天宇受売命(天鈿女命)とその子孫は、猿田毘古神(猨田彦神)の名から猿の一字をもらって猿女君(猨女君)というようになったされている。
「猿田毘古大神は、専ら顕し申せる汝、送り奉れ。亦、其の神の御名は、汝、負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。是を以て、猿女君等、其の猿田毘古之男神の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶ事、是ぞ。(記上)
……「汝、顕しつる神の名を以て、姓氏とせむ」とのたまふ。因りて、猨女君の号を賜ふ。故、猨女君等の男女を皆呼びて君と為ふ、此れ其の縁なり。(神代紀第九段一書第一)
記には女と限定し、紀には男女ともとある。君とは、臣、連、造、直のような称号の一つとして用いられている。一方、紀にある「姓氏」とは、今の苗字のことで、蘇我氏や秦氏のようなこととなり、猿女君氏という氏族が検討されたことになる。類聚三代格の弘仁四年(813)十月二十八日太政官符に、「猿女公氏」、西宮記・臨時一乙・臨時雑宣旨の裏書にも、「猿女を貢ぐ事、弘仁四年十月廿八日、公氏の女一人、縫殿寮に進む云々」とあり、猿女君氏と捉えられていた蓋然性が高い。
猿女は、延喜式・大嘗祭式、鎮魂祭式に記述があり、ふだん縫殿寮に所属しており、祭事に舞を舞いに派遣されている。養老令・職員令に、縫殿寮は、「頭一人、掌らむこと、女王、及び内外の命婦、宮人の名帳、考課のこと、及び衣服裁ち縫はむこと、纂組の事。助一人。允一人。大属一人。少属一人。使部二十人。直丁一人。」とある。女官の勤務評定が主な役目らしい。官司名に「縫殿」とあるけれど、衣服を裁縫する人が記されていない点がすでに平安時代から疑問視されている。また、「縫殿」を管理する殿舎関係の職掌もない。思想大系本律令、虎尾2007.とも、補注においてこの疑問点を疑問のまま残している。
猿の語源は不確かながら、「戯る」と関係するとする説が強い。ふざけ、たわむれる意味である。なれてまとわりつき、はしゃいでたわむれることである。親愛の情が深いからか、メスザルは群れの上位者に対してもよく毛繕い(グルーミング)をする。繕いものをするから、縫殿寮なる名称のところに落ち着いた。類推思考を働かせることで衆人が納得することがらとなる。建前として、世を忍ぶための職名となっている。
また、「然る」とも関係があろう。そのようにあるとは、それらしく振る舞い、演じてはいるが、実際のところはそうではないことを意味する。「俳優」は、隠されている神意を「招き」求める存在で、ふつうの人なら王から死を賜るであろう諫言でさえ許され、王の側近くで裕福な生活を送ることができた。中国の宦官もそれに当たり、人に似ていながら人の誇りを捨てた者とされた。江戸時代には岡っ引きのことを「猿」とも言った。奉行所の役人の手先として、探索、捕縛に当たる。庶民の顔をしてなれなれしく振る舞いながら素行を調査し、知り得た情報を報告している。すなわち、お上のまわし者である。何が回るかと言えば、猿回しと同じく猿が回り、猿につけられた首輪が回るのである。人事考課のための監察官と同じく、人のようでいて人でない小賢しい存在であった。
あな醜 賢らをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る(万344)
猿女君という名を負ったとして、猿は人でないから名前などないのが本当のところであろう。したがって、女性を猿女君と呼ぶのも、男性を猿女君とするのも、偽の偽は真だからいっこうに差支えがないことになっている。史料に、猿女君何某を名乗った人物が記録されていないのは理の当然ということになる。
弘仁四年(813年)十月廿七日の太政官符には、「猿女の興ること、国史に詳かなり。其の後絶えず今猶ほ見在す。又猿女の養田、近江国和邇村・山城国小野郷に在り。今小野臣和邇部臣等、既に其の氏に非ずして猿女に供せらる。熟事緒を捜るに、上件の両氏、人を貪り田を利し、恥辱を顧みずして拙吏相容れ、督察を加ふる無く、神事を先代に乱り、氏族を後裔に穢す。日を積み年を経て、恐らくは旧貫と成らん。望み請ふらくは、所司をして厳かに捉搦を加へ、氏に非ざるを用ゐることを断たしめん。然るときは則ち祭礼濫り無く、家門正しきを得ん」とあり、小野氏が猿女に成りすましていたことを断じている。
西宮記裏書に、「延喜廿年(920年)十一月十四日、昨、尚侍奏せしむ、縫殿寮申すところ、薭田福貞子を以て薭田海子が死闕の替りとせんことを請ふと」とあり、薭田氏の女性が同族によって補充されている。このことから、猿女君の正統たる者は薭田氏らしいとわかる。
時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年は是廿八。為人聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。即ち、阿礼に[天武天皇ガ]勅語して、帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習はしめたまひき。(記序)
一部、訓読に疑問なしとしないが今は措くとする(注1)。古事記を誦習した舎人、稗田阿礼の出自を猿女に求める向きがある。確かに、稗と同音の日吉(日枝)神社のお使いは、日吉山王信仰に猿とされており、稲田に稗が生えれば雑草として取り除ることが求められる。稗の字の卑が含まれる俾、婢は、召使のことで、当時でいえば舎人に当たる。
ヒエは冷害に強い作物で、長らく東北地方では、水温が低くて稲の生育に適さない水口の田で栽培された。ヒエを植えた田に冷えた水を受けて調整し、温まった後に稲田に流れる仕組みをとっていた。ヒエは家畜用の飼料、秣にした。厩の守り神として猿が飼われており、厩猿と呼ばれる(注2)。そのヒエの田を、生れ、と豊作を願う名、それが稗田阿礼である。稲田の豊作は人の喜びにつながる。馬の喜びのために願うのは猿であろう。猿女君(猨女君)の祖、天宇受売命(天鈿女命)が、天照大御神(天照大神)の天の石屋(天石窟)籠りに際して踊った舞台は、「汙気伏せ」(記上)、「覆槽置せ」(神代紀第七段本文)たところであった。それは、秣を入れる飼葉桶をひっくり返した上のことである。
左:厩猿(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055304をトリミング)、右:飼葉桶(融通念仏縁起、クリーブランド美術館ホームページhttps://www.clevelandart.org/art/1956.87をトリミング(注3))
言い伝えのなかで、このような冷える田は、紀の八岐大蛇退治の話に出てくる奇稲田姫という名である。出雲国の簸の川上に、老公・老婆の脚摩乳・手摩乳の中間にいた少女である。山中の上流のことで、水温の低い田がクシ、すなわち、霊妙で収量が多い稲田であったのは、水口に稗田が設けられていたからであろう。脚摩乳・手摩乳は介添であり、舎人を表した。また、トネリコの木に棹棒を架け渡して、稲を干したことを表していた(注4)。つまり、稗田という名の人は皆およそ舎人であるはずである。
記に、「年は是廿八」とある。年齢を表す必要性は見られない。ハタトセアマリヤトセなどとも訓んでいるが、「年是」と頭にあるから「廿八」はハタヤと訓むのであろう。名義抄に「廿七 ハタナナ」とある。ハタヤは、あるいはまた、それとも、の意に通じる。「将」字で表すことが多い。また、年は稔りのことを表すのが原義で、稲田の稔りに対して稗田の稔りを取り上げていることを示すものであろう。
同音の機屋とは、機織りの高機を備えた作業所である。天の石屋籠りにつながるのは、「忌服屋」事件である。
其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて、墜し入れたる時に、天の服織女、見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。(記上)
機織りをしていた腰掛から転落して、取り落とした梭の上に陰部を突いてしまった。機織りの際は、背もたれのない小さな腰掛に座って作業する。腰掛は四つ足の脚立状のもので、馬や木馬といわれた。馬に跨るのではなく、横座りした形である。つまり、天井からの馬に驚き、腰掛の馬から落ちた。本物の馬に座るのを人であるとすると、木馬に座って手足を伸ばして操る様は猿であろう。機屋は厩に似ている。継体紀元年正月条に、河内馬飼首荒籠という名を負う人物が諜報機関のトップとして情報を授けている。間者は猿と蔑まれた。
以上から、記序の記事の「稗田阿礼」という名は、普通名詞に限りなく近いものとわかる。古代において、名に負う豪族たちは天皇に仕え奉る関係にあった。天孫降臨条に、名前にまつわる逸話が出ている。天皇に名前はない。天孫は稲穂と関係し、天皇家の人はご飯やお酒を表す。その他の名のある人は、おかず、つまり、菜(魚)に当たる。飯が主、菜が副の関係である。この関係が古代の氏族制で、名のある人々は天皇の命(御言)に召された。しかるに、御庭番のような舎人や、名のないような猿女は、一品料理には当たらず人に対してペットの関係にある。ご飯のふりかけということなのであろう。
(注)
(注1)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注2)絵巻物に図像を確認することができる。春日権現験記絵・巻六、石山寺縁起・巻五、一遍聖絵・巻四、同巻十。なお、ペットとして猿を飼うために、その飼育の便として厩につないだとする見解が中井1997.にある。
(注3)ウケは桶の意で、桶はヲ(麻)+ケ(笥)の義で、糸を績む際に用いられた道具による名とされている。曲物の桶が一般的で、結桶は中世に下って登場する。サルには曲物がよく似合うというのがこの文脈に通底している。
(注4)拙稿「 舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。
(引用・参考文献)
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『律令』岩波書店、1976年。
虎尾2007. 虎尾俊哉編『訳注日本史料 延喜式 中』集英社、2007年。
中井1997. 中井薫「絵巻物にみる中世獣医史料(二)」『日本獣医史学雑誌』通号34号、1997年3月。
※本稿は、2012年5月稿を2023年5月に浄書したものである。
「猿田毘古大神は、専ら顕し申せる汝、送り奉れ。亦、其の神の御名は、汝、負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。是を以て、猿女君等、其の猿田毘古之男神の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶ事、是ぞ。(記上)
……「汝、顕しつる神の名を以て、姓氏とせむ」とのたまふ。因りて、猨女君の号を賜ふ。故、猨女君等の男女を皆呼びて君と為ふ、此れ其の縁なり。(神代紀第九段一書第一)
記には女と限定し、紀には男女ともとある。君とは、臣、連、造、直のような称号の一つとして用いられている。一方、紀にある「姓氏」とは、今の苗字のことで、蘇我氏や秦氏のようなこととなり、猿女君氏という氏族が検討されたことになる。類聚三代格の弘仁四年(813)十月二十八日太政官符に、「猿女公氏」、西宮記・臨時一乙・臨時雑宣旨の裏書にも、「猿女を貢ぐ事、弘仁四年十月廿八日、公氏の女一人、縫殿寮に進む云々」とあり、猿女君氏と捉えられていた蓋然性が高い。
猿女は、延喜式・大嘗祭式、鎮魂祭式に記述があり、ふだん縫殿寮に所属しており、祭事に舞を舞いに派遣されている。養老令・職員令に、縫殿寮は、「頭一人、掌らむこと、女王、及び内外の命婦、宮人の名帳、考課のこと、及び衣服裁ち縫はむこと、纂組の事。助一人。允一人。大属一人。少属一人。使部二十人。直丁一人。」とある。女官の勤務評定が主な役目らしい。官司名に「縫殿」とあるけれど、衣服を裁縫する人が記されていない点がすでに平安時代から疑問視されている。また、「縫殿」を管理する殿舎関係の職掌もない。思想大系本律令、虎尾2007.とも、補注においてこの疑問点を疑問のまま残している。
猿の語源は不確かながら、「戯る」と関係するとする説が強い。ふざけ、たわむれる意味である。なれてまとわりつき、はしゃいでたわむれることである。親愛の情が深いからか、メスザルは群れの上位者に対してもよく毛繕い(グルーミング)をする。繕いものをするから、縫殿寮なる名称のところに落ち着いた。類推思考を働かせることで衆人が納得することがらとなる。建前として、世を忍ぶための職名となっている。
また、「然る」とも関係があろう。そのようにあるとは、それらしく振る舞い、演じてはいるが、実際のところはそうではないことを意味する。「俳優」は、隠されている神意を「招き」求める存在で、ふつうの人なら王から死を賜るであろう諫言でさえ許され、王の側近くで裕福な生活を送ることができた。中国の宦官もそれに当たり、人に似ていながら人の誇りを捨てた者とされた。江戸時代には岡っ引きのことを「猿」とも言った。奉行所の役人の手先として、探索、捕縛に当たる。庶民の顔をしてなれなれしく振る舞いながら素行を調査し、知り得た情報を報告している。すなわち、お上のまわし者である。何が回るかと言えば、猿回しと同じく猿が回り、猿につけられた首輪が回るのである。人事考課のための監察官と同じく、人のようでいて人でない小賢しい存在であった。
あな醜 賢らをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る(万344)
猿女君という名を負ったとして、猿は人でないから名前などないのが本当のところであろう。したがって、女性を猿女君と呼ぶのも、男性を猿女君とするのも、偽の偽は真だからいっこうに差支えがないことになっている。史料に、猿女君何某を名乗った人物が記録されていないのは理の当然ということになる。
弘仁四年(813年)十月廿七日の太政官符には、「猿女の興ること、国史に詳かなり。其の後絶えず今猶ほ見在す。又猿女の養田、近江国和邇村・山城国小野郷に在り。今小野臣和邇部臣等、既に其の氏に非ずして猿女に供せらる。熟事緒を捜るに、上件の両氏、人を貪り田を利し、恥辱を顧みずして拙吏相容れ、督察を加ふる無く、神事を先代に乱り、氏族を後裔に穢す。日を積み年を経て、恐らくは旧貫と成らん。望み請ふらくは、所司をして厳かに捉搦を加へ、氏に非ざるを用ゐることを断たしめん。然るときは則ち祭礼濫り無く、家門正しきを得ん」とあり、小野氏が猿女に成りすましていたことを断じている。
西宮記裏書に、「延喜廿年(920年)十一月十四日、昨、尚侍奏せしむ、縫殿寮申すところ、薭田福貞子を以て薭田海子が死闕の替りとせんことを請ふと」とあり、薭田氏の女性が同族によって補充されている。このことから、猿女君の正統たる者は薭田氏らしいとわかる。
時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年は是廿八。為人聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。即ち、阿礼に[天武天皇ガ]勅語して、帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習はしめたまひき。(記序)
一部、訓読に疑問なしとしないが今は措くとする(注1)。古事記を誦習した舎人、稗田阿礼の出自を猿女に求める向きがある。確かに、稗と同音の日吉(日枝)神社のお使いは、日吉山王信仰に猿とされており、稲田に稗が生えれば雑草として取り除ることが求められる。稗の字の卑が含まれる俾、婢は、召使のことで、当時でいえば舎人に当たる。
ヒエは冷害に強い作物で、長らく東北地方では、水温が低くて稲の生育に適さない水口の田で栽培された。ヒエを植えた田に冷えた水を受けて調整し、温まった後に稲田に流れる仕組みをとっていた。ヒエは家畜用の飼料、秣にした。厩の守り神として猿が飼われており、厩猿と呼ばれる(注2)。そのヒエの田を、生れ、と豊作を願う名、それが稗田阿礼である。稲田の豊作は人の喜びにつながる。馬の喜びのために願うのは猿であろう。猿女君(猨女君)の祖、天宇受売命(天鈿女命)が、天照大御神(天照大神)の天の石屋(天石窟)籠りに際して踊った舞台は、「汙気伏せ」(記上)、「覆槽置せ」(神代紀第七段本文)たところであった。それは、秣を入れる飼葉桶をひっくり返した上のことである。
左:厩猿(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055304をトリミング)、右:飼葉桶(融通念仏縁起、クリーブランド美術館ホームページhttps://www.clevelandart.org/art/1956.87をトリミング(注3))
言い伝えのなかで、このような冷える田は、紀の八岐大蛇退治の話に出てくる奇稲田姫という名である。出雲国の簸の川上に、老公・老婆の脚摩乳・手摩乳の中間にいた少女である。山中の上流のことで、水温の低い田がクシ、すなわち、霊妙で収量が多い稲田であったのは、水口に稗田が設けられていたからであろう。脚摩乳・手摩乳は介添であり、舎人を表した。また、トネリコの木に棹棒を架け渡して、稲を干したことを表していた(注4)。つまり、稗田という名の人は皆およそ舎人であるはずである。
記に、「年は是廿八」とある。年齢を表す必要性は見られない。ハタトセアマリヤトセなどとも訓んでいるが、「年是」と頭にあるから「廿八」はハタヤと訓むのであろう。名義抄に「廿七 ハタナナ」とある。ハタヤは、あるいはまた、それとも、の意に通じる。「将」字で表すことが多い。また、年は稔りのことを表すのが原義で、稲田の稔りに対して稗田の稔りを取り上げていることを示すものであろう。
同音の機屋とは、機織りの高機を備えた作業所である。天の石屋籠りにつながるのは、「忌服屋」事件である。
其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて、墜し入れたる時に、天の服織女、見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。(記上)
機織りをしていた腰掛から転落して、取り落とした梭の上に陰部を突いてしまった。機織りの際は、背もたれのない小さな腰掛に座って作業する。腰掛は四つ足の脚立状のもので、馬や木馬といわれた。馬に跨るのではなく、横座りした形である。つまり、天井からの馬に驚き、腰掛の馬から落ちた。本物の馬に座るのを人であるとすると、木馬に座って手足を伸ばして操る様は猿であろう。機屋は厩に似ている。継体紀元年正月条に、河内馬飼首荒籠という名を負う人物が諜報機関のトップとして情報を授けている。間者は猿と蔑まれた。
以上から、記序の記事の「稗田阿礼」という名は、普通名詞に限りなく近いものとわかる。古代において、名に負う豪族たちは天皇に仕え奉る関係にあった。天孫降臨条に、名前にまつわる逸話が出ている。天皇に名前はない。天孫は稲穂と関係し、天皇家の人はご飯やお酒を表す。その他の名のある人は、おかず、つまり、菜(魚)に当たる。飯が主、菜が副の関係である。この関係が古代の氏族制で、名のある人々は天皇の命(御言)に召された。しかるに、御庭番のような舎人や、名のないような猿女は、一品料理には当たらず人に対してペットの関係にある。ご飯のふりかけということなのであろう。
(注)
(注1)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注2)絵巻物に図像を確認することができる。春日権現験記絵・巻六、石山寺縁起・巻五、一遍聖絵・巻四、同巻十。なお、ペットとして猿を飼うために、その飼育の便として厩につないだとする見解が中井1997.にある。
(注3)ウケは桶の意で、桶はヲ(麻)+ケ(笥)の義で、糸を績む際に用いられた道具による名とされている。曲物の桶が一般的で、結桶は中世に下って登場する。サルには曲物がよく似合うというのがこの文脈に通底している。
(注4)拙稿「 舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。
(引用・参考文献)
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『律令』岩波書店、1976年。
虎尾2007. 虎尾俊哉編『訳注日本史料 延喜式 中』集英社、2007年。
中井1997. 中井薫「絵巻物にみる中世獣医史料(二)」『日本獣医史学雑誌』通号34号、1997年3月。
※本稿は、2012年5月稿を2023年5月に浄書したものである。