(承前)
「菖蒲」
植物では菖蒲さ)も、卯の花同様に霍公鳥とともに用いられている。万葉集中に12例ある菖蒲(〔 〕で付記したもの以外、原文で「菖蒲」とある)のうち、11例が霍公鳥とともに用いられている。次は唯一、霍公鳥とともに歌われていない歌であるが、霍公鳥が出てくる万4101番歌の反歌である。
白玉を 包みて遣らば 菖蒲〔安夜女具佐〕 花橘に 合へも貫くがね」(万4102)
アヤメグサの語の由来は、メが甲類だから文目(メは乙類)ではなく、漢女(メは甲類)に負っている。岩波古語辞典に、「漢女(あやめ)の姿がたおやかさに似る花の意。」(63頁)とある。しかし、一般に、アヤメグサはサトイモ目の渋い花をつける植物であると同定されている(注18)。筆者は、アヤメグサと断っているのだから、草の部分を生活に利用したことを表していると考える。芳香が高いことから、節句に邪気を払うために用いられた。一方、ハナアヤメと呼ばれるものがある。花を見てそう名づけている。もともとの自生種は、今日、ノハナショウブと称されている。
問題は、なぜ漢女の意味を植物の名前に当てたかである。漢女は渡来人の女性で、機織りが巧みな人のことであった。「漢機」(雄略紀十四年正月)のことで、中国式の高機を操って見事な織物を織り上げていた。織りの組織として綾織りという織り方もあり、地に文様をつけることができた。特に綾織りでなくても、文様をつけて織られたものをよくよく見てみると、花弁の様子と似ていることに気づく。新式の織物のように模様がついていると見立てられたわけである。その結果、「菖蒲」の類を漢女と呼ぶようになったと考えられる。似た葉をした植物から少しずつ違う柄の花が咲くのがアヤメ属である。それらが今日のアヤメなのかショウブなのか検討する必要はない。漢女の手にかかれば、いろいろな地模様に織りあげてくれるからである。言葉の命名は、植物学の外にある。そして、同類の葉をつけるもので、香気が強くて節句に用いる素材として活用できる植物を、アヤメグサと呼び、「菖蒲」という字を使い慣わしていたと考えることができる(注19)。
左:ノハナショウブ(ウィキペディア、Qwert1234様「ノハナショウブ」ウィキメディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:ノハナショウブ02_Iris_ensata_var._spontanea.JPG)、右:茶紫地四弁花入雲気文広東裂(経絣・平組織、正倉院所蔵、沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品―錦と綾を中心に―」『正倉院紀要』第36号、2014年、55頁のNo.64図をトリミング。宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/36/pdf/0363039095)
漢女が機織りをする作業には、本邦において従来行われていた機織りとは大きく違った。高機はメカニズムとして、大掛かりに経糸を上下に分離させ、行き交わすことができるようになっている。文様が生まれるようにあらかじめ経糸を準備(機拵え)しておけば、後は単純作業に織るだけで地に文様が浮かび上がる。その高機の操作にパタパタという音を立てる。だから機のことをハタと呼んだのであるが、絶え間なくパタパタと音を立てている。在来の地機で織った織物のことを倭文織(注20)というように、静かに織られていたのとは対照的である。高機の操作に熟練している漢機は、パタパタパタパタ連続して音を立てている。 間髪を入れずに受け答えしているさまに似ているから、ホトトギスの「ホト」「トギ」の即応にパラレルな関係であると見立てることができた。季節的にも、ホトトギスが鳴くのとアヤメグサを刈り取って五月五日の節句に用いるのとが概ね合致するから、歌に合されている。
アヤメグサは邪気を払うものとして、5月5日に家の軒にさし掛けたり、身につけたり、薬玉のように作られたかと考えられている。「菖蒲 花橘を 玉に貫き」といった慣用表現で用いられている。香りが立って邪気を払うとされたものどうしが連なっているわけである。風習としては、もっぱら中国由来のことと考えられており、荊楚歳時記などに見られるとされている。高機などとともに本邦に伝わったということであろうか。今日、端午の節句に菖蒲湯を使う風俗に続いている(注21)。
軒菖蒲(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574891/48をトリミング)
ただし、どこまでが中国の風俗に由来したものであるかは不明である。橘は、田道間守が常世の国から持ち帰った不老不死をもたらす時じくの香の木の実であり、その際、「縵」(垂仁記)にも作られている。その橘が万葉集に歌われる際、霍公鳥とともに用いられる傾向にあったのは、本稿に、両者が、ほとんど時は過ぎると言える存在だったからであると理解された。
「菖蒲」も、漢女が織りあげるのにはパタパタパタをくり返して、ほとんど時は過ぎている。機織りはとても時間がかかる。そのアヤメ、今日、ノハナショウブと言い当てられている植物だと思って刈り取ってきた葉のなかに、似ても似つかぬ蒲のような花序のものが混じっていた。何か違うのではないかと思っても、必要な知識は植物学にあるのではなく、実用に供すればよいだけだから、そのような葉については一括してアヤメグサと呼んでおけばそれで済むと考えたのであろう。これは頓智である。結果的に、ヤマトコトバに生きた人々に納得され、歌に霍公鳥とともに詠まれていると考えられる。すでにとり上げた例は除いて以下に示す。
霍公鳥 厭ふ時なし 菖蒲〔昌蒲〕 蘰にせむ日 此ゆ鳴き渡れ(万1955)
霍公鳥〔保等登藝須〕 厭ふ時なし 菖蒲〔安夜売具左〕 蘰にせむ日 此ゆ鳴き渡れ(万4035、重出)
…… 霍公鳥〔保止々支須〕 来鳴く五月の 菖蒲〔安夜女具佐〕 蓬蘰き 酒宴 遊び慰ぐれど ……(万4116)
霍公鳥を詠める歌二首
霍公鳥 今来鳴き始む 菖蒲 蘰くまでに 離るる日あらめや(万4175)〈毛・能・波、三箇の辞を闕く〉
我が門ゆ 鳴き過ぎ渡る 霍公鳥 いや懐かしく 聞けど飽き足らず(万4176)〈毛・能・波・氐・尓・乎、六箇の辞を闕く〉
これら二つの歌は、基本的な助詞を使わないで歌を作った歌であると注記されている。なぜそのような試みが行われたのか。やはりホトトギスの鳴き声が、「ホト」「トギ」ばかりで成り立っていると措定されていたことと関係するのであろう。ホトトギスに負けてはいまいと、助詞を省いて簡潔な言葉でどこまで立ち向かうことができるか、という諧謔である。
「藤波」
霍公鳥とともに詠まれる植物としては、ほかに、「藤波」がある。葛同様に蔓を伸ばす。ホトトギスが鳴く時期に花が咲き、蘰にしたことから持ち出されているものと考えられる。房が波打つように見えるから「藤波(浪)」と表現することが多く、その複数の花房をつけた状態で採って蘰にしたのであろう。波は次から次へと間断なく押し寄せてくるものである。「ホト」「トギ」と間断なく鳴くホトトギスに由縁して、「藤波」という語が選択されているとわかる。すでに見た以外の例をあげる。
藤波の 散らまく惜しみ 霍公鳥 今城の岳を 鳴きて越ゆなり(万1944)
霍公鳥 来鳴き響もす 岡辺なる 藤波見には 君は来じとや(万1991)
藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴くべき時に 近づきにけり(万4042)
明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも〈一は頭に云ふ、保等登藝須〉(万4043)
藤波の 繁りは過ぎぬ あしひきの 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 などか来鳴かぬ(万4210)
霍公鳥 飛幡の浦に しく波の しくしく君を 見む因もがも(万3165)
最後の万3165番歌は、「藤波」ではないが波のことを言っている。深く理解するに至っていないため、冒頭の霍公鳥を枕詞と解する説が有力視されている。
「木の暗」
また、ほとんど時は過ぎるとは、一日という単位で言えば日が暮れるという意味である。クレ(呉)の国から来た新技術こそ、「漢織」であると言いたいのである。日が暮れそうになると、機織りは一日の作業を終わらせる。見えにくくなると文様が揃わないからであり、明かりを灯してまでしないのは灯油がもったいないからでも、煤が出てはせっかくの織物が台無しになるからでもある。したがって、ホトトギスの歌では、ホトトギスは「木のクレ(暗・晩)」で鳴くように仕向けられている。
霍公鳥を詠める歌一首
木の暗の 繁き峯の上を 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きて越ゆなり 今し来らしも(万4305)
木の晩の 夕闇なるに〈一に云はく、なれば〉 霍公鳥 何処を家と 鳴き渡るらむ(万1948)
多胡の崎 木の暗茂に 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴き響めば はだ恋ひめやも(万4051)
木の暗 になりぬるものを 霍公鳥〔保等登藝須〕 何か来鳴かぬ 君に逢へる時(万4053)
「網」「夏」「初声」
ホトトギスは後の時代に網鳥という言い方がされている。記録されている始まりは大伴家持の歌にあり、網をさしてホトトギスを捕まえるからであるとされている。網を使って捕まえてペットとして飼い、翌夏に初声を楽しむためであったと考えられている。
霍公鳥〔保登等藝須〕 夜声なつかし 網ささば 花は過ぐとも 離れずか鳴かむ(万3917)
橘の にほへる園に 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くと人告ぐ 網ささましを(万3918)
霍公鳥 聞けども飽かず 網取りに 獲りて懐けな 離れず鳴くがね(万4182)
霍公鳥 飼ひ通せらば 今年経て 来向ふ夏は まづ喧きなむを(万4183)
玩弄する目的で捕まえていた。他の鳥、例えば文鳥などではなく、ホトトギスに限って網鳥と言われるに至っている。わざわざホトトギスに限って網を持ち出して歌い上げているのは、網という言葉が動詞アム(編)に由来しており、編むためには編み棒を両手に二本持って互い違いに交わすことをする。その交わし方が「ホト」「トギ」と即応する鳴き交わしに例えられるからではないかと考える。万4183番歌で、来年の夏に一番に鳴くであろうとするのは、万4182番歌に、それが懐いているからであるとすでに語られている。この点を強調するなら、ホトトギスが鳴くのは夏のことであると定まってくる。万3984番歌の左注に「霍公鳥者立夏之日来鳴必定」などとあるのは漢詩文の詠物詩の影響を受け、四季と結びつけてホトトギスを歌っているものと考えられている(注22)が、案外、駄洒落の延長に基づくのではなかろうか。そう考える理由は、歌を歌う大伴家持に漢詩文を理解する能力があったとしても、その歌を聞く側の、周囲にいる家人や召使いが何を言っているかわからなければたちまち狂人扱いされてしまうからである。
大伴家持の霍公鳥の歌二首
夏山の 木末の繁に 霍公鳥 鳴き響むなる 声の遥けさ(万1494)
立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作れる恨みの歌二首
あしひきの 山も近きを 霍公鳥〔保登等藝須〕 月立つまでに 何か来鳴かぬ(万3983)
玉に貫く 花橘を 乏しみし この我が里に 来鳴かずあるらし(万3984)
霍公鳥は、立夏の日に来鳴くこと必定す。又越中の風土は橙橘の有ること希なり。此に因りて、大伴宿祢家持、感を懐に発して聊かに此の歌を裁れり。 三月廿九日
四月十六日に、夜の裏に、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、懐を述べたる歌一首
ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く音遥けし 里遠みかも(万3988)
廿四日は立夏の四月の節に応れり。此に因りて廿三日の暮に、忽ちに霍公鳥の暁に喧かむ声を思ひて作れる歌二首
常人も 起きつつ聞くそ 霍公鳥 此の暁に 来喧く初声(万4171)
月立ちし 日より招きつつ うち偲ひ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥かも(万4196)
万4196番歌の「月」は、夏四月のことである。
景物
以上のように、ホトトギスという語自体の特徴から万葉集の霍公鳥の歌を見てきたが、ヤマトコトバの「ことば遊び」以外の、景物として、あるいはとても思い入れを強くした対象としてホトトギスをみた歌もある。ただし、言葉の使い方、他の語との連動性については、それまで作られてきた歌を踏襲する傾向にあり、すでに多くの例をとっている(注23)。
大伴家持の霍公鳥を懽ぶ歌一首
何処には 鳴きもしにけむ 霍公鳥 吾家の里に 今日のみそ鳴く(万1488)
霍公鳥を詠める歌一首〈并せて短歌〉
谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども 霍公鳥〔保登等藝須〕 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲りと 朝には 門に出で立ち 夕には 谷を見渡し 恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず(万4209)
万1488題詞の「懽」や、ホトトギスの声を聞きたくてたまらないといった偏愛ぶりなどは、個人的な感情の吐露に聞こえる。これまでに見てきた歌のあり方とは少しく違っている。ヤマトコトバに意味を圧縮させようとしてきた営みが、反対に解凍する方向へと向かう一端が窺える。人々の言語観が変化する片鱗を覗かせている。一語一語の言葉をそらで覚えることですべてを知恵として生きていた時代は幕を下ろし、文字文化に突入して記録によって伝える術を持つようになっていく。知識の時代の始まりである。ここに人々の言語活動は、その半身を麻痺させ始め、現在へと続くこととなった。
おわりに
万葉集では、ホトトギスは、基本的に、その言葉(音)自体の「ことば遊び」をもって歌われている。そして、ホトトギス歌は、ホトトギスという言葉と関連する語ばかりで構成されることになっている。ホトトギス歌には、ホトトギス歌のための言葉のサプライチェーンがあったということである(注24)。このことは、我々が抱いている言語に対する感覚からすれば、計り知れない違和感をもよおすであろう。無文字時代の言語活動は、文字時代の今日までのものとは位相が異なるものであったことを教えてくれている。異文化であると言って過言ではない。そのことは、人類の可能性として、現代の文明とは違う道があり得たことをも示唆している。その可能性を今に見ることは、万葉集の歌を味わうに際して実は最も実りある鑑賞法なのではないかと考える。現代における万葉集の研究は、ともすればその万葉歌を、漢文学の影響を付会するための検索の基点に貶めてしまっている。「ホト」「トギ」の即答唱和や、ほとんど時は過ぎるの語釈に愉快を感じていた彼らの心を軽んじて、漢詩文にホトトギス歌の出典を求めても意味のないことである。「街に哲学者あり」(長田弘)に倣えば、街に歌詠みが多数あったほどに人々は言葉に生きていた。言葉に生きていた上代人の心性を顧慮せずにいては、ほとんど時は過ぎることになるのではないだろうか 。
(注)
(注1)東1935.に、「集中でも初期の間は馬とか、鹿とか、鴨など手近のものや、狩猟の対象となつた実用的な動物が多く歌はれてゐたのであるが、漸次その末期に近づくにつれて、支那文学の影響を蒙り時鳥や鶯の鳴声を鑑賞する様になつて来たのである。」(227頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)以下、万葉集の原文に「霍公鳥」とあるものはそのままに、それ以外の用字については〔 〕に入れて追記する。
(注3)小池2001.は、霍公鳥という字面の「霍」に、雨の中鳴く鳥であることを含意したかったためかとしている。
(注4)荊楚歲時記逸文に、「三月三日。杜鵑初鳴。田家候之。此鳥鳴昼夜。口赤上天乞恩。至章陸子熟乃止。」とある。本邦の人がこれを見て「霍公鳥」と記すようになったとは考えにくいのは、「杜鵑」とあるからである。荊楚歲時記にはまた、「四月有鳥、名獲榖。其名自呼。農人候此鳥、則犁杷上岸。按爾雅云、鳲鳩鴶鞠。郭璞云、今布榖也、江東呼獲榖。崔寔正論云、夏扈趍耕鋤、即竊脂玄鳥鳴獲榖、則其夏扈也。」とあり、カッコウは「獲榖」と自ら双声に呼んでいるとしている。
(注5)伊藤1998.に、「ホトトギスを擬人的に「名告り鳥」と呼ぶことが、遅くとも近江朝の頃には成り立っており、人々のあいだに一般の言葉として定着していたであろう……。……古くから日本人のあいだにあったこの「名告り鳥」の称に想を致し、「名告り鳴く」時鳥の表現に思い至ったのではなかろうか。地の言葉、口頭言語としてホトトギスについて言われ来った語「名告り鳥」がここではじめて「名告り鳴くなるほととぎす」という和歌表現に奉り上げられたのである。」(38~39頁)などとある。
(注6)集中には、雁が「名を告る」歌がある。
ぬばたまの 夜渡る雁は おほほしく 幾夜を経てか 己が名を告る(万2139)
この歌では、雁が名告っているが、それは、カリと鳴いていると聞きなして「雁がね」などともいうからに過ぎない。ただそれだけだから、雁が鳴いているさまを「名告り鳴くなる」とは表現しない。霍公鳥に「名告り鳴くなる」という定型化をもたらしている点に注目すべきなのである。「大伴」という人が「名に負ふ」として曰くある歌を歌っていても、その人のことを「名告り人」と言わないことに同じである。
(注7)山口2019.は、この訓にて解釈を展開している。
(注8)「「かくこふ」のところは掛け詞のように二重写しになっていて、私がこんなに貴方を恋い慕っているとう[ママ]いうことを、ホトトギスよ、あの方の所へ飛んで行って、『斯く恋ふ、斯く恋ふ』と鳴いて伝えておくれ。」という意味に解釈すべきもののように思われる。つまり、「霍公鳥」は「ホトトギス」と言われると同時に実体は「郭公鳥」そのものであり、「カクホフ」即ち「斯く恋ふ」と鳴く鳥なのである。こう解釈してこそ、この歌の意味も深くなり、ホトトギスが此所に登場してくる理由も、「霍公鳥」と書かれた意味も首肯できるというものである。」(18頁)とある。
(注9)「郭公」という漢字も、中国で古い用例が知られていない。集韻に、「𪇖鷜 鳥名、郭公也。」、元の李孝光・寄朱希顔二首の其一に、「会有行人回首処、両辺楓樹郭公啼。」と見える程度である。もともとカッコウには鳲という字を作っているのではないかとされるが、種の同定には至らない。
木村1901~1911.に、「本集に霍公鳥とかきたるは、皇国にて名づけたる称にて漢名にはあらず、……公はかゝるものに添ていふ文字にて、鶯を黄公、燕を社公、布穀を郭公、蝍蛆を呉公……といふに同じ、又古ヘ此方にて漢名に準へて物ノ名を製したる例は、胡枝子を鹿鳴草といひ、梫木を馬酔木などいへるなど是也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874365/22、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注10)霍公鳥を、種としてホトトギスとカッコウとの総称としたり、混同しているとする見方があり、万葉集中の鳴き場所などからくみ取って見解をなしているものがある。今日の動物分類学をもって何を示そうとしているのか、言語学的立場からは不明である。
ソシュール2013.に復刻されているが、丸山2014.からソシュールの発言を引く。「コトバについて哲学者たちがもっている、あるいは少なくとも提供している考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせるようなものである。すなわち、アダムはさまざまな動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけたという。……コトバの根拠は名詞によって構成されてはいない。……それにもかかわらず、〔哲学者たちの考えには〕コトバが究極的にいかなるものかを見る上で、我々が看過することも黙認する出来ないある傾向の考え方が、暗黙のうちに存在する。それは事物の名称目録という考え方である。
それによれば、まず事物があって、そこから記号ということになる。したがって、これは我々が常に否定することであるが、記号に与えられる外的な基盤があることになり、コトバは次のような関係によって表わされるだろう。

ところが、真の図式は、a─b─cなのであって、これは事物に基づく*─aといったような実際の関係のすべての認識の外にあるのだ。」(130~131頁)。
(注11)室伏1966.に、「程時過」説がある(3頁)が、「程(ホ・トは甲類)」と「霍公鳥、ホ・トは乙類)」は音が合わない。
(注12)拙稿「「信濃なる 須賀の荒野に 霍公鳥 鳴く声聞けば 時過ぎにけり」(万3352)について」参照。
(注13)記紀に載る文章をあげる。
又、天皇、三宅連等が祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣して、ときじくのかくの木実を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵・矛八矛を将ち来る間に、天皇、既に崩りましぬ。爾くして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后に献り、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木実を擎げて、叫び哭びて白さく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちて参ゐ上りて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今の橘ぞ。(垂仁記)
九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。〈香菓,、此には箇倶能未と云ふ。〉今、橘と謂ふは是なり。……
明年の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至れり。則ち齎る物は、非時の香菓、八竿八縵なり。田道間守、是に泣ち悲歎きて曰さく、「命を天朝に受り、遠くより絶域に往る。万里浪を踏みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来ふ間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて、更、本土に向むといふことを。然るに、聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。今、天皇既に崩りましぬ。復命すこと得ず。臣生けりと雖も、亦、何の益かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵にまゐりて、叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是、三宅連の始祖なり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)
(注14)伊藤2009.に、「父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。」(278頁)とある。
(注15)岩波文庫本新大系万葉集に、「一首の意味は判然としない」(145頁)とある。山口2017.は、「〈AヲBミ〉型のミ語法の場合、ヲの後に疑問あるいは詠嘆のヤが入ることは考えにくいから」(68頁)、訓み方を「本つ人 ほととぎすをば めづらしび 今も汝が来る 恋ひつつをれば」としている。ミ語法については、青木2016.参照。
(注16)「ことば遊び」という術語は言語学のいまだ確立途上の概念によるが、上代の「ことば遊び」はさらにその辺縁、あるいは極限に位置づけられるもので、これまで検討されたことはない。ほとんど研究対象とされていないなか、滝浦2005.は、ヤーコブソンにならって「あらゆることば遊びが遊びとしての相互行為性を有する限り,「指示的機能」の背景化の度合いに応じて,……「交話的機能」の機能レベルは上昇する.ここに,ことば遊び全体に共通のコミュニケーション論的機能を見ることができる.」(408頁)としている。ここではその滝浦氏の行論にあえて従って考えることにする。
上代語であるヤマトコトバは、無文字時代にやりとりされた音声言語である。峠を越えた隣村の人とやりとりするためには、この「交話的機能」が大前提となっていなければならない。そのときはじめて言葉は「指示的機能」を有しうる。反対から言えば、ヤマトコトバは「ことば遊び」でなければ存立しえなかったのである。“伝え合う”行為は、“ともに遊ぶ”行為を条件としていた。そのことは、「言向け和す」という言い方に最もよく理解されるであろう。なぜ言うことによって敵対勢力は和してくるのか。交話可能になって言葉に“ともに遊べる”ことができれば、ヤマトコトバを共有するものどうしとしてヤマトコトバ人としてアイデンティティを得て特権的な意識が育まれるからである。ヤマトコトバの生成動態段階と言ってよく、ヤマトコトバ圏の版図の拡大段階に一致する。その「ことば遊び」のコードは、ヤマトコトバの民に共有されるべき基礎的な伝承、すなわち、記紀に記されて残っている共通の記憶体系としての諸説話群を「百科事典的知識」として基にしている。その「ことば遊び」のルールは、言葉が一音、一義であるとする約束事に従っていた。現代人のような圏外の人からは、説話は秘儀的にみえるがけっして神話ではなく、新たに加わることとなった周縁地域の人々にとっても速やかに了解されうるものであった。説話自体が「ことば遊び」、なかでも「ゲーム型」に当たる〈なぞなぞ〉の上に成り立っていたからである。〈なぞなぞ〉がヤマトコトバの本質であり、「交話的機能」と「指示的機能」を両立させて最大化することにかなっていた。そのような状況下にあっては、滝浦氏の想定する語用論的な逸脱も、情報性の低減、欠如ももたらさない。
滝浦2002.は、グライスが「会話者が(特別な事情がないかぎり)遵守するものと期待される大まかな一般原理」とする「協調の原理 Cooperative Principle」のもとに具体的な「格率 maxims」が置かれているとしていることを引き、次のように指摘する。「ことば遊びにおける格率違反は,何はともあれ言葉の流れそのものを撹乱することによって行なわれる違反である。それによって大文脈は背景に退くか,少なくとも一旦は宙吊りにされ,その分だけ情報の伝達性は(意味的にというよりもむしろ,端的に物理的に)阻害されることになる。つまり,その限りにおいて,ことば遊びは,多かれ少なかれ“本当に伝えない”のであって,その点ではまさしく,「合理的」ではないコミュニケーションの一形態であると言わなければならない」(90~91頁。滝浦2000.は、「ただし、《なぞなぞ》のような「論理」遊びはここでは除外して考える。」(23頁)と断っている。)。上代人の言語活動における「ことば遊び」はその限りではない。強いて格率違反であると捉えるなら、滝浦2002.が指摘する「グライスの論じたような「含み」を生み出す“見かけ上の格率違反”」であり、話し手は「協調の原理」を遵守しており、聞き手は、「発話の意味」と「発話者の意味」とがヤマトコトバの体系のなかに一致していることを目の当たり、耳の当たりにして、驚きをもって迎え入れざるを得なかったのである。
ベイトソンの文脈に則していうところの滝浦氏のいう「ことば遊び」が、「これは遊びだ」というフレーミング(framing)においてのものであるとしている点からして、上代のヤマトコトバの「ことば遊び」はすでに虚を突いている。ヤマトコトバは「ことば遊び」であることを当初から前提としており、「ことば遊び」でなければ言葉ではないのである。ヤマトコトバの「ことば遊び」は単なる to play language ではなく、to play language that is played であること、メタ「ことば遊び」がヤマトコトバなのであった。ふだん使いの言葉が「遊び」であることをモットーとしているので、発言を取り消す気などさらさらなく、発せられた言葉はそのまま残されることを期待している。「交話的機能」と「指示的機能」、“伝え合う”行為と“ともに遊ぶ”行為を同時に成し遂げることが目途とされていた。話し手は言葉の字義をたゆまず再定義していく過程のなかに言葉を発していて、そこに生まれた新たな意味の含みが旧来の意味との整合性をその瞬間に理路整然と証明して見せるほどに気合いの入った発言にこだわっており、聞き手もそのつもりで本気で聞いていたのであった。すべての言葉は〈なぞなぞ〉のなかでやりとりされている。言葉と事柄との間の相即性を保ち、けっして違わないようにしていた様相について、筆者は「言霊」信仰と呼んでいるが、ヤマトコトバの生成者、創出者として生きていた彼らにとっては、発言に際しては慎重を期し、逆に言葉を手玉に取ることを目指して入れ籠構造をした言葉が飛び交っている。挙句に、今日の人ばかりか中古の人にとっても理解できない枕詞といった“言葉”の発表大会が、歌の歌われる場面においてくり広げられていた。発言、発語、発話に際しては、「ことば遊び」によって生ずる小文脈を大文脈との間の誤謬を意味的に調整することこそ、頭のひねりどころであったわけである。メッセージとメタ・メッセージとを行きつ戻りつする「遊び」、〈なぞなぞ〉の活動こそ、上代人の行っていたヤマトコトバの言語活動(「ことば遊び」)である。無文字時代、音声言語ばかりが言語なのだから、発し発せられる言葉はメタ言語的であることが常に意識の上にあって、今日的感覚とは異なる緊張状態が継続していたのである。
「ことば遊び」の性質としてあげられる、「“伝えつつ伝えない”ことと“伝えないことにおいて伝える”こととの間を往復する運動」である点は、本稿にとりあげている万葉集のホトトギス歌がよく“伝えて”くれている。なお、コミュニケーション論の立場から上代のヤマトコトバとは何かについて定位しておく必要が求められるが、稿を改めて論ずることにする。
(注17)中西1983.は、「卯の花が咲くのといっしょに鳴くので、ほととぎすは一層愛すべきであるよ。名告り出るように鳴くにつれて。」(168頁)と訳している。
(注18)クロンキスト体系、新エングラー体系などによる。
(注19)ショウブについて、漢語の菖蒲、石菖、白菖蒲などの総称で、平安時代からそれをシャウブ、サウブと呼ぶようになっている。和漢三才図会(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569772/6)参照。
(注20)「倭文、此には之頭於利と云ふ。」(天武紀十三年十二月)とある。
(注21)荊楚歳時記に、「五月五日、謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戯、採艾以為人、懸門戸上、以禳毒気。以菖蒲或鏤、或屑以泛酒。」などとあるが、藝文類聚に菖蒲の件は載らない。
続紀・天平十九年五月五日条に、「太上天皇[元正]、詔して曰はく、「昔者、五日の節には、常に菖蒲を用て縵と為。比来已に此の事を停めぬ。今より後、菖蒲の縵に非ずは、宮中に入ること勿れ」とのたまふ。」とあって、菖蒲を蘰にすることが一時期廃れていたところを見ると、節句―蘰―アヤメグサ―ホトトギスという結びつきは弱く、アヤメグサ―漢女―機織り―「ホト」「トギ」スという結びつきが強かったようにも見受けられる。また、大伴家持作歌が全12首中9首を占めており、万1955・4035番歌は同じ歌であるから、家持以外に歌ったのは山前王と田辺史福麿ばかりということになっており、汎用されていたのか不明である。以下に示す菖蒲蘰の作り方も、復古的な擬作なのかもしれない。藤原師輔・九暦・五月節(天慶七年)条に、「一、造菖蒲蘰之體、用細菖蒲草六筋〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以短四筋当巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」(大日本古記録https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/0901/0061?m=all&s=0055&n=20、漢字の旧字体は改めた。)とある。
また、いわゆる「薬玉」とされるものが、万葉集の「玉(珠)」とどのように関係しているのか、疑問なしとしない。
薬玉(伊勢貞丈・貞丈雑記、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020574/viewer/56をトリミング)
(注22)靑木1971.に、漢書・楊雄伝第五十七の、「徒恐鷤繯之将鳴兮、顧先百草為不芳。」とある箇所の顔師固注に、「鷤、鴂鳥、一名子規、一名杜鵑、常以立夏鳴、鳴則衆芳歇。」とあるのによるとある。(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=001&content_pict_id=012&langId=ja&webView=参照。)
橋本1985.はその説をあげつつ、「なお、植木久行氏によれば家持を中心とする日本におけるほととぎす熱愛、ないしは憧憬の念は、六朝以来の中国の詩文の影響下に生まれたものではなく、万葉人独自の美意識によるものであるとしている……。」(204頁)と注している。植木1979.参照。
なお、この題詞に見られる「暮」をクレと訓むべきかについては不詳である。
(注23)万葉集のホトトギスに関連する歌の中でどこまでがホトトギスという語自体にまつわるもので、どこからがホトトギスを自然景として見切っていったものなのか、峻別することはできない。作者に聞いてみなければわからないからである。一応の傾向として取り上げたばかりである。以下の歌はその分類上、分類しきれないままに積み残した。後考を俟つ。
狛山に 鳴く霍公鳥 泉河 渡を遠み 此間に通はず〈一は云ふ、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
小治田広瀬王の霍公鳥の歌一首
霍公鳥 音聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 声の乏しき(万1468)
言繁み 君は来まさず 霍公鳥 汝だに来鳴け 朝戸開かむ(万1499)
霍公鳥 鳴きし登時 君が家に 徃けと追ひしは 至りけむかも(万1505)
霍公鳥 今朝の旦明に 鳴きつるは 君聞きけむか 朝宿か寐けむ(万1949)
慨きや 醜霍公鳥 今こそは 音の嗄るがに 来喧き響めめ(万1951)
雨〓〔日偏に齊〕之 雲に副ひて 霍公鳥 春日を指して 此ゆ鳴き渡る(万1959)
過所なしに 関飛び越ゆる 霍公鳥〔保等登藝須〕 多我子尓毛 止まず通はむ(万3754)
霍公鳥〔保登等藝須〕 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも 験あらめやも(万4052)
(注24)ホトトギスという語を語るに、パラセームのなかにその意味を語ろうとしていたのである。ソシュール2013.にある、「おのおのそれ自体のために取りあげられた個別的記号という誤り。─あるいは、五〇〇の記号+五〇〇の意義だと思う誤り。─あるいは、「語とその意義」などと堂々と言い放ち、その語が[多くの語ないしパラセーム[parasème、特定共時的な体系内に共存する各辞項]]に取り囲まれていることをすっかり忘れているのに、言語の現象というものをほんの些細なことで示したと思い込んでいるその誤り。」(169~170頁)をおかしていなかったということである。
(引用・参考文献)
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(English Summary)
Manyoshu has many poems about “fötötögisu(霍公鳥)”, the lesser cuckoo. Until now, it has not been possible to get to the core of why “Hototogisu” were so popular and used with other particler words. In this paper, we will explore that the ancient Japanese interpreted the sound of the word “fötötögisu” arbitrarily. And we will be able to perceive that they heard the word "fötötögisu" as call and response, from "fötö" to "tögi", and as the meaning that almost time has passed, "fötöfötö(殆) töki(時) sugu(過)". So, we will understand that they made their wits meaning into poems.
※2021年4月稿を2025年1月にルビ形式化。
「菖蒲」
植物では菖蒲さ)も、卯の花同様に霍公鳥とともに用いられている。万葉集中に12例ある菖蒲(〔 〕で付記したもの以外、原文で「菖蒲」とある)のうち、11例が霍公鳥とともに用いられている。次は唯一、霍公鳥とともに歌われていない歌であるが、霍公鳥が出てくる万4101番歌の反歌である。
白玉を 包みて遣らば 菖蒲〔安夜女具佐〕 花橘に 合へも貫くがね」(万4102)
アヤメグサの語の由来は、メが甲類だから文目(メは乙類)ではなく、漢女(メは甲類)に負っている。岩波古語辞典に、「漢女(あやめ)の姿がたおやかさに似る花の意。」(63頁)とある。しかし、一般に、アヤメグサはサトイモ目の渋い花をつける植物であると同定されている(注18)。筆者は、アヤメグサと断っているのだから、草の部分を生活に利用したことを表していると考える。芳香が高いことから、節句に邪気を払うために用いられた。一方、ハナアヤメと呼ばれるものがある。花を見てそう名づけている。もともとの自生種は、今日、ノハナショウブと称されている。
問題は、なぜ漢女の意味を植物の名前に当てたかである。漢女は渡来人の女性で、機織りが巧みな人のことであった。「漢機」(雄略紀十四年正月)のことで、中国式の高機を操って見事な織物を織り上げていた。織りの組織として綾織りという織り方もあり、地に文様をつけることができた。特に綾織りでなくても、文様をつけて織られたものをよくよく見てみると、花弁の様子と似ていることに気づく。新式の織物のように模様がついていると見立てられたわけである。その結果、「菖蒲」の類を漢女と呼ぶようになったと考えられる。似た葉をした植物から少しずつ違う柄の花が咲くのがアヤメ属である。それらが今日のアヤメなのかショウブなのか検討する必要はない。漢女の手にかかれば、いろいろな地模様に織りあげてくれるからである。言葉の命名は、植物学の外にある。そして、同類の葉をつけるもので、香気が強くて節句に用いる素材として活用できる植物を、アヤメグサと呼び、「菖蒲」という字を使い慣わしていたと考えることができる(注19)。


漢女が機織りをする作業には、本邦において従来行われていた機織りとは大きく違った。高機はメカニズムとして、大掛かりに経糸を上下に分離させ、行き交わすことができるようになっている。文様が生まれるようにあらかじめ経糸を準備(機拵え)しておけば、後は単純作業に織るだけで地に文様が浮かび上がる。その高機の操作にパタパタという音を立てる。だから機のことをハタと呼んだのであるが、絶え間なくパタパタと音を立てている。在来の地機で織った織物のことを倭文織(注20)というように、静かに織られていたのとは対照的である。高機の操作に熟練している漢機は、パタパタパタパタ連続して音を立てている。 間髪を入れずに受け答えしているさまに似ているから、ホトトギスの「ホト」「トギ」の即応にパラレルな関係であると見立てることができた。季節的にも、ホトトギスが鳴くのとアヤメグサを刈り取って五月五日の節句に用いるのとが概ね合致するから、歌に合されている。
アヤメグサは邪気を払うものとして、5月5日に家の軒にさし掛けたり、身につけたり、薬玉のように作られたかと考えられている。「菖蒲 花橘を 玉に貫き」といった慣用表現で用いられている。香りが立って邪気を払うとされたものどうしが連なっているわけである。風習としては、もっぱら中国由来のことと考えられており、荊楚歳時記などに見られるとされている。高機などとともに本邦に伝わったということであろうか。今日、端午の節句に菖蒲湯を使う風俗に続いている(注21)。

ただし、どこまでが中国の風俗に由来したものであるかは不明である。橘は、田道間守が常世の国から持ち帰った不老不死をもたらす時じくの香の木の実であり、その際、「縵」(垂仁記)にも作られている。その橘が万葉集に歌われる際、霍公鳥とともに用いられる傾向にあったのは、本稿に、両者が、ほとんど時は過ぎると言える存在だったからであると理解された。
「菖蒲」も、漢女が織りあげるのにはパタパタパタをくり返して、ほとんど時は過ぎている。機織りはとても時間がかかる。そのアヤメ、今日、ノハナショウブと言い当てられている植物だと思って刈り取ってきた葉のなかに、似ても似つかぬ蒲のような花序のものが混じっていた。何か違うのではないかと思っても、必要な知識は植物学にあるのではなく、実用に供すればよいだけだから、そのような葉については一括してアヤメグサと呼んでおけばそれで済むと考えたのであろう。これは頓智である。結果的に、ヤマトコトバに生きた人々に納得され、歌に霍公鳥とともに詠まれていると考えられる。すでにとり上げた例は除いて以下に示す。
霍公鳥 厭ふ時なし 菖蒲〔昌蒲〕 蘰にせむ日 此ゆ鳴き渡れ(万1955)
霍公鳥〔保等登藝須〕 厭ふ時なし 菖蒲〔安夜売具左〕 蘰にせむ日 此ゆ鳴き渡れ(万4035、重出)
…… 霍公鳥〔保止々支須〕 来鳴く五月の 菖蒲〔安夜女具佐〕 蓬蘰き 酒宴 遊び慰ぐれど ……(万4116)
霍公鳥を詠める歌二首
霍公鳥 今来鳴き始む 菖蒲 蘰くまでに 離るる日あらめや(万4175)〈毛・能・波、三箇の辞を闕く〉
我が門ゆ 鳴き過ぎ渡る 霍公鳥 いや懐かしく 聞けど飽き足らず(万4176)〈毛・能・波・氐・尓・乎、六箇の辞を闕く〉
これら二つの歌は、基本的な助詞を使わないで歌を作った歌であると注記されている。なぜそのような試みが行われたのか。やはりホトトギスの鳴き声が、「ホト」「トギ」ばかりで成り立っていると措定されていたことと関係するのであろう。ホトトギスに負けてはいまいと、助詞を省いて簡潔な言葉でどこまで立ち向かうことができるか、という諧謔である。
「藤波」
霍公鳥とともに詠まれる植物としては、ほかに、「藤波」がある。葛同様に蔓を伸ばす。ホトトギスが鳴く時期に花が咲き、蘰にしたことから持ち出されているものと考えられる。房が波打つように見えるから「藤波(浪)」と表現することが多く、その複数の花房をつけた状態で採って蘰にしたのであろう。波は次から次へと間断なく押し寄せてくるものである。「ホト」「トギ」と間断なく鳴くホトトギスに由縁して、「藤波」という語が選択されているとわかる。すでに見た以外の例をあげる。
藤波の 散らまく惜しみ 霍公鳥 今城の岳を 鳴きて越ゆなり(万1944)
霍公鳥 来鳴き響もす 岡辺なる 藤波見には 君は来じとや(万1991)
藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴くべき時に 近づきにけり(万4042)
明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも〈一は頭に云ふ、保等登藝須〉(万4043)
藤波の 繁りは過ぎぬ あしひきの 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 などか来鳴かぬ(万4210)
霍公鳥 飛幡の浦に しく波の しくしく君を 見む因もがも(万3165)
最後の万3165番歌は、「藤波」ではないが波のことを言っている。深く理解するに至っていないため、冒頭の霍公鳥を枕詞と解する説が有力視されている。
「木の暗」
また、ほとんど時は過ぎるとは、一日という単位で言えば日が暮れるという意味である。クレ(呉)の国から来た新技術こそ、「漢織」であると言いたいのである。日が暮れそうになると、機織りは一日の作業を終わらせる。見えにくくなると文様が揃わないからであり、明かりを灯してまでしないのは灯油がもったいないからでも、煤が出てはせっかくの織物が台無しになるからでもある。したがって、ホトトギスの歌では、ホトトギスは「木のクレ(暗・晩)」で鳴くように仕向けられている。
霍公鳥を詠める歌一首
木の暗の 繁き峯の上を 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きて越ゆなり 今し来らしも(万4305)
木の晩の 夕闇なるに〈一に云はく、なれば〉 霍公鳥 何処を家と 鳴き渡るらむ(万1948)
多胡の崎 木の暗茂に 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴き響めば はだ恋ひめやも(万4051)
木の暗 になりぬるものを 霍公鳥〔保等登藝須〕 何か来鳴かぬ 君に逢へる時(万4053)
「網」「夏」「初声」
ホトトギスは後の時代に網鳥という言い方がされている。記録されている始まりは大伴家持の歌にあり、網をさしてホトトギスを捕まえるからであるとされている。網を使って捕まえてペットとして飼い、翌夏に初声を楽しむためであったと考えられている。
霍公鳥〔保登等藝須〕 夜声なつかし 網ささば 花は過ぐとも 離れずか鳴かむ(万3917)
橘の にほへる園に 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くと人告ぐ 網ささましを(万3918)
霍公鳥 聞けども飽かず 網取りに 獲りて懐けな 離れず鳴くがね(万4182)
霍公鳥 飼ひ通せらば 今年経て 来向ふ夏は まづ喧きなむを(万4183)
玩弄する目的で捕まえていた。他の鳥、例えば文鳥などではなく、ホトトギスに限って網鳥と言われるに至っている。わざわざホトトギスに限って網を持ち出して歌い上げているのは、網という言葉が動詞アム(編)に由来しており、編むためには編み棒を両手に二本持って互い違いに交わすことをする。その交わし方が「ホト」「トギ」と即応する鳴き交わしに例えられるからではないかと考える。万4183番歌で、来年の夏に一番に鳴くであろうとするのは、万4182番歌に、それが懐いているからであるとすでに語られている。この点を強調するなら、ホトトギスが鳴くのは夏のことであると定まってくる。万3984番歌の左注に「霍公鳥者立夏之日来鳴必定」などとあるのは漢詩文の詠物詩の影響を受け、四季と結びつけてホトトギスを歌っているものと考えられている(注22)が、案外、駄洒落の延長に基づくのではなかろうか。そう考える理由は、歌を歌う大伴家持に漢詩文を理解する能力があったとしても、その歌を聞く側の、周囲にいる家人や召使いが何を言っているかわからなければたちまち狂人扱いされてしまうからである。
大伴家持の霍公鳥の歌二首
夏山の 木末の繁に 霍公鳥 鳴き響むなる 声の遥けさ(万1494)
立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作れる恨みの歌二首
あしひきの 山も近きを 霍公鳥〔保登等藝須〕 月立つまでに 何か来鳴かぬ(万3983)
玉に貫く 花橘を 乏しみし この我が里に 来鳴かずあるらし(万3984)
霍公鳥は、立夏の日に来鳴くこと必定す。又越中の風土は橙橘の有ること希なり。此に因りて、大伴宿祢家持、感を懐に発して聊かに此の歌を裁れり。 三月廿九日
四月十六日に、夜の裏に、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、懐を述べたる歌一首
ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く音遥けし 里遠みかも(万3988)
廿四日は立夏の四月の節に応れり。此に因りて廿三日の暮に、忽ちに霍公鳥の暁に喧かむ声を思ひて作れる歌二首
常人も 起きつつ聞くそ 霍公鳥 此の暁に 来喧く初声(万4171)
月立ちし 日より招きつつ うち偲ひ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥かも(万4196)
万4196番歌の「月」は、夏四月のことである。
景物
以上のように、ホトトギスという語自体の特徴から万葉集の霍公鳥の歌を見てきたが、ヤマトコトバの「ことば遊び」以外の、景物として、あるいはとても思い入れを強くした対象としてホトトギスをみた歌もある。ただし、言葉の使い方、他の語との連動性については、それまで作られてきた歌を踏襲する傾向にあり、すでに多くの例をとっている(注23)。
大伴家持の霍公鳥を懽ぶ歌一首
何処には 鳴きもしにけむ 霍公鳥 吾家の里に 今日のみそ鳴く(万1488)
霍公鳥を詠める歌一首〈并せて短歌〉
谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども 霍公鳥〔保登等藝須〕 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲りと 朝には 門に出で立ち 夕には 谷を見渡し 恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず(万4209)
万1488題詞の「懽」や、ホトトギスの声を聞きたくてたまらないといった偏愛ぶりなどは、個人的な感情の吐露に聞こえる。これまでに見てきた歌のあり方とは少しく違っている。ヤマトコトバに意味を圧縮させようとしてきた営みが、反対に解凍する方向へと向かう一端が窺える。人々の言語観が変化する片鱗を覗かせている。一語一語の言葉をそらで覚えることですべてを知恵として生きていた時代は幕を下ろし、文字文化に突入して記録によって伝える術を持つようになっていく。知識の時代の始まりである。ここに人々の言語活動は、その半身を麻痺させ始め、現在へと続くこととなった。
おわりに
万葉集では、ホトトギスは、基本的に、その言葉(音)自体の「ことば遊び」をもって歌われている。そして、ホトトギス歌は、ホトトギスという言葉と関連する語ばかりで構成されることになっている。ホトトギス歌には、ホトトギス歌のための言葉のサプライチェーンがあったということである(注24)。このことは、我々が抱いている言語に対する感覚からすれば、計り知れない違和感をもよおすであろう。無文字時代の言語活動は、文字時代の今日までのものとは位相が異なるものであったことを教えてくれている。異文化であると言って過言ではない。そのことは、人類の可能性として、現代の文明とは違う道があり得たことをも示唆している。その可能性を今に見ることは、万葉集の歌を味わうに際して実は最も実りある鑑賞法なのではないかと考える。現代における万葉集の研究は、ともすればその万葉歌を、漢文学の影響を付会するための検索の基点に貶めてしまっている。「ホト」「トギ」の即答唱和や、ほとんど時は過ぎるの語釈に愉快を感じていた彼らの心を軽んじて、漢詩文にホトトギス歌の出典を求めても意味のないことである。「街に哲学者あり」(長田弘)に倣えば、街に歌詠みが多数あったほどに人々は言葉に生きていた。言葉に生きていた上代人の心性を顧慮せずにいては、ほとんど時は過ぎることになるのではないだろうか 。
(注)
(注1)東1935.に、「集中でも初期の間は馬とか、鹿とか、鴨など手近のものや、狩猟の対象となつた実用的な動物が多く歌はれてゐたのであるが、漸次その末期に近づくにつれて、支那文学の影響を蒙り時鳥や鶯の鳴声を鑑賞する様になつて来たのである。」(227頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)以下、万葉集の原文に「霍公鳥」とあるものはそのままに、それ以外の用字については〔 〕に入れて追記する。
(注3)小池2001.は、霍公鳥という字面の「霍」に、雨の中鳴く鳥であることを含意したかったためかとしている。
(注4)荊楚歲時記逸文に、「三月三日。杜鵑初鳴。田家候之。此鳥鳴昼夜。口赤上天乞恩。至章陸子熟乃止。」とある。本邦の人がこれを見て「霍公鳥」と記すようになったとは考えにくいのは、「杜鵑」とあるからである。荊楚歲時記にはまた、「四月有鳥、名獲榖。其名自呼。農人候此鳥、則犁杷上岸。按爾雅云、鳲鳩鴶鞠。郭璞云、今布榖也、江東呼獲榖。崔寔正論云、夏扈趍耕鋤、即竊脂玄鳥鳴獲榖、則其夏扈也。」とあり、カッコウは「獲榖」と自ら双声に呼んでいるとしている。
(注5)伊藤1998.に、「ホトトギスを擬人的に「名告り鳥」と呼ぶことが、遅くとも近江朝の頃には成り立っており、人々のあいだに一般の言葉として定着していたであろう……。……古くから日本人のあいだにあったこの「名告り鳥」の称に想を致し、「名告り鳴く」時鳥の表現に思い至ったのではなかろうか。地の言葉、口頭言語としてホトトギスについて言われ来った語「名告り鳥」がここではじめて「名告り鳴くなるほととぎす」という和歌表現に奉り上げられたのである。」(38~39頁)などとある。
(注6)集中には、雁が「名を告る」歌がある。
ぬばたまの 夜渡る雁は おほほしく 幾夜を経てか 己が名を告る(万2139)
この歌では、雁が名告っているが、それは、カリと鳴いていると聞きなして「雁がね」などともいうからに過ぎない。ただそれだけだから、雁が鳴いているさまを「名告り鳴くなる」とは表現しない。霍公鳥に「名告り鳴くなる」という定型化をもたらしている点に注目すべきなのである。「大伴」という人が「名に負ふ」として曰くある歌を歌っていても、その人のことを「名告り人」と言わないことに同じである。
(注7)山口2019.は、この訓にて解釈を展開している。
(注8)「「かくこふ」のところは掛け詞のように二重写しになっていて、私がこんなに貴方を恋い慕っているとう[ママ]いうことを、ホトトギスよ、あの方の所へ飛んで行って、『斯く恋ふ、斯く恋ふ』と鳴いて伝えておくれ。」という意味に解釈すべきもののように思われる。つまり、「霍公鳥」は「ホトトギス」と言われると同時に実体は「郭公鳥」そのものであり、「カクホフ」即ち「斯く恋ふ」と鳴く鳥なのである。こう解釈してこそ、この歌の意味も深くなり、ホトトギスが此所に登場してくる理由も、「霍公鳥」と書かれた意味も首肯できるというものである。」(18頁)とある。
(注9)「郭公」という漢字も、中国で古い用例が知られていない。集韻に、「𪇖鷜 鳥名、郭公也。」、元の李孝光・寄朱希顔二首の其一に、「会有行人回首処、両辺楓樹郭公啼。」と見える程度である。もともとカッコウには鳲という字を作っているのではないかとされるが、種の同定には至らない。
木村1901~1911.に、「本集に霍公鳥とかきたるは、皇国にて名づけたる称にて漢名にはあらず、……公はかゝるものに添ていふ文字にて、鶯を黄公、燕を社公、布穀を郭公、蝍蛆を呉公……といふに同じ、又古ヘ此方にて漢名に準へて物ノ名を製したる例は、胡枝子を鹿鳴草といひ、梫木を馬酔木などいへるなど是也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874365/22、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注10)霍公鳥を、種としてホトトギスとカッコウとの総称としたり、混同しているとする見方があり、万葉集中の鳴き場所などからくみ取って見解をなしているものがある。今日の動物分類学をもって何を示そうとしているのか、言語学的立場からは不明である。
ソシュール2013.に復刻されているが、丸山2014.からソシュールの発言を引く。「コトバについて哲学者たちがもっている、あるいは少なくとも提供している考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせるようなものである。すなわち、アダムはさまざまな動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけたという。……コトバの根拠は名詞によって構成されてはいない。……それにもかかわらず、〔哲学者たちの考えには〕コトバが究極的にいかなるものかを見る上で、我々が看過することも黙認する出来ないある傾向の考え方が、暗黙のうちに存在する。それは事物の名称目録という考え方である。
それによれば、まず事物があって、そこから記号ということになる。したがって、これは我々が常に否定することであるが、記号に与えられる外的な基盤があることになり、コトバは次のような関係によって表わされるだろう。

ところが、真の図式は、a─b─cなのであって、これは事物に基づく*─aといったような実際の関係のすべての認識の外にあるのだ。」(130~131頁)。
(注11)室伏1966.に、「程時過」説がある(3頁)が、「程(ホ・トは甲類)」と「霍公鳥、ホ・トは乙類)」は音が合わない。
(注12)拙稿「「信濃なる 須賀の荒野に 霍公鳥 鳴く声聞けば 時過ぎにけり」(万3352)について」参照。
(注13)記紀に載る文章をあげる。
又、天皇、三宅連等が祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣して、ときじくのかくの木実を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵・矛八矛を将ち来る間に、天皇、既に崩りましぬ。爾くして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后に献り、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木実を擎げて、叫び哭びて白さく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちて参ゐ上りて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今の橘ぞ。(垂仁記)
九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。〈香菓,、此には箇倶能未と云ふ。〉今、橘と謂ふは是なり。……
明年の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至れり。則ち齎る物は、非時の香菓、八竿八縵なり。田道間守、是に泣ち悲歎きて曰さく、「命を天朝に受り、遠くより絶域に往る。万里浪を踏みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来ふ間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて、更、本土に向むといふことを。然るに、聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。今、天皇既に崩りましぬ。復命すこと得ず。臣生けりと雖も、亦、何の益かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵にまゐりて、叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是、三宅連の始祖なり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)
(注14)伊藤2009.に、「父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。」(278頁)とある。
(注15)岩波文庫本新大系万葉集に、「一首の意味は判然としない」(145頁)とある。山口2017.は、「〈AヲBミ〉型のミ語法の場合、ヲの後に疑問あるいは詠嘆のヤが入ることは考えにくいから」(68頁)、訓み方を「本つ人 ほととぎすをば めづらしび 今も汝が来る 恋ひつつをれば」としている。ミ語法については、青木2016.参照。
(注16)「ことば遊び」という術語は言語学のいまだ確立途上の概念によるが、上代の「ことば遊び」はさらにその辺縁、あるいは極限に位置づけられるもので、これまで検討されたことはない。ほとんど研究対象とされていないなか、滝浦2005.は、ヤーコブソンにならって「あらゆることば遊びが遊びとしての相互行為性を有する限り,「指示的機能」の背景化の度合いに応じて,……「交話的機能」の機能レベルは上昇する.ここに,ことば遊び全体に共通のコミュニケーション論的機能を見ることができる.」(408頁)としている。ここではその滝浦氏の行論にあえて従って考えることにする。
上代語であるヤマトコトバは、無文字時代にやりとりされた音声言語である。峠を越えた隣村の人とやりとりするためには、この「交話的機能」が大前提となっていなければならない。そのときはじめて言葉は「指示的機能」を有しうる。反対から言えば、ヤマトコトバは「ことば遊び」でなければ存立しえなかったのである。“伝え合う”行為は、“ともに遊ぶ”行為を条件としていた。そのことは、「言向け和す」という言い方に最もよく理解されるであろう。なぜ言うことによって敵対勢力は和してくるのか。交話可能になって言葉に“ともに遊べる”ことができれば、ヤマトコトバを共有するものどうしとしてヤマトコトバ人としてアイデンティティを得て特権的な意識が育まれるからである。ヤマトコトバの生成動態段階と言ってよく、ヤマトコトバ圏の版図の拡大段階に一致する。その「ことば遊び」のコードは、ヤマトコトバの民に共有されるべき基礎的な伝承、すなわち、記紀に記されて残っている共通の記憶体系としての諸説話群を「百科事典的知識」として基にしている。その「ことば遊び」のルールは、言葉が一音、一義であるとする約束事に従っていた。現代人のような圏外の人からは、説話は秘儀的にみえるがけっして神話ではなく、新たに加わることとなった周縁地域の人々にとっても速やかに了解されうるものであった。説話自体が「ことば遊び」、なかでも「ゲーム型」に当たる〈なぞなぞ〉の上に成り立っていたからである。〈なぞなぞ〉がヤマトコトバの本質であり、「交話的機能」と「指示的機能」を両立させて最大化することにかなっていた。そのような状況下にあっては、滝浦氏の想定する語用論的な逸脱も、情報性の低減、欠如ももたらさない。
滝浦2002.は、グライスが「会話者が(特別な事情がないかぎり)遵守するものと期待される大まかな一般原理」とする「協調の原理 Cooperative Principle」のもとに具体的な「格率 maxims」が置かれているとしていることを引き、次のように指摘する。「ことば遊びにおける格率違反は,何はともあれ言葉の流れそのものを撹乱することによって行なわれる違反である。それによって大文脈は背景に退くか,少なくとも一旦は宙吊りにされ,その分だけ情報の伝達性は(意味的にというよりもむしろ,端的に物理的に)阻害されることになる。つまり,その限りにおいて,ことば遊びは,多かれ少なかれ“本当に伝えない”のであって,その点ではまさしく,「合理的」ではないコミュニケーションの一形態であると言わなければならない」(90~91頁。滝浦2000.は、「ただし、《なぞなぞ》のような「論理」遊びはここでは除外して考える。」(23頁)と断っている。)。上代人の言語活動における「ことば遊び」はその限りではない。強いて格率違反であると捉えるなら、滝浦2002.が指摘する「グライスの論じたような「含み」を生み出す“見かけ上の格率違反”」であり、話し手は「協調の原理」を遵守しており、聞き手は、「発話の意味」と「発話者の意味」とがヤマトコトバの体系のなかに一致していることを目の当たり、耳の当たりにして、驚きをもって迎え入れざるを得なかったのである。
ベイトソンの文脈に則していうところの滝浦氏のいう「ことば遊び」が、「これは遊びだ」というフレーミング(framing)においてのものであるとしている点からして、上代のヤマトコトバの「ことば遊び」はすでに虚を突いている。ヤマトコトバは「ことば遊び」であることを当初から前提としており、「ことば遊び」でなければ言葉ではないのである。ヤマトコトバの「ことば遊び」は単なる to play language ではなく、to play language that is played であること、メタ「ことば遊び」がヤマトコトバなのであった。ふだん使いの言葉が「遊び」であることをモットーとしているので、発言を取り消す気などさらさらなく、発せられた言葉はそのまま残されることを期待している。「交話的機能」と「指示的機能」、“伝え合う”行為と“ともに遊ぶ”行為を同時に成し遂げることが目途とされていた。話し手は言葉の字義をたゆまず再定義していく過程のなかに言葉を発していて、そこに生まれた新たな意味の含みが旧来の意味との整合性をその瞬間に理路整然と証明して見せるほどに気合いの入った発言にこだわっており、聞き手もそのつもりで本気で聞いていたのであった。すべての言葉は〈なぞなぞ〉のなかでやりとりされている。言葉と事柄との間の相即性を保ち、けっして違わないようにしていた様相について、筆者は「言霊」信仰と呼んでいるが、ヤマトコトバの生成者、創出者として生きていた彼らにとっては、発言に際しては慎重を期し、逆に言葉を手玉に取ることを目指して入れ籠構造をした言葉が飛び交っている。挙句に、今日の人ばかりか中古の人にとっても理解できない枕詞といった“言葉”の発表大会が、歌の歌われる場面においてくり広げられていた。発言、発語、発話に際しては、「ことば遊び」によって生ずる小文脈を大文脈との間の誤謬を意味的に調整することこそ、頭のひねりどころであったわけである。メッセージとメタ・メッセージとを行きつ戻りつする「遊び」、〈なぞなぞ〉の活動こそ、上代人の行っていたヤマトコトバの言語活動(「ことば遊び」)である。無文字時代、音声言語ばかりが言語なのだから、発し発せられる言葉はメタ言語的であることが常に意識の上にあって、今日的感覚とは異なる緊張状態が継続していたのである。
「ことば遊び」の性質としてあげられる、「“伝えつつ伝えない”ことと“伝えないことにおいて伝える”こととの間を往復する運動」である点は、本稿にとりあげている万葉集のホトトギス歌がよく“伝えて”くれている。なお、コミュニケーション論の立場から上代のヤマトコトバとは何かについて定位しておく必要が求められるが、稿を改めて論ずることにする。
(注17)中西1983.は、「卯の花が咲くのといっしょに鳴くので、ほととぎすは一層愛すべきであるよ。名告り出るように鳴くにつれて。」(168頁)と訳している。
(注18)クロンキスト体系、新エングラー体系などによる。
(注19)ショウブについて、漢語の菖蒲、石菖、白菖蒲などの総称で、平安時代からそれをシャウブ、サウブと呼ぶようになっている。和漢三才図会(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569772/6)参照。
(注20)「倭文、此には之頭於利と云ふ。」(天武紀十三年十二月)とある。
(注21)荊楚歳時記に、「五月五日、謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戯、採艾以為人、懸門戸上、以禳毒気。以菖蒲或鏤、或屑以泛酒。」などとあるが、藝文類聚に菖蒲の件は載らない。
続紀・天平十九年五月五日条に、「太上天皇[元正]、詔して曰はく、「昔者、五日の節には、常に菖蒲を用て縵と為。比来已に此の事を停めぬ。今より後、菖蒲の縵に非ずは、宮中に入ること勿れ」とのたまふ。」とあって、菖蒲を蘰にすることが一時期廃れていたところを見ると、節句―蘰―アヤメグサ―ホトトギスという結びつきは弱く、アヤメグサ―漢女―機織り―「ホト」「トギ」スという結びつきが強かったようにも見受けられる。また、大伴家持作歌が全12首中9首を占めており、万1955・4035番歌は同じ歌であるから、家持以外に歌ったのは山前王と田辺史福麿ばかりということになっており、汎用されていたのか不明である。以下に示す菖蒲蘰の作り方も、復古的な擬作なのかもしれない。藤原師輔・九暦・五月節(天慶七年)条に、「一、造菖蒲蘰之體、用細菖蒲草六筋〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以短四筋当巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」(大日本古記録https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/0901/0061?m=all&s=0055&n=20、漢字の旧字体は改めた。)とある。
また、いわゆる「薬玉」とされるものが、万葉集の「玉(珠)」とどのように関係しているのか、疑問なしとしない。

(注22)靑木1971.に、漢書・楊雄伝第五十七の、「徒恐鷤繯之将鳴兮、顧先百草為不芳。」とある箇所の顔師固注に、「鷤、鴂鳥、一名子規、一名杜鵑、常以立夏鳴、鳴則衆芳歇。」とあるのによるとある。(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=001&content_pict_id=012&langId=ja&webView=参照。)
橋本1985.はその説をあげつつ、「なお、植木久行氏によれば家持を中心とする日本におけるほととぎす熱愛、ないしは憧憬の念は、六朝以来の中国の詩文の影響下に生まれたものではなく、万葉人独自の美意識によるものであるとしている……。」(204頁)と注している。植木1979.参照。
なお、この題詞に見られる「暮」をクレと訓むべきかについては不詳である。
(注23)万葉集のホトトギスに関連する歌の中でどこまでがホトトギスという語自体にまつわるもので、どこからがホトトギスを自然景として見切っていったものなのか、峻別することはできない。作者に聞いてみなければわからないからである。一応の傾向として取り上げたばかりである。以下の歌はその分類上、分類しきれないままに積み残した。後考を俟つ。
狛山に 鳴く霍公鳥 泉河 渡を遠み 此間に通はず〈一は云ふ、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
小治田広瀬王の霍公鳥の歌一首
霍公鳥 音聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 声の乏しき(万1468)
言繁み 君は来まさず 霍公鳥 汝だに来鳴け 朝戸開かむ(万1499)
霍公鳥 鳴きし登時 君が家に 徃けと追ひしは 至りけむかも(万1505)
霍公鳥 今朝の旦明に 鳴きつるは 君聞きけむか 朝宿か寐けむ(万1949)
慨きや 醜霍公鳥 今こそは 音の嗄るがに 来喧き響めめ(万1951)
雨〓〔日偏に齊〕之 雲に副ひて 霍公鳥 春日を指して 此ゆ鳴き渡る(万1959)
過所なしに 関飛び越ゆる 霍公鳥〔保等登藝須〕 多我子尓毛 止まず通はむ(万3754)
霍公鳥〔保登等藝須〕 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも 験あらめやも(万4052)
(注24)ホトトギスという語を語るに、パラセームのなかにその意味を語ろうとしていたのである。ソシュール2013.にある、「おのおのそれ自体のために取りあげられた個別的記号という誤り。─あるいは、五〇〇の記号+五〇〇の意義だと思う誤り。─あるいは、「語とその意義」などと堂々と言い放ち、その語が[多くの語ないしパラセーム[parasème、特定共時的な体系内に共存する各辞項]]に取り囲まれていることをすっかり忘れているのに、言語の現象というものをほんの些細なことで示したと思い込んでいるその誤り。」(169~170頁)をおかしていなかったということである。
(引用・参考文献)
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山口2017. 山口佳紀「古代の歌における時鳥の鳴き声」『論集上代文学 第三八冊』笠間書院、2017年。
山口2019. 山口佳紀「古代の歌における「ほととぎす」とは何か」『論集上代文学 第三九冊』笠間書院、2019年。
(English Summary)
Manyoshu has many poems about “fötötögisu(霍公鳥)”, the lesser cuckoo. Until now, it has not been possible to get to the core of why “Hototogisu” were so popular and used with other particler words. In this paper, we will explore that the ancient Japanese interpreted the sound of the word “fötötögisu” arbitrarily. And we will be able to perceive that they heard the word "fötötögisu" as call and response, from "fötö" to "tögi", and as the meaning that almost time has passed, "fötöfötö(殆) töki(時) sugu(過)". So, we will understand that they made their wits meaning into poems.
※2021年4月稿を2025年1月にルビ形式化。