古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「八雲立つ 出雲八重垣」について

2021年05月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
「八雲立つ 出雲八重垣」歌をめぐって

 スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)は、宮をつくる場所を出雲国に求めた。スガ(須賀・清地)というところにたどり着き、宮を造って住もうとする。初め宮をつくっていた時に、そこから雲が立ち上っていた。そこで、記紀ともに一番歌として知られる「八雲立つ 出雲八重垣 ……」の歌を詠んでいる。

 かれ、是を以て、其の速須佐之男命はやすさのをのみこと、宮造作つくるべきところを、出雲国にぎたまふ。しかくして須賀といふ地に到りしてりたまはく、「あれ此地ここに来て、我が御心須賀須賀すがすがし」とのりたまひて、其地そこに宮を作りて坐しき。故、其地を今に須賀と云ふ。の大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ちのぼりき。爾くして御歌をみたまひき。其の歌に曰ひしく、
 八雲やくも立つ 出雲いづも八重垣やへがき 妻みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
是に其の足名椎神あしなづちのかみびて、「は我が宮のおびとれ」と告言りたまひき。また名を負せて、稲田いなだの宮主みやぬし須賀之すがの八耳神やつみみのかみなづけたまひき。(記上)
 しかうして後に、[素戔嗚尊すさのをのみこと、]きつつみあはしせむ処をぐ。遂に出雲の清地すがに到ります。清地、此には素鵝すがと云ふ。乃ち言ひて曰はく、「が心清清すがすがし」とのたまふ。此今、此の地を呼びてすがと曰ふ。彼処そこに宮を建つ。或に云はく、時に武素戔嗚尊たけすさのをのみことうたよみして曰はく、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣ゑ」(紀1)。乃ち相与とも遘合みとのまぐはひして、みこ大己貴神おほあなむちのかみを生む。因りてみことのりして曰はく、「吾が児の宮のつかさは、即ち脚摩乳あしなづち手摩乳てなづちなり」とのたまふ。故、ふたはしらの神に賜ひて、稲田いなだの宮主神みやぬしのかみと曰ふ。已にして素戔嗚尊、遂に根国ねのくにでましぬ。(神代紀第八段本文)

 「八雲立つ 出雲八重垣 ……」の歌は、盛んに雲が湧き立つ出雲国の八重垣、妻を籠らせるために、あるいは妻といっしょに八重垣を作る、その八重垣よ、といった意味である。和歌の嚆矢として名高く、新室寿ぎの歌であるというのが定説である。しかし、歌っている内容はなぜか垣根讃歌である。新築の家屋敷を褒めるならまだしも、垣根についてお上手を言うのはどういうことであろうか。須賀という地名とからめた清々しいという気分の表明もわざとらしい。この記事には、今日の我々には取っ付きにくい含意が巧みに込められているようである。
 「八雲立つ」は出雲を導く枕詞である。また、ヤツメサス、ヤクモサスという例も見られる。

 八芽刺やつめさす〔夜都米佐須〕 出雲建いづもたけるが ける大刀 黒葛つづらさはき さ身無しにあはれ(記23)
 八雲刺やくもさす〔八雲刺〕 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ(万430)

 「八芽刺す」は、ヤ(弥)+ツ(連体助詞)+メ(芽)+サス(生)から「」にかかって「出雲いづも」を導く枕詞であるとされている。また、水野1975.は、万430番歌の作者、「柿本人麻呂は第七世紀末から第八世紀初頭頃の歌人であるから、彼の歌中に出雲の枕詞として、「八雲立」と「夜都米刺」との混合形を見ることは、ちょうどこの時期が「ヤツメサスイヅモ」から、「ヤクモタツイヅモ」への過渡期であったのではないかと推測される。」(54頁)とする。枕詞は言語遊戯である(注1)。発想として混合があるかもしれないが、それぞれ確固とした言葉である。根拠を質されれば、それぞれに独立してきちんと解答できるように働いていると考えるべきであろう。
 ヤクモタツという枕詞については、雲がもくもくと浮かぶことについての類推が根強い。イヅモという地名に「出雲」という漢字を当てたことによって連想される枕詞に違いない。ただし、それだけの理由に限られるのであるなら、トクモタツ(十雲立つ)、チクモタツ(千雲立つ)といった言葉が作られてもかまわないはずである。そうはならずにヤクモに限定されている。そのわけは、ヤクモソウという薬草の名に関係するからであろう。山野の日当たりのよい場所に生えるシソ科の越年草である。茎は四角形で直立し、枝分れして1mほどに伸びる。8~9月頃、茎の上部の葉腋に淡い紅紫色の花を10個ほどずつつける。その名は、漢名の益母草を音読みしたものとされている。全草を乾燥させて薬草とし、妊婦の止血や乳脹れに用いられた。新婚さんの宮にふさわしい草である。別名をメハジキという。目弾きの意で、子どもがこの草の茎を折り切ってまぶたに当ててつっかえとし、目を剥く遊びをしたことに由来する。危ないので真似しないようにと注意喚起されている。目につっかえ棒をするから、マ(目)+セ(塞)、すなわち、見塞ませ間塞ませませ・まがきの遊びといえる。よって、ヤクモタツで始まる歌は、理の当然として垣根の話に展開していく。
メハジキ
 八重垣とあるのは、実際に八重に、あるいは、たくさんの垣根がめぐらされたというよりも、威力があって外敵が近づけないほどの垣根であるという意味を表している。上代における八重○○という表現としては、「八重蒼柴籬やへのあをふしかき」(神代紀第九段本文)、「八重雲やへくも」(万167)、「八重雲隠やへくもがくり」(万2658)、「八重席薦やへたたみ(八重席・八重疊)」(神代紀第十段本文、同一書第二、万3885)、「八重之隈やへのくまぢ」(神代紀第十段一書第二)、「八重言代主神やへことしろぬしのかみ(八重事代主神)」(記上)、「天八重雲あめのやへたなぐも(天之八重多那雲)」(神代紀第九段本文、記上)、「八隔浪やへなみ」(万4211)、「八重山やへやま(夜敝也麻)」(万1941・1945・4440)がある。植物名のヤエムグラ(八重葎)も「八重六倉やへむぐら」(万2824・2825)と記されている。

 思ふ人 むと知りせば 八重葎やへむぐら おほへる庭に たま敷かましを(万2824)
 玉敷ける 家も何せむ 八重葎 覆へる小屋をやも いもとしらば(万2825)
 いかならむ 時にか妹を むぐらの きたな屋戸やどに いませなむ(万759)
 葎ふ いやしき屋戸も 大君の さむと知らば 玉敷かましを(万4270)

 万葉歌のヤヘムグラはムグラに同じである。今日種子をひっつき虫として遊ぶアカネ科の越年草のことではなく、従来はクワ科に分類されていたアサ科の一年草の蔓草であるカナムグラのこととするのが定説である。新撰字鏡に、「䔧 牟久良むぐら」、和名抄に、「葎草 本草に葎草〈上の音は律、毛久良もぐら〉と云ふ。」、本草和名に、「葎草〈仁諝に音は律〉、一名葛律葛〈蘇敬注に出づ〉、一名葛勒蔓〈稽疑に出づ〉、和名毛久良もぐら」、名義抄に、「葎草 音律 ムクラ モクラ ハハコ」とある。モグラとムグラは音転である。カナムグラは雌雄異株で、葉は切れ込みのある掌状で対生、鋸歯が多く表面はざらざらしている。茎や葉柄に下向きの棘があり、樹木やフェンス、物置小屋などにつかまりながら高く伸びる。絡みついて繁茂し、蔓延すると棘もあって引き剥がすのに苦労する。欧米ではゴーヤのように遮蔽に用いることもあるが、我が国では、廃屋に絡んでさびれた情景を示すことが多い。
カナムグラ
 すなわち、万2824・2825番歌に見られるヤヘという語は、他のヤヘという語に同じく何重にも重なっていることを表す形容詞的な用法といえる。とはいうものの、今日カナムグラと同定されるムグラは、はびこり絡み合う様が尋常ではない。両歌に「珠(玉)」とあるのは、カナムグラの雌株がたくさんつける、ホップのような鱗片に包まれた穂からの譬えであるとされる。家の周囲に簡素な柵として杭を打っていたにすぎなくても、ひとたびカナムグラが繁茂すれば、それはまるで有刺鉄線を備えたような厳重な垣となる。警備保障会社と契約したかのごとく、垣根を八重分もめぐらしたほどに効果のある「八重垣」に同じことになる。そこでムグラは必然的にヤヘムグラと表現されるのである。
 動物の方のムグラとは、ムグロモチ、モグラモチ、ウグロモチとも呼ばれるモグラ(鼹鼠・鼴・土竜)のことである。語の連関は確かではないが、ともに線状に延びていく様相を示す。
左:モグラ塚の例、右:調査により可視化されたモグラ穴の実態(石膏部分)(東北地方整備局「「河川堤防の変状箇所(もぐら穴等)を計測できる技術」の要求性能に対する意見を募集」記者発表資料(平成30年11月26日)https://www.thr.mlit.go.jp/bumon/kisya/kisyah/images/73229_1.pdf、21頁。2023年11月1日閲覧)
 新撰字鏡に、「𧊏 牟久呂毛知むぐろもち」、和名抄に、「鼴鼠 本草に云はく、鼴鼠〈上の音は偃〉は一名に鼢鼠〈上は扶粉反、上声の重、字は亦、𪖅に作る、宇古路毛知うごろもち〉といふ。通俗に冬糞鼠、一名に𤣘〈音は冥〉といふ。兼名苑注に云はく、恒に土中に在りて行く、若し三光を見れば即ち死すといふ。」、名義抄に、「糞鼠 一名𤣘 ウクロモチ」、「鼴鼠 ウグロモチ」、「𪖅鼠 ウグロモチ」などとある。爪が丈夫に長く生えており、土を掻いて穴を掘り、土中のミミズや昆虫、その幼虫などを食べて生活する。目は退化して見えないとされている。光に当たると死ぬというのは俗説であるが、その死骸を地上で目にすることも多い。地上に現れたモグラは、ネコやイヌなどの天敵に攻撃されながら、独特の体臭のため食べられずに放置されていることが多いという(注2)。農作物自体を食するわけではないが、作物の根を傷めたり灌漑設備に害をなすため害獣とされる。天石屋あめのいはや天石窟あまのいはや)にアマテラス(天照大御神・天照大神)が籠るきっかけとなったスサノヲのいたずらは、次のようにある。

 ……勝ちさびに、天照大御神あまてらすおほみかみ営田つくりたはなち、其の溝をみ、亦、其の大嘗おほにへきこす殿に屎まりちらしき。(記上)
 時に素戔嗚尊、春は渠填みぞうめ畔毀あはなちす。(神代紀第七段一書第二)
 春は廃渠槽ひはがち、及び埋溝みぞうめ毀畔あはなち、又重播種子しきまきす。(神代紀第七段一書第三)

 畔離(畔毀・畔毀)、溝埋(渠填・埋溝)は、大祓の対象となるほどの大罪、国つ罪であった。

 ……更に国のおほぬさを取りて、種々くさぐさ生剥いけはぎ逆剥さかはぎ畔離あはなち溝埋みぞうみ屎戸くそへ上通下通婚おやこくなぎ馬婚うまくなぎ・牛婚・鶏婚・犬婚の罪の類を求めて、国の大祓おほはらへを為て、……(仲哀記)

 さらに、スサノヲが高天原から完全追放されるさまは次のように記されている。

 是に、八百万の神、共にはかりて、速須佐之男命に千位ちくら置戸おきとを負ほせ、亦、ひげと手足の爪とを切り、祓へしめて、神やらひやらひき。(記上)
 然して後に、諸のかみたち罪過つみを素戔嗚尊にせて、おほするに千座置戸ちくらおきとを以てして、遂にはたる。髪を抜きて、其の罪をあかはしむるに至る。亦曰はく、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已にしてつひ逐降かむやらひやらひき。(神代紀第七段本文)
 已にして罪を素戔嗚尊に科せて、其の祓具はらへつものはたる。是を以て、手端たなすゑ吉棄物よしきらひもの足端あなすゑ凶棄物あしきらひもの有り。亦つはきを以て白和幣しろにきてとし、よだりを以て青和幣として、此を用て解除はらへ竟りて、遂に神逐の理を以て逐ふ。(神代紀第七段一書第二)
 かれ、諸の神大きに喜びて、即ち素戔嗚尊に千座置戸の解除はらへを科せて、手の爪を以ては吉爪棄物よしきらひものとし、足の爪を以ては凶爪棄物あしきらひものとす。(神代紀第七段一書第三)

 祓においてはスサノヲは手足の爪やヒゲを切られている。この傷害、体罰によって、畔離、溝埋といった悪さをすることができなくなるということであろう。すなわち、頭の中での架空のことながら、モグラの力を削いで無力化してしまい、水田耕作上の害がなくなると考えたのである(注3)
ヒゲ字(真福寺本古事記(国会図書館デジタルコレクション)・左:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/21、中:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/17、右:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185383/25)
 記で太安万侶は、この箇所のヒゲに、「𩯭(鬢)」の字(左)を使っている。和名抄に、「𩯭髪〈髪根附〉 説文に云はく、𩯭〈卑吝反〉は頬髪なりといふ。……」とある。口ひげや顎ひげではなく、頬の横に生えたびんづらのことからモグラの洞毛のことを示そうとしたものかもしれない。他の記の例も確認しておく。

 ……速須佐之男命は、おほせらえし国を治めずして、八拳頒やつかひげ心前こころさきに至るまで、啼きいさちき。(記上)(注4)

 同じスサノヲの逸話でも、「頒」(中)が用いられている。説文に、「頒 大頭也、頁に从ひ分声。一に曰く、鬢也。詩に曰く、頒たる有り其の首」(注5)とある。
 
 然くして、是の御子、八拳𨲙やつかひげの心前に至るまで、真事まこととはず。(垂仁記)

 同様の形容のある垂仁記の本牟智和気御子ほむちわけのみこの箇所では、「𨲙」(右)で区別している(注6)
 アマテラス(天照大御神・天照大神)、ツクヨミ(月読命・月読尊)、スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)の三貴子分治の話では、スサノヲは、記に「海原」、神代紀第五段本文と一書第一に「根国」、第六に「天下あめのした」、第十一に「滄海之原あをうなはら」を治めるようにと定められており、混乱が見られる。海が登場する点については後に触れる。ただし、彼が泣いて行きたがったり、神やらいにやらわれたところは、記の「ははが国の根之堅州国ねのかたすくに」と同等の記述が行われている(注7)

 故、其の父母かぞいろはの二の神、素戔嗚尊にことよさしたまはく、「いまし、甚だ無道あづきなし。以て宇宙あめのした君臨きみたるべからず。まことまさに遠く根国ねのくにね(神代紀第五段本文)
 故、くだして根国をしらしむ。(神代紀第五段一書第一)
 故、其の父母、みことのりして曰はく、「仮使たとひ、汝此の国をらば、必ずそこなやぶる所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国をしらすべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
 是の時に、素戔嗚尊、年已にいたり。また八握鬚髯やつかひげひたり。然れども天下をしらさずして、常に啼きいさ恚恨ふつくむ。故、伊奘諾尊いざなきのみこと問ひて曰はく、「汝は何の故にか恒に如此かく啼く」とのたまふ。こたへてまをしたまはく、「やつかれいろはのみことに根国に従はむと欲ひて、只に泣かくのみ」とまをしたまふ。伊奘諾尊にくみて曰はく、「こころまにまね」とのたまひて、乃ちやらひやりき。(神代紀第五段一書第六)
 是に、素戔嗚尊、まをしてまをさく、「吾、今みことのりうけたまはりて根国にまかりなむとす。故、暫く高天原にまうでて、なねのみこと相見まみえて、後にひたぶるに就りなむと欲ふ」とまをす。(神代紀第六段本文)
 既にして諸のかみたち、素戔嗚尊をめて曰はく、「汝が所行しわざ甚だ無頼たのもしげなし。故、天上あめに住むべからず。亦葦原中国にもるべからず。すみやか底根之国そこつねのくにに適ね」といひて、乃ち共に逐降やらりき。……是に、素戔嗚尊、日神ひのかみに白して曰はく、「やつかれ更に昇来まうく所以ゆゑは、衆神もろかみたちやつかれを根国にく。今当に就去まかりなむとす。……当に衆神のみこころまにまに、此よりひたすらに根国にまかりなむ。……」とのたまふ。(神代紀第七段一書第三)

 新編全集本古事記の頭注では、州という字の表意する中州の意味合いから、「根之堅州国」の想定として地下はあり得ないと決めつけている。説文に、「州 水中の居るべきところを州と曰ふ。其の側を周繞す。重川に従ふ。昔、尭、洪水に遭ひ、民、水中の高土に居り。或は九州を曰ふ。詩に河の州に在りと曰ふ。一に州は疇也と曰ふ。各疇は其の土にて生りしなり」とある。地形学では、日本列島の川の中州には、マンハッタン島やシテ島などのような岩盤地質を基にしたものはないとされている。古代人もそれは当たり前のこととして、「堅州国」などという形容矛盾を行っておもしろがっている。わざわざそんな呼び名で示したい地形とは、州のようでありながら版築のような方法でき固めて作った垣(牆)状のものであろう。すなわち、説文の後半に記される疇、田圃の畔にほかならない。田圃はぬかるんでいてぐしゃぐしゃで柔らかいが、畔道は根を張ったように堅い。モグラをもとに創案されたスサノヲは畔へ行ったから、やがて、田の畔を壊したり、用水路を埋めるといった悪さをすることになる。話として辻褄が合う。このことは逆に、スサノヲという神格を架空造形した飛鳥時代当時の人々の観念を捉え返す契機になる。出雲のスガ(須賀・清地)での八重垣讃歌が考えあわされなければならない。
 白川1995.の「かき〔垣・墻・壁〕」の項には次のように説明されている。

 家の外まわりを限るためにめぐらしたものをいう。動詞「く」の連用形から名詞となる。垣の作りかたは、古くは「懸ける」「立て掛ける」という形式のものであったと考えられる。カールグレン説にかくの音から出ているとするが、「かくる」「かこむ」などと系列をなす語である。……えんせんに従う字。亘は建物にめぐらした垣牆のいわば平面形である。「かき」は「懸ける」「立て掛ける」、垣はそのめぐらした平面形からいうが、ともに区画する意がある。しようしよくに従い、嗇の下部は穀物の廩倉りんそうの形。しよう版築はんちくに用いるもので、築造のものを示す。へきは土壁。垂直に立てたものをいい、「かき」が「懸けるもの」であるのと語義が近い。へきは身をそばめること。それで偏平や垂直などの意をもつ。(208頁)

 ただし、カクという動詞としては、懸く、書く、掻く、画くなどはみな同根の語とされる。掻くという語は爪を立てて引っ掻くことがもとになっているようである。先端の尖ったもので字をカクのが書く、絵をカクのが画くであり、爪具をもって対象に引っ掛けることを懸くというのであろう。垣と爪との間に関連性、近縁性が見て取れる。
 新撰字鏡に、「籬 力支反、㭕也、垣也、竹柴等類垣は籬と曰ふ、志波加支しばかき、又竹加支かき」、和名抄に、「爾雅に云はく、墻〈音は常〉は之れを墉〈音は庸〉と謂ふといふ。李巡に曰はく、垣〈音は園、賀岐(かき)〉と謂ふといふ。」、「築墻 淮南子に云はく、舜、築墻〈都以加岐ついがき、一に豆以比知ついひぢと云ふ〉を作るといふ。」とある。めぐらせることによって、囲む機能と隠す機能が生ずる。縄張り、結界、障屏、占有、防護、防衛、また、隠匿、遮蔽といったはたらきがある。礼記・祭義に、「古は天子諸侯、必ず公桑こうさう蚕室さんしつ有り、川に近づきて之れをつくり、宮を築くこと仞有じんゆう三尺、棘牆きよくしやうして之れを外閉ぐわいへいす。(古者天子諸侯、必有公桑蚕室、近川而為之、築宮仞有三尺、棘牆而外閉之。)」とあり、芸文類聚にも記載がある。昔、天子諸侯の宮廷には必ず桑畑と蚕室が併設され、その周囲には高さが一仞三尺(約2m25㎝)の高さの垣がめぐらされ、垣の上にはいばらが植えられて鉄条網の役割を果たし、門は外から鍵をかけて閉ざしてあったという。中国では土塁を築いた上に障壁を設けている。説文に、「墉 城の垣也、土に从ひ庸声」とある。都市国家であった城の城壁や、万里の長城などのことである。用字形の木枠に土を入れ、杵で築き固めることを表す(注8)。ムグラが地面付近にお得意の爪をもって穴を掘ると、あたかも土塁、お土居のようなモグラ塚ができる。ウグロモツ、ウゴモツ、ウゴモルには墳という字が当てられる。墳の字には、(1)はか、はかのもり土、(2)おか、つつみ、がけ、きし、(3)す、なかす、しま、(4)大きい、高い、もりあがる、の義がある。(3)に中州の意味がある点により、上述の「根之堅州国」が、モグラの爪や八重垣と関連する事項であることが確認される。古墳が根の堅州国と関係があると一般に推測されているのは、モグラの所業によって間違いではないとわかるのである。

その他、由縁すること

 万葉集の巻十六の「由縁ゆゑある、并せて雑歌」が収められるなかに次のような歌がある。

 からたちの 棘原うばら刈りけ 倉立てむ くそ遠くまれ 櫛造る刀自とじ(万3832)

 これは、カラタチ→クラタチの言葉遊びから着想された歌であろう。カラタチはミカン科カラタチ属の落葉低木で、漢名を枳殻、枸橘、臭橘といい、樹高は2~4mほど、稜角のある枝に3cmほどの鋭い刺が互生する。葉も互生するがアゲハチョウの幼虫に食され、ほとんど残っていない樹もある。果実には種が多く、酸味と苦味が強く食用に適さないものの、花と果実の芳香は好まれた。また、鋭い刺のために、外敵の侵入を防ぐ目的で生垣によく用いられた。特に、イノシシ避けのために果樹園の周囲の垣として利用された。
 この歌が作られた「由縁」は、記紀ともに1番歌謡として知られる出雲八重垣の歌の言い伝えのことのようである。記紀1番歌謡の結句、「その八重垣」は、アクセントの違いをとぼけて、ソノ(園・苑)+ヤヘガキ(八重垣)をダブらせているようである。果樹園のための垣に打ってつけなのがカラタチである。礼記にあった棘牆の棘のあるものとしてカラタチが採用された。

 素戔嗚尊、乃ち教へて曰はく、「いまし衆菓あまたのこのみを以て酒八甕やはらめ。われ当に汝が為にをろちを殺さむ」とのたまふ。(神代紀第八段一書第二)

 木の実を使った果実酒の伝統は、列島に伝わっていない。なのにことさらに「菓」と指示があるのは、八重垣が果樹園を囲むものとして知られていたからであろう(注9)
左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀(「県民だより奈良」平成24年3月号http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2012/tayori2403/tyu_kan_yukari2403.htm)
 カラタチは、葉が落ちても幹や棘が緑のまま生き永らえる。枯れても立っているタチバナ(橘)である。棘が皮膚を剥くほどひどい茨になる。カナムグラの棘の多いことによく似ている。人工的なものでは、石上神宮に伝わる七支刀にもよく似ている。それは、唐太刀からたちで、「韓鋤からさひ」ともいう。

 素戔嗚尊、乃ちをろち韓鋤からさひつるぎを以て、頭を斬り腹を斬る。(神代紀第八段一書第三)

該当する箇所には次のような記述もある。

 素戔嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣とつかのつるぎを抜きて、寸々きだきだに其の蛇を斬る。(神代紀第八段本文)
 其の蛇をりし剣をば、号けて蛇の麁正あらまさと曰ふ。此は今、石上いそのかみのみやす。(神代紀第八段一書第二)
 素戔嗚尊、乃ち天蠅斫之剣あまのははきりのつるぎを以て、大蛇をろちを斬りたまふ。(神代紀第八段一書第四)
 天十握剣あめのとつかつるぎ〈其の名は、天羽々斬あめのははきりといふ。今、石上神宮いそのかみのかみのみやに在り。古語に、大蛇をろち羽々ははと謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり。〉を以て、八岐大蛇やまたのをろちを斬りたまふ。(古語拾遺)

 大系本日本書紀に、「aramasa は karamasafi(韓鋤)と同じであろうという。」(97~99頁)とし、朝鮮半島由来であることを示している。ほかに、「呉の真刀まさひ」(推古紀二十年正月、紀103歌謡)とあるのも大きな剣をいうようである。また、記の山幸彦の話に、「佐比持神さひもちのかみ」とあるのは、「佩ける紐小刀ひもかたなを解」くとあって、匕首ぐらいの小刀のことをいうらしい。さらに、和名抄に、「鎛 国語注に云はく、鎛〈音は博、漢語抄に佐比都恵さひづゑと云ふ〉は鋤の属なりといふ。釈名に云はく、鎛は地をりて草を去るなりといふ。」とあるのは、農具の鋤(耜)のことで、スコップは穴を掘るだけでなく、垣の土塁を作る際の必須アイテムでもあった。鉄器が武具にも農具にもなる二面性を表している。このように、サヒという語は、大きいものにも小さいものにも、武器にも農具にも当てられる鉄器の刃物類を指す。上原1997.や、都出1989.によれば、農耕具においては、U字形鋤・鍬先が出現したことで、土掘りが省力化され、大規模な開墾が可能になったであろうと考えられている。
 つまり、韓鋤からさひは、死んだ母のいる根の国へと通じるために、穴を掘ることができる道具である。それは畔に穴を開けてしまうこともできれば、大規模な古墳を造営することも可能にした。カラと冠されるのは、大陸から新たに伝わった技術である鉄器だからである。朝鮮半島南部には、倭様の前方後円墳が見つかっている。人流があって、技術ばかりか造営物までも、海の向こうの朝鮮半島、特に加耶や新羅と結びつきがあることを物語っている。
 神代紀第八段一書第二に、草薙剣は熱田神宮に、十握剣は石上神宮に所在するとある。その石上神宮に現在も伝わるものは七支刀である。「久氐くてい等、千熊長彦ちくまながひこに従ひてまうけり。則ち七枝刀ななつさやのたち一口ひとつ七子鏡ななこのかがみ一面ひとつと種種の重宝たからを献る。」(神功紀五十二年九月)とある記事の七枝刀であると比定されている。全長74.8cm、銘文に、「泰□四年□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵□供供□□□□□□」(表)、「先世以来未有此刀百□王世□奇生聖音為□王旨造傳示□世」(裏)と記されている。長い剣の両側に、互い違いに枝が出ており、都合七つの先端を持つ刀である。全体は大きいが、ひとつひとつ小さな小刀がついているものといえる。鉄器ではあるが武器にはならず、かといって農具でもない。確かにヤマタノヲロチ(八俣遠呂知・八岐大蛇)を斬っていって、最後に体中の草薙剣に当たって欠け、一本だけ枝の数が足りず七本の枝とあれば、なぞなぞ話としておもしろい。現在ある七支刀を見ると、デザイン的には、刀の右側上にもう一つ刃が出ていてもいいような気がする。
 七支刀は装飾性が強く、実用に供さないとされているが、カラタチ・カラサヒという言葉をよく表している。無駄に立っていることで通るのを遮る効果のあるものである。カラには殻・空・柄・茎の意味がある。俗に唐紙と呼ばれる唐紙障子は、表面にきらびやかな唐紙を張っていかにも飾ってはいるが、なかが空洞の襖のことである。そのような虚仮脅しのものが立っていることで「ふ」ことができるのだから、垣と同じ意味合いを担っている。逆に、「さひづらふ」、「さひづるや」は、外国を表すアヤやカラにかかる枕詞で、言葉を喋っていても意味がわからず、まるで鳥が囀るようだからとされている。

 住吉すみのえの 波豆麻はづまの君が 馬乗衣うまのりごろも さひづらふ 漢女あやめをすゑて 縫へる衣ぞ(万1273)
 …… さひづるや 辛碓からうすき 庭に立つ 手碓に舂き ……(万3886)

 由縁ある歌としてあげた万3832番歌では、クラ、クソ、クシとク音が連続している。倉には鍵(鑰)が、屎には掻木かきぎがあり、櫛は掻入かきるものである。掻木は後に籌木ちゆうぎとも呼ばれる。櫛は、スサノヲがみづらにクシナダヒメ(櫛名田比売)を刺して実力を発揮した十握剣のことが念頭にあったとも想念される。爾雅・釈地・九府に、「中に枳首蛇有り。〈岐頭ふたつあたまの蛇なり。或は今江東に両頭の蛇を呼ぶ。越王約髪と為る。亦の名は弩弦といふ。〉」とある。八岐大蛇を斬るには都合が良いと思うのが頓智というものである。
 出雲八重垣の歌は、須賀という地の地名譚的な性格も担っている。スガの意味は、元来は、スク(透)+カ(処)、スグ(過)+カ(処)の意味ではないかと考えられている。筆者は、出雲という言葉(音)から、何時いつも、といった同音の言葉が連想されていっていると考えている(注10)。厳つ藻については、食用として藻を採集していたことが知られる。和名抄に、「藻 毛詩注に云はく、藻〈音は早、、一に毛波もはと云ふ〉は水中の菜なりといふ。文選に云はく、海苔の彙〈海苔は即ち海藻なり〉といふ。崔禹食経に云はく、沈む者は藻と曰ひ、浮く者は蘋〈音は頻、今案ふるに蘋は又大萍の名なり〉と曰ふといふ。」とある。タマモカル(玉藻苅)(万72・250・943・2721・3606)、タマモナス(玉藻成)(万50・2483・4214)、タマモヨシ(玉藻吉)(万220)といった枕詞があり、採取のさまも歌に詠まれている。

 打つを 麻続王をみのおほきみ 白水郎あまなれや 伊良虞いらごの島の 珠藻す(万23)
 塩干しほひの 三津みつ海女あまの くぐつ持ち 玉藻苅るらむ いざ行きて見む(万293)
 宇治河に 生ふる菅藻すがもを 河早み 取らず来にけり つとにせましを(万1136)

 第二例に見えるクグツとは、採った藻を入れる籠のことである。海人の使う魚籠類の呼び名としては、スガリ、たまり、おだ袋、さざえ袋などともいう。三貴子分治の話において、スサノヲが「海原」(記)、「滄海之原」(神代紀第五段一書第十一)を治めるように言われていた。海とのつながりは、厳つ藻を苅ることとから連想を働かせたもののようである。すなわち、厳つ藻なる出雲の地、真のイヅモ的なるところこそ、スガ(須賀・清地)という地名に表されるところなのである。
川藻
 そして、後者の何時も、の義には、道すがらというように、今も使うスガラが連想される。「過ぐ」と同源の語で、初めから終わりまで通すことをいう。万葉集に、「…… ぬばたまの 夜はすがらに ……」(万619・3270・3297・3732・4166)、「うるはしみ この夜すがらに ……」(万3969)といった例がある。夜という語とともに使われているのは、眇目すがめのことの連想からであろう。本論ではすでに、メハジキやモグラなど、目が不自由なことと関係する事項が登場していた。そして、わざわざスガという地に限定している。新撰字鏡に、「瞸 口甲反、入、一目閉、須加目すがめ」、「眺 刃予反、去、視也、望也、察也、与己目よこめ、又比加目ひがめ、又須加目すがめ也」、「眇 弥繞反、上、莫也、遠也、見也、須加目すがめ、又乎知加太目をちかため」、和名抄に、「眇 周易に云はく、眇にして能く視、蹇にして能く行くといふ。〈師説に眇は須加女すがめと読む。蹇は下文に見ゆるなり。〉」とある。眇目(瞟眼・僻眼)のことは、ヒガラ、ヒガラメ、ヒンガラメともいう。スサノヲは僻みっぽい性格で悪さばかり働いて、結局高天原から永久追放処分になっている。片方の目が悪いと、横眼、斜視、藪睨みになる。カナムグラは藪になる。すなわち、眼つきの悪いヒガラは枳の垣をたて、眼の見えないムグラは倉をたてるというのが、万3832番歌の「由縁」であろう。
 眇目のことは、またカヌチともいう。カヌチは金打、鍛冶職人を表すとされる。柳田1998.に次のようにある。

 
眇をカンチといふのは鍛冶の義であって、元此職の者が一眼を閉ぢて、刀の曲直をためす習ひから出たといふことは、古来の説であるが自分には疑はしくなつた。秋田県の北部では、カヂといふのは跛者のことである(一二)。恐らく足の不具なる者の此業に携はつた結果であつて、別に作業の為にそんな形を真似たからではあるまい。作金者天目一箇の名から判ずれば、事実片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇目を金打かぬちと名けたと解するのが自然である。本来鍛冶は火の効用を人類の間に顕はすべき最貴重の工芸であつた。同時に又水の徳を仰ぐべき職業でもあつた。……(一二)東北方言集に依る。(451~452頁)

 鍛冶職の者は、目一個を神に捧げる信仰があったとされるのは、蹈鞴製鉄の実働として、火の温度管理に送風器の蹈鞴を使うため、火の色をどちらかの目で見るために、目が悪くなってやがて光を失うことが多いことから来るのではないかともしている。そんな鍛冶職人が作っていたのは韓鋤であったろう。
 八重垣をめぐらす建物とは、特別なものに違いあるまい。敵からの攻撃を防ぐための城、砦、櫓、大切なものを保管する宝倉ほくら、また、外国人の賓客を接待するたちなどが考えられる。城は古語にキ(乙類)、カラタチの木もキ(乙類)である。古代朝鮮語ではサシ、「刺し」と同音である。類似の枕詞にヤクモサスとあったが、カラタチ、七支刀も棘々していて刺すものである。砦はもともと取り手の意味である。取り手という語はまた、「相撲すまひ(ヒの甲乙は不明ながら動詞「すまふ」の連用形ならばヒは甲類)」取りのことも指す。同音の「住まひ(ヒは甲類)」とは、スガ(須賀・清地)に建ててクシナダヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫くしいなだひめ)等とともに住む宮のことであろう。また、櫓とは、矢を納める倉のことである。宝倉にもある倉のクラと同音に「暗」があり、「めくら」のことと重なる。モグラは目が見えないとされている。
 また、館について、和名抄に、「舘 唐韻に云はく、舘〈音は官、字は亦、館に作る。太知たち。日本紀私記に無路都美むろつみと云ふ〉は客舎なりといふ。」とある。白川1995.の「たち〔館(舘)〕」の項に次のようにある。

 貴人や官吏などの宿泊する大きな建物をいう。館の字を用い、館はまた「やかた」ともよむ。もと軍営をいう語であったと思われ、「たて」と同系の語とする説がある。大きな楯をめぐらして軍営とすることから、のちその建物をいう語となった。また「むろつみ」という訓がある。……〔欽明紀二十二年〕に「館舎むろつみ」、〔皇極紀二年〕に「館室むろつみ」、〔敏達紀元年〕に「むろつみ」の訓があり、ムロ(室・窟)と関係のある語であることが知られる。「忍坂おさか大室屋おほむろや」〔記一〇〕は〔綏靖前紀〕に「片丘かたをか大窨おほむろ」とあるように、山の斜面に設けた巌窟がんくつ式の軍営であった。館に「むろつみ」の訓があるのは、館がもとそのような軍営の意とされていたことを示している。(464頁)

 ムロツミについては、別訓に、ムロツヤ、ムロツム、ムロツヒなどともある。壁が板張りや校倉ではなく、土壁を塗り込めたもので、貴族の住居や賓客の迎賓館に採用されていたような建物である。壁が堅牢で防火建築であれば、火矢を受けても楯だけが燃えて建物は残るのと同じ役割を果たし、軍営の用に適うのである。それと同じ効果の垣根としては、カラタチの生垣が建物から離れてめぐらされることが挙げられる。火矢の届くところまで近づくことさえできず、防衛線の要件に適するのである。
 以上、「八雲立つ 出雲八重垣」歌の垣根讃歌について、言葉の群れのからくりから縷々検討してきた。スサノヲのヤマタノヲロチ退治の話とは、盲蛇に怖じずという諺を集大成したようななぞなぞ話であるといえる(注11)。平板に言ってしまえば、朝鮮半島からの鉄器製作の技術流入について、包括的に物語説話に仕立て上げたものであった。それが、技術革新の世紀といわれる5世紀当初ばかりでなく、記紀の種本の天皇記・国記・本記の書かれた7世紀初頭の「今」へと継続的に受け継がれ、なおホットな関心事とされていたと思われるところに、無文字文化における史譚の道行きが知れて興味深い。

(備考)本稿は、記紀万葉など、上代に記された文献を読み解こうとするものであり、今日の社会的観点からは、その表現に不適切と思われる記述もあるが、上代語解読のための学術的観点から行っているものである。

(注)
(注1)廣岡2005.参照。
(注2)川田2009.参照。
(注3)民俗では、1月14~15日や節分、また、関東地方では、十日夜とうかんやに、土竜打ち、土竜脅しなどの行事が行われている。
(注4)モグラを捕まえてみるとよく鳴く。
(注5)詩経・小雅・魚藻の「魚在在藻 有頒其首」について、何と大きな頭だろうの意と解する説と、藻のところにいる魚が鯉や鯰の類で、「頒」はそのヒゲのことを言っているとする説がある。
(注6)𨲙の字は、諸橋大漢和辞典(⑪697頁)に、音はテイで義未詳とされている。
(注7)スサノヲは、イザナキ(伊耶那岐命・伊奘諾尊)の禊において生まれている。記では当初、海原を治めよと命じられながら従わず、駄々をこねて追放の旨の宣告を受けている。

 [伊耶那岐命いざなきのみこと、]次に、建速須佐之男命に詔ひしく、「汝が命は、海原うなはらを知らせ」と事依しき。(記上)
 爾くして答へて白ししく、「やつかれは、ははが国の根之堅州国ねのかたすくにまからむと欲ふが故に哭く」とまをしき。爾くして、伊耶那岐大御神、大きに忿怒いかりて詔はく、「然らば、汝は此の国に住むべからず」とのりたまひて、乃ち神やらひにやらひ賜ひき。(記上)

 記を一つの作品として捉えようとする新編全集本古事記の頭注に、通説を批判する形で次のようにある。

 
「妣」は亡母のこと、伊耶那美神を指すととるのが一般的だが、須佐之男命は身をすすいで成った神であり、父母から生れた神ではないから、なお不審が残る。少なくとも、妣=伊耶那美神だから根之堅州国=黄泉国だとする説は成り立たない。世界としての呼称が違うのであり、それは別の世界であることを明示する。……「根」は遠い果てを意味し、「堅州」は表記通り堅い州(中州)という意。「根」を地下の意とする説には従いがたい。地下だとすると州の説明がつかない。……[「此の国」ハ]葦原中国を指す。海原の世界に赴くことなく泣きわめいていたのである。(54~55頁)

 しかし、同書には、「[葦原中国トハ]黄泉国という他の世界とのかかわりから世界として呼び表すこととなる。その称には、生命力に満ちた(葦原)、中央なる(中)、国の側の世界という意味を込める」(47頁)ともある。すると、「此の国」から追放されたら「黄泉国」へ行ったようにも思われ、「根之堅州国」の「根」を地下のことと捉えるのが順当ではなかろうか。呼称の違いは特徴を言い表したものと考えられる。
(注8)白川1996.1567頁。
(注9)北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「からたちの花」に、「…… からたちは 畑の垣根よ ……」とある。
(注10)拙稿「記紀万葉における「出雲」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/96226878ad05ea5bab34908c9f8315ea参照。
(注11)拙稿「ヤマタノオロチ退治譚の創作をめぐって」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7bf13c805777464fd3b9309fe91146d9ほか参照。

(引用・参考文献)
上原1997. 上原真人「農具の画期としての5世紀」『王者の武装─5世紀の金工技術─(京都大学総合博物館春季企画展展示図録)』京都大学総合博物館、1997年。
川田2009. 川田伸一郎『モグラ博士のモグラの話』岩波書店(岩波ジュニア新書)、2009年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
都出1989. 都出比呂志『日本農耕社会の成立過程』岩波書店、1989年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
水野1975. 水野祐『古代の出雲と大和』大和書房、1975年。
諸橋大漢和辞典 諸橋轍次『大漢和辞典 第十一巻』大修館書店、昭和34年。
柳田1998. 柳田国男「一目小僧その他」『柳田國男全集7』筑摩書房、1998年。

※本稿は、2014年9月稿を2021年5月に改稿し、2023年11月にルビ形式にしたものである。

(English Summary)
The ancient Japanese originally didn’t have letters in Yamato Kotoba. When uttering a word, the words used before and after it had to be used in a way that defines the word in order to indicate that the word was correct. Words were used in a mutually constrained or double bind format. In this paper, we will explore a part of the word structure in the first poem of Kojiki and Nihon Shoki, which are said to be the beginning of Waka (Japanese poems).

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