前稿(注1)で扱いきれなかった他の「吉野讃歌」について検討する。
見てきたとおり、題詞にもない「讃」を主題として勝手に考えてひと括りに「吉野讃歌」と捉え、吉野を讃えることが天皇を讃美することにつながるとするのは誤りである。また、後の作は前の作の模倣と捉え、いちばん最初の人麻呂の影響下にあるとする見方も当てはまらない。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という語のつながりとして、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことだと思って楽しんだ人たちの間で作られた歌である。
(4)大伴旅人の作(巻第三、万315~316)
暮春の月に芳野の離宮に幸す時に、中納言大伴卿、勅を奉りて作る歌一首 并せて短歌、未だ奏上を逕ぬ歌
み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし 清けくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変らずあらむ 行幸の宮(万315)
反歌
昔見し 象の小河を 今見れば いよよ清けく 成りにけるかも(万316)
この歌は、神亀元年(714)三月に、新しく即位した聖武天皇が吉野を訪れた時の歌である(注2)。大伴旅人60歳の作とされている。
「み吉野の 芳野の宮は〔見吉野之芳野乃宮者〕」の「み吉野の」は、ミ(御、ミは甲類)+ヨシノ(吉野、ヨは乙類)+ノ(助詞)であるとともに、「見よ」(命令形、ミは甲類、ヨは乙類)+シノ(篠)+ノ(助詞)という音であり、「吉野」を導くための枕詞的な要素が込められた言葉ではないか。シノ(篠)の特徴をよく見よということである。前稿でみた柿本人麻呂作(万36~39)、笠金村作(万907~912)と同様に、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものと認識されて楽しまれることを強調するために、「み吉野の」と被らせてヨシノという言葉を重ねているものと解せられる。
吉野の宮の地は、山や川のあるところであった。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という自己言及的な語構成を示していて、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……を表すとしておめでたがられた。つまり、「吉野の宮」とはそれ自体がシノ(篠)のようなものであると認められていたのである。篠はタケの仲間で、タケノコ(筍)として芽生えてくる。タケノコを食べた様子はイザナキとイザナミの黄泉国の話にも描かれている。
亦、其の右の御みづらに刺せる湯津々間櫛を引き闕きて投げ棄てたまへば、乃ち笋生る。是を抜き食む間に、逃げ行きます。(記上)
左:竪櫛(双築1号墳出土、古墳時代前期、4世紀、桜井市埋蔵文化財センター展示品)、右:竪櫛の構造(木沢直子「南原清渓里清渓古墳群出土竪櫛の特徴と意味」『남원 청계리 청계 고분군과 월산리 고분군 조사성과와 의의』2020年。file:///C:/Users/user/Downloads/남원 청계리 청계 고분군과 월산리 고분군 조사성과와 의의 국제학술대회 발표집.pdf、109頁を一部改変)
古墳時代に行われていた竪櫛である折曲げ櫛とタケノコは構造がよく似ている。細く割り裂いた竹の束をU字形にたわめ枉げて黒漆が塗られている(注3)。材質も同じで歯が包まれながらぎざぎざに突出している。外皮が黒いタケノコは掘り取るとびしゃびしゃに水がほとばしり出る。ヨヨとしているところを食べるのである。
御歯の生ひ出づるに、食ひ当てむと、筍をつと握り持ちて、雫もよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
歯の並び出てきたのをタケノコに見立てている。イメージは湯津々間櫛の変化と同じである。タケノコが土から突き出ている様は山に見立てられる。また、塔のようでもある。「山からし 貴くあらし」とタフの音つながりで戯れて言っている。瑞々しいところは川に見立てられる。タケノコは皮に包まれており、食べているところも放っておいて成長すれば皮になってしまう部分でさえある。タケ類の皮は鞘(葉鞘)であり、マメ類なら鞘(莢)に相当する。熟してしまえばそこは食せない豆がらとなる。つまり、皮からになる前に食べてしまおうというわけである。「川からし 清けくあらし」と洒落を言っている(注4)。
そんなシノ(篠)、ヤダケのようなものは地から生え、まっすぐにどんどん伸びて、天まで届く勢いである。ヨシノに生えているのだから、代+代+代+代+代+……と「万代に 変らずあらむ」であろうと言ってしまってかまわない。それが今、ここに「行幸」ている宮なのだとおもしろおかしく歌っている。
短歌に、「象の小河」と固有名詞が出ている。キサと呼ばれるところがあったようである。「昔見し」とある点について、作者の旅人が昔見たのだと考えられている。吉野行幸は持統三年に始まり、そのとき旅人は25歳である。その後も何回も行幸しているから、従駕していて見たのであろうと考えても不思議ではない(注5)。この理由づけは、「昔見し」のシ(助動詞キの連体形)について、自己の体験の記憶とするものである。しかし、長歌では一切作者の影を消しているのに、反歌にばかり自己主張するとは考えにくい。かといって、新帝の聖武天皇の代詠をしているとすると初めて訪れる点と相容れない。助動詞キに対する残された解釈の可能性は、伝聞的記憶ということになる。集合意識として昔見たことになっているとするものである。ただし、見た対象の小川の名が曰くありげである。
「象」は elephant のことである。なぜそう呼ばれたかについては、象牙などに木目があり、その筋目模様をキサと言ったからではないかとされている。もちろん、当時列島に象は生息していない。舶来品もほとんど知られず、話にとても大きな体をしているとは聞くが、群盲象を撫でるがごとき認識しかない。ところが、稀にではあるが、ヤマトの人も象を知ることがあった。象の骨、特にエナメル質に覆われた歯が出土するのである。ナウマンゾウが多かったようで、竜骨と呼ばれて薬に使われており、正倉院にも「五色龍歯(ごしきりゅうし)」と呼ばれる臼歯の化石が宝物として残されている。確かに筋目模様(注6)がついており、皮が何重にも被っているタケノコの様子によく似ている。ヨシノというところにキサというところがあるのは、「いよよ清けく」あることだとわかるだろう、というのである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことであると解明されたから、昔日の「象」が歯としてそこに現れているのは明かなことだなあと詠嘆している。歯は齢に通じ、ヨハヒとはヨ(代)+ハヒ(延・這)の意である。
左:「五色龍歯」(宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010192&index=0をトリミング)、右:ナウマンゾウ臼歯化石(大阪市立自然史博物館展示品)
「さやけし」という語は、岩波古語辞典の見出しに「分明し・亮し」という漢字を使っている。サエ(冴)と同根の語とし、視覚にも聴覚にも使い、「さえて、はっきりしている。」、「くっきりと際立っている。」という訳を当てる(575頁)。類義語のキヨシともども表記に「清」の字を使うことが多くある。時代別国語大辞典では、「キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)と解説している。つまり、この二語は似て非なる形容詞である。土屋1949.に「益々さやかになつたことである。」(118頁、漢字の旧字体等は改めた)、澤瀉1958.に「昔にもましていよいよさやかになつたことよ。」(230頁)と訳しているのはまずは無難なところである。難渋の後が見える訳は、大系本萬葉集の「清潔明亮の風光いよいよ新たになったことを感じる。」(168頁)である。現在通行している訳では、清らかになっている、すがすがしくなっている、としていてどれも誤りである。
太古の昔に見られた象という名を冠した象の小川のことを今見てみると、齢を重ねてまったくもって確かなことになっているらしいよ、吉野だけに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……、代+代+代+代+代+……なのだものなあ、と言っている(注7)。
(5)笠金村の作(巻第六、万920~922)
神亀二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首 并せて短歌
あしひきの み山もさやに 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る 畏くあれども(万920)
反歌二首
万代に 見とも飽かめや み芳野の 激つ河内の 大宮所(万921)
皆人の 命も吾も み吉野の 滝の常磐の 常ならぬかも(万922)
この長短歌では、川の水のタギツところを歌っている。ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところだから水がヨヨと流れるということである。また、車持千年の「吉野讃歌」に出ている句を流用している。興味深い作りは、長歌の対句表現、「上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ」である。シバ(数)は数が多いことを表すが、同音の言葉に柴刈りのシバがある。柴は燃料や垣根にする灌木や低木、小枝などのことで、タケ・ササ類も区別されずに柴垣に作られ、また、フシとも言う。
籬 垣也、竹柴類等垣を籬と曰ふ。志波加支、又竹加支。(新撰字鏡)
……天の逆手を青柴垣に打ち成して隠れき。 柴を訓みて布斯と云ふ。(記上)
千鳥がさかんに鳴いている「上辺」は、タケ・ササ類に特徴的な「ふし」が数々あるところということになる。一方、「下辺」では、カハヅが妻を呼んでいる。カハヅはカジカのことか蛙の歌語とされる。水がヨヨと流れるところの水生動物の鳴き声である。同音の言葉に船着場の河津がある。川幅が広くなる下流には対岸への渡し場があって、向こう岸の妻を呼んでいるということであろう。そのような呼びかけ語に「よ」という言葉がある。良い声で呼んでいるらしい。
沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ(神代紀第九段一書第六、紀4)
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち ……(万1)
…… 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 吾も通はむ(万79)
「ふし」、「よ」と、声をあげ続けているのは、ヨシノがヨ(節)+シノ(篠)と名を負った存在だからである。名を体現している(はずの)様子を作り出して歌っている。単なる取り合わせであったろう「千鳥」と「かはづ」から、吉野に適合した意味を抽出している。稀なことで心惹かれ、珍しいと思う事態である。そのことは、こんな山奥に大宮人が大挙して来ていることでも同じである。その表現もまた諧謔に富んでいる。
「ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば」と言っている。宮廷人があちらにもこちらにもぎっしりいっぱいにある、とは、吉野の川のあちら岸にもこちら岸にシジニいるということである。片岸ならカタであり、両岸そろっている場合はマと形容する(注8)。つまり、マシジな様子だと言っている。助動詞マシジは「……のはずがないだろう」という打消された事態の推定を表す。ありえないであろうことが起こっているから、「あやに」、霊妙不思議に、言いようもなく、ひどく無性に「乏し(羨し)」、珍しいと思い、心惹かれるように感じている。言葉遊びに遊んでいるのである。千鳥がたくさん鳴き、かわづが妻を呼ぶように声をあげ、大宮人が川を挟んで両岸に参集していることを写実的に捉えてみても、特に珍しくも、魅せられるような事態でもない。自然豊かな地へ行幸した情景から受けた印象を語るのではなく、言葉のあり様としておもしろがっている。端的な比喩でいえば、「リンゴは赤い。」ではなく、「リンゴは三文字である。」というメタ言語的機能に対して「あやに乏しみ」であると語っている。
言葉遊びはさらに続き、これが未来永劫つづいて欲しいと天地の神に願うことは、神に対して恐れ多いことであるし、こんな偶然が重なることはもったいないことだと思われることでもあるとしている。そこで、歌を「畏くあれども」で結んでいる。歌全体に機知に溢れたなぞなぞが仕掛けられていると解されよう。
(6)山部赤人の作(巻第六、万923~925・926~927)
山部宿禰赤人の作る歌二首 并せて短歌
やすみしし わご大君の 高知らす 芳野の宮は たたなづく 青垣隠り 河次の 清き河内そ 春べは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この河の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)
反歌二首
み吉野の 象山の際の 木末には 幾許も騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝猟に 鹿猪履み起し 夕狩に 鳥蹋み立て 馬並めて 御猟そ立たす 春の茂野に(万926)
反歌一首
あしひきの 山にも野にも 御猟人 得物矢手挟み 騒きてあり見ゆ(万927)
右は、先後を審らかにせず。但、便を以ての故に此の次に載す。
第一長歌に、吉野宮を「青垣隠り」と形容している。その理由は、ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節)+シノ(篠)に聞こえたから、タケ・ササ類のなかでもシノ(篠)に特徴的な、成長しても皮を落とさない性質のことを言っている。「たたなづく」と言っているのは、タケノコのときの皮が重なりあう様子を畳のように畳みかける風情に見立てている。タタミ(畳)が畳床を伴ったのは後の時代のことであり、当初は今日の畳表に当たるものであった。畳み癖を気にして巻いて仕舞われることも多かったようである。類似する敷物である茣蓙との違いは、その作り方にある。畳では、麻糸を経糸にし、それの二本ごとにイグサの緯糸を表裏させ、筬で強く叩き畳みこむように織り、経糸が見えないようにしている。
ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとされ、皮/皮/皮/……\皮\皮\皮と畳みこまれていたものが伸長していったと捉えられている。つまり、中に宮が包まれているのであれば、それは「たたなづく 青垣隠り」をしているということになる。
ミヤ(宮)は当初のあり方からして、スサノヲの造ったスガの宮のように、宮殿建築の豪華さをその特徴とするのではなく、八重にめぐらされる垣根をもつものとして認められていた。ミ(御)+ヤ(屋)と呼ばれるからにはなにより屋根が大切であり、何重にも垣根がめぐらされれば中を窺い知ることはできずにプライバシーが確保され、外からは屋根しか見えない。それは、タケノコが何枚もの皮に包まれていることと等しく、「吉野の宮」という表現は、宮の概念を徹底させたものと言えた。タケノコはみずみずしく、「河次」という語へと反映していっている。
プライバシーを確保するために作られたのが宮であった。そこへ「大宮人は 常に通」って何をするのか。「大宮人」は夫婦同伴で来ている。最終的には、夜に仲良し事をするのである(注9)。山奥の別荘へ行った夫婦連れにとって、その夜にすることなど他にあるのだろうか。することをすれば当然、できるものはでき、夫婦は父と母になる。
反歌の一首目、万924番歌に、「象山」という地名が登場する。旅人の万316番歌にすでに見たように、「象」のものだとはっきりわかるのは、ナウマンゾウの歯の化石においてである。漢字としての「歯」は「齢」と同義で用いられ、ヨ(代)を語る文脈で使われてふさわしい。そして、「歯」の訓みはハであり、物の端にあるものはみなハであり、例えば植物ならハ(葉)であった。葉は「木末」にある。そこに鳥が来ている。鳥の最大の特徴は飛翔にあり、ハ(羽)があるからできる。「幾許」と量が多いさまで騒ぐのは、ハをたくさん発見して嬉々としているためである。ハ(羽)を持つ鳥が発見しているのはハ(歯)である。ハハ(母)ということになっている。
二首目の万925番歌は、夜の営みをにおわせるように、「ぬばたまの 夜の更けゆけば」と設定している。そこに、「久木」が出てくる。ヒサギという植物は、今日、アカメガシワかキササゲのいずれかであるとされている。アカメガシワ説が有力視されている(注10)が、万葉集の歌四首が同一のものを指すのであれば、万1863番歌に「咲く」とあり、また、「落ち」ると言えるのは、花弁のしっかりしたものと考えられ、蕊ばかりで成り立っているように見えるアカメガシワであるとは考えにくい。
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
去年咲きし 久木今咲く 徒に 地にや落ちむ 見る人なしに(万1863)
波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
度会の 大川の辺の 若久木 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)
左:アカメガシワの葉、右:キササゲの葉
左:アカメガシワの雄花、右:キササゲの花(「庭木図鑑 植木ペディア」様https://www.uekipedia.jp/)
キササゲの実(翌春まで残った例)
そう考えるなら、キササゲの実は莢になっていて形状は象の臼歯のようである。そして、キササゲの莢の中の種は綿毛のついた翼状になっていて、それは鳥でいえば羽に当たるものであり、「千鳥しば鳴く」ことを予感させるものである。ヒサギをもって久しいことを言わずに、「千鳥しば鳴く」ことを言っているから、この「久木」はキササゲのことと考えられる(注11)。
さて、その「千鳥」は何と鳴いているか。チドリがしきりに鳴いている声は、チチ、チチに決まっていよう。父になっているのである。第一長歌と短歌二首の関係は、吉野の宮が子作りにいいことを歌った歌であった。実際に子宝に恵まれると伝わる温泉が湧いていたといったことではなく、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるもので代+代+代+代+代+……とつづくのは、人がハハ(母)とチチ(父)に成ることをくり返すことによってである。詩的な頓智が歌にされ、人々は歌に張りめぐらされた謎解きを楽しんだのであろう。
第二長歌と反歌では、主題が狩猟になっている。歌の文句は狩りの歌の常套句ばかりである。ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節)+シノ(篠)に聞こえ、どんどん伸びてヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……となるシノ(篠)の代表格がヤダケであり、まっすぐに伸びる性質から、矢のノ(箆)、また、ヤガラ(矢柄)と呼ばれるシャフトに使われた。先端に鏃をつけ、反対側に矢羽をつけた。吉野という地名にゆかりして能力の高い「得物矢」が登場している。
狩りの舞台は「み吉野の 秋津の小野」である。アキヅとは蜻蛉のことで、上手に飛んで行って虫を捕まえている。「得物矢」の役割も、トンボにあやかるに足るものであったのだろう。トンボの胴はヤダケによく似て節づいた姿をしている。地名から得られた観念をもって狩りの歌が作られている。短歌で「得物矢」にばかり収束しているのは、地名由来の話であったことを裏付ける。
左注の、「右不レ審二先後一。但、以レ便故載二於此次一。」の「右」は万923~927番歌の二群の長短歌のこと、「先後」は、万923~925番と万926~927番歌のことを指すとする説(吉井1984.59頁)が正しいといえる。ひとつの題詞のもとに作られている二群の長短歌である(注12)。
(7)山部赤人の作(巻第六、万1005~1006)
八年丙子の夏六月、芳野の離宮に幸す時に、山部宿禰赤人、詔に応へて作る歌一首 并せて短歌
やすみしし わご大君の 見したまふ 芳野の宮は 山高み 雲そたなびく 河速み 瀬の音そ清き 神さびて 見れば貴く 宜しなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ(万1005)
反歌一首
神代より 芳野の宮に あり通ひ 高知らせるは 山河をよみ(万1006)
この赤人の歌は、ほぼ、これまでの歌の踏襲である。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)で、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……なるものだと言っている。山について、「山高み 雲そたなびく」と形容しているのは、山に雲がかかって霧や雨にヨヨと濡れていっていることを、川について、「河速み 瀬の音そ清き」と形容しているのは、水の流れが激つほどにヨヨと流れていることを暗示している。また、「見ればさやけし〔見者清之〕」は篠の葉鞘、サヤ(鞘)をかけた使い方である(注13)。メダケが葉鞘を残し群れ立つさまは、まるで矢絣模様を思わせる(注14)。
その後の「この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ」は、山のように出てくるタケノコが出なくなって川のように水気もほとばしり流れなくなったら、この宮所もなくなる時もあろうが、そのようなことはあるまい、と言っている。ヨシノという名を負っているところは、その名のとおりにいつまでも代+代+代+代+代+……と篠に恵まれ、篠突く雨を川が集めてヨヨと水が流れることだろうというのである。そういう状態はヨシノと名がついてからずっとそうである。それが言=事であるとする言霊信仰に裏打ちされたコトなのである。いつからそのように呼ばれていたのか。地名の由来などわかるものではない。ずっと昔、人知の及ばない時代からであり、それに呼応して人々は「神代」から絶えず通っている、山も川もヨシノという名を負っていることをきちんと体現し、それをうけて人々もそうしているというのである。
ところが、吉野行幸は奈良時代においてこの時が最後である。なぜこれ以降行われなくなったかについては、水害があって吉野の宮所が壊れて復旧せずに放置されたから、歌のあり方に限ってならこのような歌い方はすでにマンネリ化してつまらないと思われたから、疫病の流行と吉野の地がからめて考えられて遠ざかることになったから、など、いくつか仮説が立てられている。筆者は語学的に考え、吉野がヨシノであるための根幹が崩れたからと推測する。ヨシノにあって然るべきシノ(篠)が枯れてなくなったのである。タケ・ササ類は、長い周期、例えばハチク(淡竹)では120年に1度の間隔で一斉に開花し、枯れてしまう。枯れた篠を目にするわけにはいかない。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……=代+代+代+代+代+……でなくなってしまうからである(注15)。
上代の人にとって、もしそのようなタケ・ササ枯れが起こっていたとすると、ヨシノなのにヨシノではないというニヒリズムに陥ってとても困ったであろう。言葉が事柄を表し、事柄が言葉を生むはずの、以前は安定した均衡にあった関係が崩れている。対処法としてはなかったことにすること、つまり、見ないことにするのである。吉野へは行幸せず、吉野のことは思い出さないようにして、話にのぼらせなければ観念の世界の秩序は保たれる。これは仮定の話である。
(8)大伴家持の作(巻第十八、万4098~4100)
芳野の離宮に幸行す時の為に、儲けて作る歌一首 并せて短歌
高御座 天の日嗣と 天の下 知らしめしける 皇祖の 神の命の 畏くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十伴の緒も 己が負へる 己が名負ひて 大君の 任けのまにまに この河の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ嗣ぎに かくしこそ 仕へ奉らめ いや遠長に(万4098)
反歌
古を 思ほすらしも わご大君 吉野の宮を あり通ひ見す(万4099)
もののふの 八十氏人も 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつ見む(万4100)
「為下幸二-行吉野離宮一之時上、儲作歌」とあり、事前に準備して作っていた歌である。万4098番の長歌では、前半に祖先が造った宮に天皇がずっと通い続けていることが述べられ、後半に臣下たちも拝命に従って代々仕えようと言っている。そのことは反歌に反映していて、万4099番歌では天皇がその先祖のことを思いながら吉野の宮に通っているであろうことを、万4100番歌では臣下がそれに伴う形で仕えて同道することを歌っている。そのために、「もののふの 八十伴の緒」という常套句を登場させている。むしろここでは、そのような常套句があったことに思い至り、ならばその常套句をもって状況を新たな視角から切り取れないだろうかと考えて、臣下が仕える話へと展開させて行っている。それがこの歌の新しさである(注16)。
これまで、吉野というところは、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところと歌われ続けてきた。それに対して、臣下も子々孫々お仕えして行こうというのである。ここで、臣下が仕えるのは天皇だから、吉野の離宮のことなど関係ないように思われる(注17)。しかし、そうではないというのがこの歌の眼目だろう。
仕えるべき臣下のことを、「もののふの 八十伴
見てきたとおり、題詞にもない「讃」を主題として勝手に考えてひと括りに「吉野讃歌」と捉え、吉野を讃えることが天皇を讃美することにつながるとするのは誤りである。また、後の作は前の作の模倣と捉え、いちばん最初の人麻呂の影響下にあるとする見方も当てはまらない。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という語のつながりとして、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことだと思って楽しんだ人たちの間で作られた歌である。
(4)大伴旅人の作(巻第三、万315~316)
暮春の月に芳野の離宮に幸す時に、中納言大伴卿、勅を奉りて作る歌一首 并せて短歌、未だ奏上を逕ぬ歌
み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし 清けくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変らずあらむ 行幸の宮(万315)
反歌
昔見し 象の小河を 今見れば いよよ清けく 成りにけるかも(万316)
この歌は、神亀元年(714)三月に、新しく即位した聖武天皇が吉野を訪れた時の歌である(注2)。大伴旅人60歳の作とされている。
「み吉野の 芳野の宮は〔見吉野之芳野乃宮者〕」の「み吉野の」は、ミ(御、ミは甲類)+ヨシノ(吉野、ヨは乙類)+ノ(助詞)であるとともに、「見よ」(命令形、ミは甲類、ヨは乙類)+シノ(篠)+ノ(助詞)という音であり、「吉野」を導くための枕詞的な要素が込められた言葉ではないか。シノ(篠)の特徴をよく見よということである。前稿でみた柿本人麻呂作(万36~39)、笠金村作(万907~912)と同様に、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものと認識されて楽しまれることを強調するために、「み吉野の」と被らせてヨシノという言葉を重ねているものと解せられる。
吉野の宮の地は、山や川のあるところであった。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という自己言及的な語構成を示していて、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……を表すとしておめでたがられた。つまり、「吉野の宮」とはそれ自体がシノ(篠)のようなものであると認められていたのである。篠はタケの仲間で、タケノコ(筍)として芽生えてくる。タケノコを食べた様子はイザナキとイザナミの黄泉国の話にも描かれている。
亦、其の右の御みづらに刺せる湯津々間櫛を引き闕きて投げ棄てたまへば、乃ち笋生る。是を抜き食む間に、逃げ行きます。(記上)
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古墳時代に行われていた竪櫛である折曲げ櫛とタケノコは構造がよく似ている。細く割り裂いた竹の束をU字形にたわめ枉げて黒漆が塗られている(注3)。材質も同じで歯が包まれながらぎざぎざに突出している。外皮が黒いタケノコは掘り取るとびしゃびしゃに水がほとばしり出る。ヨヨとしているところを食べるのである。
御歯の生ひ出づるに、食ひ当てむと、筍をつと握り持ちて、雫もよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
歯の並び出てきたのをタケノコに見立てている。イメージは湯津々間櫛の変化と同じである。タケノコが土から突き出ている様は山に見立てられる。また、塔のようでもある。「山からし 貴くあらし」とタフの音つながりで戯れて言っている。瑞々しいところは川に見立てられる。タケノコは皮に包まれており、食べているところも放っておいて成長すれば皮になってしまう部分でさえある。タケ類の皮は鞘(葉鞘)であり、マメ類なら鞘(莢)に相当する。熟してしまえばそこは食せない豆がらとなる。つまり、皮からになる前に食べてしまおうというわけである。「川からし 清けくあらし」と洒落を言っている(注4)。
そんなシノ(篠)、ヤダケのようなものは地から生え、まっすぐにどんどん伸びて、天まで届く勢いである。ヨシノに生えているのだから、代+代+代+代+代+……と「万代に 変らずあらむ」であろうと言ってしまってかまわない。それが今、ここに「行幸」ている宮なのだとおもしろおかしく歌っている。
短歌に、「象の小河」と固有名詞が出ている。キサと呼ばれるところがあったようである。「昔見し」とある点について、作者の旅人が昔見たのだと考えられている。吉野行幸は持統三年に始まり、そのとき旅人は25歳である。その後も何回も行幸しているから、従駕していて見たのであろうと考えても不思議ではない(注5)。この理由づけは、「昔見し」のシ(助動詞キの連体形)について、自己の体験の記憶とするものである。しかし、長歌では一切作者の影を消しているのに、反歌にばかり自己主張するとは考えにくい。かといって、新帝の聖武天皇の代詠をしているとすると初めて訪れる点と相容れない。助動詞キに対する残された解釈の可能性は、伝聞的記憶ということになる。集合意識として昔見たことになっているとするものである。ただし、見た対象の小川の名が曰くありげである。
「象」は elephant のことである。なぜそう呼ばれたかについては、象牙などに木目があり、その筋目模様をキサと言ったからではないかとされている。もちろん、当時列島に象は生息していない。舶来品もほとんど知られず、話にとても大きな体をしているとは聞くが、群盲象を撫でるがごとき認識しかない。ところが、稀にではあるが、ヤマトの人も象を知ることがあった。象の骨、特にエナメル質に覆われた歯が出土するのである。ナウマンゾウが多かったようで、竜骨と呼ばれて薬に使われており、正倉院にも「五色龍歯(ごしきりゅうし)」と呼ばれる臼歯の化石が宝物として残されている。確かに筋目模様(注6)がついており、皮が何重にも被っているタケノコの様子によく似ている。ヨシノというところにキサというところがあるのは、「いよよ清けく」あることだとわかるだろう、というのである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことであると解明されたから、昔日の「象」が歯としてそこに現れているのは明かなことだなあと詠嘆している。歯は齢に通じ、ヨハヒとはヨ(代)+ハヒ(延・這)の意である。
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「さやけし」という語は、岩波古語辞典の見出しに「分明し・亮し」という漢字を使っている。サエ(冴)と同根の語とし、視覚にも聴覚にも使い、「さえて、はっきりしている。」、「くっきりと際立っている。」という訳を当てる(575頁)。類義語のキヨシともども表記に「清」の字を使うことが多くある。時代別国語大辞典では、「キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)と解説している。つまり、この二語は似て非なる形容詞である。土屋1949.に「益々さやかになつたことである。」(118頁、漢字の旧字体等は改めた)、澤瀉1958.に「昔にもましていよいよさやかになつたことよ。」(230頁)と訳しているのはまずは無難なところである。難渋の後が見える訳は、大系本萬葉集の「清潔明亮の風光いよいよ新たになったことを感じる。」(168頁)である。現在通行している訳では、清らかになっている、すがすがしくなっている、としていてどれも誤りである。
太古の昔に見られた象という名を冠した象の小川のことを今見てみると、齢を重ねてまったくもって確かなことになっているらしいよ、吉野だけに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……、代+代+代+代+代+……なのだものなあ、と言っている(注7)。
(5)笠金村の作(巻第六、万920~922)
神亀二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首 并せて短歌
あしひきの み山もさやに 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る 畏くあれども(万920)
反歌二首
万代に 見とも飽かめや み芳野の 激つ河内の 大宮所(万921)
皆人の 命も吾も み吉野の 滝の常磐の 常ならぬかも(万922)
この長短歌では、川の水のタギツところを歌っている。ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところだから水がヨヨと流れるということである。また、車持千年の「吉野讃歌」に出ている句を流用している。興味深い作りは、長歌の対句表現、「上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ」である。シバ(数)は数が多いことを表すが、同音の言葉に柴刈りのシバがある。柴は燃料や垣根にする灌木や低木、小枝などのことで、タケ・ササ類も区別されずに柴垣に作られ、また、フシとも言う。
籬 垣也、竹柴類等垣を籬と曰ふ。志波加支、又竹加支。(新撰字鏡)
……天の逆手を青柴垣に打ち成して隠れき。 柴を訓みて布斯と云ふ。(記上)
千鳥がさかんに鳴いている「上辺」は、タケ・ササ類に特徴的な「ふし」が数々あるところということになる。一方、「下辺」では、カハヅが妻を呼んでいる。カハヅはカジカのことか蛙の歌語とされる。水がヨヨと流れるところの水生動物の鳴き声である。同音の言葉に船着場の河津がある。川幅が広くなる下流には対岸への渡し場があって、向こう岸の妻を呼んでいるということであろう。そのような呼びかけ語に「よ」という言葉がある。良い声で呼んでいるらしい。
沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ(神代紀第九段一書第六、紀4)
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち ……(万1)
…… 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 吾も通はむ(万79)
「ふし」、「よ」と、声をあげ続けているのは、ヨシノがヨ(節)+シノ(篠)と名を負った存在だからである。名を体現している(はずの)様子を作り出して歌っている。単なる取り合わせであったろう「千鳥」と「かはづ」から、吉野に適合した意味を抽出している。稀なことで心惹かれ、珍しいと思う事態である。そのことは、こんな山奥に大宮人が大挙して来ていることでも同じである。その表現もまた諧謔に富んでいる。
「ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば」と言っている。宮廷人があちらにもこちらにもぎっしりいっぱいにある、とは、吉野の川のあちら岸にもこちら岸にシジニいるということである。片岸ならカタであり、両岸そろっている場合はマと形容する(注8)。つまり、マシジな様子だと言っている。助動詞マシジは「……のはずがないだろう」という打消された事態の推定を表す。ありえないであろうことが起こっているから、「あやに」、霊妙不思議に、言いようもなく、ひどく無性に「乏し(羨し)」、珍しいと思い、心惹かれるように感じている。言葉遊びに遊んでいるのである。千鳥がたくさん鳴き、かわづが妻を呼ぶように声をあげ、大宮人が川を挟んで両岸に参集していることを写実的に捉えてみても、特に珍しくも、魅せられるような事態でもない。自然豊かな地へ行幸した情景から受けた印象を語るのではなく、言葉のあり様としておもしろがっている。端的な比喩でいえば、「リンゴは赤い。」ではなく、「リンゴは三文字である。」というメタ言語的機能に対して「あやに乏しみ」であると語っている。
言葉遊びはさらに続き、これが未来永劫つづいて欲しいと天地の神に願うことは、神に対して恐れ多いことであるし、こんな偶然が重なることはもったいないことだと思われることでもあるとしている。そこで、歌を「畏くあれども」で結んでいる。歌全体に機知に溢れたなぞなぞが仕掛けられていると解されよう。
(6)山部赤人の作(巻第六、万923~925・926~927)
山部宿禰赤人の作る歌二首 并せて短歌
やすみしし わご大君の 高知らす 芳野の宮は たたなづく 青垣隠り 河次の 清き河内そ 春べは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この河の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)
反歌二首
み吉野の 象山の際の 木末には 幾許も騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝猟に 鹿猪履み起し 夕狩に 鳥蹋み立て 馬並めて 御猟そ立たす 春の茂野に(万926)
反歌一首
あしひきの 山にも野にも 御猟人 得物矢手挟み 騒きてあり見ゆ(万927)
右は、先後を審らかにせず。但、便を以ての故に此の次に載す。
第一長歌に、吉野宮を「青垣隠り」と形容している。その理由は、ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節)+シノ(篠)に聞こえたから、タケ・ササ類のなかでもシノ(篠)に特徴的な、成長しても皮を落とさない性質のことを言っている。「たたなづく」と言っているのは、タケノコのときの皮が重なりあう様子を畳のように畳みかける風情に見立てている。タタミ(畳)が畳床を伴ったのは後の時代のことであり、当初は今日の畳表に当たるものであった。畳み癖を気にして巻いて仕舞われることも多かったようである。類似する敷物である茣蓙との違いは、その作り方にある。畳では、麻糸を経糸にし、それの二本ごとにイグサの緯糸を表裏させ、筬で強く叩き畳みこむように織り、経糸が見えないようにしている。
ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとされ、皮/皮/皮/……\皮\皮\皮と畳みこまれていたものが伸長していったと捉えられている。つまり、中に宮が包まれているのであれば、それは「たたなづく 青垣隠り」をしているということになる。
ミヤ(宮)は当初のあり方からして、スサノヲの造ったスガの宮のように、宮殿建築の豪華さをその特徴とするのではなく、八重にめぐらされる垣根をもつものとして認められていた。ミ(御)+ヤ(屋)と呼ばれるからにはなにより屋根が大切であり、何重にも垣根がめぐらされれば中を窺い知ることはできずにプライバシーが確保され、外からは屋根しか見えない。それは、タケノコが何枚もの皮に包まれていることと等しく、「吉野の宮」という表現は、宮の概念を徹底させたものと言えた。タケノコはみずみずしく、「河次」という語へと反映していっている。
プライバシーを確保するために作られたのが宮であった。そこへ「大宮人は 常に通」って何をするのか。「大宮人」は夫婦同伴で来ている。最終的には、夜に仲良し事をするのである(注9)。山奥の別荘へ行った夫婦連れにとって、その夜にすることなど他にあるのだろうか。することをすれば当然、できるものはでき、夫婦は父と母になる。
反歌の一首目、万924番歌に、「象山」という地名が登場する。旅人の万316番歌にすでに見たように、「象」のものだとはっきりわかるのは、ナウマンゾウの歯の化石においてである。漢字としての「歯」は「齢」と同義で用いられ、ヨ(代)を語る文脈で使われてふさわしい。そして、「歯」の訓みはハであり、物の端にあるものはみなハであり、例えば植物ならハ(葉)であった。葉は「木末」にある。そこに鳥が来ている。鳥の最大の特徴は飛翔にあり、ハ(羽)があるからできる。「幾許」と量が多いさまで騒ぐのは、ハをたくさん発見して嬉々としているためである。ハ(羽)を持つ鳥が発見しているのはハ(歯)である。ハハ(母)ということになっている。
二首目の万925番歌は、夜の営みをにおわせるように、「ぬばたまの 夜の更けゆけば」と設定している。そこに、「久木」が出てくる。ヒサギという植物は、今日、アカメガシワかキササゲのいずれかであるとされている。アカメガシワ説が有力視されている(注10)が、万葉集の歌四首が同一のものを指すのであれば、万1863番歌に「咲く」とあり、また、「落ち」ると言えるのは、花弁のしっかりしたものと考えられ、蕊ばかりで成り立っているように見えるアカメガシワであるとは考えにくい。
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
去年咲きし 久木今咲く 徒に 地にや落ちむ 見る人なしに(万1863)
波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
度会の 大川の辺の 若久木 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)
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そう考えるなら、キササゲの実は莢になっていて形状は象の臼歯のようである。そして、キササゲの莢の中の種は綿毛のついた翼状になっていて、それは鳥でいえば羽に当たるものであり、「千鳥しば鳴く」ことを予感させるものである。ヒサギをもって久しいことを言わずに、「千鳥しば鳴く」ことを言っているから、この「久木」はキササゲのことと考えられる(注11)。
さて、その「千鳥」は何と鳴いているか。チドリがしきりに鳴いている声は、チチ、チチに決まっていよう。父になっているのである。第一長歌と短歌二首の関係は、吉野の宮が子作りにいいことを歌った歌であった。実際に子宝に恵まれると伝わる温泉が湧いていたといったことではなく、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるもので代+代+代+代+代+……とつづくのは、人がハハ(母)とチチ(父)に成ることをくり返すことによってである。詩的な頓智が歌にされ、人々は歌に張りめぐらされた謎解きを楽しんだのであろう。
第二長歌と反歌では、主題が狩猟になっている。歌の文句は狩りの歌の常套句ばかりである。ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節)+シノ(篠)に聞こえ、どんどん伸びてヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……となるシノ(篠)の代表格がヤダケであり、まっすぐに伸びる性質から、矢のノ(箆)、また、ヤガラ(矢柄)と呼ばれるシャフトに使われた。先端に鏃をつけ、反対側に矢羽をつけた。吉野という地名にゆかりして能力の高い「得物矢」が登場している。
狩りの舞台は「み吉野の 秋津の小野」である。アキヅとは蜻蛉のことで、上手に飛んで行って虫を捕まえている。「得物矢」の役割も、トンボにあやかるに足るものであったのだろう。トンボの胴はヤダケによく似て節づいた姿をしている。地名から得られた観念をもって狩りの歌が作られている。短歌で「得物矢」にばかり収束しているのは、地名由来の話であったことを裏付ける。
左注の、「右不レ審二先後一。但、以レ便故載二於此次一。」の「右」は万923~927番歌の二群の長短歌のこと、「先後」は、万923~925番と万926~927番歌のことを指すとする説(吉井1984.59頁)が正しいといえる。ひとつの題詞のもとに作られている二群の長短歌である(注12)。
(7)山部赤人の作(巻第六、万1005~1006)
八年丙子の夏六月、芳野の離宮に幸す時に、山部宿禰赤人、詔に応へて作る歌一首 并せて短歌
やすみしし わご大君の 見したまふ 芳野の宮は 山高み 雲そたなびく 河速み 瀬の音そ清き 神さびて 見れば貴く 宜しなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ(万1005)
反歌一首
神代より 芳野の宮に あり通ひ 高知らせるは 山河をよみ(万1006)
この赤人の歌は、ほぼ、これまでの歌の踏襲である。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)で、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……なるものだと言っている。山について、「山高み 雲そたなびく」と形容しているのは、山に雲がかかって霧や雨にヨヨと濡れていっていることを、川について、「河速み 瀬の音そ清き」と形容しているのは、水の流れが激つほどにヨヨと流れていることを暗示している。また、「見ればさやけし〔見者清之〕」は篠の葉鞘、サヤ(鞘)をかけた使い方である(注13)。メダケが葉鞘を残し群れ立つさまは、まるで矢絣模様を思わせる(注14)。
その後の「この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ」は、山のように出てくるタケノコが出なくなって川のように水気もほとばしり流れなくなったら、この宮所もなくなる時もあろうが、そのようなことはあるまい、と言っている。ヨシノという名を負っているところは、その名のとおりにいつまでも代+代+代+代+代+……と篠に恵まれ、篠突く雨を川が集めてヨヨと水が流れることだろうというのである。そういう状態はヨシノと名がついてからずっとそうである。それが言=事であるとする言霊信仰に裏打ちされたコトなのである。いつからそのように呼ばれていたのか。地名の由来などわかるものではない。ずっと昔、人知の及ばない時代からであり、それに呼応して人々は「神代」から絶えず通っている、山も川もヨシノという名を負っていることをきちんと体現し、それをうけて人々もそうしているというのである。
ところが、吉野行幸は奈良時代においてこの時が最後である。なぜこれ以降行われなくなったかについては、水害があって吉野の宮所が壊れて復旧せずに放置されたから、歌のあり方に限ってならこのような歌い方はすでにマンネリ化してつまらないと思われたから、疫病の流行と吉野の地がからめて考えられて遠ざかることになったから、など、いくつか仮説が立てられている。筆者は語学的に考え、吉野がヨシノであるための根幹が崩れたからと推測する。ヨシノにあって然るべきシノ(篠)が枯れてなくなったのである。タケ・ササ類は、長い周期、例えばハチク(淡竹)では120年に1度の間隔で一斉に開花し、枯れてしまう。枯れた篠を目にするわけにはいかない。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……=代+代+代+代+代+……でなくなってしまうからである(注15)。
上代の人にとって、もしそのようなタケ・ササ枯れが起こっていたとすると、ヨシノなのにヨシノではないというニヒリズムに陥ってとても困ったであろう。言葉が事柄を表し、事柄が言葉を生むはずの、以前は安定した均衡にあった関係が崩れている。対処法としてはなかったことにすること、つまり、見ないことにするのである。吉野へは行幸せず、吉野のことは思い出さないようにして、話にのぼらせなければ観念の世界の秩序は保たれる。これは仮定の話である。
(8)大伴家持の作(巻第十八、万4098~4100)
芳野の離宮に幸行す時の為に、儲けて作る歌一首 并せて短歌
高御座 天の日嗣と 天の下 知らしめしける 皇祖の 神の命の 畏くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十伴の緒も 己が負へる 己が名負ひて 大君の 任けのまにまに この河の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ嗣ぎに かくしこそ 仕へ奉らめ いや遠長に(万4098)
反歌
古を 思ほすらしも わご大君 吉野の宮を あり通ひ見す(万4099)
もののふの 八十氏人も 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつ見む(万4100)
「為下幸二-行吉野離宮一之時上、儲作歌」とあり、事前に準備して作っていた歌である。万4098番の長歌では、前半に祖先が造った宮に天皇がずっと通い続けていることが述べられ、後半に臣下たちも拝命に従って代々仕えようと言っている。そのことは反歌に反映していて、万4099番歌では天皇がその先祖のことを思いながら吉野の宮に通っているであろうことを、万4100番歌では臣下がそれに伴う形で仕えて同道することを歌っている。そのために、「もののふの 八十伴の緒」という常套句を登場させている。むしろここでは、そのような常套句があったことに思い至り、ならばその常套句をもって状況を新たな視角から切り取れないだろうかと考えて、臣下が仕える話へと展開させて行っている。それがこの歌の新しさである(注16)。
これまで、吉野というところは、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところと歌われ続けてきた。それに対して、臣下も子々孫々お仕えして行こうというのである。ここで、臣下が仕えるのは天皇だから、吉野の離宮のことなど関係ないように思われる(注17)。しかし、そうではないというのがこの歌の眼目だろう。
仕えるべき臣下のことを、「もののふの 八十伴