古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと

2012年04月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に、「石上(いそのかみ、ソ・ミは甲類、ノは乙類) 振(ふる)」と続く歌は次のとおりである。

 石上 振の山なる 杉群(すぎむら)の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(万422)
 石上 振の神杉 神びにし 吾や更々(さらさら) 恋にあひにける(万1927)
 石上 振の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(万2417)
 …… 磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国の 石上 振(ふる)の里に ……(万1787)
 石上 振の早稲田(わさだ)を 秀(ひ)でずとも 縄だに延(は)へよ 守(も)りつつ居(を)らむ(万1353)
 石上 振の早稲田(わさだ)の 穂には出でず 心の中(うち)に 恋ふるこのごろ(万1768)
 石上 振の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜そ深けにける(万2997)
 石上 振の尊(みこと)[石上乙麿(いそのかみのおとまろ)]は ……(万1019)
 石上 零(ふ)るとも雨に さはらやめ 妹に逢はむと 言ひてしものを(万664)
 吾妹子(わぎもこ)や 吾(あ)を忘らすな 石上 袖振る川の 絶えむと念(おも)へや(万3013)

 地名「石上」は地名「振(布留)(ふる)」を導く枕詞とされる。石上地域の布留地区だからという。そこから発展して、「振る」や「零(降)る」の意にも使われていくという。圧倒的に「振」の用字が多い。石上神宮はまた、石上振神宮(いそのかみのふるのかむみや)」(履中即位前紀)、「石上坐布留魂(いそのかみにいますふるのみたま)神社」(延喜式)とも記されている。顕宗即位前紀には、お「誥(たけ)び」として載る。

 石上 振の神椙(かむすぎ) 本(もと)伐(き)り 末(すゑ)截(おしはら)ひ 市辺宮(いちのへのみや)に 天下(あめのした)治(し)らしし 天萬(あめよろづ)国萬(くによろづ) 押磐尊(おしはのみこと)の 御裔(みあなすゑ) 僕(やつこ)らま(顕宗前紀)

 播磨国に身を隠した天皇の後裔が身の上を明かす場面である。末裔たるスヱであることを示すための歌謡に、「石上 振」が出てくる。また、武烈即位前紀に、「石上(いすのかみ) 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多(さは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ)の 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(こも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ ……」(紀94)とある。原文に、「伊須能箇瀰」とあるから、イノカミで、イソノカミとは音に揺れがある。音転の可能性があるとすると、イソ(ス)ノカミは、イシノカメ、すなわち、「石の甕(瓶、メは乙類)」のことを言い含めたいらしい。素材があたかも石のように見える甕とは、灰黒色が特徴的な須恵器の甕である。須恵器というのだから、顕宗前紀の末裔を表す(ミアナ)スヱを導く序詞的な用法にもかなっている。
 須恵器の甕は、火にかけると割れるので煮炊きに使われることはなく、水分の貯蔵、保存に用いられた。特に、酒を入れておくのに重宝であった。当初、酒は口で噛んで作る口噛み酒であり、「醸(か)む」の連用形は「醸み(ミは甲類)」、已然形は「醸め(メは乙類)」である。すでに醸んでしまったものを入れているからカメ(メは乙類)である。
石上神宮の須恵器大甕「厳甕」(橿原考古学研究所付属博物館展覧会2013年、日本共産党奈良県委員会「お酒の歴史がわかります。秋季特別展「美酒発掘」開催中!!」http://jcp-nara.jugem.jp/?eid=118)
また、井戸から水を汲み上げるための釣瓶にも使われた。古語に、「墫(もたひ、ヒの甲乙は不明)」と言った。

 即ち、御井を闢(は)りき。故、針間井(はりまゐ)といふ。其の処は墾(は)らず。又、墫(もたひ)の水溢れて井と成りき。故、韓(から)の清水と号く。其の水、朝(あした)に汲みて、朝に出でず。爾(すなは)ち、酒殿を造りき。(播磨風土記・揖保郡・萩原里)
井(慕帰絵詞模本・巻4、鈴木空如・松浦翠苑模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)
 風土記の記事に、「韓」とあって、渡来人のもたらしたことをにおわせる。また、「井」の形容に用いられているのは、器を地面に「据ゑ」て使われたからで、須恵器とわかる。焼成温度が土師器よりも高い須恵器は、水を通しにくいからその貯蔵に便利で、それは井戸がそこにあるものと同じ機能を負いおおせている。よって、「墫水溢成井。」という表現がまかり通る。話し手、聞き手とも、共通の理解が得られる。
 水や酒を入れる容器名としては、モタヒのほかに、カメ、ミカ(ミは甲類)、ミワ、ホトキなどがある。当てられる文字も、瓶、甕、瓮、瓫、瓷、罌、甖、墫、樽、罇など多様で、混乱も著しい。とはいえ、播磨風土記は信じられ、イシノカメからはモタヒが導かれよう。モタヒの語源については、腹が太くて大きいけれど、酒水をたくさん入れても壊れずに「持ち」+「堪ふ」ことにあるとする説がある。洒落としては、色は灰青色ながら、幅広くて鯛のようだから、これ「も(助詞)」+「鯛」であろう。
 イソノカミが磯の本源のことなら、海底に岩礁のある磯場である。そこで釣りをして狙うのは、墫(もたひ)の音に含まれている鯛(たひ、ヒは甲類)ということになる。磯に腰をおろし、釣り上げた鯛を持つ姿は、七福神の恵比寿像に描かれる。西宮戎神社の祭神は、蛭子命(ひるこのみこと)である。蒜の子として連想されるのは、葱坊主ともいわれる擬宝珠である。宝珠は仏塔の先端に飾られる。仏塔のストゥーパはもともとお墓であり、舎利が納骨されている。仏舎利を有難がり、勿体ないこととする寺院は、瓦葺建築である。灰青色の瓦の焼き方は須恵器と同じく窖窯(あながま)で作られる。その技術は大陸から同時期に伝わっている。

 出雲国言(まを)さく、「神戸郡(かむとのこほり)に瓜有り。大きさ缶の如し」とまをす。(推古紀二十五年六月)

 「缶」の傍訓に、ホトキ(ト・キの甲乙は不明)、また、モタヒとある。ホトキとモタヒとの形状の違いはよく分かっていない。前条に、「秋七月に、新羅、奈末竹世士(なまちくせいし)を遣(まだ)して、仏(ほとけ、ト・ケは乙類)の像(みかた)を貢(たてまつ)る。」(推古紀二十四年七月)とある。七月条の重出記事である。なかが空洞の瓜、特に、途中がくびれたものは、あたかも仏像のようである。仏像には、胎内に舎利を納めることがあった。銀舎利という米粒が醗酵してお酒になれば、酒を入れる甕はモタヒである。瓢箪は酒徳利にした。缶という字に、フとクワンの二音があるように、二訓があることになる。穀物を入れたらホトキ、酒水を入れたらモタヒに当たるのであろう。
 これらから、「イソノカミ フル」とは、墫(缶、もたひ)のことをいっていると知れる。腐っても鯛という言葉は、タイが鮮度を比較的保つ魚であることを知っていて作られた諺であろう。もとの出来が良ければ、古くなっても往時の勢いをそれなりに保つ。須恵器の墫の色は、鯛が古くなって白っぽくなったような色である。そして、墫(もたひ)のなかでは、お米が腐るような醗酵を起している。あるいは、墫を振ることで醗酵を促したということかもしれない。フル(振)と同音のフル(古)とは過去のこと、過ぎにし時のことである。そのスギ(過)から同音のスギ(杉)に関係してくる。万422・1927・2417、顕宗前紀、紀54にあるとおり、石上神宮では杉を御神木として斎うことになっている。
 宇治拾遺物語に、「あはれ、もつたいなき主哉。」(巻一・十五)とある。また、室町時代の下学集に、「勿躰(モツタイ)〈躰体體、皆同じ字也。勿は無也。勿躰の二字は即ち正躰無き義也。然るに日本の俗の書状に勿躰無しと云ふは、大いに正理を矢(そむ)く也。子細に之れを思ふべし。〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532290/67)とある。勿体無いの説明で混乱が生じている。仏教用語でもなく、我が国で作られた造語である。勿体を付ける、勿体振る、とも使われる。内実はそれほどでもないのに、うわべを重々しく装うこと、実質的な価値は大したことないのに、あたかも凄いものであるかのように思わせることである。勿体と墫(もたひ)の音はよく似ており、モタヒの音便をとらえた洒落であろう。勿体、すなわち、体無しとは、瓢箪が大きな瓜なのに食べることができないのと同様、立派なタヒなのになかが空洞になっていることの謂いである。老子の説く無用の用に同じである。「埴(しょく)を埏(せん)して以て器を為(つく)る。其の無に当たりて、器の用あり。(埏埴以為器。当其無、有器之用。)」とある。5世紀に渡来人がもたらした須恵器は、それまで使っていた器、土師器と比べて性能の面でさほど優れたものではなかった。火にかけることができなかった。それでも、いっとき、祝部土器とも称されたように、祭祀に使われることが多かった。大きなものが作られ、浸み出すこともないから、水を貯めること、わけても貴重な酒を減らすことなく便利であった。そこで奉納するのに墫が使われたのである。勿体をつけるのに持って来いの代物であった(注)
 以上、イソノカミ、フルは、墫(もたひ)を介しつつ、杉と関係する言葉であることを確認した。

(注)勿の字音はフツである。紀で、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕雷神(たけみかづちのかみ)は、葦原中国平定譚以来、セットで語られ、フツとミカにはつながりがあるとされていたとわかる。神武記には、石上神宮に伝わる宝剣は、「佐士布都神(さじふつのかみ)と云ふ。亦の名は、甕布都神(みかふつのかみ)と云ふ。亦の名は、布都御魂(ふつのみたま)」と記されている。「石上坐布都魂(いそのかみにいますふつのみたま)神社」(延喜式)ともいわれる。拙稿「神武紀の「韴霊(ふつのみたま)」について」参照。

※本稿は、2012年4月稿を2020年8月に加筆したものである。

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