それだけの労働力を確保できたのですから、間違いなく古墳時代の日本は豊かだったろうと思うのです。

その財力の元は何だったのでしょう?

銅や鉄との交換財の問題もそうですが、何のおかげで豊かだったのか私にはわかりません。

 

古墳の数が多いのは近畿地方かと思いきや1位は千葉県、2位は群馬県、3位は茨城県と関東勢が上位を占めます。

衣食が満ち足りていたからこそ古墳造りに励めたと思うので、関東は豊かだったに違いないと感じています。

 

ヤマト建国当時の連合体の範囲を8世紀の日本書紀の編者らが熟知していたという説があります。

編者たちは本当にヤマト建国の経緯を知っていたのでしょうか?

前方後円墳は独特の形をしており、今に至るまで保存されてきました。

編者たちは前方後円墳がある地域をヤマト建国当時の勢力範囲としただけなのかもしれません。

でも初期古墳か晩期の古墳かなんて素人目には見分けがつかないし、専門家のいうように編者たちが知っていたと考えるべきなのでしょうね。


徐福が和歌山に渡来していたなら

2020-12-13 10:18:56 | 歴史

秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」といい3000人の童男童女を連れ、財宝、財産、五穀の種を持ち東方に船出をしたという徐福。

当時の中国において倭人が長寿であるとの噂が流布されていたが故に、徐福は日本を目指して旅立ったのでしょうか。

日本各地に徐福伝説が残されています。

和歌山県の新宮市も徐福が渡来したとされる地のひとつで、徐福の墓もあります。

徐福の生没年は不詳ですが、2200年ほど前の人であると考えられています。

徐福は「平原広沢」を手に入れそこに留まり王となり帰らなかったとも言われていますし、徐福=神武天皇という説もあります。

 

和歌山の新宮市に徐福が渡来していて徐福の墓が本物であったとします。

それって「先進国」からやって来てかつ人材も財産も持っていた徐福が、単なる豪族として亡くなったってことですよね?

多くの良家の若者、さまざまな分野の技術者を引き連れ、財宝や五穀の種も持ち当時の「先進国」からやって来た徐福が、倭国では王にもなれず一豪族として亡くなっていったのでしょうか。

和歌山と奈良は目と鼻の先です。

 

徐福が出発したのが始皇37年なら紀元前210年になります。

卑弥呼の時代よりも随分前の話にはなりますが、徐福がもし木の国の一豪族で終わっていたならば、卑弥呼の都は畿内では無さそうに思うのです。

畿内の人々は中国を崇めたりはしていない、単に異国情緒や目新しい技術をもたらす人々としかとらえていないように感じるのです。

卑弥呼のように魏の権威にすがることなどしないに違いありません。

また、時代は下りますが「国民性」というものが引き継がれるのであれば、「日出処天子 アメノタリシホコ」は卑弥呼と同じ系譜ではないと思うのです。

もし徐福が新宮で亡くなっていたら…という話ですが・・・。

 

はてさて徐福集団は日本にたどり着いたのでしょうか?

 


倭人の年齢

2020-12-10 19:45:26 | 歴史

魏志倭人伝には「其の人は寿考(長生き)にして、或いは百年、或いは八、九十年」との記載があります。

倭人は百年、あるいは八、九十歳まで長生きするのだと書かれています。

現在であれば日本人は本当に八、九十年生きていますから、何ら不思議な記載ではありません。

しかし歴史から見ればつい最近の、明治・大正時代の男性の平均寿命が43才前後だというのです。

もちろん平均寿命であり、明治・大正時代であっても江戸時代であっても長生きする人は長生きしています。

それにしても3世紀の人々が百才まで生きていたとは、まず考えられません。

 

「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」との記載もあることから、

倭人は春から秋までを1年、秋から春までをまた1年、1年で2歳、歳を数えているのだという説があります。

いわゆる春秋二倍年暦です。

 

また古代の天皇が長生きし過ぎであることも、この春秋二倍年暦を使っているからだと考える説があります。

例えば応神天皇は130歳、雄略天皇は124歳と、百歳以上の天皇が12名もいるので歴代天皇の長寿は事実とは考えにくく、何らかの解釈が必要だと思われます。

 

さてここで疑問なのですが、魏の使者は本当に倭国へやって来たのですか?

人種が違っているのであればともかく、おなじ黄色人種のアジア人の年齢が見当もつかなかったなんてあり得るのでしょうか。

実年齢40歳の人に80歳だと言われて、そうだなと思いますか?

よくわかりません。

 

ひょっとすると中国では倭人が長寿であるとの噂が流布されていたが故に、徐福は日本を目指して旅立ったのでしょうか。