古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ

2012年06月18日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 「隠りくの」は泊瀬(長谷、初瀬)を導く枕詞とされている。万葉集に、「隠りくの」が「泊瀬」にかかる例が18例あるほか、「隠りくの 豊泊瀬道(とよはつせぢ)は(隠口乃 豊泊瀬道者)」(万2511)が1例ある。用字では、コモリクノは、「隠口乃」が9例(万45・424・1095・1270・1407・1408・1593・3310・3312)、「隠口能」が1例(万428)、「隠来之」が2例(万3330・3331)、「隠来笶」(万3225)、「隠来乃」(万3311)、「隠國乃」(万79)、「隠久乃」(万420)が各1例ずつ、「己母理久乃」が2例(万3263、万3299左注)、ハツセは、「泊瀬」が26例(万1標目、万45・79・282・424、万428は題詞も、万912、万991は題詞も、万1107・1108・1382・1270・1407・1408・1664題詞・1770・1775・2261・2347・2511・3263・3310・3311・3806)、「長谷」が7例(万425・2353・3225・3226・3312・3330・3331)、「始瀬」が3例(万420・1095・1593)、「泊湍」(万2706)、「波都世」(万3299左注)が各1例となっている。
 地名、人名表記に、紀に「泊瀬」、記に「長谷」とある。泊瀬地区が、長い谷の地形だから「長谷」と書くとされる。しかし、長い谷は全国いたるところにある。また、「こもりくの」のクは、何処(いづく)という場合のクと同じとされる。泊瀬の地勢が籠ったようなところだからかかると考えられている。しかし、そのような小盆地地形は列島に数多くある。他の地名ではなく、唯一、現在奈良県の桜井市に当たる泊瀬地方を限定する理由がなければならない。そうでなければ、枕詞コモリクノの語意は明らかにされたとは言えない。
 雄略紀に、「こもりくの 泊瀬」の歌謡がある。

 天皇、泊瀬の小野に遊びたまふ。山野(やま)の体勢(なり)を観(みそなは)して、慨然(はげ)みて感(みおもひ)を興して歌(うたよみ)して曰はく、
 隠りくの 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走(わし)り出の よろしき山の 隠りくの 泊瀬の山は あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗し(紀77)
 是(ここ)に、小野を名(なづ)けて、道小野(みちのをの)と曰ふ。(雄略紀六年二月)

 佐佐木2010.に、「「出で立ち」は、突き出て立っている意だとも、家から出て立った所に見える意だともいう。「出立之(いでたちの)清き渚に」〔万十三・三三〇二〕は、後者の例か。「よろし」は、景観のすばらしさを表す。」(93頁)とある。大地から突き出て立っているさまのすばらしい山を歌っているとする。また、「走り出」については、「家から走り出て見る意だとも、山裾が横に延びている意だともいう。後者が適切で、麓がなだらかに続く様子をいうか。「走出之宜山之(はしりでのよろしきやまの)」〔万十三・三三三一〕。」(同頁)とある。しかし、雄略天皇は、山容を見て感極まって歌っている。後半に、「あやにうら麗し」とあり、同じく、「何とも美しい。「あやに」は、何とも言えず・妙にの意の副詞。これを形容詞が承けるのが原則。「かけまくも綾尓恐(あやにかしこ)し」〔万三・四七五〕。「うら」は心、「くはし」は特に美しいの意。「宇良具波之(うらぐはし)布勢の水海(みづうみ)に」〔万十七・三九九三〕。」(同頁)としている。この言葉を繰り返している。すばらしすぎて言葉にできないほどだから、言葉が繰り返されている。形容のしようがなくて困っているのだから、前半も山の形容がうまくいっていないはずである。「出で立ち」は、岩波古語辞典に、「㋥〘名〙①姿を現わしている様子。たたずまい。」(116頁)とあり、その用例として紀77番歌謡が挙げられている。すなわち、(隠りくの)泊瀬の山は、たたずまいのすばらしい山であるといっているに過ぎない。素晴らしいの一言で、細かく麓の形容などをする心の余裕は感じられない。
馳せる馬(歌川国芳「近江の国の勇婦於兼」(1831~32年頃)横浜美術館「はじまりは国芳」展横断幕)
 「走り出の」は、イデタチが出立(しゅったつ)のことを連想させることから派生させた語であろう。同じく「体勢(なり)」の言い換えで、走り出す瞬間の姿、勢いをつけてスタートするときの姿勢から、様子のことを指すのであろう。この場合、思い切り走り出そうとしているから、その直前に決めのポーズが生ずる。相当なスピードで走るのは、クラウチングスタートをする陸上選手のような人ではなく、馬である。「泊瀬」の用字から、川を船が遡ってそこから陸路を行くところとイメージされている。この場合、実際にそうであったかは問わない。「泊瀬」とある字面から、馬に乗り換える駅であると想念されたのである。令に水駅の規定があり、令義解には、「若し水陸兼送に応ずるは、亦船馬並びに置けよ。」とある。そのため、最終的に、「小野」は「小野」でも「小野」と強調されている。万葉集に「隠りくの 豊泊瀬道は 常滑の 恐(かしこ)き道そ 恋心ゆめ」(万2511)とあるのは、この延長線上の発想であろう。松井1990.によれば、厩牧令は、古墳の犠牲土壙や牧の所在から、その始原は5世紀に遡るとされる。厩牧令に、「凡そ駅及び伝馬に乗りて、前所に至りて替へ換ふべくは、並に騰(は)せ過ぐすこと得じ。」とある。いわゆる駅令制で、駅伝のはじめである。馬を駅で乗り継ぐから路程の時間が短縮できた。その早馬(はゆま)はまた、駅馬とも書く。
 白川1995.に、「国語の「はしる」は、〔名義抄〕に「吐ハス」とあることから考えると、吐きだすような勢いをいうもので、もと山川の水の流れをいう語であったと思われる。わが国の川は、流れるのでなく、走るものが多い。そのような自然環境の中からことばが生れ、その語義がやがて一般化してゆくのである。」(615頁)と、本質をつく鋭い指摘が行われている。これは、記の用字の「長谷」、すなわち、長い谷を水が流れるさまに合致する。他動詞のハセルの場合、馬を走らせることのイメージが強い。馬は人とは走る勢いが違う。ポン菓子や、ポップコーンを弾かせることは、その勢いから爆(は)ぜるという。雄略紀には、「騁(は)せ射む」(即位前紀安康三年十月)、「馳せ猟(かり)す」(同)、「馬を驟(は)せて」(同)、「轡(うまのくち)を並べて馳騁(は)せたまふ」(四年二月)、「驟せて厩に入り」(九年七月)、「甲斐の黒駒に乗りて馳せ」(十三年九月)などとある。乗馬する馬の到来した時代である。
 「泊瀬」と同じところを記す「長谷」(注1)は、今日、ハセと読み習わしている。地形の谷のことは、島根県等に残る方言に、エキという。中央の縦谷から左右に派生した小谷、支谷のことを特に言うこともある。つまり、長谷は、エキに長けるという意になりうる。馬関連のエキは駅である。思想大系本律令では、「駅」に「やく」とルビが付され、木下2009.には、古代は駅を呉音でヤクと読んだと決めているが、筆者には疑問である。方言に残るエキという言葉は、駅にするのに好都合な場所ということではなかろうか。しかも、支谷とは、支倉がハセクラと訓むところから、エキとはハセタニのことになる。側で寄り添って支えるあてがいは、斜めで挟みこむように見えてハスカヒという。谷は、山裾と山裾が交わるところでカヒである。駅は馬を乗り替える中継地点、馬のカヒの場である。厩牧令に、「凡そ諸道に駅置くべくは、卅里毎に一駅を置け。若し地勢(なり)阻(へだた)り険(さが)しからむ、及び水草無からむ処は、便に随ひて里の数に限らず安置せよ。」とある。長い谷であれば、水と草に事欠かず、餌の飼葉(かひば)の心配がない。
 また、地形の谷のことは、また、古語にクラともいったらしい。「鶯の 鳴くくらたに(久良多尓)に 打ちはめて 焼けは死ぬとも 君をし待たむ」(万3941)とある。泊瀬朝倉宮の朝倉は、クラ(谷)の浅い入り口という意味とする説も唱えられている。つまり、長谷は、クラの「長(をさ)」という意になりうる。鞍を管理する駅長ということである。厩牧令に、「凡そ駅には、各(おのもおのも)長一人置け。……其れ替へ代へむ日に、馬及び鞍具欠き闕けらば、並に前の人に徴(はた)れ。」とある。ハセというところは、駅の名を負い、駅にふさわしい場所と認識されるのである。
 ハツセは、裸馬のこと、ハダセ(裸背)の変化した語ともされている。鞍を置かない馬である。駅だから鞍を外して休ませておく。駅はウマヤ(ムマヤ)と訓む。厩もウマヤで、馬舎のことである。駅には厩があって、馬はなかに籠らせられていた。馬小屋の入り口には柵があって逃げられないようになっている。その横木を馬柵(うませ、ませ)という。泊瀬の裸背は厩の馬柵のなかにいる。何かの拍子に逃げ出すと、鞍のかけられていない分さらに速く走る。猛烈なスピードで疾走する。馳(は)せるのである。感動詞のハッは、急に笑う声、突然のことに驚いたさまなどを表した。裸馬、すなわち、ハツセが突然馳せるのにハッとして、馬がハツセルと洒落ているらしい。
厩の馬(一遍聖絵巻第四模本、狩野養長模、江戸時代、天保11年(1840年)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0062054をトリミング)
 そのようなことのないように、厩のなかでは天井からの綱で馬の腹を吊り、厩のなかで暴れないようにしていた。牛のように膝を折って座ることがないため、馬の体躯を支えて脚の負担を軽減し休ませるためともいう。一遍聖絵、馬医草紙、法然上人絵伝、慕帰絵詞など、鎌倉から室町の絵画にしばしば見受けられ、その後廃れた。厩に猿を飼って守り神とする風習の方は残った。馬に鞍橋(くらぼね)をつけるときも、固定するために腹に帯を回している。それを「腹帯(はるび)」という。馬には腹の帯がまつわりついている。
 鞍を置かない馬、すなわち、裸背馬(はだせうま)のことは、ハツセのほかに、ハツウマともいう。ハツウマはまた、初馬を意味し、はじめての月経のことを表し、新馬(あらうま)、初花(はつはな)ともいう。初潮時にお赤飯を炊いて祝う習慣は今日も見られる。ここで、ウマは月経帯のことを指す。血液を吸い取らせる丁字形のナプキンが、馬のものを連想させるからという。あるいは、お産の時の腹帯とも関連させていっているのかもしれない。いずれにせよ、女性は、お産や月経の期間、特設の小屋に忌み籠って寝泊まりし、家族の暮らす家とは別火にする習俗があった。月小屋や産屋(うぶや)である(注2)
産屋の図(松下石人「三州奥郡産育風俗図絵」、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456703/14)
 鞍を置かない馬に腹帯して厩に籠らせている。その馬に乗るのはご法度である。お産や月経の際の女にも腹帯をして小屋に籠らせている。産まれるからウマ、月経帯がウマなら、あるいはウマヤであると洒落たであろう。その間、男が跨ることはタブーとされた。景行記に、ミヤズヒメ(美夜受比売)が「襲衣(おすひ)」の裾に「月経(さはり)」の血をつけていたが、それにかまわずセックスした話が載る。記27・28番歌謡を交えた合体譚である。襲衣はオソヒ(ソは乙類、ヒは甲類)ともいい、オシ(押)+オヒ(覆)の約、のしかかることであり、鞍のこともオソヒという。延喜式の龍田風神祭の祝詞に、「御蔵(オホムオソヒ)」とある。ヤマトタケル(倭建命)は騎乗位だったということであろう。駄洒落のアネクドートの側面が強い。
 枕詞「ふゆこもり」は「春」にかかる。用字としては、「冬木成」(万16・199・971・1705・3221)、「冬隠」(万1336・1824・1891)があり、「時じき」(万382)にかかる例もある。冬の間活動をやめていた植物が芽を出して茂るからとも、冬に活動をやめて籠っていたものが春になると外に出るからとも、冬の終わりのことともいう。しかし、冬に木は茂っていない。遥かに見通せるからハルを導く。馬や女が籠る時にする腹帯は、冬なら誰でも寒いから身に着ける。「腹帯(はるび)」だからハルを導く。籠りが厩を連想させて、厩猿を思い起こさせ、葉のない冬の木が茂っているようにゆさゆさするのは猿の仕業であるから、冬は去って「春さり来」ることになるのであろう。古語の「去る」は時間的に過ぎることも来ることもいう。
 泊瀬の地において人が籠るべきク(処)とは、寺のことかもしれない。埼玉県の稲荷山古墳鉄剣銘に、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時(ワカタケル大王の寺、シキの宮に在る時)」とある。シキは磯城、すなわち、奈良盆地東南部を指し、ワカタケル大王に比定される雄略天皇の都した泊瀬朝倉宮に該当する。仏教の公伝は欽明天皇の時代に下るとされており、また、長谷寺の縁起もさらに下るとされている。すると、この「寺」は、原初的形態の籠り堂であると見ることができるであろう。
 西郷1993.に、古代人はお籠りをして、夢のお告げを求めた様子が解説されている。観音と、その場の母胎的イメージから、夜と大地からの贈り物を手に入れようとしていたとある。上代の人にとって、お籠りの逸話としては、第一に、アマテラスの天の岩屋籠り、第二に、聖徳太子の夢殿の夢告があげられる。お籠りに臨むのは、何か問題が生じたときに、その解決策がないかと思って知恵を絞るため、ないし、神から知恵を授けてもらうことを目的としている。月経に籠るのも、巫女的な要素があったのではないかとの指摘もある。天の岩屋の戸のなかに籠ったアマテラスは、スサノヲの扱いに困っていたからである。結局は、外にいる神々の合議、すなわち、「「みんなの意見」は案外正しい」(スロウィッキー)ことで解決されている。聖徳太子、すなわち、厩戸(うまやと)皇子が、石屋戸(いわやと)のようなお堂に籠ったのは、上宮聖徳法王帝説に、「太子の問ふ義に、師[慧慈]通らぬ所有り。太子、夜、夢に、金人来りて、解らぬ義を教ふと見ゆ。太子寤(さ)めて後に、即ち悟る。乃(いま)し以て師に伝ふ。」と伝えられている。先生である高句麗の慧慈が「通らぬ」ところを、太子は夢のお告げで理解することができた。
 この「通らぬ」には、仏教の教義の理解の点と、文化的な違いにおける通訳の点が絡んでいるのであろう。すなわち、仏教には、必ず「訳語」、「通事」などと書くヲサが必要とされた。泊瀬に仏教施設がある(注3)から、長谷に「長(をさ)」と記されているのであろう。訳(譯)とは、他国の言葉をわかるように中継伝達する人のこと、長は「里長(さとをさ)」(万3847)のように、お上の命令を人々にわかるように中継伝達する人のことである。そして、「谷」とは、「み谷 二(ふた)渡らす」(記歌謡6)、「丹谷(たにかひ)に望(あひのぞ)めり」(雄略紀四年二月)とあるように、間を挟んでやりとりする状態を示すことのある語である。
 以上、ヤマトコトバが数珠のように繋がりながら連携を保って言語体系となっていることの一例として、枕詞の「隠(こも)りくの」と地名「泊瀬(長谷)」について考えた。

(注)
(注1)ハツセ、ハセと呼ばれる地が先にあり、それを書記するに当たって漢字を用いたがために地名の“意味”について思い及んでいったところが大きいと考えられる。
(注2)大藤1968.、瀬川1980.に詳述されている。成清2003.によると、延喜式よりも以前の古代においては、死穢とは異なり、それらを穢れ(産穢、血穢)と捉えていた記述は認められないという。
(注3)万428番歌に、「土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬山に火葬(やきはふ)りし時」の歌が載る。火葬は仏教の葬送方法である。古来から泊瀬が仏教とつながりのある地と考えられていたことに由来するかもしれない。続く万429番歌に、「出雲娘子を吉野に火葬」の際の歌があるのも、吉野の比蘇寺に所縁をみた可能性もあるのではなかろうか。

(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
木下2009. 木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館、2009年。
西郷1993. 西郷信綱『古代人と夢』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
佐佐木2010. 佐佐木隆校注『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『律令』岩波書店、1976年。
瀬川1980. 瀬川清子『女の民俗誌』東京書籍、1980年。
大藤1968. 大藤ゆき『児やらい』岩崎美術社、1968年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
松井1990. 松井章「家畜と牧─馬の生産─」岩崎卓也・石野博信・河上邦彦・白石太一郎編『古墳時代の研究4─生産と流通Ⅰ─』雄山閣、1990年、105~119頁。
成清2003. 成清弘和『女性と穢れの歴史』塙書房、2003年。

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