古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀の治水事業について―仁徳朝と推古朝の「堀江」記述をめぐって―

2020年02月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 今日、記紀の説話や逸話には、2つの捉え方があるようである。第一に、あまりにも唐突にして前後のつながりを見出せない部分的な個所の場合、歴史の断片として記されていると考えるものがある。第二に、天皇制の正統性を主張するために構想された、大掛かりなフィクションの一部を構成するものであると考えるものである。これらのいずれの捉え方も、近代のフィルターを通したものの見方、考え方である。文の意味を“説く”(“解く”ではない)ために、“外側から”枠組みを後付けしたものである。しかし、それが大かた、無文字時代にあると考えられる時代においては、同時代の同場所のことを、そのように捉えることはなかなかに考えにくい。覚えておこうとか、伝えていこうという意欲が起こらなければ説話や逸話は最初から生まれず、“外側から”、post-script的に、meta-physical的に後付けされることはない。
 喜界2003.は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念をわかりやすく説明している。「我々の生活は無数の行為の織りなす巨大なネットワークである。……ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という概念を通して我々の言語の実相を理解しようとするポイントは、この巨大なネットワークをいくつもの典型的な言語使用局面、つまりある種の単純な劇(シュピール)の集まりのごとくにみなそうとすることにある。この単純な劇(典型的言語使用局面)をウィトゲンシュタインは「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」と呼ぶのである。それぞれの言語ゲームは、簡単な背景、前後の脈絡、登場人物を持つ具体的なものであるため、その意味は我々にとって自然であり、極めて把握しやすい。それは「言語ゲーム/劇」とでも表記すべきものである。文の意味とはそれが属する「言語ゲーム/劇」の中でそれが果たす役割なのである。従って文は、それが登場する言語ゲーム/劇の数だけ異なった意味を持つことになる。」(247~248頁)
 記紀に残されている説話や逸話のほとんどは、そんな「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」として解読されることを待っている。私たちに求められているのは、説話や逸話が創られたり記されたりしていた当時の人々が、どのようにそれらを“内側から”体系化、組織化していたのかを知ることである。そんなことは当時の人に聞いてみなければわからないことだから不可能であると“科学的”には考えられている。けれども、厳然としてテキストは写し残されており、そこに書かれている「言語ゲーム/劇」がどのような一幕なのかについては、テキストの中に答えはあるものとして考えることが肝要であり、それは必ずや可能であると考えられる。なぜなら、無文字時代の人々は、今日の我々が当時のテキストを目にするのと同じように、それぞれの説話や逸話の状況設定がどのようなものか、実は知らないままに聞かされつつ聞くのと同時になるほどそうだと“内側から”理解して他の人に伝達するに至っていたと考えられるからである。そうでなければ、無文字時代のコミュニケーションはそもそも成り立たない。成り立っていたから社会は構成されていて、テキストとしても残されているのである。そして、私たちもあらゆる場面で「言語ゲーム」にさらされている。その能力を培うために、「国語」という科目はある。一貫して教えられるのは、テキストの内部に答えがあってそれを理解できるようにすることである。



 二十七年夏四月の己亥の朔の壬寅に、近江国言(まを)さく、「蒲生河に物有り。其の形、人の如し」とまをす。秋七月に、摂津国(つのくに)に漁父(あま)有りて、罟(あみ)を堀江に沈(お)けり。物有りて罟に入る。其の形児(わくご)の如し。魚(いを)にも非ず、人にも非ず、名けむ所(ところ)を知らず。(推古紀二十七年四月~七月)

 推古紀二十七年条は、特に前後の年と関係のある記事ではない。蒲生河に物が浮いていて人のような形をしていると近江国から四月に報告があり、七月に摂津国の漁夫が堀江に仕掛け網を設置したら物が入ったが、魚でもなく人でもなく何と名づけたらいいのかわからなかった、ということである。これが何を表しているのか、深く考えられた試しがない。
 従来の訓法では、最後の「不知所名」は「名けむ所(ところ)を知らず」と訓んでいる。今日の我々には理解される用法である。しかし、この「所」をトコロと訓む訓み方は、漢文訓読の際に助字「所」をそのまま訓む用法によって導き入れられたもので、平安時代以降に確かめられているものの、飛鳥時代にそのように訓まれた、すなわち、そのように話されていたとは考えにくい。場所を示さないトコロなる言い方は、口頭語ばかりの世界には抽象的で理解しがたい。
 物に命名するとき、特徴をとらえて名をつける。物体の一部から名をつけることもあるが、特に場所性にこだわるものではない。日本書紀に見られる漢文の助字「所」の例から考えると、「名けむことを知らず」、「名けむすべを知らず」、「名けむたづき(たどき)を知らず」などと訓むのが一法である。
 ただ、もっと簡潔な言い方が見られる。「所名」を名詞の「名(な)づけ」と訓む方法がある。「名づけを知らず」である。

 …… 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず 霊(くす)しくも います神かも ……(万319)
 …… 言ひも得ず 名づけも知らず 跡もなき 世間(よのなか)にあれば 為(せ)むすべも無し(万466)

 名詞「名づけ」は下二段動詞「名(なづ)く」の連用形に起こっている。万319番歌は、富士山を詠んだ歌である。そこに座(いま)す神は霊妙であると言っている。多田2009.に、万葉集の「「名づけ」は、未知のものを秩序の下に統御する行為。富士山の霊威は人知を遥かに超えるので、「名づけ」もできない。」(271頁)とする。「言ひも得ず 名づけも知らず」と、慣用的な言い回しになっている。言いようもなく、名づけようもない、という空前絶後感を表わしている。万466番歌は、愛妻を亡くして言葉を失っている様子を表わしている。世の無常さを受け止めることができない、という意味である。すなわち、「名づけ」を問題にするとは、「名」を問題とする以上の次元でわからないことを言っている。単にわからないというよりも、訳がわからないという言い方が似通っている。



 推古紀の例にこの訓がふさわしいのは、水に漬かった物体の呼称が問題になっている点である。水にひたることをナヅクという。

 ……諸(もろもろ)下(くだ)り到りて、御陵(みはか)を作りて、即ち其地(そこ)のなづき田を匍匐(はらば)ひ廻(もとほ)りて哭き、歌(うたよみ)して曰く、
 なづき田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻(もとほ)ろふ 野郎蔓(ところづら)(記34)(景行記)
 漚 於候一候二反、去又平、漬く也、漸す也、浮く也、清める也、奈津久(なづく)、又比太須(ひたす)、又水尓豆久(みづにつく)、又宇留保須(うるほす)也(新撰字鏡)

 推古紀の例は、「名(なづく)」と「漚(なづく)」とが同音であることから洒落を言っている。漚の物体をどう名づけるか、それがわからないのは、「名づけ(ケは乙類)」=「漚(なづ)け(ケは乙類)」、つまり、すでに水に漬かっている物体には名づけようがないということである。推古紀二十七年条の不可解な挿入記事は、この一口話の確立を謂わんがために記されていると考える。

 二十七年夏四月の己亥の朔の壬寅に、近江国言(まを)さく、「蒲生河に物有り。其の形、人の如し」とまをす。秋七月に、摂津国(つのくに)に漁父(あま)有りて、罟(あみ)を堀江に沈(お)けり。物有りて罟に入る。其の形児(わくご)の如し。魚(いを)にも非ず、人にも非ず、名づけを知らず。

 この一逸話について、そんなことはどうでもいいことではないか、何か歴史的な大事でもあるのかという疑問が持たれるかもしれない。深い読解が求められている。この記事をよくよく読んでみると、四月条には近江国の言葉が直接話法で記されている。七月条では摂津国の漁夫の言葉は説明されるだけである。なかなか不思議な書き方である。近江の国のが言ったとはないのに、「近江国」が話者になっている。他方、摂津の国では具体的に漁夫が登場しているが、何も語らずに「名づけを知らず。」と茫然自失している。摂津国の漁夫は、「言ひも得ず 名づけも知らず」状態に陥っているから、話法が使われていない。そのように文章が設定されている。状況が枠組まれているのである。



 蒲生河は現在の日野川で琵琶湖に注ぎ、そこから瀬田川、宇治川、淀川を下って大阪湾に注ぐ。大阪湾の河口付近はデルタ地帯でラグーンもあり、開墾に当たってそれなりの土木技術を有する氾濫危険個所であった。くり返し堤防が築かれては改修されてきたと考えられている。仁徳紀十一年条に大掛かりな工事を行なった記事が載る。

 十一年の夏四月の戊寅の朔甲午に、群臣(まへつきみたち)に詔して曰はく、「今朕(われ)、是の国を視(み)れば、郊(の)も沢(さは)も曠(ひろ)く遠くして、田圃(たはたけ)少く乏(とも)し。且(また)河の水横(よこさま)に逝(なが)れて,流末(かはじり)駃(と)からず。聊(いささか)に霖雨(ながめ)に逢へば,海潮(うしほ)逆上(さかのぼ)りて,巷里(むらさと)船に乗り、道路(みちおほち)亦泥(うひぢ)になりぬ。 故、群臣、共に視て、横(よこしま)なる源(うなかみ)を決(さく)りて海に通(かよは)せて、逆流(さかふるこみ)を塞(せ)きて田宅(なりどころ)を全(また)くせよ」とのたまふ。
 冬十月に、宮の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江(ほりえ)と曰ふ。又将(まさ)に北の河の澇(こみ)を防(ほそ)かむとして、茨田堤(まむたのつつみ)を築(つ)く。是の時に、両処(ふたところ)の築かば乃ち壊れ(くず)れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢(みいめ)みたまはく、神有(ま)しまして誨(をし)へて曰(まを)したまはく、「武蔵人強頸(むざしひとこはくび)・河内人茨田連衫子(かふちひとまむたのむらじころものこ)衫子、此には莒呂母能古(ころものこ)と云ふ。二人を以て河伯(かはのかみ)を祭らば、必ず塞くこと獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓(ま)ぎて得つ。因りて河神(かはのかみ)に祷(まつ)る。爰(ここ)に強頸、泣(いさ)ち悲びて、水に没(い)りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏(おふしひさこ)両箇(ふたつ)を取りて、塞き難き水(かは)に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投(なげいれ)て、請(うけ)ひて曰く、「河神、崇(あふ)ぎて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。是を以て、今吾、来(きた)れり。必ず我(やつかれ)を得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛(うかば)せそ。則ち吾、真(まこと)の神と知りて親(みづか)ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに偽(いつはり)の神と知らむ。何(いかに)ぞ徒(ただ)に吾が身を亡(ほろぼ)さむ」といふ。是に、飄風(つむじかぜ)忽(たちまち)に起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転(ま)ひつつ沈まず。則ち潝々(とくすみやか)に汎(うきをど)りつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹(いさみ)に因りて、其の身亡ぼざらくのみ。故、時人、其の両処を号けて、強頸の断間(たえま)・衫子の断間と曰ふ。
 是歳、新羅人朝貢(みつきたてまつ)る。則ち是の役(えだち)に労(つか)ふ。
 十三年の秋九月に、始めて茨田屯倉(まむたのみやけ)を立つ。因りて舂米部(つきしねべ)を定む。(仁徳紀十一年四月~十月~是歳~十三年九月)
 又秦人(はだひと)を役(えだ)ちて茨田堤、及(また)茨田三宅(まむたのみやけ)を作り、又丸迩池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を作り、又難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江(をばしのえ)を掘り、又墨江(すみのえ)の津を定む。(仁徳記)



 尾田2017.によれば、この記述の土木的要点は、十月条の最初に示されていることに尽きるという。「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く。」。それによって、「始めて茨田屯倉を立つ。因りて春米部を定む。」ことができた。湿地帯を田んぼに変えて豊かになった。
 そして、「この二つ[堀江開削と茨田堤築堤]の事業が一対のもので……仁徳天皇は二つの事業を平行して行い、田圃を増やそうとしている……。土木の実務家にとっては、遠く[直線距離でも十数キロメートル]離れた堀江と茨田堤という一見無関係に思える二つの工事が相互に関連していることこそがこの条のハイライトとなる。……二つの事業がどうして繋がるのか。まず、堀江を掘って河内湖の水位変動幅を大きさせる。こうすれば、干潮の時には、浅い湖だけに山側に大きな陸地が一時的に顔を出す。ここに堤を築くのである。山際から半円形に堤を築き出し、一時的に干陸化した土地を囲い込む。つまり堀江とは遠く離れた山際に堤防が築かれることになる。当然ながら一気呵成にとはいかない。毎日、毎日、繰り返す干満に合わせて、少しずつ延ばしていくしかない。この時大事なのは、満潮の時にでも土堤の頭が水の上に出るように堤を築くこと。こうすれば潮が満ちても堤防が消えてなくなることはない。」(36~37頁)(注1)
 以上の事業によって、河内湖(草香江)の周辺には肥沃な水田地帯が生まれた。多少のこだわりをもってすれば、堀江を入ったところに津(難波津)が営まれたはずなのであるが、その点について触れられていない。難波津は、後から整備されたということであろう(注2)
 「茨田堤」の位置については以前から推測されてきている。行基年譜・天平十三年記に、「高瀬堤樋」、「韓室堤樋」、「茨田堤樋」が見え、その茨田堤が仁徳紀のそれと同一であるととる見方もある(注3)。淀川の堤の一部を、記紀に「茨田堤」と記しているという考え方である。しかし、記紀に所載の記事は、「話(咄・噺・譚)」である。地名説話ではなく、人柱の話が活写されている。記紀の説話に「茨田堤」という名があるのは、第一に、話の設定として盛り込まれていると考えるのが適切である。わずかに離れたところを二か所の別の名の「絶間」とするのは不自然であろう。そして第二に、遠く離れた堀江開削と茨田堤築堤が関連事業であり、ビジョンをもった改良事業である。広範囲を一つの視野のもとに捉えているのであって、堤の名は一つでなくては話としてうまく成り立たない(注4)
 国史大辞典は、「茨田堤」について、「その場所の確定は困難であるが、あるいは淀川右岸[ママ]の堤の総称と考えるべきか。」(238頁、この項、亀田隆之。)としている。淀川本流ばかりでなく、河内湖へ流れ込む支流の小河川の堤を含んだ淀川流域の堤の総称とする説である。それがかなり正しい見解であろう。
茨田堤想定地図(国土交通省HP、http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0616_yodogawa/0616_yodogawa_01.html)
 推古紀二十七年条の「名づけも知らず」物体が堀江で網にかかるとは、とりもなおさず淀川水系の水流が、勢い河内湖へ入っていることを指し示している。茨田堤の切れていることが、この推古紀二十七年条からわかる。それは、治水上あまり好ましいことではない。北東から流れ来る淀川本筋系が滞っていて、東から流れ来て河内湖を作っている大和川系との分離が確保されていない。淀川本筋の河口に堆積が起こっているようである。その状態を放置すれば、せっかく開拓した河内湖東岸の田畑にも洪水が及ぶであろう。また、「津」の安定性も欠けることになる。「なづけを知らず」とは、すなわち、びしゃびしゃに浸っていて知ったことではないよ、言を俟たずにやばいよ、とても心配だから改修しようよという声があがっていることと捉えることができるのである。童謡(わざうた)の示唆よりも直接的な訴えの声と聞くことができる。実際の被害や具体的な様子としては、次のような記事がある。

 春より秋に至るまでに、霖雨(ながめ)して大水(おほみづ)あり。五穀(いつつのたなつもの)登(みな)らず。(推古紀三十一年)
 是歳、三月より七月に至るまでに、霖雨(ながめ)ふる。天下(あめのした)、大きに飢う。(推古紀三十四年)
 京(みやこ)の中(うち)に、驟雨(にはかあめふ)りて、水潦(にはたづみ)汎溢(あふ)る。又、伎人(くれひと)・茨田等の堤、往々(しばしば)决壊(くえやぶ)る。(続紀・天平勝宝二年五月)



 そのような事態は、実は仁徳朝の大工事の完了直後から起こっていた。仁徳記には、大后の嫉妬話としてとり上げられている。これまでのところ、一字がわからずに記事が読めていない。

 是に、大后(おほきさき)、大きに恨み怒りて、其の御船に載せたる御綱柏(みつながしは)をば、悉く海に投げ棄(う)てき。故、其地(そこ)を号けて御津前(みつのさき)と謂ふ。即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡+𡱝)/衍於堀江随河而上幸山代。此の時に、歌ひて曰く、
 つぎねふや 山代河(やましろがは)を 河上(のぼ)り 我(わ)が上れば 河の上に 生ひ立(だ)てる 烏草樹(さしぶ)を 烏草樹の木 其(し)が下に 生ひ立てる 葉広(はびろ) 斎(ゆ)つ真椿 其(し)が花の 照り坐(いま)し 其(し)が葉の 広り坐すは 大君ろかも(記57)
 即ち、山代より廻(めぐ)りて、那良(なら)の山口に到り坐して、歌ひて日く、
 つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(をだて) 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらき)高宮 我家(わぎへ)の辺(あたり)(記58)
 如此(かく)歌ひて還りて、暫(しま)らく箇木(つつき)の韓人(からひと)、名は奴理能美(ぬりのみ)が家(いへ)に入り坐しき。(仁徳記)
「即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡+𡱝)/衍於堀江随河而上幸山代」(左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184140/6、右:猪熊本古事記、同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438707/8)
 現在、「〓(⺡+𡱝)」または「衍」字は、寛文版本によって「泝」に改訂されており、「泝(さかのぼ)る」と訓んでいる(注5)。歴史的誤解である。
「〓(⺡+𡱝) スリコ」(名義抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1911885/12)
新撰字鏡に、「〓 度嵆反、研米槌」とある。〓は𣹲の異体字で、広韻には、「𣹲 研米槌也」とあり、籾殻を除くのに搗く杵のことを言っている。名義抄にスリコとあるのは、擂粉の意で、米を粉にして水に溶いてお乳の代わりに乳児に与えるためのもののようである。また、集韻に、「𣖅 槌也。𣸒𣹲 米瀾也、或从屖。」とあり、「𣹲」は米のとぎ汁のことを言っている。髪を洗うのに用いられた。ヤマトコトバに「ゆする(泔)」である。
泔坏(風俗博物館展示品、Заходите, гостем будете!様、https://zajcev-ushastyj.livejournal.com/229551.html)
 潘𤄜 二同正、孚園反、平、大也、姓也、浙米汁也、以可沐頭、借普寒反、或本作■(畨偏に反)◆(米偏に畨)二形非、由須留(ゆする)也 (新撰字鏡)
 其の間に面に垢つけば、潘(ゆする)を燂(わか)して靧(あらは)むと請ひ、足に垢つけば、湯を燂して洗はんと請ふ。(其間面垢、燂潘請靧、足垢、燂湯請洗。)(礼記・内則)

 この〓字部分は、兼永筆本に、「衍」とある。新撰字鏡に、「衍 余忍反、大也、垂也、豊也、善也、楽也、比呂万留(ひろまる)」とあり、説文に、「衍 水、海に朝宗するなり。水に从ひ行に从ふ」、集韻に、「衍 延面切、水溢也、曰大也」とあり、水の溢れることをいう。

 是歳、五穀(いつつのたなつもの)登衍(おひゆたか)なり。蚕・麦、善(うるは)しく収む。(仁賢紀八年是歳)
 天皇と皇后と、高台(たかどの)に居(ま)しまして暑きことを避(さか)りたまふ。(仁徳紀三十八年七月)
 今我(やつかれ)は是、日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向ひて虜(あた)を征(う)つは、此れ天道(あめのみち)に逆(さか)れり。(神武前紀戊午年四月)
コリントス運河を例にした想定図(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wik/運河、Inkey氏撮影ならびにコラージュ)
 つまり、堀江に入りきらないような大きな「御船」を、綱を使って「引き避(さか)」ったというのである。なぜそう言えるか。堀江に津の機能が発揮されていないことは、記事に津の造成に関する内容が含まれていないからわかる。記には、「又難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江を掘り、又墨江の津を定む。」とあって、「津」は墨江にあった。堀江には大掛かりな港湾機能はなく、大船を通すだけの水路幅がない。干拓の便のために堀江は掘られているに過ぎない。そこへ大きな船を無理やり入れて、揺するように座礁させたら、泔(ゆする)が溢れた。言い換えれば、大后は高津宮から「避(さか)る」ことをして、天皇に「逆(さか)る」意を表わした。同語反復に二重に形容している。堀江に「御船」を引き入れて栓をして流れを逆に戻し、水が周りに溢れたら、その上(かみ)にある河内湖の水位も上がって、淀川との間の堤防、茨田堤の一部が決壊してもとのように流れ込んだ(注6)。そこで、「河而上幸山代」ことが可能になっている。河内湖の水位が異常に高くなり、淀川との間の茨田堤が決壊して低い方へと一気呵成に流れたから、いったんは座礁したかに見えた「御船」が満潮時にあって「河而上幸山代」したといった表現が当てはまる。水路として続いていても流れに反して遡上になるとき、「随河」だけでは言葉不足である。例外は、堤防の決壊、満潮時の逆流、銭塘潮やポロロッカのような例である。

 河中(かはなか)に渡り到りし時に、其の船を傾(かたぶ)けしめて水(みづ)の中に墮(おと)し入れき。爾(ここ)に、乃(すなは)ち浮き出でて水の随(まにま)に流れ下りき。(渡到河中之時、令傾其船、墮入水中。爾、乃浮出、随水流下。)(応神記)
 遡流而上(かはよりさかのぼ)りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります。(遡流而上、径至河内国草香邑青雲白肩之津。)(神武前紀戊午年三月)



 決壊して米のとぎ汁のような白濁の水が流れた。濁った水は、満ち干をくり返している汽水湖、河内湖にもともとあったものはない。第一に、緩慢な流れをしていて、遠浅の干潟に沈殿していてきれいな水だからである。第二に、汽水湖のそれは塩分を含んでおり、𣹲として乳児に与えるわけにも、泔として髪を洗うわけにもいかないからである。茨田堤のおかげで干拓事業が進んで茨田屯倉は成っている。そこに舂米部(つきしねべ)が定められている。米を舂いて研いで炊くのには、当然ながら真水が求められる。真水の流れる淀川の水を使って米をとぎ、その下流で白濁を起こしているという謂いであろう。茨田堤が造成される前、合流していた。仁徳紀十一年条に両水域の分離が行なわれて成功したかに見えた治水事業は、皇后の嫉妬の末に簡単に壊れている。
「北の河の澇(こみ)を防かむ」とある「澇」字について、大系本に、「ちり、あくた。ただし澇の原義(大波、長雨)からはこの訓は直接には生れない。前本・天本にすでにすでに傍訓があるから、平安時代の語である。後世ゴミと濁音化する。」(②241頁)とある。大系本には次のような解説もある。

 此の田は、天旱(ひでり)するに漑(みづまか)せ難く、水潦(いさらみづ)するに浸(こ)み易し。(安閑紀元年七月)

「水びたしになりやすい。多く田についていう。仁徳十一年十月条にも「澇、コミ」とあり、新撰字鏡に「澇、水多、オホミヅ」とある。」(③217頁)とある。人名の当て字からコは甲類、四段動詞の連用形からミは甲類とわかる。おそらく、コミ・コム(澇)とは、田が水びたしになることの形容のために、米をといだ時の白く濁った汁が溢れることで表わそうとした言葉であろうと推測される。長雨から川に大波が起こり、堤防が決壊して出水の濁るさまを、澇という字で表わそうと工夫しているようである。澇は潦に通じ、潦はイサラミヅ、ニハタヅミのことをいう。
 ユスルと訓む「潘」字は、カスとも訓む。医心方・巻一の「粳米潘汁」の部分に、ウルシネカセルと付訓されている。新撰字鏡に、「濤米 米加須(よねかす)」、観智院本名義抄に、「淅 相亦反、カス、ウルフ」、書陵部本名義抄に、「淅米 カ爪(ス)、集(白氏文集)」とある。「淅」字は、水で米をすすぐ、揺り動かすようにして塵(ごみ)などを取り去ることを表し、米をとぎ洗ったり、米を水に浸してうるかすことを意味する。ざるに漉しとると、カス(滓・糟)が残る。ヲドミともいい、ヨドガハ(淀川)に、音義ともに通じている。新訳華厳経音義私記に、「漿 音将、訓古美豆(こみづ)」、新撰字鏡に、「饟……餉也、饋也、古水(こみづ)」(コ・ミは甲類)とあるのはおもゆのことを指す。米のとろける汁状の、白濁した液体を言っている。
 堤防は実は簡単に壊れる。水面上につながっている限りはいかに脆弱であろうと水を防いでくれるものの、越水すると俄かに出水する。「潦」は紀古訓に、ニハタヅミとある。急にひどく降って溢れ流れる水を言っている。したがって、それが「澇」に値するとするなら、俄かに溢れ出る出水を指している。仁徳天皇の治水事業は、国土強靭化のためのスーパー堤防建設ではない。新田開発のためのものであり、考古学的調査から所在が確かめられないような簡素な造りでかまわなかった。突貫工事で茨田堤を築いて分水させれば、一方に田を拓くことができた。ただそれだけだから、淀川から河内湖への流れは堤が壊れたらすぐ再開する。すると河内湖沿いに広く開いた田をおびやかすものことになるから、川の水位が下がって潮の引いた時を見計らい、当初と同じように復旧修理をくり返して命脈を保っていたと考えられる。
 真福寺本に、「即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡+𡱝)於堀江随河而上幸山代」の「〓」字に当たる語は、ヤマトコトバのユスルである。「即ち宮に入り坐さずして、其の御船を引き避り堀江に〓(ゆする)。河の随(まにま)に山代に上り幸しき。」である。堀江は高津宮の北側にある。大后の乗る「御船」はそれを横目に東進し、宮のすぐ前で「御船」を使って天皇の事業をゆさぶり、天皇の気持ちを動揺させている。その結果、米のとぎ汁(泔)のような白濁の淀川の水が流れ込んでいる。何のために堀江を開削し、茨田堤を築造したのか。新田開発のためである。だから、泔が話題にのぼっている。
 兼永筆本に、「即不入㘴宮而引避其御舩衍於堀江随河而上幸山代」の「衍」字に当たる語は、ヤマトコトバのアブスである。「即ち宮に入り坐さずして、其の御船を引き避り堀江に衍(あぶ)す。河の随(まにま)に山代に上り幸しき。」である。「衍(あぶ)す」は、余し溢れ出させることをいう。他動詞である。名義抄に、「遺 アブス」とある。この形が正しいのは、同音に、「浴(あ)ぶす」という語があり、湯水を体にそそぎかけることをいうからである。米のとぎ汁である泔は、髪を洗うときなどに用いた。体に浴びる水を言い換えて、別の言い方を試みたということである。以上のことから、古事記には原本が単品であったわけではなく、少なくとも2本は存していたことが理解される。
 そして、この書記の巧みさ、たくましさを鑑みるに至り、私たちは、記紀の説話、逸話は、「言語ゲーム/劇」であると確かめられる。当時の人々が通念として思うことを、ヤマトコトバに説話や逸話として創り、語り、記している。当時の人々の思惟、思考の組織化、体系化するさまを、“内側から”読むことができたのである。記紀の説話や逸話は、二重拘束的な「言語ゲーム」であった。

(注)
(注1)尾田2017.は、堀江を掘っても河内湖の水位が一気に下がるわけではないこと、水の中には堤は築きにくいこと、水が満ちても土堤の頭が出るように築くことが堤を保つのに重要であることに留意すべきであるとする。逆に、上町台地の砂堆を削るのは土木的に難しいことではなく、また、一度できた堀江は潮位変化による交番流で維持されやすかったと指摘している。浜名湖は明応7年(1498年)の地震津波によって砂州が決壊して今切口が生まれ、潮位変動に同期した交番流が堆積を妨げて汽水湖状態を維持している。
 次の尾田の言葉は、紀をよく読んだ言葉と思う。「実際の事業が仁徳天皇十一〔三二三〕年の単年で完成するはずはなく、さらに実施時期を四世紀と特定する根拠もない。長年月をかけて継続実施された事業に違いない。とはいえ事業の本質は明確に認識されていた。だからこそ『紀』が伝えるように明快な形で取り上げられたのである。その意味がわからなくなったのは、古代人の理解力・総合力に対する現代人の侮りと、物事の本質を見抜く能力が退化したからに他ならない。……この事業の本当の凄さは計画立案の過程にこそある。河内平野全体を視野に入れ、水の流れを総合的に勘案して練り上げられた構想の壮大さは例えようもない。」(40頁)。
(注2)栄原2005.は、「難波堀江の開削、難波津の設定、それから大倉庫群の建設は三位一体の関係にあり、……朝鮮半島をめぐる軍事的緊張の中で、5世紀後半に倭王権が強力な指導力によって作り上げたものであることが理解できる」(27頁)とするが、当初、堀江は茨田堤と同じ目的で開削されている。
(注3)上遠野2004.に、「「茨田堤」とは「高瀬堤」・「韓室堤」と並んで淀川左岸堤防の一部と見なしうる。ここに見える「茨田堤」とは『記』・『六国史』に見えるものと同じものを指していると考えなければならない。文献によって同じ名称のものが違うものを指すと考えることは不自然だからである。」(28頁)とある。
(注4)2020年に開催される予定にして危ぶまれている「東京オリンピック」について、その一部の競技が他県で行なわれ、花形競技のマラソンが札幌で行なわれたとしても、「東京札幌オリンピック」と“名づけ”が変わることはない。理解されるために言葉はある。
(注5)本居宣長・古事記伝に、「【泝と云には、堀江袁(ヲ)と訓べきが如くなれども、於ノ字あるは、尓(ニ)と訓べきためなり、そは海より堀江に入リ給ふを云なり、既に堀江に入て、泝りゆくには非ず、】泝は佐加能煩良志弖(サカノボラシテ)と訓べし、万葉廿四十九丁に、保里江欲利美乎左可能保流梶乃音乃(ホリエヨリミヲサカノボルカヂノオトノ)【さかのぼるとは、水の流るゝに逆(さか)ひて上るなり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/344、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注6)2019年の台風19号の被害のうち、宮城県丸森町の阿武隈川系の河川においては、河川外からの越水によって堤防が決壊している。堤防において越水のダメージは大きい。
毎日新聞2019年11月9日東京朝刊(https://mainichi.jp/articles/20191109/ddm/041/040/058000c)

(引用・参考文献)
尾田2017. 尾田栄章『行基と長屋王の時代―行基集団の水資源開発と地域総合整備事業―』現代企画室、2017年。
表口1987. 表口喜嗣「茨田堤に関する2・3の問題」『横田健一先生古稀記念文化史論叢』上、創元社、 1987年。
角林1977. 角林文雄「難波堀江・茨田堤・恩智川」横田健一編『日本書紀研究 第10冊』塙書房、1977年。
上遠野2004. 上遠野浩一「「茨田堤」の比定地について」『歴史地理学』第46巻第4号(通巻220号)、2004年9月、http://hist-geo.jp/img/archive/220_020.pdf。
亀田1973. 亀田隆之『日本古代用水史の研究』吉川弘文館、昭和48年。
喜界2003. 喜界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912-1951―』講談社(講談社現代新書)、2003年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第十三巻』吉川弘文館、平成4年。
栄原2005. 栄原永遠男「古代の港湾都市難波」『都市問題研究「大阪市とハンブルク市をめぐる都市・市民・文化・大学」第2回 日独共同シンポジウム報告書』大阪市立大学、2005年2月。https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2005/02/0502nichidoku2_13houkoku4.pdf)
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。

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