古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略記の赤猪子説話について

2020年01月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略記に載る赤猪子あかゐこ説話は、いわゆる語りの部分と四首の歌の部分とで構成される。その両者の関係については、今日までのところ明快な解答が得られていない(注1)。本稿では、最初の歌、記91歌謡が歌われるに至る必然性を見極め、説話の前半にある散文部から後半の歌謡部へと、ためらいなく当たり前に連続していることをテキストを読み込むことで検証し、上代人の言葉の感性について確認する。

 亦、一時あるときに、天皇すめらみこと遊行あそばす。美和河みわがはに到りし時に、河のきぬを洗ふ童女をとめ有り。其の容姿かたちいとうるはし。天皇、其の童女に問ひしく、「いましが子ぞ」ととふ。答へてまをさく、「おのが名は引田部ひけたべの赤猪子あかゐこと謂ふ」とまをす。しかくしてらしめく、「いましとつがずあれ。いましてむ」とのらしめて宮に還りいましぬ。
 かれ、其の赤猪子、天皇のみことあふぎ待ちて既に八十歳やそとせぬ。是に赤猪子、以為おもへらく、「みことねがふ間に、已に多くの年を姿体かたち痩せしなえて更にたのむ所無し。然れども待ちつるこころあらはすに非ずはおぼろかへず」とおもひて、百取ももとり机代つくえしろの物を持たしめて、でて貢献たてまつる。然れども天皇、既にさきおほせし事を忘れて其の赤猪子に問ひて曰はく、「汝は誰が老女おみなぞ。何の由以ゆゑつる」といふ。爾くして、赤猪子答へて白さく、「其の年の其の月に天皇のみことかがふりて、大命おほみことを仰ぎ待ちて今日けふに至るまで八十歳を経。今し容姿既にいて更に恃む所無し。然れども己が志を顕し白さむとして参ゐ出でつらくのみ」とまをす。是に天皇大きに驚きて、「吾は既に先の事を忘れつ。然れども汝が志を守り、みことを待ちて、いたづらに盛りの年をすぐしつるは、これいと悲し」と心のうちはむとおもふに、其の極めて老ゆるをいたみ、成婚はずて御歌を賜ふ。其の歌に曰はく、
 御諸みもろの 厳白檮いつかしもと 白檮かしが本 ゆゆしきかも 白檮原かしはら童女をとめ(記91)
又歌ひて曰はく、
  引田ひけたの 若栗わかくる栖原すばら 若くへに てましもの 老いにけるかも(記92)
爾くして赤猪子が泣く涙、悉く其のせる丹摺にずりの袖を湿ぬらす。其の大御歌おほみうたに答へて曰はく、
 御諸に くや玉垣たまかき あまし にかもらむ 神の宮人みやひと(記93)
又、歌ひて曰はく、
 日下江くさかえの 入江いりえはちす 花蓮はなばちす 実の盛りびと ともしきろかも(記94)
爾くして、多くのたまひものを其の老女に給ふを以て返しつかはす。故、此の四つの歌は志都歌しつうたぞ。(雄略記)(注2)

 赤猪子の話から、どうして記91歌謡へとつながるのか、必然性が見極められなくてはならない。「美和河みわがは」とあるから三輪山付近での出来事とわかる。よって、「御諸みもろ(三諸)の」で始まることは理解できる。「御諸(三諸)の」を承けているから、「厳白檮いつかし(注3)という神聖と思われる木が導かれていると一応は言える。万葉集から「厳白檮が本」と「御諸」の例をあげる。

 黙然もだ有りし しるしにむと 背子せこが い立たせりけむ 〔五可新何本〕(万9)(注4)
 御諸の〔三諸之〕 かみ神杉かむすぎ(万156)
 御諸の〔三諸乃・三諸之〕 神奈備山かむなびやまに(万324・1761・3268(~ゆ))
 屋戸やどに 御諸を立てて〔御諸乎立而〕(万420)
 御諸の〔三毛侶之〕 その山並やまなみに(万1093)
 木綿ゆふ掛けて 祭る御諸の〔祭三諸乃〕 神さびて(万1377)
 はふりらが いはふ御諸の〔齋三諸乃〕 真澄鏡まそかがみ(万2981)
 御諸は〔三諸者〕 人のる山(万3222)
 春日野かすがのに いつく御諸の〔伊都久三諸乃〕 梅の花(万4241)
 
 記91歌謡において、なぜ「神杉」や「神奈備山」や「真澄鏡」や「梅の花」などではなく「厳白檮いつかし」が選ばれているのか。それは本文中に示唆されている。雄略天皇自身の赤猪子に対する問いかけ、説きかけである。
 汝者誰子
 汝不嫁夫今将喚
このニ文は、次のように訓まれなければならない。
 いましが子ぞ。
 いましとつがずあれ。いましてむ。
 イマシの話である。「汝」という字は、ナムジ、ナ、ナレ、ナヒト、ミモト、イ、イマシなどと訓む。赤猪子の話の妙味は、童女から八十歳の老女になるまで時間の経過をストップさせた赤猪子の頭の中のことにある。話はいつのことか。イマシ(今し)のことであったはずである。何十年も経過してしまったら、ふつう、「忘」れる。天皇は、当時、「美和河」に「遊行」したとき、洗濯していたかわいい娘を冷やかした。イマシはイマシだよって。そしてご機嫌で、「宮に還りいましき」と決めている。「いまし」ているから確かである。

 たらちねの 母にさやらば いたづらに 汝〔伊麻思〕もわれも 事は成るべし(万2517)
 す国の とほ朝廷みかどに 汝等いましらが〔汝等之〕 かく退まかりなば たひらけく われは遊ばむ ……(万973)
 桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋の盛りと 今し〔今之〕散るらむ(万1855)
 くれの しげを 霍公鳥ほととぎす 鳴きて越ゆなり 今し〔伊麻之〕らしも(万4305)
 大汝おほなむぢ 少彦名すくなびこなの いましけむ〔将座〕 志都しつ石屋いはやは 幾代いくよにけむ(万355)
 万世よろづよに いまし〔伊麻志〕たまひて あめの下 まをし給はね 朝廷みかど去らずて(万879)

 なぜ天皇は冷やかすに及んだのか。天皇は最初に引田赤猪子を見かけたとき、あれッ、変だな? と思った。根本的な誤解に気づいたのである。そして問答してみても、やはりカテゴリー錯誤を来していることがわかったからである。最初の変だな! という気づきは、
 河辺有洗衣童女(河のほとりできぬを洗う童女がいた。)
である。「きぬ(キは甲類)」という語は着物、衣服という意である。袖を通して着られる状態のものをいう。今日の衣類と違い、伝統的な衣服は、和裁で仕立てたら長期間着続けた。洗うときにはまず縫いを解いて一枚の布地に戻す。その布地の状態を洗い、板に張って乾かし、再び縫って仕立てて「きぬ」に復元する。「着る(キは甲類)」という語と関連する語であると考えられていたと思われる(注5)
洗濯(当盛見立人形之内 粂の仙人、一勇斎國芳画、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312567?tocOpened=1) 
 おほろかに われし思はば したに着て れにしきぬを 取りて着めやも(万1312)
 女郎花をみなへし ふる沢辺さはへの 真田葛原まくずはら 何時いつかもりて きぬに着む(万1346)
 かくのみに ありける君を きぬに有らば 下にも着むと が思へりける(万2964)
 つるばみの きぬき洗ひ 真土山まつちやま もとつ人には なほかずけり(万3009)
 洗ひぎぬ 取替川とりかひがはの 川淀かはよどの 淀まむ心 思ひ兼ねつも(万3019)

 万3009番歌に、洗濯する際にはまず解いてから洗うことが明らかである。万3019番歌では、解かずに洗うことで起こる問題を主題にしている(注6)
 引田赤猪子の説話の本筋は、きぬを洗うのに解かれないままという不自然な状態が続き、解かれないままの誤解が最終的に行き着いた先の話である。誤解の続きはすぐにあらわれる。まったくもって順序を知らない子だ! 親の顔が見てみたい。そういう次第から、天皇は、
 汝者誰子(お前は誰の子か?)
と、親のことを聞いている(注7)。なのに彼女は、
 己名謂引田部赤猪子(私の名は引田部赤猪子と言います。)
と答えている。女性が名を名乗ることは求婚に応える意味があったとされている。天皇に、小学生ぐらいの美少女を妻に迎える気はなく、形式的に尋ねたのであろう(注8)。どこのお嬢ちゃんだい? 期待していたのはどこどこの家の子だよ、という答えであったろう。ところが、家のことは言わずに名前ばかりを言ってきた。女が男に名を名乗ることの意味がどういうことかさえ、親は教えていないのか? 求婚に際して仮に答えるとしても、どこどこの家の誰それの娘の何々であると答えるものである。どこまでも取り散らかった幼い童女(注9)である。これを童女の逆プロポーズと捉えるなら、それは座興である。だから宮に還って「いまし」ている。
 そんな女の子に掛けてあげる言葉は、名前を名乗るなんてこと簡単にするんじゃないよ、名乗っちゃったら結婚を約束しているようなことだからね、という意味のことである。それを戯れて言ってみた。
 いましとつがずあれ。れ今ししてむ。
この部分について、「汝不嫁夫今将喚」を「汝不夫。今将喚」と解して、
 汝はとつがずあれ。今ししてむ。
のように訓む解説書が多い。この訓はもどかしい。夫に嫁がないで自分に嫁ぐようにと促しているという意味なのであろうが、嫁いだ相手を「(をうと)」という。仮に雄略天皇に嫁いだとしても、そのとき天皇は「夫」になる。洗濯の手順も知らずに洗濯している幼い子にいいなずけのような相手がいたとも思われず、手順を知っているまともな子なら初対面の相手に自分の名前ばかり名乗ったりはしない。「夫」は発語の意味のソレである。そもそも、いったい、などと訳される。

 やつこ安万侶まをす。れ、混元ひたたけたるもの既にりて、けはひかたち未だあらはれず。(記序)
 山背大兄王やましろのおほえのみこたちこたへてのたまはく、「……あに其れ戦ひ勝ちて後に、まさ丈夫ますらをと言はむや。れ身をてて国を固めば、また丈夫にあらずや」とのたまふ。(皇極紀二年十一月)

 発話文中にソレについては、皇極紀の例のように、ましてや、言うなら、結局のところ、のような意で使われている。雄略記の場合も、話の流れを見れば、はい、それはほれ、そういうことで……、の意として、気合い的な発語として発せられていると考えられて然るべきである。会話のやり取りをたどると、
 (1)いましが子ぞ。
 (2)おのが名は引田部ひけたべの赤猪子あかゐこと謂ふ。
 (3)いましとつがずあれ。
以上のことをまとめると、さて、かくて、ということで、そんな次第でして、はい、
 → れ今ししてむ。
ということになっている。話のオチとして、イマシを「今し」として登場させている。天皇も、アハ! と気づいたのであろう。勢いをつけて洒落を言おうとして、「れ」と発語している。
 当然、「今し」に「喚」さなかったらこの話はおじゃんである。全体に洒落、冗談ばかりの言語遊戯だからである。ところが、赤猪子には通じなかった。「いまししてむ。」と受け取り、お前のことを召し抱えよう、と求められていると勘違いした。そもそもが衣を解かずに洗う輩である。誤解は解かれることがなく、さらに上を行くカテゴリー錯誤を引き起こしている。時間が経過した今になって再び問答が行われる。
 汝者誰老女(お前は誰の婆さんか?)
多年を経た「いまし」に眼前の「いまし」は「誰が老女ぞ」と問うことになっている。誰を主人とする家で介護を受けているお婆さんか。
 天皇は赤猪子に、「今し」童女の設定で話しかけたのに、彼女のほうは「何時いつかし」的な長閑な時間感覚で喚されるのを待っていた。シは、方向の意である。上代に、「何時か」は、いつになったら……か、の意で、期待を込めて待ち望むことを言う。強意の助詞シを入れて強調した「何時しか」の形もある。

 かはづ鳴く 清き川原かはらを 今日けふ見ては 何時いつか越え来て〔何時可越来而〕 見つつしのはむ(万1106)
 まとほくの 雲居くもゐに見ゆる 妹がに 何時か到らむ〔伊都可伊多良武〕 歩めが駒(万3441)
 曇り夜の たどきも知らぬ 山越えて ます君をば 何時とか待たむ〔何時将待〕(万3186)
 大原の この厳柴いつしばの〔此市柴乃〕 何時しかと〔何時鹿跡〕 吾が思ふ妹に 今夜こよひ逢へるかも(万513)
 はやきて 何時しか君を〔何時君乎〕 相見むと 思ひしこころ 今そぎぬる(万2579)

 天皇から見れば、なんとも悠長な時間感覚に「驚」いたことであろう。だから彼女は、イツカシと呼んでふさわしい。そして、極めて老いているからどうにも触れることができない。代わりといっては何だが、歌を贈ることにした。神聖だから触れられないという言い方をした。イツカシなのだから見てくれは老女でも心は永遠の童女で止まっている。ヤマトコトバの連鎖を続けているうちになだれ込んだのが「厳白檮いつかし」の歌である。

  御諸みもろの 厳白檮いつかしもと 白檮かしが本 ゆゆしきかも 白檮原かしはら童女をとめ(記91)

 美和河で出会ったから「御諸の」という語を冠して言うのにふさわしいし、「何時いつかし」と冀い続けた超長期的な考えをした元少女に贈ろう、(みもろの)神聖な白檮の木の下に立つようだ、白檮の木の下にいるようだ、神聖で近寄りがたいなあ、白檮原童女は。

 笑い話として記91歌謡は歌われている。イマシ→イツカシ→カシの木にたどりつき、神聖性をもってごまかす機転が効いている。目の前にしている引田赤猪子の老残ぶりに対して、「白檮原童女」とある点に疑問が持たれている(注10)が、上に述べた通り、彼女はイツカシで停止している存在である。
 後の歌は、特に飛躍的な着想をもって展開されているわけではない。巧妙な比喩を伴った歌がくり広げられている。

 引田ひけたの 若栗わかくる栖原すばら 若くへに てましもの 老いにけるかも(記92)
 引田の若い栗の木の生えている原っぱは、栗の木が若いうちになら共寝なさったものを、栗の木が成熟したようでイガが多くて寝られないなあ。

 「率寝てましもの」と「老いにけるかも」の主語について、前者を天皇、後者を引田赤猪子とするのが通説ながら、山口2005.に、「一つの歌の中に、主語の表現されていない句が二つある時、特別の理由がないかぎり、二つの句の主語は同じであると考えるべき」(286頁)とし、主語は両者とも天皇であるとする。筆者は新説を唱える。「率寝てましもの」の主語は天皇である。マシ(坐)は自称敬語に機能している。一方、「老いにけるかも」の主語は、「(引田の)若栗栖原」と表現されているのだからそれが主語であると考える。栗の若木を育てているときは寝転がることはできるが、成熟して実を落とすようになったらイガが痛いから寝転がることはできないという意味である。歌の「老い」表現の主意は栗の木のそれで、引田赤猪子の「老い」を比喩的に表した修辞的な歌になっている。
 つづいて、天皇の「大御歌」に答えた赤猪子の歌が二首載っている。

 御諸に くや玉垣たまかき あまし にかもらむ 神の宮人みやひと(記93)
 御諸の社に付きものの立派な垣根を、築き尽せずに上物うわものを残して、誰のお屋敷の塀とするために支えに依らせればいいのでしょうか。神の宮に仕える宮人でしたら神以外に依るところなど考えられません。

 記91歌謡に呼応して「御諸」で始まっている。山口2005.は、第三句の「つき」について、イツク(斎)やツカフ(仕)と語源的に相許容しないものとして排除し、「「付き」、すなわち<(神に)付き従う>の意と考えるのが素直である。」(291頁)とするが、神に付き従うとはどういうことか不明である。現代と違い、何人なんぴとたりとも神への信仰を捨てるとは考え難い。筆者は、もっと素直に、第二句の「つくや玉垣」の「つく」を「付く」、第三句の「つき余し」を「築く」と考える。地面を掘って塀の柱を入れて築き固めるか、基礎を先に築き固めてその上に塀を設置するか、いずれにせよ築く作業が必要である。上物の塀の方はたくさん作り置きしておいて、社のまわりに築きながらぐるりと張りめぐらせてみたところ、塀が余ってしまった。さて余った塀を誰のお屋敷に使ったらいいのか。「誰にかも依らむ」の「依る」は、まっすぐに立たせるために添え柱に依らせることをからめて歌っている。塀の構造として、強風にも傾かないように添え柱を伴っていた。神さまの社用に拵えた塀を他に代用するなど罰が当たらないか。そんな比喩を歌うことで、記91歌謡に神聖なる「白檮原かしはら童女をとめ」と揶揄された引田赤猪子は、自分の身、それは「神の宮人」に当たることになってしまうが、さて誰に預けたらいいのかと嘆いている。
出雲大社摂社門神社瑞垣添柱風景(出雲市HP「出雲大社」http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1443770396262/index_k.html)

 日下江くさかえの 入江いりえはちす 花蓮はなばちす 実の盛りびと ともしきろかも(記94)
 どこにでもあるいくらでもある種々くさぐさを思わせる日下くさか江の入江の蓮、その蓮に咲く花は一日花だけれど、今、蓮が実を結んで蜂の巣のようになってしまった身には、花の日のことが羨ましいことよ。

 「日下江の」という地名提起は唐突と思われ、雄略天皇の大后の若日下部王を引き合いに出す説が提出されている(注11)。それは誤りで、クサといえばどこにでもあって名もないその他たくさんのものをいう(注12)。つまり、どこの蓮でもかまわないのだけれど、蓮を導くために「入江」を持って来たかった。そんなどこでもいい入江のことを導くためには「日下江」と冠するのがいちばん当てはまる表現だからそうしている。
 どうして蓮の歌が歌われているのか。記92歌謡に呼応して歌っているからである。栗の木が若かったら実は成らず、イガが散ることもなくて寝ることはできたのに、という歌に対して、蓮は結実して充実したときよりもむしろ、若くして花を咲かせているほんの一日のほうが羨ましいものだ、と言っている。三句目を「身の盛り人」と捉え、若い盛りの花を咲かせる時の人のこととするのは、ミ(乙類)というヤマトコトバに「身」と「実」が同根である点が考慮されていない。蓮は古語にハチスである。蜂の巣と形状が似ているからハチスという名になっている。蜂の巣をつつけば蜂がわんさか押し寄せてきて針を刺す。それはちょうど栗のイガが刺すようにである。だから誰も近寄っては来ない。
 「日下」をクサカと訓むように、「日(day)」がクサである。どこにでもあるありきたりのかわり映えのしない毎日が日常というものである。だから、「日下江くさかえの 入江いりえはちす 花蓮はなばちす」という連鎖的修飾関係が行われている。「日」に焦点を当てた歌である。そんな「日」を積み重ねて「童女」は「老女」になる。時間は「今し」でストップするものではない。「何時かし」と思っていては人生に置いてけぼりを食ってしまう。説話の内容を締めくくるのにもってこいの修辞がするどく効いている(注13)
 以上、古事記の引田赤猪子の説話において、散文部と韻文部が密接に関係していることを述べた。

(注)
(注1)引田赤猪子の説話については、ジョークのわからないままに多く論じられてきた。古事記全巻に注釈したものを除いて瞥見したものを以下に記す。
 青木周平『青木周平著作集 上巻─古事記の文学研究─』おうふう、2015年。(『古事記研究─歌と神話の文学的表現─』おうふう、平成6年。)
 板垣俊一「赤猪子の物語」『日本文学』第33巻第10号、1984年10月。
 猪股ときわ『異類に成る─歌・舞・遊びの古事記─』森話社、2016年。
 太田真理「引田部赤猪子伝承小考」『日本神話をひらく─「古事記」編纂一三〇〇年に寄せて─』フェリス女学院大学、2013年。
 大脇由紀子「『古事記』赤猪子説話の歌謡」上田正昭編『古事記の新研究』学生社、2006年。
 尾畑喜一郎『古代文学序説』桜楓社、昭和43年。
 烏谷知子『上代文学の伝承と表現』おうふう、2016年。(「『古事記』雄略天皇条の構成─若日下部王と赤猪子の伝承を起点に─」『学苑』891号、2015年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリhttps://swu.repo.nii.ac.jp/records/5861)
 神野志隆光『古事記とはなにか─天皇の世界の物語─』講談社(講談社学術文庫)、2013年。(『古事記─天皇の世界の物語─』日本放送出版協会(NHKブックス)、1995年。)
 神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』東京大学出版会、2007年。
 小林真美「赤猪子物語の展開─『古事記』における時間意識をめぐって─」『文学・語学』第180号、平成16年10月。
 品田悦一「歌謡物語─表現の方法と水準─」『国文学 解釈と教材の研究』36巻8号、学燈社、1991年8月。
 島田晴子「赤猪子の歌謡物語」『論集上代文学 第八冊』笠間書院、1977年。
 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
 戸谷高明『古事記の表現論的研究』新典社、平成12年。
 長野一雄『古事記説話の表現と構想の研究』おうふう、1998年。
 身﨑壽「ウタとともにカタル─赤猪子物語論─」『萬葉』204号、平成21年4月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/2009
 守屋俊彦『古事記研究─古事記伝承と歌謡─』三弥生書店、昭和55年。
 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
 山本節「引田部赤猪子」『国語国文学報』(愛知教育大学国語国文学研究室)第31集、昭和52年3月。
 吉田幹生『日本古代恋愛文学史』笠間書院、2015年。
 吉永登『萬葉─その異傳發生をめぐって─』和泉書院、昭和61年。
 このうち、板垣論文は饗宴と提喩としての歌謡をテーマとし、守屋論文は記の「童女」は宗教的なものに包まれているとし、長野論文は引田赤猪子説話の不可解さについて詳しい。
(注2)原文は以下のとおりである。真福寺本、兼永本等による。

亦一時天皇遊行到於𫟈和河之時河𨕙有洗衣童女其容姿甚麗天皇問其童女汝者誰子荅白己名謂引田部赤猪子尒令詔者汝不嫁夫今将喚而還㘴於宮故其赤猪子仰待天皇之命既經八十歳於是赤猪子以為望命之間已經多年姿體痩萎更無所恃然非顕待情不忍於悒而令持百取之机代物𠫵出貢獻然天皇既忘先所命之事問其赤猪子曰汝者誰老女何由以𠫵来尒赤猪子荅白其年其月被天皇之命仰待大命至于今日経八十歳今容姿既耆更無所恃然顕白己志以𠫵出耳於是天皇大驚吾既忘先事然汝守志待命徒過盛年是甚愛悲心裏欲婚悼其極老不得成婚而賜御歌其歌曰𫟈母呂能伊都加斯賀母登加斯賀母登由々斯伎加母加志波良袁登賣又歌曰比氣多能和加久流湏婆良和加久閇尒韋祢弖麻斯母能淤伊尒祁流加母尒赤猪子之泣淚悉濕其所服之丹摺袖荅其大御歌曰𫟈母呂尒都久夜多麻加岐都岐阿麻斯多尒加母余良牟加微能𫟈夜比登又歌曰久佐迦延能伊理延能波知湏波那婆知湏微能佐加理毗登々母志岐呂加母尒多禄給其老女以返遣也故此四歌者志都歌也

 訓読において、筆者の考えを反映させたものを記した。基本的に、稗田阿礼が口ずさんでいるのが原文であるとする点から、過去のことは過去形で機械的に訓まなければならないとする考えは排除した。口頭でお話をする時、時制を枠組んで話したりはしない。その場にいるつもりで話すから、話(咄・噺・譚)はありありと思い浮かぶものである。
 「遊行」をアソバスと訓んだのは、本居宣長・古事記伝の卓見による。
 「不忍於悒」は新編全集本に、「「不忍」はシノビズと読むのが普通だが、原文には「不忍於悒」と「於」があるからタヘズと読む。シノブ(忍)は古くは助詞ヲをとる。」(341頁)とし、イフセキニタヘジと訓んでいる。しかし、イブセシは心が晴れないさま、憂鬱な気分をいうのでふさわしくない。「悒」字は記には他に一例ある。

 兄子者既成人是無悒。弟子者未成人是愛。(応神記)

 これを新編全集本は「無悒」をオホツカナキコトナシと訓んでいる。オボツカナシ(覚束なし)は、はっきり知覚できず、不安感、先行き不透明感を表すからここにはふさわしくない。オホツカナシに似通った言い方にオホロカ、オホホシがある。

 つぬさはふ 磐之媛いはのひめが おほろかに〔飫朋呂伽珥〕 きこさぬ 末桑うらぐはの木 寄るましじき かは隈々くまぐま 寄ろほひくかも 末桑の木(紀56)
 おほろかに〔凡尓〕 われし思はば したに着て れにしきぬを 取りて着めやも(万1312)
 しきやし おきなの歌に おほほしき〔大欲寸〕 ここのらや かまけてらむ(万3794)

 語幹のオホ(オボ)はぼんやりしていて、はっきりせず、不安定であることをいう。朧月おぼろづきは、出ているんだか出ていないんだか、何日目の月なのか霞んでいてわからない、収まりの悪い月光をいう。紀56歌謡も、磐の姫がいいかげんには聞き入れない、どうだっていいことと許しはしない、並大抵なものとして粗略には扱わないという言い方である。
 応神記の例は、兄は成人していてしっかりしている、弟は未成年で定まらないところがあると比較している。応神記は、「兄はおほほしきこと無し」と訓むべきである。成人していて幼いことはないからである。オホホシは幼さゆえの間抜さを示している。雄略記の「不忍於悒」は、オホロカニタヘズと訓み、事の次第をはっきりしないままであることに耐えられない、と解すべきである。
 また、「愛」字をエと訓む点については、拙稿「古事記のサホビメ物語について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/409df1a4513ed94a0b63264673b829efほか参照。
 歌の後で話を締めくくるに当たって、「爾くして、多くのたまひものを其の老女に給ふを以て返しつかはす。」としている。「返遣也」の「遣」はヤルと訓む解説書が多いが、天皇が赤猪子を「」すと言ったことから誤解が始まっていた。使用人としてツカフこと、つまり宮へ来させて仕えさせることと反対のことになるから「返し遣はす」ことになるのである。
(注3)歌謡原文「加斯(賀斯)」はカシである。橿、樫、白檮と記される。応神記、允恭記に「白檮」とある。
(注4)拙稿「「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 吾が背子が い立たせりけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)」(万9)の訓」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5a166f50ac11ceac2b8801d25c0e7aeb参照。万9番歌のほうが記91歌謡を本歌としている可能性も高い。引田赤猪子の話は、ヤマトコトバのカテゴリー錯誤によって始まった問題をカテゴリー錯誤によって閉じようとして歌謡が歌われている。万9番歌は、額田王が斉明天皇の代わりに詠んだものである。罪を得て行幸地の紀の湯に引っ立てられた有間皇子の姿を歌っている。「黙然もだ」という言葉は、①黙っている、②何もしないでいる、の二義に用いられる。有間皇子は謀反など企てずにいた(②)というのなら、尋問で黙っていなければならない(①)が、「天与赤兄知。吾全不解。」と喋っている。時制を変えて何とかしようという魂胆ではないか。「何時いつかし」的野心が現れているではないか、ということである。
(注5)「きぬ(キは甲類)」という言葉について、語源的に「る(キは甲類)」に結びつけようとする説がかつて行われた。着る布の約とする説である。いま、語源を問うているのではない。上代の人の語感として、両者は深く関連がある語であったと仮説を立てている。そう思われていたとすると、言葉の世界の視野が開ける。
 袖を通せば着られる状態の衣類を「きぬ」と称していたとき、新たに大陸から「ケン」という素材が渡来した。それはただ製品としての絹糸や絹織物が到来しただけではなく、蚕ならびに養蚕技術とともに来ている。「絹」はとても上質の繊維で、第一の使用目的は上層階級の着衣のために用いられた。衣服として仕立てられることを目途としたら、その「絹」という物には、「きぬ(キは甲類)」というヤマトコトバを当ててわかりやすい。なぜなら、第一に、蚕は繭を作って自らの「きぬ」にしている。その糸口を見つけて拝借し、いろいろな作業工程を経てから人間の衣服、「きぬ」に仕立てている。そして、第二に、到来物だからである。「ぬ(キは甲類)」である。絹という意味のキヌ(キは甲類)という言葉は、和訓として造られた言葉と言える。
(注6)万3019番歌については、拙稿「万葉集における洗濯の歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c5d4d5de2d83a06f6cbdde7f9bd3712a参照。
(注7)西郷2006.に、「誰が子ぞとの問にたいしては「大山津見神のムスメ、……名は木花之佐久夜毘売」、「丸邇ワニ之比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売」と応じる例だが、ここに己が名だけを答えている……。少なくともここで父の名を答えたとしたら、それは正式の結婚を意味することになり、次のような話にはなりえないはずである。」(36~37頁)とある。また、青木2015.は、「古事記で喚上される女性達……は、いずれも美しい「嬢子」がいると耳にした天皇が、「喚上」する形をとる点で共通する。それらの女性は、いずれも地方豪族の娘でもあり、……服属伝承の型としておさえることが可能であろう。……それに対して赤猪子は、喚上されないという展開をもつ点において、他の女性達とは一線を画するものがある。服属伝承では律しきれないところに、赤猪子物語の特質を認めるべきであろう。」(460~461頁)としている。だったら何なのか、どうしてそうなっているのか、それを読み解くことが研究というものであろう。唯一無二の明解は、パロディであるというに尽きる。
 なお、瀬間2024.は「汝者誰」とある部分について、「問いと答えが乖離してしまう」(17頁)から、他の「誰子」の用法とは違い、口語の接尾辞「子」で、「誰子」=「誰」の意であるとする考えを述べている。問いと答えの乖離があるから話(咄・噺・譚)として成立している。
(注8)天皇が巡行して娘を妻に迎えたことは、応神天皇に例がある。

 かれ木幡村こはたのむらに到りいましし時に、麗美うるはしき嬢子をとめ、其の道衢ちまたへり。爾くして、天皇すめらみこと、其の嬢子に問ひて曰はく、「いましが子ぞ」といふ。答へて白さく、「丸邇わに比布礼能意富美ひふれのおほみむすめ、名は宮主矢河枝比売みやぬしやがはえひめ」とまをす。天皇、即ち其の嬢子にらく、「あれくる日かへいでまさむ時に、いましが家に入りいましがほし」とのる。故、矢河枝比売、委曲つぶさに其の父に語る。是に、父答へて曰はく、「是は天皇にいましたるなり。かしこし、が子、つかまつれ」と云ひて、其の家を厳餝かざりてさもらひ待てば、明くる日に入りいましたり。故、大御饗おほみあへたてまつる時に、其のむすめ矢河枝比売命に大御酒盞おほみさかづきを取らしめて献る。是に、天皇、其の大御酒盞おほみさかづきを取らせしめながら、御歌みうたよみしてのたまはく、……

 雄略記の引田赤猪子と何が違うか。誰の子かと聞かれてきちんと親の名を答えたうえで自分の名を名乗っている。そして、天皇の方から出向く旨を伝え、女性の家では親に当たるその家の当主が準備を整えている。酒宴は翌日に女性のところで開かれ、通い婚が成立している。引田赤猪子のように、何十年も経ってから自分の方からケータリングサービスを差し向けるようなことはしない。とんだ茶番劇であるとわかる。
 なお、丸邇の比布礼能意富美が、娘に声をかけたのが天皇であると知ったのは、「いまし」、「いまし」と言っていたと聞いたからである。敬語であり自称敬語であるような言葉遣いは天皇に限られていたということであろう。
(注9)記において、「童女」は他に3か所に見られる。

 ……老夫おきな老女おみなと二人在りて、童女をとめを中に置きて泣けり。……乃ち湯津爪櫛ゆつつまくしに其の童女を取り成して、御みづらに刺して、……(記上、櫛名田比売)
 爾くして、其のあそびの日に臨みて、童女をとめの髪の如く、其の御髪みかみけづり垂れ、其のをば御衣みけし御裳みもて、既に童女の姿と成り、女人をみなの中に交り立ちて其のむろうちに入り坐しき。爾くして、熊曽建くまそたける兄弟はらから二人、其の嬢子をとめでて、己がなかしめして盛りに楽びき。(景行記、小碓命の変装)
 天皇、吉野宮に幸行いでましし時に、吉野川のほとりに童女有り。其の形姿かたち美麗うるはし。故、是の童女に婚ひて、宮に還りいましき。後に更に亦、吉野に幸行しし時に、其の童女が遇へる所にとどむ。其処そこ大御呉床おほみあぐらを立てて、其の御呉床みあぐらいまして、御琴みことを弾きて、其の嬢子をとめまひしむ。爾くして、其の嬢子が好く儛ふに因りて、御歌を作る。(雄略記、吉野の童女)

 小碓命の変装条、吉野の童女条に、「童女」→「嬢子」と表記が変えられている。青木2015.に、「「童女」と「嬢子」はその指示内容に重なる一面があるよう」(459頁)であるとするが、太安万侶の苦心を顧みないものである。小碓命の変装条では、垂髪の「童女」の姿に変装したら、蛮族の熊曽建は成人女性が髪をあげる風習を知らずに「嬢子」だと捉えたことを示そうとしている。吉野の童女条では、「後更亦」とあるように、時間的経過が示されている。以前、「童女」として「遇」った、そこへ「大御呉床」を「立」てて「坐」して「御琴」を「弾」いて、今、「嬢子」に成長しているのを「儛」わせている。なぜ「童女」が「儛」うのではだめなのか。稚児舞になってしまうからである。この部分、「後更亦、幸-行吉野之時、留其童女之所_遇。於其処、立大御呉床而、坐其御呉床、弾御琴、令其嬢子。」と訓んだ。新編全集本では、「後、更亦、幸行吉野之時、留其童女之所於其処、立大御呉床而、坐其御呉床、弾御琴、令其嬢子。」(344頁)と区切って一二三四点を付している。以前「童女」が現われ出た所に留まって、の意と解して問題はなく、そう解する注釈書も多く見られる。
 太安万侶の書記的感覚としては、「童女」にセクシャルな感触はないものとしている。雄略記の引田赤猪子においても、美和河で洗濯している「童女」の「其容姿甚麗」とあっても、色気を覚えていることを示してはいない。吉野の童女条に見られるように、成熟した女性の魅力とは無関係に、年端もいかぬ美少女に対して問答無用に「婚」してしまうのが、記の雄略天皇像である。傍若無人ぶりは紀にはさらに描かれている。よって、引田赤猪子に対して、天皇のほうから正式に求婚しているとは考えられない。
 ウルハシという語については、古典基礎語辞典に、「ウルとハシから成るか。ウルは湿るの意のウルフ(潤ふ)や水分をゆきわたらせる意のウルホス(潤す)などと同根か。ハシは愛しい意か。上代には、風景や相手を、壮麗だ、立派だとたたえる気持ちを表した。」(211頁、この項、依田瑞穂)とある。河で洗濯していたら湿り気を帯びて潤っていて当然である。
 記の用字に「麗」とあるのは次のとおりである。みなウルとハシから成っていると考える。

 麗しき壮夫をとこ・麗しき神(記上、大穴牟遅神、母の乳汁を塗る)
 麗しき美人をとめ(記上、木花之佐久夜毘売、大山津見神の娘で笠沙の岬で遇う)
 麗しき壮夫・麗しき人(記上、火遠理命、井の上に居る)
 其の容姿かたち麗美うるはし(神武記、勢夜陀多良比売、三島湟咋の娘で水が溝にある)
 麗美しき壮夫(崇神記、美和山の神、ミワ(ミは甲類)は水が輪になって取り巻いている)
 其の容姿かたち麗美し(景行記、兄比売・弟比売、三野国造が祖、大根王の娘、ミノ(ミ・ノは甲類)は本来水がないはずの野にまで水が潤沢にある)
 麗美しき嬢子をとめ(応神記、宮主矢河枝比売、丸邇氏の娘(ワニは鰐)で名に河を負う)
 其の顔容かたち麗美しき(応神記、髪長比売、日向国より難波津に泊つ)
 美麗うるはしき嬢子(応神記、天之日矛の嫡妻、沼の辺に昼寝していた賤しい女が生んだ玉の化身)
 其の形姿かたち美麗し(雄略記、吉野の童女、吉野川の浜)

(注10)土橋1972.、島田1977.、神野志2013.。
(注11)島田1977.、品田1991.、山口2005.。何十年も田舎に引きこもっていた引田赤猪子に、天皇の婚姻事情をあげつらう設定はナンセンスである。
(注12)拙稿「「日下」=「くさか」論」参照。
クサ
(注13)これらの歌謡は、「志都歌しつうた」であると注されている。その意味するところについては稿を改めて論じたい。

(引用文献)
青木2015. 青木周平『青木周平著作集 上巻─古事記の文学研究─』おうふう、平成27年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第八巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。

※本稿は、2020年1月稿を、2024年7月に手を入れて訓みの誤りも正しつつルビ形式にしたものである。

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