一
そもそも「枕詞」とは何か。広辞苑には、「昔の和歌などに見られる修辞法。特定の語の上にかかって修飾または口調を整えるのに用いることば。働きは序詞に似るが、五音以下で慣用的な用法である点に特徴がある。「あしひきの」「ひさかたの」「しらぬひ」の類。」(2749頁)とある。どうしてそのような言葉が用いられているのかについては、「言葉遊び」のひとつで「局所的連接の言葉の綾」である(注1)とか、「意味もかかり方も不明なままに、ある語を導き出してくる固定的な」言葉になっていて「「意味が分厚すぎる」ゆえに訳せない」ものである(注2)と説かれている。そういうものであるという認識は周知されているものの、いざ各論となって一語一語考えて行こうとすると、途端に晦渋な世界に迷い込む。「ちはやぶる」という枕詞も、わからないけれどわかりたい、わかりたいけれどわからない、の堂々巡りをくり返すことになっている。
新谷2014.は、枕詞「ちはやぶる」の意を次のように考えている。
外部に現れ出たチ[霊]の烈しい霊威を讃美する言葉で、ハヤは勢威の烈しさを、フル(ブル)はその威力が発揮されている状態を示す。[万4456では、]大伴氏の祖神が、王権の支配に従わない在地の神々たちを服従させたことが歌われている。チハヤブルはそれらの神々を暴威を振るう荒ぶる神として描いている。チハヤブルは「神」の枕詞ではあるが、王権の側に立つ神に用いられることはない。このことは幾重にも注意されてよい。チハヤブル神は、畏怖すべき神として、どこかに反秩序的な性格を見せている。
チハヤブルは、少数ではあるが、地名「宇治(うぢ)」につながる例がある。[万3240で「宇治」]にチハヤブルが冠せられているのは、宇治川の流れの速さに、畏怖の念を感じたからであろう。川の神の霊威も意識されていたかもしれない。(236~237頁)
この程度の解説が、今日、一般的に通行している。あらかじめ上代に使われている用例が示され、枕詞という範疇の言葉遣いであるという基礎知識を持っていなければ、何を言っているのか皆目わからない。筆者はあえて上の〝意見〟を最初にあげ、それが納得のいく説明ではないことを指摘している。語構成から一生懸命に語ってはいるものの、腑に落ちないことだらけである。チ+ハヤ+フル(ブル)という足し算が行われたというのなら、そのアポステリオリなものはどのような経験によっているのか、不明解である。特定の語に冠して修飾する言葉は、生成されたと考えられるが、その観点についていっさい触れることがない。大浦2017.に、「ある語を導き出してくる固定的な枕詞の持つ喚起力は、社会的に共有される伝統性」にあるとするが、使われ続けたから「喚起力」を持つのではなく、なるほどうまい言い回しの修飾語であると周囲に認められてはじめて成り立つし、妙味に共感する人がいたから使い続けられたのではなかろうか。その最初のインパクトを確かようとする姿勢なくして、はたしてそれは言葉の〝学〟たりうるのであろうか(注3)。
二
枕詞「ちはやぶ(ふ)る」は、「神」や、地名「宇治(うぢ)」などを導いている。記紀万葉の例をあげる。
①玉葛(たまかづら) 実成らぬ樹には ちはやぶる〔千盤破〕 神そ著くと云ふ 成らぬ樹ごとに(万101)
②ちはやぶる〔千磐破〕 神の社(やしろ)し 無かりせば 春日の野辺(のべ)に 粟(あは)種(ま)かましを(万404)
③ちはやぶる〔千磐破〕 神の社に 我が掛けし 幣(ぬさ)は賜(たば)はむ 妹に逢はなくに(万558)
④…… 大船(おほふね)の 憑(たの)める時に ちはやぶる〔千磐破〕 神か離(さ)くらむ うつせみの 人か禁(さ)ふらむ ……(万619)
⑤ちはやぶる〔千早振〕 神の持たせる 命をば 誰が為(ため)にかも 長く欲(ほ)りせむ(万2416)
⑥夜並(な)べて 君を来ませと ちはやぶる〔千石破〕 神の社を 祈(の)まぬ日は無し(万2660)
⑦吾妹子(わぎもこ)に 又も逢はむと ちはやぶる〔千羽八振〕 神の社を 祷(の)まぬ日は無し(万2662)
⑧ちはやぶる〔千葉破〕 神の斎垣(いがき)も 越えぬべし 今は吾が名の 惜しけくも無し(万2663)
⑨…… 思ひ病む 吾が身一つそ ちはやぶる〔千盤破〕 神にもな負(おほ)せ 卜部(うらべ)座(す)ゑ 亀もな焼きそ ……(万3811)
⑩…… 鳥網(となみ)張り 守部(もりべ)を据ゑて ちはやぶる〔知波夜夫流〕 神の社に……(万4011)
⑪ちはやふる〔知波夜布留〕 神の御坂(みさか)に 幣(ぬさ)奉り 斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため(万4402)
⑫…… 踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる〔知波夜夫流〕 神を言(こと)向け 服従(まつろ)はぬ 人をも和(やは)し ……(万4465)
⑬「……故(かれ)、此の国に道早振(ちはやぶる)荒振(あらぶる)国つ神等が多た在るを以為(おも)ふに、……」とのりたまひき。(記上)
⑭「……是の沼の中(うち)に住める神は、甚だ道速振(ちはやぶる)神そ」とまをしき。(景行記)
⑮「……然れども慮(おもひみ)るに、残賊強暴(ちはやぶる)横悪(あ)しき神者(かみども)有り。……」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一)
⑯…… 吾が妻の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて ちはやぶる〔千磐破〕 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと〔一は云はく、掃へと〕 ……(万199)
⑰ちはやぶる〔知波夜夫流〕 宇治(うぢ)〔宇遅〕の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が対手(もこ)に来む(記50)(注4)
⑱…… 山代の 管木(つつき)の原 ちはやぶる〔血速旧〕 于遅(うぢ)の渡の たぎつ屋の……(万3236)
⑲…… 泉の川の 速き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる〔千速振〕 宇治〔氏〕の渡の たぎつ瀬を 見つつ渡りて ……(万3240)
⑳ちはやぶる〔千磐破〕 鐘(かね)〔金〕の岬を 過ぐれども 吾は忘れじ 志賀の皇神(すめかみ)(万1230)
⑬に「国つ神」とあり、①~⑫、⑭、⑮の「神」についても天神ではなく地祇のことと推測されている。⑯に「人」とあるのも蝦夷の神のことを言っているとされる。⑳の「鐘の岬」は、筑紫国宗像郡の鐘岬のことという。
二
秋永2009.には、次のように記されている。
……[上代]での表記は次のようにすこぶるまちまちである。( )内は例数。
(1)知波夜夫流(二) 知波夜布留(一)
(2)千羽八振(一) 千早振(一) 千速振(一)
(3)血速旧(一)
(4)千磐破(七) 千石破(一) 千葉破(一)
以上は『万葉集』の例だが『古事記』には「道速振」の表記がある。(1)の万葉仮名では「夫」は濁音、「布」は清音を示すが、後者は巻二十防人歌で確例としがたい。(4)の「破」は借訓だが、岩をもくだくという上代人の連想がこめられた用字であろうし、「破」はヤブルであろうから、ティファヤブルにあてたものだろう。……
「ちはやぶる」のティは霊力(ティー)の意で、「いかづち(雷。巌つ霊)」「みつち(蛟。巳つ霊)」「をろち(大蛇。尾ろ霊)」などと同源とされ、ファヤは「速」の意といわれている。ここで語源をちょっと考えるのにアクセントをもちだすことを許してほしい。「ちはやぶる」には(2)(4)ともに「千」があててあるが、平安末以降の京都アクセントでは、千々・千引・千代・千歌・千年・千草・千里・千度等は殆どが低いアクセントで始まっている。一方、……「襅(ちはや)」、これには院政期に書写の『図書寮本類聚名義抄』などに.チ.ハ.ヤと高く平らなアクセントが付けられている。「襅」は神事に関するものであるから語頭音は霊力(ティー)がその語源であるかもしれない。(あるいは血(ティー)(同じく●●)も関係ないだろうか、とまでいくと民衆語源になるだろうか。)『古今集』の注釈書の中には顕昭(一一三〇頃-一二一〇以後)なども「襷襅振(チハヤフル)ト云也」として上上上の声点を注記する。これがもし「霊(ティー)」と同源ならば、「千(ティー)」は低いアクセントであるから関係なさそうなことになる。(5~6頁)
襅のアクセントは高く平らかな音の連続(HHH)で、枕詞のチハヤブル(HHHHH)の語源を考える際に重要であるという指摘である。しかしながら、千(ち)(L)という表記があって必ずしも納得するに至らないということのようである。筆者は、枕詞という曰く因縁のありそうな謎の言葉について、その言葉が生れて使われるようになった起動力を明らかにするべきであると考えている。しかし、それをいわゆる語源のことと捉えるのは大きな誤解である。語源というからには、言葉が誕生したその日のことについて語らなければならない。記紀万葉の上代は、ようやく記述が始まった時代である。当然ながら、それよりも以前の縄文・弥生時代から、文字を持たないままに言葉は存在していた。「ちはやぶる」という言葉がどれほど古いものかわからないものの、語源を探るとなると源泉の一か所に遡ろうということになる。しかし、それが文字のない時代であったなら、記されていないものを証明することなどできない。文字という〝光〟を当てなければ、言葉はあったのかなかったのかわからないからである。ましてや、その対象は、枕詞という意味がよくはわからない言葉群なのである。
枕詞は、何か次に続く言葉にかかる修辞的な言葉でありながら、それ自体の意味は曖昧模糊としていて、慣用的に歌謡に多く用いられている。それを、意味が明らかで同じく修飾する言葉である形容詞と、同等に扱うのは適当ではない。強いて言うなら、無象歌謡形容詞とでも呼んでみたい代物である。あるいは、演歌におけるコブシのようなものかもしれない。そして、枕詞は、上代には盛んに行われていたが、次第に暗記されたもののみに限られて用いられるようになっている。そんな後代のことを排除して考えるなら、枕詞は、文字を持たなかった、ないしは、無文字を文化的基盤とした人たちによる、言語遊戯の大いなる成果の一つであったと言えるであろう。母語が、無文字のヤマトコトバの人たちの間で活発であり、言葉のなぞなぞ遊びに由来する造語法であったと推測される(注5)。
「ちはやぶる」の語義について、従来から行われている諸説には、次のようなものがある。
(1)イチハヤブル(最速)の約で、勢いの鋭い意。イヅ(稜威)+ハヤ(疾劇)+ブル(~のような)、ないしは、チ(神秘力)+ハヤ(捷)+ブル(~のような)。
(2)チハヤフル(襴振)の義、ないしは、チハヤフル(襷経)の義。
(3)チハヤブル(千剣破)の義。
(4)千磐破、または、茅葉破の義。
(5)ミチ(道)+ハヤ(速)+ブル(~のような)の義。
三
吉田2008.は、枕詞「ちはやぶる」について真向から論じている。「枕詞チハヤブルが、何に掛るかの状況を見ると、(ア)「神」にかかるもの7例 (イ)「神の社」にかかるもの5例 (ウ)「神のみ坂」にかかるもの1例 (エ)「神のい垣」にかかるもの1例 (オ)「国つ神」にかかるもの1例 (カ)「宇治の渡り」にかかるもの3例 (キ)「鐘のみ崎」にかかるもの1例 (ク)「人」にかかるもの1例 合計20例となっていて、「神」関係が全体の七五パーセントを占めている。しかし、枕詞の意味は、単に数値だけの問題ではない。神の内容や、少例でもその掛かる理由が、この際考えられなければならない。」(360頁)。そして、神の内容は、「道を守る神、道中の安全を祈る神……など、道祖神としての神か、道祖神らしい神である。」(360頁)、「[諸例から帰納すると、]チハヤブル神の雰囲気は、通行の安全祈願と、悪霊疫神を防止するサヘ(エ)[(塞)]ノカミ的な神であることが著しい。」(361頁)、「チハヤブル神(人)は具体的にいえば、後からの大和民族の神ではなく、先に来ている土着の地主神という具体性がある。……『古事記』で天孫降臨前の葦原中国に蟠踞していた国つ神は、『日本書紀』で「残賊強暴」の文字が宛てられているように、これから大和勢力を掌握しようとする警戒の対象として描かれている神で、国つ神はチハヤブル神であると同時に荒ブル神だ、というのである。」(362頁)と論を進めている(注6)。
そして、さらに地名の「宇治の渡り」にかかる掛り方を、形容詞ウヂハヤシとの関係から説こうとする。ウヂという言葉の語源を繙いて、地名ウヂに枕詞「ちはやぶる」が冠する所以を明かにしようとするのである。「称徳天皇三二詔で、藤原仲麻呂の謀反の鎮定に功が有った人々を賞し給うた宣命……[ノ]文面によると、……ウヂハヤキ時は平常時と対比された、平常時でない非常時を表している用法における語である。危急の折とか、剣呑(けんのん)な際とかの意であることは観取される。……ウヂハヤキ時は、然るべき措置が急がれる時、対処の宜しく速く行われる時、という意」(365~367頁)になるとする。そして、「ウヂの日本語としての成り立ちは、次の二つのケースで考えられる……。すなわち、
(甲) ウ(兎)なるチ(地)、あるいはウ(兎)のミチ(道)。兎が通るような山道、もしくはけもの道の意。
(乙) ウ(諾(うべ))なるチ(地)、あるいはウ(諾(うべ))なるミチ(道)。宜しいと判断される道、当然だと思う道の意。
の二つである。」(366頁)とし、「ウヂハヤシは、まず(乙)におけるような当為速決的な意味があり、その困難性の一面が拡大されて(甲)の山道の嶮阻な方へも接近してゆくのである。(甲)は派生義である。平安時代のアクセントでは、ウヂハヤシのウは上声、ウサギのウは平声で異なりがある。」(367頁)としている。さらに、「地名ウヂ(宇治)は、通るのに当然よろしい所、ウ(諾)なるミチ(道)の意であった」(370頁)、「「チハヤブル宇治の渡り」についても、……「チハヤブル神(何々)」における掛かり方の内容と同じものを感じる。その神が、ほとんどサエノ神・道祖神的な神であったのと同じく、「チハヤブル宇治の渡り」においても「宜しい道をよしと確かめて無事に渡る」という思想がこめられている、と思う。」(371頁)としている(注7)。
四
ウヂハヤシという言葉については、次にような用例がある。ウチハヤシとあるのもウヂハヤシと解した。
崎嶇 上平、路難也、曲岸也、下平、傾側也、奈也牟(なやむ)、又、宇地波也之(うぢはやし)(新撰字鏡)
かく賜ふ故は、平(たひら)けき時に奉侍(つかへまつ)ることは、誰(たれ)しの人か奉侍らず在らむ、如此(か)くうぢはやき〔宇治方夜支〕時に身命(みいのち)を惜しまずして貞(ただ)しく明(あか)く浄(きよ)き心を以て朝廷(みかど)を護り奉侍る人等(ひとども)をこそは、治め賜ひ哀み賜ふべき物に在れとなも念(おもほ)す。(続紀・称徳天皇・天平神護元年正月・32詔)
運命の迍邅(チムテムと、うぢはや)きことを嗟(なげ)き、(遊仙窟)
渠(きみ)が家、太(はなは)だ劇(うぢはや)くして求守(なづ)み難し。(遊仙窟)
此の北二千餘里にして経途(みち)難阻(うぢはや)く寒風(かぜはや)くして雪を飛す。(大唐西域記・巻第四)
……固(まこと)に崎錡(キキと、うぢはや)うして便(たより)すること難し……(文鏡秘府論・南)
迍邅・迍・踦〓(足偏に區)・崎嶇・岴・阻・劇・難 ウヂハヤシ(名義抄)
宣命に、「平らけき時……ウヂハヤキ時……」と対比されている。タヒラ(平)と対比されるのは、その反対のこと、垂直になった崖や凸凹のあるところであろう。崖のような険しいところや、がたがた道と考えて、進み難いことを表している。そのような場所は、早く進もうにも進めず、どのルートで歩んだらいいか俄かには決めかねるところであり、慎重を期すべきときである。
チハヤブルが掛かる「神」について、サヘノカミとの指摘があった。行く手をさえぎる残賊強暴な神に対してお祈りをして通行の安全を祈願している。つまり、急いで先へ進まないで、一息ついてどう進んだらよいかと思案している情景が思い浮かぶ。宜しい道ならお祈りなどせずともさっさと進むはずであって、その真逆を表している。チハヤブルが道早ぶると関連がないというのではなく、かえって、道早ぶるの意とは正反対なことをチハヤブルと言っているところが面白いのである。高等テクニックの言語遊戯である(注8)。
「鐘の岬」という海の難所にしても同様である。カネという言葉のイメージに、「兼」の義があると考えられる。何かをしようにもし兼ねている(注9)。困難な状況下に置かれていることを含意する。これによって「ちはやぶる」が掛かる、道祖神的な「神」と、「宇治」という地名と、「鐘の岬」という地名とが、ヤマトコトバとして共通の概念を背負っていたことが確かめられた。
もちろん、現実世界において、そのような場所は至る所に点在している。問題は実際のことがらとは無関係である。ウヂやカネノミサキという言葉を上代の人が聞いて、その音から類推するに、そこはきっと平らかならざるところであると、感慨を抱いたであろうということが問われている。実際にその地が平らけくないところ、行く手をはばむ険しいところであったかどうかを考えること自体、ナンセンスである。歌を歌うときに認識を共有されるべきなのは、歌い手と聞き手ばかりである。例えば、宴の席での歌は、その宴の場を共有している人に限って、そうだ、そのとおりだと、理解が行きわたれば、歌は完成しており、名歌である(注10)。上代の歌謡の世界の中心は、政治的、文化的な中央地である飛鳥の都であったから、その人たちが音として聞き、声として発した言葉こそ、意味を表すすべてであった言っても過言ではない(注11)。
枕詞は、そんな、声に歌となっているものに用いられている。逆に言えば、声に言葉となるものしか枕詞とはなり得ないのである。枕詞は、言葉において声でしかない部分に関わっている。「ちはやぶる」が掛かる「神」、「宇治」、「鐘」などにかかる場合を検証するには、カミ(ミは乙類)、ウヂ、カネという音声に掛かっているのだから、その掛かり方に鋭い妙味があると定められなければ、なるほど巧みでおもしろい言葉遣いをしているね、と了解されるには至らなかったであろう。もしそうなら、「枕詞」を期して造られたはずの言葉は失敗とあり、人の気を引くに当たらず、記録するに足らない没作に棄てられる。「ちはやぶる」という言葉が枕詞として定着し、十数例も万葉集に残されているということは、当時の人々の言語観念において、確かなる意味的な連関が、「ちはやぶる」と下に続く言葉との間に、音声言語的に存在したということである。ヤマトコトバは音声言語を中心に据えて定着していたからである。
五
以上は、「ちはやぶる」という言葉がどのように下の言葉と関係しているのかについての解説である。ヤマトコトバの世界は無文字であった。無文字の時代に口頭によって意思疎通を図るためには、なるべく贅言は避けたほうが良かったであろう。にもかかわらず、枕詞のような余計な言葉が数多く生まれている。口承に歌が尊ばれていたから、うまく修辞する方法として生まれたのであるというだけでは説明しきれはしない。「ちはやぶる」という言葉の深層において、伝達に向かう何か強い意味があるはずである。そこで、次に、「ちはやぶる」という語がどのように造られてきたのかについて考える。対象を語構成から分析するのではなく、語構成で生成すること、再構成する試みである。
襅(ちはや)という語がある。和名抄に、「襷襅 続斉諧記に云はく、襷〈本朝式に此の字を用ゐ、多須岐(たすき)と云ふ。今案ずるに、音義の所以、未だ詳らかならず。〉を織り成すといふ。日本紀私記に云はく、手繈〈訓は上に同じ。繈の音は響。〉といふ。本朝式に云はく、襷襅各一條といふ。〈襅は知波夜(ちはや)と読む。今案ずるに、未だ詳らかならず。〉」とある。襅は神事や葬礼、出産などに着る斎服の一種で、白布製で裾の長い小忌(おみ)の肩衣をいう。袖なしの割烹着のような上っ張りである。襷(たすき)は袖をからげるのに用いられた帯状のものである。それによって、作業着姿に変身する。袖をたくし上げれば袖がなくなるから、襅と同様のものと認められて斎服に見なされた。袖があるのが普段着で、上に羽織るノースリーブが斎服や作業着ということになる。つまり、「ちはやぶる」は「襅ぶる」、襅のふりをしている、あるいは、「襅振る」、襅は袖なしだから袖を振ろうにも振れないという意味に受け取れる。ここに至って、言葉が自己撞着を起していることに気づかされる。すなわち、「ちはやぶる」というこの言葉は、そこが面白いと思われて定着したと考えられる。上代人は言語遊戯の感覚が現代人とは異次元レベルにある。無文字時代の言語は口頭の音声にのみ依っている。そこで、言葉を言った途端にその言葉を再定義してかかる性格を秘めていた。だから、自己言及的で自己矛盾的な「ちはやぶる」なる語は、うまいことを言ったものだと気に入られ、枕詞として安定的に用いられたのであろう。振れないものを振るとはおもしろい。さて、何を振っているのであろうか。
直垂の上に襅(ちはや)を着た神官(北野天神縁起絵巻模本、田中茂一 編・日本名画鑑. 鎌倉時代之部、藤原信実筆北野天神縁起巻3、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851412/13をトリミング)
六
枕詞「ちはやぶる」は、地名「宇治」に掛かっている。上代人にとって地名は、まず先にあった。その音ウヂを上代の人がどのように受け取ったか、その受け取り方が枕詞「ちはやぶる」と関わってくる。どのように認識したのかを窺わせる資料に、記紀万葉の表記がある。紀には徹底して「菟道」(全部で15例)とある。記にはウヂノワタリ(「宇遅能和多理」(2例))、ウヂノ(「宇遅野」(1例))というように「宇遅」で記している。万葉集では、地名のウヂに、ウヂカハ(「宇治河」(万264題詞)、「氏河」(万1135・1136・1138)、「氏川」(万3237)、「是川」(万2427・2429・2430)、「宇治河」(万1699題詞))、ウヂカハナミ(「氏川浪」(万1139))、ウヂノミヤコ(「兎道乃宮子」(万7))、ウヂノワタリ(「宇治度」(万2428)、「于遅乃渡」(万3236)、「氏渡」(万3240))、ウヂヒト(「氏人」(万1137))、ヤソウヂカハ(「八十氏河」(万50・264)、「八十氏川」(万2714))などとある。
表記は、ウヂという言葉に対してその語感、ないしは、語義としたものを表わそうとした痕跡である。ウヂから感じ取れる上代人のイメージには、特異な点が2点あったと推測される。第一に、今日の人にとっては意味に繋がりがあるとは俄かには思われない「氏」という字を平気で当てていること、第二に、「菟・兎」(うさぎ)の「道」のこととも思われていることである。ウヂという地名の言葉があって、それに字を当てているだけだから、いわゆる語源的な探求やその証拠を示しているわけではない。音でしかなかったヤマトコトバを感じたままに文字を当てたのか、あるいは当ててみたらそのように表記が可能であったからなのかについては、卵が先か鶏が先かの議論である。結果的に、そう表記されるのであれば、そういう意味がその言葉(地名)には含まれていると認めることとなったのである。そうすることで、ウヂという言葉は再発見、再活性化されて我々の前に立ち上がってくる。人は言葉を使ってものを考えるから、なにほどか自らの考えが進んでより賢くなった気がしたのではないか。
上代のものの考え方に、言霊信仰と呼ばれるものがあったとされている。一般には、言葉に霊的な力が宿っていることであると誤解されている。しかし、その本質は、言葉が事柄と同一である、相即であるとする考え方である。言葉がなければものを考える術がないから、言葉はとても大切である。その大切なものを大切に使うためには、発語行為は必ず真でなければならない。そうしないと意味世界はカオスに陥る。言葉≒事柄であるようにすることが、世界を安定させる唯一無二の方法であった。それは、文字を持たなかった人々にとって、とても理解されやすい考え方である。時には、ひとつの言葉のもつ多義性をうまく活用して、あるいは、一義の裏面から拡張して真であると見せるまでしたのであった。表記がないとき、人が言葉の間の関係を橋渡しするには、類推思考しか手段はなかったからである(注12)。いま検討しているウヂという言葉においても然りである。
第一の「氏」=宇治説について検討する。氏はたくさんいる。八十氏ともいうほどである。彼らが身に着けていた衣服は、偉い人たちが着る装束とは異なり、魏志倭人伝に伝えられるいわゆる貫頭衣であった。貫頭衣の形式の名残りとして、襅はあった。すなわち、チハヤ(襅)+フル(古)のものを身に着けていたのが有象無象の氏ということになる。だから、「ちはやぶる」はウヂを導いて自然である。
また、ウヂガハが「氏河(氏川)」であると〝定義〟してみると、ウヂ(氏)というところの場所的な性質は見えてくる。漢字の字書が流入していたからである。説文に、「氏 巴蜀に山の岸脅(がけ)の旁(かたはら)に著きて落堕せんと欲する者を名けて氏と曰ふ。氏崩(く)ゆれば、数百里に聞ゆ。象形、乁声。凡そ氏の属、皆、氏に从ふ。楊雄の賦に、響き氏の隤ゆるが若し。(氏 巴蜀山名、岸脅之旁箸、欲落𡐦者曰氏、氏崩、聞數百里、象形乁聲、凡氏之屬皆从氏、楊雄賦、響若氏隤。)」とある。この記述の当否、すなわち、氏という漢字の成り立ちとして正しいかどうかなど、上代の人は無関心であったに違いない。金石文の研究など行われていない。借り物として漢字を利用しているだけである。説文に書いているように「氏」とはそういうものであると考えてみている。一定人数以上の人たちがウヂというところについて思考実験してみたのである。その結果わかったことがある。ウヂと呼ばれているところは漢字に「氏」の義にして、ウヂハヤシ(崎嶇、迍、迍邅、阻、劇、難、坵)なところなのだ、と。
実際の「宇治の渡」がどのようなところであったかなど、五七五の世界に容れる必要はない。人が集まっていて、そこで歌が歌われて、歌った人と聞いた人とがわかりあえること、それが歌の現場である。行ったことのない人が思い描く「宇治の渡」は、字書にある「氏」の義を体現している、急峻にして難所に値するところと想定したのである。まさに、道の神に祈りを捧げなければ越えられないようなところだろうと類推され、ならばということで、「ちはやぶる」という枕詞が冠せられている。
第二の、ウヂが菟(兎)の道とする認識もかなりの確率で存在する。古事記には稲羽の素兎の説話が伝えられている。そのなかで、隠岐島(「淤岐島」)から気多岬(「気多前」)へと兎が渡ってきた道は、和邇(わに)の背中の上であった。荒唐無稽とも取れるその説話は、臼を竪杵で搗く従来の舂き方に対して、大陸から唐臼の伝来したことを物語っている(注13)。兎の道とは、黙って作業する唐臼(踏臼、横臼)のことを示している。唐臼の足で踏んでいるところから搗かれている臼までは距離があり、搗いている穀物が散らばったら、箒状のもので臼に返していた。遠隔操作である。
「碓」(蒔絵師源三郎画・人倫訓蒙図彙・巻六、元禄三年刊、国文学研究資料館オープンデータ、http://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200016830/images/200016830_00138.jpgをトリミング)
箒のような形の道具に、僧侶の使う払子(ほっす)がある。獣毛や麻などを束ねて柄を付けたもので、古来、インドで虫を払う道具であった。仏教で法具となり、麈尾(しゅび)と呼ばれる類似形もあって正倉院にも残っている。仏教では殺生を嫌うから用いられる。払子は、形が削り掛けに似ているところから、その異名にもなっている。削り掛けは、ヤナギやヌルデなどの柔らかい枝の一方を細く削ったものである。京都の八坂神社の大晦日の削り掛け神事は、白朮祭(おけらまつり)とも呼ばれ、削り掛けに火がつけられて来る年の豊凶を占い、各家庭にその火を持ち帰る。民俗に、削り掛けは削り花ともいい、農作物の穂が垂れてよく稔った姿とされ、豊作を予祝するお飾りとされた。行事名を、御幣担ぎ、おんべ振りと呼ぶところもある。削り掛けは御幣と形がよく似ている。
アイヌの削り掛け「イナウ」の図(松浦武四郎『蝦夷漫画』安政6年(1859)、東博展示品)
「イナヲ」で船のための木を伐る前の祈りの図(村上貞助・蝦夷画帳、写年不明、国立公文書館展示品)
仏教で、削り花は、旧暦十二月の御仏名(仏名会)に用いられ、花のない時季のお供え、お飾りになっている。仏名会は、仏の名を唱えることで心、体、ことばの三つの穢れを清め、清浄な身になって新年を迎えようという儀式である。一年の罪障を洗い落とす六根清浄のために、三日がかりで過去、現在、未来の仏の名を唱える。裸参りや水垢離も行われた。削り花は神事における大幣(大麻)(おおぬさ)と用途がよく似ている。花、削り掛け、幣、御幣は、もともとみな同じことなのである(注14)。民俗事例を見てきたのは、唐臼を利用するときに箒状のものを使うのが、道行きにおいて道祖神に祈る際の幣に相当するからである。唐臼を足で踏む姿は、歩く行為に符合している。箒状のもので払うのは、道行きの先払いに見立てられる。兎の道行きとはまさしく、旅立ちにおいて襅(ちはや)を着て幣を振ることそのものを哲学的に言い表していると言えるのである。だから、枕詞「ちはやぶる」は「菟道」を導くとして正しい。
七
もう少し、「ちはやぶる」という言葉の深奥に迫ってみよう。「ちはやぶる」の例文は、歌謡と記紀の会話文にのみ見られ、地の文にないことは口頭語、口語体であることを示唆していた。すると、チハヤブルのハヤは、疑問、推量、感動を示す助詞として想起された可能性が指摘できる(注15)。助詞のハヤについて、紀の声点は、図書陵本・兼右本に、上上、平上、上平の三通りが見られる。允恭紀四十二年十一月条の「宇泥咩巴椰彌ゝ巴椰(うねめはや みみはや」のハヤに、図書寮本では、上上、平上、兼右本では、平上、平上、雄略紀十二年十月条の「伊比志陀倶彌皤夜阿拕羅陀倶彌皤夜(いひし匠はや あたら匠はや)」(紀78)のハヤには、図書寮本・兼右本とも上平、上上、推古紀二十一年十二月条の「佐須陀気能枳彌波夜那祇(さす竹の 君はや無き)」(紀104)のハヤには、図書寮本・兼右本とも、上上、仁賢紀六年九月条の「阿我図摩播耶(吾が夫(つま)はや)」のハヤには、図書寮本に、上平、兼右本に、上□と入り乱れてある。間投されているのだから、言い方によっているということであろう。つまり、枕詞「ちはやぶる」の「意味が分厚すぎる」(大浦2017.)義のなかには、チ+ハヤ+フル=チ?!+フル、すなわち、「あれまあ、茅だなんて…、というものを振る」という意味のあることが浮かびあがる。
茅は、チガヤのことで、イネ科の多年草である。地下茎がはびこり原野に繁茂し、葉は線状で先が尖って、高さは60cmほどになる。春、葉に先立って花茎を伸ばし、多くの小花をゆたかに集めた白くて柔らかな綿毛の穂をつける。穂のことを、茅花(ちばな・つばな)という。古く、成熟した穂を火口(ほぐち)に用いた。削り掛け神事、白朮祭を思い起こさせるものがある。茅花は、中国で「白茅(はくばう)」と呼ばれる。詩経・召南・野之死麕に、「野(や)に死麕(しきん)有り、白茅もて包む。(野有死麕 白茅包之)」、易経・大過に、「初六、藉(し)くには白茅を用てす。咎无し。(初六、藉用白茅。无咎。)」とある。死の穢れを清めるとされていたようである。
チガヤ(2014年5月)
大幣(鹿島神宮)
払子や削り掛け、茅花に似る大幣は、お祓いの時に用いられる。幣(ぬさ)は布帛で、神に祈るときに捧げられたり、罪を祓うときに差し出されたのが源とされる。白川1995.に、「幣(へい)という字の示すように織物であり、衣類の類を供えたもので、それに穢れを移し祓(はら)う意があったものかと思われる。」(586頁)とある。「ちはやぶる」の用例の③、⑪歌に見えている。仲哀記の「国の大祓」に、「大奴佐(おほぬさ))」が差し出されている。本来であれば死罪になるはずの罪人も、幣によって免れることができた。祓の具としての大幣の用法は、祓を受ける人が手で引いて罪や穢れを移す方法と、物品に対して神官が左、右、左に振る方法があり、後に、人に対しても振るようになった。また、旅の安全を祈願するために、細かに截った布帛を袋に入れ、道路に散じて神に供えた。幣袋といい、死者の旅立ちにも棺に入れた。後、五色の紙や米麦を混ぜ入れ、道祖神に奉った。作業効率的に考えるならば、道を急ぐ人には面倒くさく、また、時間も取るものである。その逸る気持ちを抑えて、冷静さを弁えることが、旅の安全にとって実は欠かせない要素である。早くは済まないお参りをしたほうが、かえって早く無事に目的地に到着する。この一見、矛盾するような行いを、「ちはやぶる」という言葉は、論理形式の地平に向けて言い表しているのである。
串刺しの幣(信貴山縁起絵巻・尼君の巻(模本)、明治時代、19世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0083571をトリミング)
以上から、「ちはやぶる」という言葉は、襅を着た祝(はふり)が、茅花のようなものを振っている様子を表すところから、「神」や「宇治(の渡り)」という言葉を導いていると知れる(注16)。
八
最後に、「ちはやぶる」のその後の顛末についてみておく。角川古語大辞典に、「ちはやふ(ぶ)る」は、①連体詞、②枕詞、に並び、③名詞で、「虫除歌(むしよけのうた)のこと。」という項が立てられている。「「千早振る卯月八日は吉日よかみさけ虫をせいばいぞする」を略していう。「千早の歌」とも。「千早振る札は八日に限るなり」〔柳多留・一二一〕」(300頁)と説明する。民俗行事に、灌仏会の甘茶を貰い受けて墨にし、千早の歌を紙に書き、上下逆さにして門口や台所、厠に貼っておくという風習がある。
歌川豊国画、豊国豊広両画十二候「卯月」大判三枚の左(アムステルダム国立美術館蔵、https://www.rijksmuseum.nl/en/search/objects?q=utagawa+toyokuni+toyohiro&p=6&ps=12&st=Objects&ii=4#/RP-P-1958-151A,64をトリミング、東京都立中央図書館http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00049207参照。)
千早の歌のお札は、虫除けのまじないである。期待された効用は、お釈迦様が払子によって蚊をやらうのに同じく、殺生しないままに払い除けるということであろう。本当に叩き殺すとなると、「神さげ虫をせいばいは釈迦破戒」(柳多留一〇六)と解される。逆さに張るのは払子を振るうさまに準えたものでありつつ、釈迦と逆とを掛けたものと思われる。「壁に貼る四月八日はお逆かさま」(柳多留一五三)とある。卯月八日とは花祭のことで、仏教で釈迦の誕生日とされ、灌仏会、仏生会が営まれる。今日では、金銅製誕生仏に甘茶をかけるが、それは江戸期頃からのことかとされている。それ以前は、奈良時代から、香水(こうずい)(閼伽(あか))をかけていた。推古紀十四年四月条に、「是年より初めて寺毎に、四月の八日・七月の十五日に設斎(をがみ)す。」とあるのが始まりとされている。
花御堂(はなみどう)(大田区池上)
千早の歌については、いくつか類例がある。
ちはやふる 卯月八日は 吉日よ かみさけむしを せいばいそする(俚言集覧)
ちはやぶる 卯月八日は 吉日よ 神さけ虫を せいばいぞする(世事百談)
年々の 卯月八日は 吉日よ 尾ながのむしを せいばいぞする(同・周防国野上の里)
今年より 四月八日 吉日よ 神さけ女郎 せいばいぞする(同・日光道中の間久里なる秋田屋)
千はやふる 卯月八日は 吉日よ 髪さげむしを せいばいぞする(五節供稚童講訳)
千はやふる かみさげむしの せいばいは 卯月八日の 吉日にせよ(同)
新玉の 卯月八日は 吉日よ かみさけ虫を 成敗ぞする(年中故事)
「神さけ虫」については、太田全斎・俚言集覧に、「髪さけ虫」、「このうたむけに詞のととのはぬ歌なり。中人以下にてする事なり」とあり、井上頼圀・近藤瓶城の増補には、「かみさげむし 京にて糞中のうじをいふ」とある。また、山崎美成・世事百談に、「この歌は神職の仏をいやしめたるなるべし」、「神さけむしは仏をさしていへるなり」、玉田永教・年中故事に、「髪下虫とは出家沙門の事也」、山東京山作・歌川国安画の五節供稚童講訳に、「この歌は誰人の詠めるといふも定かならねど、近き昔よりする事なり」、「髪さげ虫は蛇の事」とする説が載る。
山東京山・五節供稚童講釈・初編四、国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10303546(21/28))
ところが、和漢三才図会には、天漿子(くそむし)の項に、「屎虫を避ける咒歌(まじないうた) 之れを書きて厠の口に貼れば、則ち日あらずして屎虫は消散す。但し倒(さかさま)に貼る可し。今年より卯月八日は吉日よ尾長くそ虫せいばいそする」とある。天漿子については、「羽化して大蝿と為る。〈形は虻に似る。俗に布牟布牟虫(ふむふむむし)と云ふ〉。」とある。後端に尾状の突起があって、不浄の水に生ずるハナアブの幼虫、俗にいうオナガウジのことではないかとされている。尾部をくねらせて泳ぎ、モヤシのお化けのような気味の悪いものである。
天漿子(くそむし)(2014年5月)
「天漿子」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596384?tocOpened=1(12/41)をトリミング)
モヤシという語には、酒を醸造するのに用いる「蘖(もやし)」がある。和名抄に、「糵 説文に云はく、糵〈魚列反、與祢乃毛夜之(よねのもやし)〉は牙米也といふ。本草に云はく、糵米、味苦く毒無し、又麦糵も有らむといふ。」とある。延喜式・造酒司式に、いろいろな酒の醸造法として、米・蘖・水などの調合分量が記されている。蘖については、種麴ではないかといわれるが、今日でも、麦芽からビール、トウモロコシからチチャなど、穀物を発芽させたものから酒が造られている。いずれにせよ、モヤシはお酒と密接な関係にある。ハナアブの幼虫は、そんな形をしているから、神酒虫(かみさけむし)と呼ばれたのではなかろうか。
千早の歌は、四月八日はお釈迦様の誕生日なのだから、煩悩を断って酒を飲まない日にしようとの意を掛け合わせて成ったものであろう。そして、口さがない江戸期の人たちは、逆にあれほどうまい酒を嫌がる聖人君子とは、動物ではなくて植物のようなものだから、モヤシっ子みたいだとして小咄が生まれたのではあるまいか。類歌に「神さけ女郎」などとあるのは、煩悩の他の側面、性欲のことを示唆しているようである。禁欲奨励日に煩悩を払うために、「ちはやふる」、つまり、大幣を振ってお祓いをすると洒落たのであろう。
以上、「ちはやぶる」という語の展開形について見てきた。無文字時代の上代の大多数から、江戸時代の無文字世界に生きた「中人以下」の人々にとって、言葉はほぼほぼ音声言語であった。声の文化に圧倒されるような形で存した言葉群がたくさんあったのである。そのひとつである枕詞は、口頭的に多層に意味をにじみこませた挙句、訳がわからなくなってしまった言葉である。枕詞の意味がさっぱりわからないのは、我々の言語活動とは別次元の言語活動であったからである。枕詞を〝理解〟するための前提条件としては、洒落や地口によって愉快極まりないものとするべく、綾なすように織り込まれ造られた言葉であると捉えることがあげられよう。ひとつひとつ丹念に枕詞の端緒、糸口を見出して言葉の編み目を繙くこととは、口語上の生成論をたどる作業に他ならない。それをせずに枕詞を〝解説〟しても後講釈以上のものとはならない。ひいては、万葉集の歌や記紀の説話の本当の理解に繋がるものではないのである。
(注)
(注1)廣岡2005.に、「枕詞とは一体何なのであろうか。なぜこういう表現様式が起こってきたのであろうか。枕詞は修辞の一種であると言うことができるが、その起源となるとむつかしい。……言語遊戯としての枕詞を考えてみたい。私がいう「言語遊戯」とは概念が広くて、同音・類音の懸詞・繰り返しから、比喩・形容・連想・転用、更には説明表現までをさす。その基底に流れる言語意識は、正面から構えた表現ではなく、「言葉遊び」としての性格を帯びる。だからと言って、この「言語遊戯」が不真面目な表現を意味するものでは決してない。古代口承世界における自由な言語活動のありようであったと考えられる。」(355~356頁)、「『萬葉集』において孤例の枕詞が一九六例、二例の枕詞が六五例(計二六一例)存在し、『萬葉集』中の枕詞三九八例中、約六五パーセントを用例数僅少の枕詞が占めている……。……新たな言葉の技は徐々に展開されていったものと思われる。それを言語芸術と呼ぶのは余りにも大袈裟である。ささやかな局所的連接の言葉の綾という形で、後世呼ぶところの枕詞は形成されていったものと考えられる。」(375頁)としている。
(注2)大浦2017.に、「意味もかかり方も不明なままに、ある語を導き出してくる固定的な枕詞の持つ喚起力は、社会的に共有される伝統性―その伝統性はしばしば幻想としてのそれであるが―によって支えられている。繰り返されることによって強化される「様式(型)」の力である。枕詞には、その伝統性の共有感覚によって、人びと―作者・享受者の別なく―を歌の世界に引き込む力を有しているのである。……しかも枕詞は、五音句であることによって、歌にとって根本的な―日常語とは異なる「歌」という表現形式を作る―様式(型)である五・七の韻律とも深く関わっており、歌という表現形式を作り出す上で、非常に重要な役割を担っているのである。「枕詞は訳さない」でいいのか、というテーマに対する答えであるが、訳したくても訳せない、というのがその答えであろう。それは「意味がない」からではない。意味が不明のものも含めて、「意味が分厚すぎる」ゆえに訳せないのである。」(8~9頁)とまとめられている。
(注3)白井2003.に、「万葉集の表現」の「技法」の最初の項に、「枕詞」を説明している。「「ひさかたの」「あしひきの」など通常五音節で、以下につづく特定の語(上記の例でいえば「天/月」「山」など)を修飾することば。歌の内容には直接かからない。修飾される語のほうを、便宜的に被枕詞、被枕、受詞などと呼ぶ。枕詞は、神名・地名などの固有名詞に対する称辞的な修飾を本質とするものだが、万葉集では、普通名詞に冠する例が著しく、用言に冠するものも多い。枕詞と被枕詞との関係は、意義の上で、繰り返すもの(ま玉手の―玉手)、同じ内容を言い換えるもの(島つ鳥―鵜)、枕詞が被枕詞の属性を表すもの(若草の―妻)、主語と述語の関係に準ずるもの(ぬばたまの―黒)などがある。さらに、懸詞によって連接する場合(まそがよし―蘇我)もあるが、基本的に枕詞と被枕詞とは、言い換えの関係といえる。」(153頁)と解説されている。
これは万葉集の表現の一技法として、枕詞をアプリオリなものとして解説したものである。「ひさかたの 天/月」「あしひきの 山」「ま玉手の 玉手」「島つ鳥 鵜」「若草の 妻」「ぬばたまの 黒」「まそがよし 蘇我」という事例を観察し、様式として並べ立てて報告している。枕詞という用語が後代の造語であったように、文法的に現代的な解釈の枠組を与え、用語を使って再説明しているにすぎない。
我々が求めているのはそんなことではない。柿本人麻呂が多くの枕詞を使っているのであれば、時空を飛び越えて、人麻呂にインタビューを試みることである。今あなたが歌っていた歌の「ひさかたの」っていう使い方、「ひさかたの」はどういう意味で、どういう考えからそういうふうにそんなところで使っているのですか? と。万葉集は現場で歌われている。研究室で起きているのではない。
(注4)記50歌謡に対応する紀42歌謡、またそれらの話の続きであらわれる記51・紀43歌謡には、「宇治」を導く枕詞として「ちはやびと」が使われている。(注15)参照。この歌の解釈に関しては、拙稿「大山守命の反乱譚の歌謡について」参照。
(注5)文字を持たずに言葉を使うこと、あるいは、文字を持たずに言葉を使っていたのが俄かに文字を知って併用し始めた頃の言葉の使い方は、現代の我々も実は卑近に観察することができるし、経験もしてきている。今日の早期幼児教育に失敗はしているものの、言葉に関しては音で覚えて体系化してから、一語一語に後から字を当てて学んでいくのが通例である。小学校低学年の児童が、なぜあれほどまでなぞなぞに没入できるのかという問いは、言語活動が無文字から有文字へと大転換を引き起こす活況期にあるからと考えられる。上代の言語活動の実態は、まさにそのような状況下にあってのものと推測される。これらの議論は、言語に関する発達心理学が取り組まなければならない課題であろう。メタ認知能力の獲得をもってなぞなぞに興じるようになることは知られているが、その後、なぞなぞから興味が離れていく過程については、形式的操作の段階に至るからかと思われるものの十分には議論されてはいないようである。無文字の言語に特徴的なのは、記号の対象化ができないこと、すなわち、メタ認知のメタ化、メタメタ認知に至らないことが一因なのではないかと考えている。ヤマトコトバの場合、言霊信仰と呼ばれる言葉と事柄との一致性に固執したことによって、言葉が具体性から遊離することなくむしろ深化する方向へと循環化したのではないか。いま発した言葉が当該言葉を自己解説していくように造語することを好み、その一例が枕詞であったと考える所以である。いわゆる和訓と呼ばれる語も、大陸から流入した事物や観念などについてヤマトコトバに採り入れるに当たり、その体系の内側に理解できるように造られたもので、自ずと自己説明を伴った新語であったと筆者は考える。
(注6)このまとめ方に筆者も同意する。ただし、その評価の仕方は筆者とは異なる。
(注7)吉田2008.も秋永2009.同様、枕詞に語源を求めている。さらに、地名についてまで語源を求めている。筆者は、地名の語源を探ることに意味があるという立場に立つこともできない。要は、縄文・弥生時代にどのように当該の言葉が形成されたかではなく、記紀万葉の上代、飛鳥時代にどのようにその語が受け止められたかである。それは、ヤマトコトバに漢字を当てるという、世界的に見てきわめて稀有な工夫を行った民族の、独自性、固有性を表すものでもある。
なお、吉田2008.の地名ウヂの語源説に、諾地・諾道とする説が示され、宣命のウヂハヤキ時の例からウヂという語は当為速決を表すものであると推測している。誘導尋問のような難渋にして危うい議論である。
(注8)Aaron 2012.に“wonderful joke”としてあげている英語ジョークを引いておく。
Q:What do ducks do before they grow up?
A:They grow down.(156p)
エッシャーを捩った表紙
(注9)吉田2008.は、⑳例の「千磐破 鐘(かね)の岬を 過ぐれども 吾は忘れじ 志賀の皇神(すめかみ)」について、「この歌には掛詞の用法があって、(海の)道速(みちはや)ぶることの辛うじて可能な、通り兼(かね)る思いのする金(かね)の岬(それは怖い岬だがそこ)を通りすぎることができても、私は然(しか)と忘れることはありません。志賀(しか)の海神さまのお加護であることを。という一首の意味である。」(372頁)とする。さらに、類語のチハヤビトについて、「ミチハヤビト(道早人)がチハヤビト(千早人)だとすると、その道早人の着用した衣服も、チハヤ(襅)といった理由がよく分かるであろう。巫女とか神事に奉仕する人、先払いして歩く神人などの着る衣服で、……肩衣(チャンチャンコのような袖無し)のような簡素な衣服である(『神道大辞典』)。とすると、これは急速に動作するイチハヤ(逸早衣)の意にもかなっているが、《ミチハヤ(道早衣)=道を早く歩ける衣服》でもよいことになる。もっとも、道早人から逸早人の意に移った後の用語かもしれない、とも考えられる。」(376頁)とする。結論として、「チハヤブルの成り立ちは、ミチハヤブル(道速)にありとし、派生的な意味としてチハヤブル(霊威振)も認めてよいか、と思う。チハヤブル(霊威振)の解釈は、第二義的な二重構造になっている。」(373頁)としている。そして、「枕詞の語源の場合、それが正しいものであった時は、枕詞をもつ歌全体がぐっと面白くなり、味わい深いものになるから、国語学的語源の研究は、文学鑑賞にも役立つのである。」(381頁)と結んでいる。
(注10)筆者は、今日の万葉集研究において、歌の表現方法がすぐれているといった意見を耳にするが、それは和歌史においてか、あるいは、現代人が現代人の感覚で現代人の認知の枠組から見た単なる〝感想〟ではないかと疑っている。万葉集に採録されている歌のほとんどは、人麻呂以降のように文字に書いて作った歌であったにせよ、歌われて声になって披露されたものであったろう。そして、初期万葉や東歌や防人歌ばかりか、数多くの歌は、文字に書かれることさえなく直に歌われたものであったと思われる。それがたまたま記されて現代まで受け継がれている。恋のやり取りをする相聞歌にしても、平安時代、宮廷近くの人が、恋文に和歌を記して相手のもとへ届けて思いを伝えるというのではない。あくまでも音声に発して思いは伝えられた。歌は、声として歌われたから歌であった。
(注11)万葉集には、東歌、防人歌のように、辺境の民の歌も万葉集には採られている。しかし、採られているということは、すでにヤマト朝廷に飲み込まれたヤマトの一員だからである。「其の国の荒振(あらぶ)る神等(かみども)を言趣(ことむ)け和(やは)せ」(記上)というように、ヤマトコトバが政治的な支配力を有していた点に思いを致さなければならない。近代に植民地支配後も国境はそのままで宗主国語を公用語としている。枕詞について考えることは、ヤマトコトバの政治学についても問われていると気づかねばならない。
(注12)文化人類学の知見によれば、文字に書かれなければ再帰的に思考することができず、したがって、客観的、分析的、抽象的にではなく、恒常的、類推的、具体的にしか考えることができないとされている。
(注13)拙稿「稲羽の素兎の説話は、唐臼と文字の到来を語る」参照。
(注14)五来2010.に、「[花祭の]ハナは「端」であって、その先に祖霊がとどまって供養をうける依代(よりしろ)なのである。これは祖霊がやがて神(氏神)となったとき、ヒモロギとして神殿内に立てられるようになる。そしてこの常磐木のハナがケズリカケ(アイヌならばイナウ)となり、これが麻や木綿になればヌサであり、紙になれば御幣(ごへい)である。花と御幣はもともとおなじものであった。」(94頁)とある。
(注15)拙稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」参照。
(注16)地名の宇治(うぢ)に関しては、「千早人(ちはやびと)」という枕詞や、「もののふの 八十氏川(やそうぢかは)」という定型表現もある。貫頭衣風の襅を着ていた存在というばかりでなく、黙って唐臼を使い箒を左右に振る様子は、まるで神官のようである点や、たくさんの岸が険しい支流が合流する様が、戦場で軍勢を率いる際に用いた采配のようであるとする形容に掛けあわされている。武士が振る采配は、一尺ほどの柄に千切りの紙片や獣毛を細長く垂らしたもので、大幣、払子、削り掛け、茅花によく似ている。
(引用文献)
Aaron 2012. Debra Aaron, Jokes and the Linguistic Mind, Routledge, London, 2012.
秋永2009. 秋永一枝『日本語音韻史・アクセント史論』笠間書院、2009年。
大浦2017. 大浦誠士「「枕詞は訳さない」でいいのか」松田浩・上原作和・佐谷眞木人・佐伯孝弘編『古典文学の常識を疑う』勉誠出版、2017年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義『角川古語大辞典 第四巻』角川書店、平成6年。
広辞苑 新村出編『広辞苑 第七版』岩波書店、2018年。
五来2010. 五来重「花祭と花供養」『宗教歳時記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成22年。
白井2003. 白井伊津子「枕詞」神野志隆光編『必携 万葉集を読むための基礎百科』學燈社、2003年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新谷2014. 新谷正雄「ち【霊・乳】」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
吉田2008. 吉田金彦「枕詞「ちはやぶる」の成り立ち」『吉田金彦著作集2―万葉語の研究 下―』明治書院、2008年。
※本稿は、旧稿「枕詞「ちはやぶる」について」を大幅に加筆訂正したもので、2021年1月にさらに追記した。
そもそも「枕詞」とは何か。広辞苑には、「昔の和歌などに見られる修辞法。特定の語の上にかかって修飾または口調を整えるのに用いることば。働きは序詞に似るが、五音以下で慣用的な用法である点に特徴がある。「あしひきの」「ひさかたの」「しらぬひ」の類。」(2749頁)とある。どうしてそのような言葉が用いられているのかについては、「言葉遊び」のひとつで「局所的連接の言葉の綾」である(注1)とか、「意味もかかり方も不明なままに、ある語を導き出してくる固定的な」言葉になっていて「「意味が分厚すぎる」ゆえに訳せない」ものである(注2)と説かれている。そういうものであるという認識は周知されているものの、いざ各論となって一語一語考えて行こうとすると、途端に晦渋な世界に迷い込む。「ちはやぶる」という枕詞も、わからないけれどわかりたい、わかりたいけれどわからない、の堂々巡りをくり返すことになっている。
新谷2014.は、枕詞「ちはやぶる」の意を次のように考えている。
外部に現れ出たチ[霊]の烈しい霊威を讃美する言葉で、ハヤは勢威の烈しさを、フル(ブル)はその威力が発揮されている状態を示す。[万4456では、]大伴氏の祖神が、王権の支配に従わない在地の神々たちを服従させたことが歌われている。チハヤブルはそれらの神々を暴威を振るう荒ぶる神として描いている。チハヤブルは「神」の枕詞ではあるが、王権の側に立つ神に用いられることはない。このことは幾重にも注意されてよい。チハヤブル神は、畏怖すべき神として、どこかに反秩序的な性格を見せている。
チハヤブルは、少数ではあるが、地名「宇治(うぢ)」につながる例がある。[万3240で「宇治」]にチハヤブルが冠せられているのは、宇治川の流れの速さに、畏怖の念を感じたからであろう。川の神の霊威も意識されていたかもしれない。(236~237頁)
この程度の解説が、今日、一般的に通行している。あらかじめ上代に使われている用例が示され、枕詞という範疇の言葉遣いであるという基礎知識を持っていなければ、何を言っているのか皆目わからない。筆者はあえて上の〝意見〟を最初にあげ、それが納得のいく説明ではないことを指摘している。語構成から一生懸命に語ってはいるものの、腑に落ちないことだらけである。チ+ハヤ+フル(ブル)という足し算が行われたというのなら、そのアポステリオリなものはどのような経験によっているのか、不明解である。特定の語に冠して修飾する言葉は、生成されたと考えられるが、その観点についていっさい触れることがない。大浦2017.に、「ある語を導き出してくる固定的な枕詞の持つ喚起力は、社会的に共有される伝統性」にあるとするが、使われ続けたから「喚起力」を持つのではなく、なるほどうまい言い回しの修飾語であると周囲に認められてはじめて成り立つし、妙味に共感する人がいたから使い続けられたのではなかろうか。その最初のインパクトを確かようとする姿勢なくして、はたしてそれは言葉の〝学〟たりうるのであろうか(注3)。
二
枕詞「ちはやぶ(ふ)る」は、「神」や、地名「宇治(うぢ)」などを導いている。記紀万葉の例をあげる。
①玉葛(たまかづら) 実成らぬ樹には ちはやぶる〔千盤破〕 神そ著くと云ふ 成らぬ樹ごとに(万101)
②ちはやぶる〔千磐破〕 神の社(やしろ)し 無かりせば 春日の野辺(のべ)に 粟(あは)種(ま)かましを(万404)
③ちはやぶる〔千磐破〕 神の社に 我が掛けし 幣(ぬさ)は賜(たば)はむ 妹に逢はなくに(万558)
④…… 大船(おほふね)の 憑(たの)める時に ちはやぶる〔千磐破〕 神か離(さ)くらむ うつせみの 人か禁(さ)ふらむ ……(万619)
⑤ちはやぶる〔千早振〕 神の持たせる 命をば 誰が為(ため)にかも 長く欲(ほ)りせむ(万2416)
⑥夜並(な)べて 君を来ませと ちはやぶる〔千石破〕 神の社を 祈(の)まぬ日は無し(万2660)
⑦吾妹子(わぎもこ)に 又も逢はむと ちはやぶる〔千羽八振〕 神の社を 祷(の)まぬ日は無し(万2662)
⑧ちはやぶる〔千葉破〕 神の斎垣(いがき)も 越えぬべし 今は吾が名の 惜しけくも無し(万2663)
⑨…… 思ひ病む 吾が身一つそ ちはやぶる〔千盤破〕 神にもな負(おほ)せ 卜部(うらべ)座(す)ゑ 亀もな焼きそ ……(万3811)
⑩…… 鳥網(となみ)張り 守部(もりべ)を据ゑて ちはやぶる〔知波夜夫流〕 神の社に……(万4011)
⑪ちはやふる〔知波夜布留〕 神の御坂(みさか)に 幣(ぬさ)奉り 斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため(万4402)
⑫…… 踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる〔知波夜夫流〕 神を言(こと)向け 服従(まつろ)はぬ 人をも和(やは)し ……(万4465)
⑬「……故(かれ)、此の国に道早振(ちはやぶる)荒振(あらぶる)国つ神等が多た在るを以為(おも)ふに、……」とのりたまひき。(記上)
⑭「……是の沼の中(うち)に住める神は、甚だ道速振(ちはやぶる)神そ」とまをしき。(景行記)
⑮「……然れども慮(おもひみ)るに、残賊強暴(ちはやぶる)横悪(あ)しき神者(かみども)有り。……」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一)
⑯…… 吾が妻の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて ちはやぶる〔千磐破〕 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと〔一は云はく、掃へと〕 ……(万199)
⑰ちはやぶる〔知波夜夫流〕 宇治(うぢ)〔宇遅〕の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が対手(もこ)に来む(記50)(注4)
⑱…… 山代の 管木(つつき)の原 ちはやぶる〔血速旧〕 于遅(うぢ)の渡の たぎつ屋の……(万3236)
⑲…… 泉の川の 速き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる〔千速振〕 宇治〔氏〕の渡の たぎつ瀬を 見つつ渡りて ……(万3240)
⑳ちはやぶる〔千磐破〕 鐘(かね)〔金〕の岬を 過ぐれども 吾は忘れじ 志賀の皇神(すめかみ)(万1230)
⑬に「国つ神」とあり、①~⑫、⑭、⑮の「神」についても天神ではなく地祇のことと推測されている。⑯に「人」とあるのも蝦夷の神のことを言っているとされる。⑳の「鐘の岬」は、筑紫国宗像郡の鐘岬のことという。
二
秋永2009.には、次のように記されている。
……[上代]での表記は次のようにすこぶるまちまちである。( )内は例数。
(1)知波夜夫流(二) 知波夜布留(一)
(2)千羽八振(一) 千早振(一) 千速振(一)
(3)血速旧(一)
(4)千磐破(七) 千石破(一) 千葉破(一)
以上は『万葉集』の例だが『古事記』には「道速振」の表記がある。(1)の万葉仮名では「夫」は濁音、「布」は清音を示すが、後者は巻二十防人歌で確例としがたい。(4)の「破」は借訓だが、岩をもくだくという上代人の連想がこめられた用字であろうし、「破」はヤブルであろうから、ティファヤブルにあてたものだろう。……
「ちはやぶる」のティは霊力(ティー)の意で、「いかづち(雷。巌つ霊)」「みつち(蛟。巳つ霊)」「をろち(大蛇。尾ろ霊)」などと同源とされ、ファヤは「速」の意といわれている。ここで語源をちょっと考えるのにアクセントをもちだすことを許してほしい。「ちはやぶる」には(2)(4)ともに「千」があててあるが、平安末以降の京都アクセントでは、千々・千引・千代・千歌・千年・千草・千里・千度等は殆どが低いアクセントで始まっている。一方、……「襅(ちはや)」、これには院政期に書写の『図書寮本類聚名義抄』などに.チ.ハ.ヤと高く平らなアクセントが付けられている。「襅」は神事に関するものであるから語頭音は霊力(ティー)がその語源であるかもしれない。(あるいは血(ティー)(同じく●●)も関係ないだろうか、とまでいくと民衆語源になるだろうか。)『古今集』の注釈書の中には顕昭(一一三〇頃-一二一〇以後)なども「襷襅振(チハヤフル)ト云也」として上上上の声点を注記する。これがもし「霊(ティー)」と同源ならば、「千(ティー)」は低いアクセントであるから関係なさそうなことになる。(5~6頁)
襅のアクセントは高く平らかな音の連続(HHH)で、枕詞のチハヤブル(HHHHH)の語源を考える際に重要であるという指摘である。しかしながら、千(ち)(L)という表記があって必ずしも納得するに至らないということのようである。筆者は、枕詞という曰く因縁のありそうな謎の言葉について、その言葉が生れて使われるようになった起動力を明らかにするべきであると考えている。しかし、それをいわゆる語源のことと捉えるのは大きな誤解である。語源というからには、言葉が誕生したその日のことについて語らなければならない。記紀万葉の上代は、ようやく記述が始まった時代である。当然ながら、それよりも以前の縄文・弥生時代から、文字を持たないままに言葉は存在していた。「ちはやぶる」という言葉がどれほど古いものかわからないものの、語源を探るとなると源泉の一か所に遡ろうということになる。しかし、それが文字のない時代であったなら、記されていないものを証明することなどできない。文字という〝光〟を当てなければ、言葉はあったのかなかったのかわからないからである。ましてや、その対象は、枕詞という意味がよくはわからない言葉群なのである。
枕詞は、何か次に続く言葉にかかる修辞的な言葉でありながら、それ自体の意味は曖昧模糊としていて、慣用的に歌謡に多く用いられている。それを、意味が明らかで同じく修飾する言葉である形容詞と、同等に扱うのは適当ではない。強いて言うなら、無象歌謡形容詞とでも呼んでみたい代物である。あるいは、演歌におけるコブシのようなものかもしれない。そして、枕詞は、上代には盛んに行われていたが、次第に暗記されたもののみに限られて用いられるようになっている。そんな後代のことを排除して考えるなら、枕詞は、文字を持たなかった、ないしは、無文字を文化的基盤とした人たちによる、言語遊戯の大いなる成果の一つであったと言えるであろう。母語が、無文字のヤマトコトバの人たちの間で活発であり、言葉のなぞなぞ遊びに由来する造語法であったと推測される(注5)。
「ちはやぶる」の語義について、従来から行われている諸説には、次のようなものがある。
(1)イチハヤブル(最速)の約で、勢いの鋭い意。イヅ(稜威)+ハヤ(疾劇)+ブル(~のような)、ないしは、チ(神秘力)+ハヤ(捷)+ブル(~のような)。
(2)チハヤフル(襴振)の義、ないしは、チハヤフル(襷経)の義。
(3)チハヤブル(千剣破)の義。
(4)千磐破、または、茅葉破の義。
(5)ミチ(道)+ハヤ(速)+ブル(~のような)の義。
三
吉田2008.は、枕詞「ちはやぶる」について真向から論じている。「枕詞チハヤブルが、何に掛るかの状況を見ると、(ア)「神」にかかるもの7例 (イ)「神の社」にかかるもの5例 (ウ)「神のみ坂」にかかるもの1例 (エ)「神のい垣」にかかるもの1例 (オ)「国つ神」にかかるもの1例 (カ)「宇治の渡り」にかかるもの3例 (キ)「鐘のみ崎」にかかるもの1例 (ク)「人」にかかるもの1例 合計20例となっていて、「神」関係が全体の七五パーセントを占めている。しかし、枕詞の意味は、単に数値だけの問題ではない。神の内容や、少例でもその掛かる理由が、この際考えられなければならない。」(360頁)。そして、神の内容は、「道を守る神、道中の安全を祈る神……など、道祖神としての神か、道祖神らしい神である。」(360頁)、「[諸例から帰納すると、]チハヤブル神の雰囲気は、通行の安全祈願と、悪霊疫神を防止するサヘ(エ)[(塞)]ノカミ的な神であることが著しい。」(361頁)、「チハヤブル神(人)は具体的にいえば、後からの大和民族の神ではなく、先に来ている土着の地主神という具体性がある。……『古事記』で天孫降臨前の葦原中国に蟠踞していた国つ神は、『日本書紀』で「残賊強暴」の文字が宛てられているように、これから大和勢力を掌握しようとする警戒の対象として描かれている神で、国つ神はチハヤブル神であると同時に荒ブル神だ、というのである。」(362頁)と論を進めている(注6)。
そして、さらに地名の「宇治の渡り」にかかる掛り方を、形容詞ウヂハヤシとの関係から説こうとする。ウヂという言葉の語源を繙いて、地名ウヂに枕詞「ちはやぶる」が冠する所以を明かにしようとするのである。「称徳天皇三二詔で、藤原仲麻呂の謀反の鎮定に功が有った人々を賞し給うた宣命……[ノ]文面によると、……ウヂハヤキ時は平常時と対比された、平常時でない非常時を表している用法における語である。危急の折とか、剣呑(けんのん)な際とかの意であることは観取される。……ウヂハヤキ時は、然るべき措置が急がれる時、対処の宜しく速く行われる時、という意」(365~367頁)になるとする。そして、「ウヂの日本語としての成り立ちは、次の二つのケースで考えられる……。すなわち、
(甲) ウ(兎)なるチ(地)、あるいはウ(兎)のミチ(道)。兎が通るような山道、もしくはけもの道の意。
(乙) ウ(諾(うべ))なるチ(地)、あるいはウ(諾(うべ))なるミチ(道)。宜しいと判断される道、当然だと思う道の意。
の二つである。」(366頁)とし、「ウヂハヤシは、まず(乙)におけるような当為速決的な意味があり、その困難性の一面が拡大されて(甲)の山道の嶮阻な方へも接近してゆくのである。(甲)は派生義である。平安時代のアクセントでは、ウヂハヤシのウは上声、ウサギのウは平声で異なりがある。」(367頁)としている。さらに、「地名ウヂ(宇治)は、通るのに当然よろしい所、ウ(諾)なるミチ(道)の意であった」(370頁)、「「チハヤブル宇治の渡り」についても、……「チハヤブル神(何々)」における掛かり方の内容と同じものを感じる。その神が、ほとんどサエノ神・道祖神的な神であったのと同じく、「チハヤブル宇治の渡り」においても「宜しい道をよしと確かめて無事に渡る」という思想がこめられている、と思う。」(371頁)としている(注7)。
四
ウヂハヤシという言葉については、次にような用例がある。ウチハヤシとあるのもウヂハヤシと解した。
崎嶇 上平、路難也、曲岸也、下平、傾側也、奈也牟(なやむ)、又、宇地波也之(うぢはやし)(新撰字鏡)
かく賜ふ故は、平(たひら)けき時に奉侍(つかへまつ)ることは、誰(たれ)しの人か奉侍らず在らむ、如此(か)くうぢはやき〔宇治方夜支〕時に身命(みいのち)を惜しまずして貞(ただ)しく明(あか)く浄(きよ)き心を以て朝廷(みかど)を護り奉侍る人等(ひとども)をこそは、治め賜ひ哀み賜ふべき物に在れとなも念(おもほ)す。(続紀・称徳天皇・天平神護元年正月・32詔)
運命の迍邅(チムテムと、うぢはや)きことを嗟(なげ)き、(遊仙窟)
渠(きみ)が家、太(はなは)だ劇(うぢはや)くして求守(なづ)み難し。(遊仙窟)
此の北二千餘里にして経途(みち)難阻(うぢはや)く寒風(かぜはや)くして雪を飛す。(大唐西域記・巻第四)
……固(まこと)に崎錡(キキと、うぢはや)うして便(たより)すること難し……(文鏡秘府論・南)
迍邅・迍・踦〓(足偏に區)・崎嶇・岴・阻・劇・難 ウヂハヤシ(名義抄)
宣命に、「平らけき時……ウヂハヤキ時……」と対比されている。タヒラ(平)と対比されるのは、その反対のこと、垂直になった崖や凸凹のあるところであろう。崖のような険しいところや、がたがた道と考えて、進み難いことを表している。そのような場所は、早く進もうにも進めず、どのルートで歩んだらいいか俄かには決めかねるところであり、慎重を期すべきときである。
チハヤブルが掛かる「神」について、サヘノカミとの指摘があった。行く手をさえぎる残賊強暴な神に対してお祈りをして通行の安全を祈願している。つまり、急いで先へ進まないで、一息ついてどう進んだらよいかと思案している情景が思い浮かぶ。宜しい道ならお祈りなどせずともさっさと進むはずであって、その真逆を表している。チハヤブルが道早ぶると関連がないというのではなく、かえって、道早ぶるの意とは正反対なことをチハヤブルと言っているところが面白いのである。高等テクニックの言語遊戯である(注8)。
「鐘の岬」という海の難所にしても同様である。カネという言葉のイメージに、「兼」の義があると考えられる。何かをしようにもし兼ねている(注9)。困難な状況下に置かれていることを含意する。これによって「ちはやぶる」が掛かる、道祖神的な「神」と、「宇治」という地名と、「鐘の岬」という地名とが、ヤマトコトバとして共通の概念を背負っていたことが確かめられた。
もちろん、現実世界において、そのような場所は至る所に点在している。問題は実際のことがらとは無関係である。ウヂやカネノミサキという言葉を上代の人が聞いて、その音から類推するに、そこはきっと平らかならざるところであると、感慨を抱いたであろうということが問われている。実際にその地が平らけくないところ、行く手をはばむ険しいところであったかどうかを考えること自体、ナンセンスである。歌を歌うときに認識を共有されるべきなのは、歌い手と聞き手ばかりである。例えば、宴の席での歌は、その宴の場を共有している人に限って、そうだ、そのとおりだと、理解が行きわたれば、歌は完成しており、名歌である(注10)。上代の歌謡の世界の中心は、政治的、文化的な中央地である飛鳥の都であったから、その人たちが音として聞き、声として発した言葉こそ、意味を表すすべてであった言っても過言ではない(注11)。
枕詞は、そんな、声に歌となっているものに用いられている。逆に言えば、声に言葉となるものしか枕詞とはなり得ないのである。枕詞は、言葉において声でしかない部分に関わっている。「ちはやぶる」が掛かる「神」、「宇治」、「鐘」などにかかる場合を検証するには、カミ(ミは乙類)、ウヂ、カネという音声に掛かっているのだから、その掛かり方に鋭い妙味があると定められなければ、なるほど巧みでおもしろい言葉遣いをしているね、と了解されるには至らなかったであろう。もしそうなら、「枕詞」を期して造られたはずの言葉は失敗とあり、人の気を引くに当たらず、記録するに足らない没作に棄てられる。「ちはやぶる」という言葉が枕詞として定着し、十数例も万葉集に残されているということは、当時の人々の言語観念において、確かなる意味的な連関が、「ちはやぶる」と下に続く言葉との間に、音声言語的に存在したということである。ヤマトコトバは音声言語を中心に据えて定着していたからである。
五
以上は、「ちはやぶる」という言葉がどのように下の言葉と関係しているのかについての解説である。ヤマトコトバの世界は無文字であった。無文字の時代に口頭によって意思疎通を図るためには、なるべく贅言は避けたほうが良かったであろう。にもかかわらず、枕詞のような余計な言葉が数多く生まれている。口承に歌が尊ばれていたから、うまく修辞する方法として生まれたのであるというだけでは説明しきれはしない。「ちはやぶる」という言葉の深層において、伝達に向かう何か強い意味があるはずである。そこで、次に、「ちはやぶる」という語がどのように造られてきたのかについて考える。対象を語構成から分析するのではなく、語構成で生成すること、再構成する試みである。
襅(ちはや)という語がある。和名抄に、「襷襅 続斉諧記に云はく、襷〈本朝式に此の字を用ゐ、多須岐(たすき)と云ふ。今案ずるに、音義の所以、未だ詳らかならず。〉を織り成すといふ。日本紀私記に云はく、手繈〈訓は上に同じ。繈の音は響。〉といふ。本朝式に云はく、襷襅各一條といふ。〈襅は知波夜(ちはや)と読む。今案ずるに、未だ詳らかならず。〉」とある。襅は神事や葬礼、出産などに着る斎服の一種で、白布製で裾の長い小忌(おみ)の肩衣をいう。袖なしの割烹着のような上っ張りである。襷(たすき)は袖をからげるのに用いられた帯状のものである。それによって、作業着姿に変身する。袖をたくし上げれば袖がなくなるから、襅と同様のものと認められて斎服に見なされた。袖があるのが普段着で、上に羽織るノースリーブが斎服や作業着ということになる。つまり、「ちはやぶる」は「襅ぶる」、襅のふりをしている、あるいは、「襅振る」、襅は袖なしだから袖を振ろうにも振れないという意味に受け取れる。ここに至って、言葉が自己撞着を起していることに気づかされる。すなわち、「ちはやぶる」というこの言葉は、そこが面白いと思われて定着したと考えられる。上代人は言語遊戯の感覚が現代人とは異次元レベルにある。無文字時代の言語は口頭の音声にのみ依っている。そこで、言葉を言った途端にその言葉を再定義してかかる性格を秘めていた。だから、自己言及的で自己矛盾的な「ちはやぶる」なる語は、うまいことを言ったものだと気に入られ、枕詞として安定的に用いられたのであろう。振れないものを振るとはおもしろい。さて、何を振っているのであろうか。
直垂の上に襅(ちはや)を着た神官(北野天神縁起絵巻模本、田中茂一 編・日本名画鑑. 鎌倉時代之部、藤原信実筆北野天神縁起巻3、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851412/13をトリミング)
六
枕詞「ちはやぶる」は、地名「宇治」に掛かっている。上代人にとって地名は、まず先にあった。その音ウヂを上代の人がどのように受け取ったか、その受け取り方が枕詞「ちはやぶる」と関わってくる。どのように認識したのかを窺わせる資料に、記紀万葉の表記がある。紀には徹底して「菟道」(全部で15例)とある。記にはウヂノワタリ(「宇遅能和多理」(2例))、ウヂノ(「宇遅野」(1例))というように「宇遅」で記している。万葉集では、地名のウヂに、ウヂカハ(「宇治河」(万264題詞)、「氏河」(万1135・1136・1138)、「氏川」(万3237)、「是川」(万2427・2429・2430)、「宇治河」(万1699題詞))、ウヂカハナミ(「氏川浪」(万1139))、ウヂノミヤコ(「兎道乃宮子」(万7))、ウヂノワタリ(「宇治度」(万2428)、「于遅乃渡」(万3236)、「氏渡」(万3240))、ウヂヒト(「氏人」(万1137))、ヤソウヂカハ(「八十氏河」(万50・264)、「八十氏川」(万2714))などとある。
表記は、ウヂという言葉に対してその語感、ないしは、語義としたものを表わそうとした痕跡である。ウヂから感じ取れる上代人のイメージには、特異な点が2点あったと推測される。第一に、今日の人にとっては意味に繋がりがあるとは俄かには思われない「氏」という字を平気で当てていること、第二に、「菟・兎」(うさぎ)の「道」のこととも思われていることである。ウヂという地名の言葉があって、それに字を当てているだけだから、いわゆる語源的な探求やその証拠を示しているわけではない。音でしかなかったヤマトコトバを感じたままに文字を当てたのか、あるいは当ててみたらそのように表記が可能であったからなのかについては、卵が先か鶏が先かの議論である。結果的に、そう表記されるのであれば、そういう意味がその言葉(地名)には含まれていると認めることとなったのである。そうすることで、ウヂという言葉は再発見、再活性化されて我々の前に立ち上がってくる。人は言葉を使ってものを考えるから、なにほどか自らの考えが進んでより賢くなった気がしたのではないか。
上代のものの考え方に、言霊信仰と呼ばれるものがあったとされている。一般には、言葉に霊的な力が宿っていることであると誤解されている。しかし、その本質は、言葉が事柄と同一である、相即であるとする考え方である。言葉がなければものを考える術がないから、言葉はとても大切である。その大切なものを大切に使うためには、発語行為は必ず真でなければならない。そうしないと意味世界はカオスに陥る。言葉≒事柄であるようにすることが、世界を安定させる唯一無二の方法であった。それは、文字を持たなかった人々にとって、とても理解されやすい考え方である。時には、ひとつの言葉のもつ多義性をうまく活用して、あるいは、一義の裏面から拡張して真であると見せるまでしたのであった。表記がないとき、人が言葉の間の関係を橋渡しするには、類推思考しか手段はなかったからである(注12)。いま検討しているウヂという言葉においても然りである。
第一の「氏」=宇治説について検討する。氏はたくさんいる。八十氏ともいうほどである。彼らが身に着けていた衣服は、偉い人たちが着る装束とは異なり、魏志倭人伝に伝えられるいわゆる貫頭衣であった。貫頭衣の形式の名残りとして、襅はあった。すなわち、チハヤ(襅)+フル(古)のものを身に着けていたのが有象無象の氏ということになる。だから、「ちはやぶる」はウヂを導いて自然である。
また、ウヂガハが「氏河(氏川)」であると〝定義〟してみると、ウヂ(氏)というところの場所的な性質は見えてくる。漢字の字書が流入していたからである。説文に、「氏 巴蜀に山の岸脅(がけ)の旁(かたはら)に著きて落堕せんと欲する者を名けて氏と曰ふ。氏崩(く)ゆれば、数百里に聞ゆ。象形、乁声。凡そ氏の属、皆、氏に从ふ。楊雄の賦に、響き氏の隤ゆるが若し。(氏 巴蜀山名、岸脅之旁箸、欲落𡐦者曰氏、氏崩、聞數百里、象形乁聲、凡氏之屬皆从氏、楊雄賦、響若氏隤。)」とある。この記述の当否、すなわち、氏という漢字の成り立ちとして正しいかどうかなど、上代の人は無関心であったに違いない。金石文の研究など行われていない。借り物として漢字を利用しているだけである。説文に書いているように「氏」とはそういうものであると考えてみている。一定人数以上の人たちがウヂというところについて思考実験してみたのである。その結果わかったことがある。ウヂと呼ばれているところは漢字に「氏」の義にして、ウヂハヤシ(崎嶇、迍、迍邅、阻、劇、難、坵)なところなのだ、と。
実際の「宇治の渡」がどのようなところであったかなど、五七五の世界に容れる必要はない。人が集まっていて、そこで歌が歌われて、歌った人と聞いた人とがわかりあえること、それが歌の現場である。行ったことのない人が思い描く「宇治の渡」は、字書にある「氏」の義を体現している、急峻にして難所に値するところと想定したのである。まさに、道の神に祈りを捧げなければ越えられないようなところだろうと類推され、ならばということで、「ちはやぶる」という枕詞が冠せられている。
第二の、ウヂが菟(兎)の道とする認識もかなりの確率で存在する。古事記には稲羽の素兎の説話が伝えられている。そのなかで、隠岐島(「淤岐島」)から気多岬(「気多前」)へと兎が渡ってきた道は、和邇(わに)の背中の上であった。荒唐無稽とも取れるその説話は、臼を竪杵で搗く従来の舂き方に対して、大陸から唐臼の伝来したことを物語っている(注13)。兎の道とは、黙って作業する唐臼(踏臼、横臼)のことを示している。唐臼の足で踏んでいるところから搗かれている臼までは距離があり、搗いている穀物が散らばったら、箒状のもので臼に返していた。遠隔操作である。
「碓」(蒔絵師源三郎画・人倫訓蒙図彙・巻六、元禄三年刊、国文学研究資料館オープンデータ、http://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200016830/images/200016830_00138.jpgをトリミング)
箒のような形の道具に、僧侶の使う払子(ほっす)がある。獣毛や麻などを束ねて柄を付けたもので、古来、インドで虫を払う道具であった。仏教で法具となり、麈尾(しゅび)と呼ばれる類似形もあって正倉院にも残っている。仏教では殺生を嫌うから用いられる。払子は、形が削り掛けに似ているところから、その異名にもなっている。削り掛けは、ヤナギやヌルデなどの柔らかい枝の一方を細く削ったものである。京都の八坂神社の大晦日の削り掛け神事は、白朮祭(おけらまつり)とも呼ばれ、削り掛けに火がつけられて来る年の豊凶を占い、各家庭にその火を持ち帰る。民俗に、削り掛けは削り花ともいい、農作物の穂が垂れてよく稔った姿とされ、豊作を予祝するお飾りとされた。行事名を、御幣担ぎ、おんべ振りと呼ぶところもある。削り掛けは御幣と形がよく似ている。
アイヌの削り掛け「イナウ」の図(松浦武四郎『蝦夷漫画』安政6年(1859)、東博展示品)
「イナヲ」で船のための木を伐る前の祈りの図(村上貞助・蝦夷画帳、写年不明、国立公文書館展示品)
仏教で、削り花は、旧暦十二月の御仏名(仏名会)に用いられ、花のない時季のお供え、お飾りになっている。仏名会は、仏の名を唱えることで心、体、ことばの三つの穢れを清め、清浄な身になって新年を迎えようという儀式である。一年の罪障を洗い落とす六根清浄のために、三日がかりで過去、現在、未来の仏の名を唱える。裸参りや水垢離も行われた。削り花は神事における大幣(大麻)(おおぬさ)と用途がよく似ている。花、削り掛け、幣、御幣は、もともとみな同じことなのである(注14)。民俗事例を見てきたのは、唐臼を利用するときに箒状のものを使うのが、道行きにおいて道祖神に祈る際の幣に相当するからである。唐臼を足で踏む姿は、歩く行為に符合している。箒状のもので払うのは、道行きの先払いに見立てられる。兎の道行きとはまさしく、旅立ちにおいて襅(ちはや)を着て幣を振ることそのものを哲学的に言い表していると言えるのである。だから、枕詞「ちはやぶる」は「菟道」を導くとして正しい。
七
もう少し、「ちはやぶる」という言葉の深奥に迫ってみよう。「ちはやぶる」の例文は、歌謡と記紀の会話文にのみ見られ、地の文にないことは口頭語、口語体であることを示唆していた。すると、チハヤブルのハヤは、疑問、推量、感動を示す助詞として想起された可能性が指摘できる(注15)。助詞のハヤについて、紀の声点は、図書陵本・兼右本に、上上、平上、上平の三通りが見られる。允恭紀四十二年十一月条の「宇泥咩巴椰彌ゝ巴椰(うねめはや みみはや」のハヤに、図書寮本では、上上、平上、兼右本では、平上、平上、雄略紀十二年十月条の「伊比志陀倶彌皤夜阿拕羅陀倶彌皤夜(いひし匠はや あたら匠はや)」(紀78)のハヤには、図書寮本・兼右本とも上平、上上、推古紀二十一年十二月条の「佐須陀気能枳彌波夜那祇(さす竹の 君はや無き)」(紀104)のハヤには、図書寮本・兼右本とも、上上、仁賢紀六年九月条の「阿我図摩播耶(吾が夫(つま)はや)」のハヤには、図書寮本に、上平、兼右本に、上□と入り乱れてある。間投されているのだから、言い方によっているということであろう。つまり、枕詞「ちはやぶる」の「意味が分厚すぎる」(大浦2017.)義のなかには、チ+ハヤ+フル=チ?!+フル、すなわち、「あれまあ、茅だなんて…、というものを振る」という意味のあることが浮かびあがる。
茅は、チガヤのことで、イネ科の多年草である。地下茎がはびこり原野に繁茂し、葉は線状で先が尖って、高さは60cmほどになる。春、葉に先立って花茎を伸ばし、多くの小花をゆたかに集めた白くて柔らかな綿毛の穂をつける。穂のことを、茅花(ちばな・つばな)という。古く、成熟した穂を火口(ほぐち)に用いた。削り掛け神事、白朮祭を思い起こさせるものがある。茅花は、中国で「白茅(はくばう)」と呼ばれる。詩経・召南・野之死麕に、「野(や)に死麕(しきん)有り、白茅もて包む。(野有死麕 白茅包之)」、易経・大過に、「初六、藉(し)くには白茅を用てす。咎无し。(初六、藉用白茅。无咎。)」とある。死の穢れを清めるとされていたようである。
チガヤ(2014年5月)
大幣(鹿島神宮)
払子や削り掛け、茅花に似る大幣は、お祓いの時に用いられる。幣(ぬさ)は布帛で、神に祈るときに捧げられたり、罪を祓うときに差し出されたのが源とされる。白川1995.に、「幣(へい)という字の示すように織物であり、衣類の類を供えたもので、それに穢れを移し祓(はら)う意があったものかと思われる。」(586頁)とある。「ちはやぶる」の用例の③、⑪歌に見えている。仲哀記の「国の大祓」に、「大奴佐(おほぬさ))」が差し出されている。本来であれば死罪になるはずの罪人も、幣によって免れることができた。祓の具としての大幣の用法は、祓を受ける人が手で引いて罪や穢れを移す方法と、物品に対して神官が左、右、左に振る方法があり、後に、人に対しても振るようになった。また、旅の安全を祈願するために、細かに截った布帛を袋に入れ、道路に散じて神に供えた。幣袋といい、死者の旅立ちにも棺に入れた。後、五色の紙や米麦を混ぜ入れ、道祖神に奉った。作業効率的に考えるならば、道を急ぐ人には面倒くさく、また、時間も取るものである。その逸る気持ちを抑えて、冷静さを弁えることが、旅の安全にとって実は欠かせない要素である。早くは済まないお参りをしたほうが、かえって早く無事に目的地に到着する。この一見、矛盾するような行いを、「ちはやぶる」という言葉は、論理形式の地平に向けて言い表しているのである。
串刺しの幣(信貴山縁起絵巻・尼君の巻(模本)、明治時代、19世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0083571をトリミング)
以上から、「ちはやぶる」という言葉は、襅を着た祝(はふり)が、茅花のようなものを振っている様子を表すところから、「神」や「宇治(の渡り)」という言葉を導いていると知れる(注16)。
八
最後に、「ちはやぶる」のその後の顛末についてみておく。角川古語大辞典に、「ちはやふ(ぶ)る」は、①連体詞、②枕詞、に並び、③名詞で、「虫除歌(むしよけのうた)のこと。」という項が立てられている。「「千早振る卯月八日は吉日よかみさけ虫をせいばいぞする」を略していう。「千早の歌」とも。「千早振る札は八日に限るなり」〔柳多留・一二一〕」(300頁)と説明する。民俗行事に、灌仏会の甘茶を貰い受けて墨にし、千早の歌を紙に書き、上下逆さにして門口や台所、厠に貼っておくという風習がある。
歌川豊国画、豊国豊広両画十二候「卯月」大判三枚の左(アムステルダム国立美術館蔵、https://www.rijksmuseum.nl/en/search/objects?q=utagawa+toyokuni+toyohiro&p=6&ps=12&st=Objects&ii=4#/RP-P-1958-151A,64をトリミング、東京都立中央図書館http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00049207参照。)
千早の歌のお札は、虫除けのまじないである。期待された効用は、お釈迦様が払子によって蚊をやらうのに同じく、殺生しないままに払い除けるということであろう。本当に叩き殺すとなると、「神さげ虫をせいばいは釈迦破戒」(柳多留一〇六)と解される。逆さに張るのは払子を振るうさまに準えたものでありつつ、釈迦と逆とを掛けたものと思われる。「壁に貼る四月八日はお逆かさま」(柳多留一五三)とある。卯月八日とは花祭のことで、仏教で釈迦の誕生日とされ、灌仏会、仏生会が営まれる。今日では、金銅製誕生仏に甘茶をかけるが、それは江戸期頃からのことかとされている。それ以前は、奈良時代から、香水(こうずい)(閼伽(あか))をかけていた。推古紀十四年四月条に、「是年より初めて寺毎に、四月の八日・七月の十五日に設斎(をがみ)す。」とあるのが始まりとされている。
花御堂(はなみどう)(大田区池上)
千早の歌については、いくつか類例がある。
ちはやふる 卯月八日は 吉日よ かみさけむしを せいばいそする(俚言集覧)
ちはやぶる 卯月八日は 吉日よ 神さけ虫を せいばいぞする(世事百談)
年々の 卯月八日は 吉日よ 尾ながのむしを せいばいぞする(同・周防国野上の里)
今年より 四月八日 吉日よ 神さけ女郎 せいばいぞする(同・日光道中の間久里なる秋田屋)
千はやふる 卯月八日は 吉日よ 髪さげむしを せいばいぞする(五節供稚童講訳)
千はやふる かみさげむしの せいばいは 卯月八日の 吉日にせよ(同)
新玉の 卯月八日は 吉日よ かみさけ虫を 成敗ぞする(年中故事)
「神さけ虫」については、太田全斎・俚言集覧に、「髪さけ虫」、「このうたむけに詞のととのはぬ歌なり。中人以下にてする事なり」とあり、井上頼圀・近藤瓶城の増補には、「かみさげむし 京にて糞中のうじをいふ」とある。また、山崎美成・世事百談に、「この歌は神職の仏をいやしめたるなるべし」、「神さけむしは仏をさしていへるなり」、玉田永教・年中故事に、「髪下虫とは出家沙門の事也」、山東京山作・歌川国安画の五節供稚童講訳に、「この歌は誰人の詠めるといふも定かならねど、近き昔よりする事なり」、「髪さげ虫は蛇の事」とする説が載る。
山東京山・五節供稚童講釈・初編四、国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10303546(21/28))
ところが、和漢三才図会には、天漿子(くそむし)の項に、「屎虫を避ける咒歌(まじないうた) 之れを書きて厠の口に貼れば、則ち日あらずして屎虫は消散す。但し倒(さかさま)に貼る可し。今年より卯月八日は吉日よ尾長くそ虫せいばいそする」とある。天漿子については、「羽化して大蝿と為る。〈形は虻に似る。俗に布牟布牟虫(ふむふむむし)と云ふ〉。」とある。後端に尾状の突起があって、不浄の水に生ずるハナアブの幼虫、俗にいうオナガウジのことではないかとされている。尾部をくねらせて泳ぎ、モヤシのお化けのような気味の悪いものである。
天漿子(くそむし)(2014年5月)
「天漿子」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596384?tocOpened=1(12/41)をトリミング)
モヤシという語には、酒を醸造するのに用いる「蘖(もやし)」がある。和名抄に、「糵 説文に云はく、糵〈魚列反、與祢乃毛夜之(よねのもやし)〉は牙米也といふ。本草に云はく、糵米、味苦く毒無し、又麦糵も有らむといふ。」とある。延喜式・造酒司式に、いろいろな酒の醸造法として、米・蘖・水などの調合分量が記されている。蘖については、種麴ではないかといわれるが、今日でも、麦芽からビール、トウモロコシからチチャなど、穀物を発芽させたものから酒が造られている。いずれにせよ、モヤシはお酒と密接な関係にある。ハナアブの幼虫は、そんな形をしているから、神酒虫(かみさけむし)と呼ばれたのではなかろうか。
千早の歌は、四月八日はお釈迦様の誕生日なのだから、煩悩を断って酒を飲まない日にしようとの意を掛け合わせて成ったものであろう。そして、口さがない江戸期の人たちは、逆にあれほどうまい酒を嫌がる聖人君子とは、動物ではなくて植物のようなものだから、モヤシっ子みたいだとして小咄が生まれたのではあるまいか。類歌に「神さけ女郎」などとあるのは、煩悩の他の側面、性欲のことを示唆しているようである。禁欲奨励日に煩悩を払うために、「ちはやふる」、つまり、大幣を振ってお祓いをすると洒落たのであろう。
以上、「ちはやぶる」という語の展開形について見てきた。無文字時代の上代の大多数から、江戸時代の無文字世界に生きた「中人以下」の人々にとって、言葉はほぼほぼ音声言語であった。声の文化に圧倒されるような形で存した言葉群がたくさんあったのである。そのひとつである枕詞は、口頭的に多層に意味をにじみこませた挙句、訳がわからなくなってしまった言葉である。枕詞の意味がさっぱりわからないのは、我々の言語活動とは別次元の言語活動であったからである。枕詞を〝理解〟するための前提条件としては、洒落や地口によって愉快極まりないものとするべく、綾なすように織り込まれ造られた言葉であると捉えることがあげられよう。ひとつひとつ丹念に枕詞の端緒、糸口を見出して言葉の編み目を繙くこととは、口語上の生成論をたどる作業に他ならない。それをせずに枕詞を〝解説〟しても後講釈以上のものとはならない。ひいては、万葉集の歌や記紀の説話の本当の理解に繋がるものではないのである。
(注)
(注1)廣岡2005.に、「枕詞とは一体何なのであろうか。なぜこういう表現様式が起こってきたのであろうか。枕詞は修辞の一種であると言うことができるが、その起源となるとむつかしい。……言語遊戯としての枕詞を考えてみたい。私がいう「言語遊戯」とは概念が広くて、同音・類音の懸詞・繰り返しから、比喩・形容・連想・転用、更には説明表現までをさす。その基底に流れる言語意識は、正面から構えた表現ではなく、「言葉遊び」としての性格を帯びる。だからと言って、この「言語遊戯」が不真面目な表現を意味するものでは決してない。古代口承世界における自由な言語活動のありようであったと考えられる。」(355~356頁)、「『萬葉集』において孤例の枕詞が一九六例、二例の枕詞が六五例(計二六一例)存在し、『萬葉集』中の枕詞三九八例中、約六五パーセントを用例数僅少の枕詞が占めている……。……新たな言葉の技は徐々に展開されていったものと思われる。それを言語芸術と呼ぶのは余りにも大袈裟である。ささやかな局所的連接の言葉の綾という形で、後世呼ぶところの枕詞は形成されていったものと考えられる。」(375頁)としている。
(注2)大浦2017.に、「意味もかかり方も不明なままに、ある語を導き出してくる固定的な枕詞の持つ喚起力は、社会的に共有される伝統性―その伝統性はしばしば幻想としてのそれであるが―によって支えられている。繰り返されることによって強化される「様式(型)」の力である。枕詞には、その伝統性の共有感覚によって、人びと―作者・享受者の別なく―を歌の世界に引き込む力を有しているのである。……しかも枕詞は、五音句であることによって、歌にとって根本的な―日常語とは異なる「歌」という表現形式を作る―様式(型)である五・七の韻律とも深く関わっており、歌という表現形式を作り出す上で、非常に重要な役割を担っているのである。「枕詞は訳さない」でいいのか、というテーマに対する答えであるが、訳したくても訳せない、というのがその答えであろう。それは「意味がない」からではない。意味が不明のものも含めて、「意味が分厚すぎる」ゆえに訳せないのである。」(8~9頁)とまとめられている。
(注3)白井2003.に、「万葉集の表現」の「技法」の最初の項に、「枕詞」を説明している。「「ひさかたの」「あしひきの」など通常五音節で、以下につづく特定の語(上記の例でいえば「天/月」「山」など)を修飾することば。歌の内容には直接かからない。修飾される語のほうを、便宜的に被枕詞、被枕、受詞などと呼ぶ。枕詞は、神名・地名などの固有名詞に対する称辞的な修飾を本質とするものだが、万葉集では、普通名詞に冠する例が著しく、用言に冠するものも多い。枕詞と被枕詞との関係は、意義の上で、繰り返すもの(ま玉手の―玉手)、同じ内容を言い換えるもの(島つ鳥―鵜)、枕詞が被枕詞の属性を表すもの(若草の―妻)、主語と述語の関係に準ずるもの(ぬばたまの―黒)などがある。さらに、懸詞によって連接する場合(まそがよし―蘇我)もあるが、基本的に枕詞と被枕詞とは、言い換えの関係といえる。」(153頁)と解説されている。
これは万葉集の表現の一技法として、枕詞をアプリオリなものとして解説したものである。「ひさかたの 天/月」「あしひきの 山」「ま玉手の 玉手」「島つ鳥 鵜」「若草の 妻」「ぬばたまの 黒」「まそがよし 蘇我」という事例を観察し、様式として並べ立てて報告している。枕詞という用語が後代の造語であったように、文法的に現代的な解釈の枠組を与え、用語を使って再説明しているにすぎない。
我々が求めているのはそんなことではない。柿本人麻呂が多くの枕詞を使っているのであれば、時空を飛び越えて、人麻呂にインタビューを試みることである。今あなたが歌っていた歌の「ひさかたの」っていう使い方、「ひさかたの」はどういう意味で、どういう考えからそういうふうにそんなところで使っているのですか? と。万葉集は現場で歌われている。研究室で起きているのではない。
(注4)記50歌謡に対応する紀42歌謡、またそれらの話の続きであらわれる記51・紀43歌謡には、「宇治」を導く枕詞として「ちはやびと」が使われている。(注15)参照。この歌の解釈に関しては、拙稿「大山守命の反乱譚の歌謡について」参照。
(注5)文字を持たずに言葉を使うこと、あるいは、文字を持たずに言葉を使っていたのが俄かに文字を知って併用し始めた頃の言葉の使い方は、現代の我々も実は卑近に観察することができるし、経験もしてきている。今日の早期幼児教育に失敗はしているものの、言葉に関しては音で覚えて体系化してから、一語一語に後から字を当てて学んでいくのが通例である。小学校低学年の児童が、なぜあれほどまでなぞなぞに没入できるのかという問いは、言語活動が無文字から有文字へと大転換を引き起こす活況期にあるからと考えられる。上代の言語活動の実態は、まさにそのような状況下にあってのものと推測される。これらの議論は、言語に関する発達心理学が取り組まなければならない課題であろう。メタ認知能力の獲得をもってなぞなぞに興じるようになることは知られているが、その後、なぞなぞから興味が離れていく過程については、形式的操作の段階に至るからかと思われるものの十分には議論されてはいないようである。無文字の言語に特徴的なのは、記号の対象化ができないこと、すなわち、メタ認知のメタ化、メタメタ認知に至らないことが一因なのではないかと考えている。ヤマトコトバの場合、言霊信仰と呼ばれる言葉と事柄との一致性に固執したことによって、言葉が具体性から遊離することなくむしろ深化する方向へと循環化したのではないか。いま発した言葉が当該言葉を自己解説していくように造語することを好み、その一例が枕詞であったと考える所以である。いわゆる和訓と呼ばれる語も、大陸から流入した事物や観念などについてヤマトコトバに採り入れるに当たり、その体系の内側に理解できるように造られたもので、自ずと自己説明を伴った新語であったと筆者は考える。
(注6)このまとめ方に筆者も同意する。ただし、その評価の仕方は筆者とは異なる。
(注7)吉田2008.も秋永2009.同様、枕詞に語源を求めている。さらに、地名についてまで語源を求めている。筆者は、地名の語源を探ることに意味があるという立場に立つこともできない。要は、縄文・弥生時代にどのように当該の言葉が形成されたかではなく、記紀万葉の上代、飛鳥時代にどのようにその語が受け止められたかである。それは、ヤマトコトバに漢字を当てるという、世界的に見てきわめて稀有な工夫を行った民族の、独自性、固有性を表すものでもある。
なお、吉田2008.の地名ウヂの語源説に、諾地・諾道とする説が示され、宣命のウヂハヤキ時の例からウヂという語は当為速決を表すものであると推測している。誘導尋問のような難渋にして危うい議論である。
(注8)Aaron 2012.に“wonderful joke”としてあげている英語ジョークを引いておく。
Q:What do ducks do before they grow up?
A:They grow down.(156p)
エッシャーを捩った表紙
(注9)吉田2008.は、⑳例の「千磐破 鐘(かね)の岬を 過ぐれども 吾は忘れじ 志賀の皇神(すめかみ)」について、「この歌には掛詞の用法があって、(海の)道速(みちはや)ぶることの辛うじて可能な、通り兼(かね)る思いのする金(かね)の岬(それは怖い岬だがそこ)を通りすぎることができても、私は然(しか)と忘れることはありません。志賀(しか)の海神さまのお加護であることを。という一首の意味である。」(372頁)とする。さらに、類語のチハヤビトについて、「ミチハヤビト(道早人)がチハヤビト(千早人)だとすると、その道早人の着用した衣服も、チハヤ(襅)といった理由がよく分かるであろう。巫女とか神事に奉仕する人、先払いして歩く神人などの着る衣服で、……肩衣(チャンチャンコのような袖無し)のような簡素な衣服である(『神道大辞典』)。とすると、これは急速に動作するイチハヤ(逸早衣)の意にもかなっているが、《ミチハヤ(道早衣)=道を早く歩ける衣服》でもよいことになる。もっとも、道早人から逸早人の意に移った後の用語かもしれない、とも考えられる。」(376頁)とする。結論として、「チハヤブルの成り立ちは、ミチハヤブル(道速)にありとし、派生的な意味としてチハヤブル(霊威振)も認めてよいか、と思う。チハヤブル(霊威振)の解釈は、第二義的な二重構造になっている。」(373頁)としている。そして、「枕詞の語源の場合、それが正しいものであった時は、枕詞をもつ歌全体がぐっと面白くなり、味わい深いものになるから、国語学的語源の研究は、文学鑑賞にも役立つのである。」(381頁)と結んでいる。
(注10)筆者は、今日の万葉集研究において、歌の表現方法がすぐれているといった意見を耳にするが、それは和歌史においてか、あるいは、現代人が現代人の感覚で現代人の認知の枠組から見た単なる〝感想〟ではないかと疑っている。万葉集に採録されている歌のほとんどは、人麻呂以降のように文字に書いて作った歌であったにせよ、歌われて声になって披露されたものであったろう。そして、初期万葉や東歌や防人歌ばかりか、数多くの歌は、文字に書かれることさえなく直に歌われたものであったと思われる。それがたまたま記されて現代まで受け継がれている。恋のやり取りをする相聞歌にしても、平安時代、宮廷近くの人が、恋文に和歌を記して相手のもとへ届けて思いを伝えるというのではない。あくまでも音声に発して思いは伝えられた。歌は、声として歌われたから歌であった。
(注11)万葉集には、東歌、防人歌のように、辺境の民の歌も万葉集には採られている。しかし、採られているということは、すでにヤマト朝廷に飲み込まれたヤマトの一員だからである。「其の国の荒振(あらぶ)る神等(かみども)を言趣(ことむ)け和(やは)せ」(記上)というように、ヤマトコトバが政治的な支配力を有していた点に思いを致さなければならない。近代に植民地支配後も国境はそのままで宗主国語を公用語としている。枕詞について考えることは、ヤマトコトバの政治学についても問われていると気づかねばならない。
(注12)文化人類学の知見によれば、文字に書かれなければ再帰的に思考することができず、したがって、客観的、分析的、抽象的にではなく、恒常的、類推的、具体的にしか考えることができないとされている。
(注13)拙稿「稲羽の素兎の説話は、唐臼と文字の到来を語る」参照。
(注14)五来2010.に、「[花祭の]ハナは「端」であって、その先に祖霊がとどまって供養をうける依代(よりしろ)なのである。これは祖霊がやがて神(氏神)となったとき、ヒモロギとして神殿内に立てられるようになる。そしてこの常磐木のハナがケズリカケ(アイヌならばイナウ)となり、これが麻や木綿になればヌサであり、紙になれば御幣(ごへい)である。花と御幣はもともとおなじものであった。」(94頁)とある。
(注15)拙稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」参照。
(注16)地名の宇治(うぢ)に関しては、「千早人(ちはやびと)」という枕詞や、「もののふの 八十氏川(やそうぢかは)」という定型表現もある。貫頭衣風の襅を着ていた存在というばかりでなく、黙って唐臼を使い箒を左右に振る様子は、まるで神官のようである点や、たくさんの岸が険しい支流が合流する様が、戦場で軍勢を率いる際に用いた采配のようであるとする形容に掛けあわされている。武士が振る采配は、一尺ほどの柄に千切りの紙片や獣毛を細長く垂らしたもので、大幣、払子、削り掛け、茅花によく似ている。
(引用文献)
Aaron 2012. Debra Aaron, Jokes and the Linguistic Mind, Routledge, London, 2012.
秋永2009. 秋永一枝『日本語音韻史・アクセント史論』笠間書院、2009年。
大浦2017. 大浦誠士「「枕詞は訳さない」でいいのか」松田浩・上原作和・佐谷眞木人・佐伯孝弘編『古典文学の常識を疑う』勉誠出版、2017年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義『角川古語大辞典 第四巻』角川書店、平成6年。
広辞苑 新村出編『広辞苑 第七版』岩波書店、2018年。
五来2010. 五来重「花祭と花供養」『宗教歳時記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成22年。
白井2003. 白井伊津子「枕詞」神野志隆光編『必携 万葉集を読むための基礎百科』學燈社、2003年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新谷2014. 新谷正雄「ち【霊・乳】」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
吉田2008. 吉田金彦「枕詞「ちはやぶる」の成り立ち」『吉田金彦著作集2―万葉語の研究 下―』明治書院、2008年。
※本稿は、旧稿「枕詞「ちはやぶる」について」を大幅に加筆訂正したもので、2021年1月にさらに追記した。