古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

神武記の、謀反を知らせる伊須気余理比売の歌について

2022年06月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 神武記に皇位継承問題の話がある。天皇の没後、皇后イスケヨリヒメが子の庶兄のタギシミミと結婚した。するとタギシミミは翻意したのか反逆し、皇后の実の子を殺害しようとした。そこでイスケヨリヒメは、子どもらに実情を伝えようとして歌を歌っている。その歌から本心を知った御子は、反対にタギシミミを殺している。二首ある歌謡については諸説あるが、隔靴掻痒のものばかりで要領を得たものはない。

 かれ天皇すめらみことの崩りましし後に、其の庶兄ままね当芸志美々命たぎしみみのみこと、其の適后おほきさき伊須気余理比売いすけよりひめを娶りし時に、其の三はしらのおとを殺さむとしてはかりし間に、其の御祖みおや伊須気余理比売、患へ苦しびて、歌を以て其の御子たちに知らしめき。歌ひて曰はく、
 狭井河さゐがはよ 雲立ち渡り 畝火山うねびやま の葉さやぎぬ 風吹かむとす(記20)
又、歌ひて曰はく、
 畝火山 昼は雲ゐ ゆふされば 風吹かむとそ 木の葉さやげる(記21)
 是に、其の御子、聞き知りて驚き、乃ち当芸志美美を殺さむとし時に、神沼河耳命かむぬなかはみみのみこと、其の神八井耳命かむやゐみみのみことまをししく、「なね汝命ながみことつはものを持ち入りて、当芸志美々を殺せ」とまをしき。故、兵を持ち入りて、殺さむとせし時に、手足わななきて、殺すこと得ず。故爾くして、其のおと神沼河耳命、其の兄の持てる兵を乞ひ取りて、入りて当芸志美々を殺しき。故、亦、其の御名みなを称へて、建沼河耳命たけぬなかはみみのみことと謂ふ。(神武記)

 「狭井河よ ……」(記20)、「畝傍山 ……」(記21)の二首が、どうして「其御祖伊須気余理比売、患苦而、以歌令其御子等。」に値する歌なのか、衆人の納得は得られていない。横山1936.に、「狭井河のかたより雲が立ちわたつて、大宮のある畝火山の木の葉がからからと鳴るのは、今風が吹かうとするからである、と、あらはには告げず、それとなく手研耳たぎしみゝみこと謀叛むほんふうしたところに、母后としての深い御心遣こゝろづかひがあつたのであらう。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258039/20、漢字の旧字体とくり返し記号は改めた)とある。昔も今も、同じように捉えている。譬えや寓意を含む歌であるとする向きが多い(注1)。しかし、捉えようによってどうとでも受け取れる“譬喩”的効果をたのむ歌謡であったとは考えにくい。歌はわかるから伝わる。それは歌を聞いたとされている神八井耳命、神沼河耳命兄弟ばかりではなく、伝承を聞いている上代の人たちすべてにおいてそうである。そうでなければ話は伝達されず、太安万侶の書記以前に潰えていたであろう。曖昧な寓意にしか受け取られていないのは、近世以降現代まで理解されずに放置されたためである。
 これまでの議論では、これらの歌が「以歌令其御子等。」である意味がはっきりしないが、まあ、そういうことなのだろうと、そこから逆算して歌の意を解そうと努めてきた。しかし、見過ごされていた視点がある。「其御祖伊須気余理比売、患苦而」を歌にしていることである(注2)。「其御祖」の「其」は実子である日子八井命ひこやゐのみこと(注3)、神八井耳命、神沼河耳命のことを言っている。なぜなら、「其御祖」とあって、3人の子の「御祖」だからである。実の母親である。そのイスケヨリヒメは、継子である前妻の子、タギシミミと結婚することになった。すると、タギシミミは結婚相手の連れ子である3(2)人の子を殺そうと考え出した。ために、イスケヨリヒメは、母として「患苦」こととなっている。この「患苦」の結果として歌を歌っている。
 イスケヨリヒメの正式名称は、ホトタタライススキヒメノミコト、また、ヒメタタライスケヨリヒメノミコトである(注4)。丹塗矢伝説に由来している。美和の大物主神との聖婚によって生まれたことになっている。

 此間ここ媛女をとめ有り。是、神の御子と謂ふ。其の、神の御子と謂ふ所以ゆゑは、三島の湟咋みぞくひむすめ、名は勢夜陀多良比売せやだたらひめ、其の容姿かたち麗美うるはしきが故に、美和みわの大物主神、見でて、其の美人をとめ大便くそまらむと為し時に、丹塗矢にぬりやりて、其の大便らむと為し溝より流れ下りて、其の美人のほとを突きき。しかくして、其の美人、驚きて、立ち走りいすすきき。乃ち、其の矢をち来て、とこに置くに、忽ちにうるはしき壮夫をとこと成りき。即ち其の美人をめとりて、生みし子の名は、富登多々良伊須々岐比売命ほとたたらいすすきひめのみことと謂ふ。亦の名は、比売多々良伊須気余理比売ひめたたらいすすけよりひめと謂ふ。是は、其のほとと云ふ事をにくみて、後に改めし名ぞ。故、是を以て神の御子と謂ふぞ。(神武記)

 いわゆる三輪山伝説は崇神記に分流している。姿の知れない壮士を探ると、鉤穴を通過しているところから蛇身をとっていたと理解されている。その娘として生まれているのがイスケヨリヒメで、それがタタラという名を冠している。ならば、そのタタラは、蛇腹になっている大きな足踏み送風機、蹈鞴(たたら)のことを示しているのであろう。
鉄蹈鞴(平瀬徹斎・日本山海名物図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555436/24をトリミング接合)
 そんなイスケヨリヒメが歌に、「風吹かむ」と言っていれば、蹈鞴を使って風を起こすことを暗示していると考えられる。それが歌の意味を考えるうえでの基点となる。歌に、木の葉がざわざわと音を立てるところをみると今から風が吹こうとしているに違いない、と伝えようとしている。ふつうそのようなことはない。大気の現象として風が吹き、そのために木の葉はさやぐ。木の葉がさやぐことが風が吹く前兆であるということはない(注5)。すなわち、風は自然現象の風ではなく、送風機の蹈鞴によって起こされる人工的な風である。
 では、畝傍山で、木の葉がさやぐという時、何の木なのか、どのような音がしているのか。樹種について知る由はない。指定する必要がないので述べていない。他方、さやぐ音については指定があるようである。なぜなら、そもそも「さやぐ」という言葉は、音のざわつきをもとに成立しているからである。万葉集にも同様の例が見られる。

 小竹ささの葉は み山もさやに さやげども 吾は妹思ふ 別れ来ぬれば(万133)

 ササ(小竹)の葉の音は、サザとざわめいており、サザキ(御陵)のことを暗示していると理解される(注6)。その例に倣えば、記20・21番歌謡においても、木の葉のざわめきの音は決まってくる。誰が誰のために「患苦」んで歌としているか。「其御祖」と記されているが、要するに母である。葉がハハ、もっと直截に言えば、ハバという音を立てて「さやぐ」ことになっている。ハバという語もハハ(母)と同じ意を表すと考えられる。

 かほよきかな、女子をみなごいにしへの人、云へること有り。娜毗騰耶皤麼珥なひとやはばにひとはば)。此の古語ふること未だつばひらかならず。いさぎよき庭にしめやかありひとは、が女子とか言ふ。(雄略紀元年三月)

 地名が二つ登場する。狭井河と畝火山である。狭井河の狭井については記事の前段階で断り書きがある。山ゆりのことをサヰというというのである。

 是に、其の伊須気余理比売命の家、狭井河の上に在り。天皇、其の伊須気余理比売のもと幸行いでまして、一宿ひとよ御寝みねし坐しき。其の河を佐韋河さゐがはと謂ふ由は、其の河のに山ゆり草あまた在り。故、其の山ゆり草の名を取りて佐韋河と号けき。山ゆり草のもとの名は佐韋さゐと云ふ。(神武記)

 そのようにわざわざ記されているのだから、歌の一句目、「さゐがはよ」を音として聞けば、ヤマユリガハヨの意を表しているものと考えられよう。最後の「よ、ヨは甲類」は起点を表す助詞である。ユリという語も同じである。すると、「狭井河さゐがはよ 雲立ち渡り」とは、山より河より雲が立って渡って、という意味を言っていると認められよう。狭井河に所縁があるから口をついて歌っているが、気象観測の事実を述べるために持ち出したのではなく、言葉遊びに使っている。気象的に考えたとしても、雲が起こるときに特定の場所から起こる現象を見つけることは難しく、あたり一面から雲は湧き起こるものである。狭井河をもって勢力圏を表すものではない(注7)
 一方の畝火山のほうは、宮の所在とからめて捉えられることが多い(注8)。しかし、こちらも誰かを暗示するといった平板な理解では対処しきれない。逆賊的行動をとっているのはタギシミミである。タギシと聞けば、田の岸のこと、一般に畔(あぜ)と呼ばれるものであろうと直感される。古語に、「あ」と言った。和名抄に、「畔 陸詞に曰はく、畔 音は半、和名は久路くろ、一にと云ふ は田の界なりといふ。唐韻に云はく、塍 食陵反、字は亦、塖に作る。和名は上に同じ は稲田の畦なりといふ。畦 音は携 は菜の畔なり。」とある。そして、彼は、先代の神武天皇の皇后(適后)を「娶」(注9)りながらその連れ子を殺そうとしている。畔をつくって水を張ったなかに溺れさせようというのであろう。
 一般に、先妻の子を後妻がいじめるような継子いじめは想定される。そのとき、連れ子の母親はそこにいない。ところが、タギシミミは瘤付きのイスケヨリヒメと結婚して、母親は現前している。なのに子をいじめるどころか殺そうとしている(注10)。母親が男との情欲に溺れて育児を放棄するのならまだしも、子はかなり成長している。そんな未亡人と結婚しようというのは、熟女好きか遺産目当てであると考えられる。子を殺せば天皇位に就けると思っての打算であった。イスケヨリヒメは結婚詐欺に遭い、まんまとだまされたというのである(注11)
 すなわち、アザムク(欺)ことをされている(注12)。イスケヨリヒメは先帝に先立たれた悲しさからタギシミミの甘い言葉に溺れてつけ込まれた。タギシミミはイスケヨリヒメを見くびって思うままにしている。イスケヨリヒメは、ア(畔)+サムク(寒)感じている。寒風が吹きそうだと言っている。サムシは、心理的に寒々しく感じることもいう。

 葦の葉に 夕霧立ちて 鴨がの 寒きゆふへし〔左牟伎由布敞思〕 をは偲はむ(万3570)
 悽 千奚反、イタム、ウラム、アハレフ、カナシフ、サムシ(名義抄)

 場所は畝火山である。ウネ(畝)+ビ(廻、ビは乙類)と聞けば、畝が立っていてそこに蔬菜類が育てられ、まわりは低く廻らされて水はけ良くされている。他方、タギシの畔が耕作地の周りに高くされていても、それは水を貯めるためであって、そこで栽培されるわけではない。土を盛りあげる理由、目的が逆なのである。アザムクという言葉を説明するのに、タギシやウネビという名は好材料である。
畔と畝(ウィキペディア「島畑」KAMUI様撮影、https://ja.wikipedia.org/wiki/島畑)
 言問はぬ 木すら紫陽花あじさゐ 諸弟もろとらが ねり村戸むらとに あざむかえけり(万773)
 布施置きて 吾は祈ひむ あざむかず ただ率行ゐゆきて 天路あまぢ知らしめ(万906)
 武彦を廬城河いほきのかはあとたしみて、あざむきて使鸕鷀没水捕魚うかはするまねして、……(雄略紀三年四月)
 其れへつらあざむく者は、国家あめのしたを覆すうつはものなり、……(推古紀十二年四月、十七条憲法「六曰」)
 ……并せて皇子大津が為に詿誤あざむかれたる……三十余人をからむ。(持統前紀)
 此の世界は人の情、了戻もとり曲りへつらいつはあざむき、……(東大寺諷誦文稿)
 佞 寧定反、去、謟也、姧也、佞正作、阿佐牟久あざむく、又加太牟かだむ、又伊豆波留いつはる(新撰字鏡)
 嘐 許交反、平、誇語也、伊豆波留いつはる、又阿坐牟久あざむく、又保太支天ほたきていふ(新撰字鏡)
 謫讁 同、帝各反、入、欺也、責也、過也、譴也、數也、咎也、怒也、伊豆波留いつはる、又阿佐牟久あざむく(新撰字鏡)
 謧 力知遅鬼二反、欺謾之言也、阿佐牟久あざむく、又伊豆波留いつはる(新撰字鏡)
 諓 字衍市偃二反、上、不實言也、諂也、戸豆良不へつらふ、又阿佐牟久あざむく(新撰字鏡)
 䛕諛 同字、以珠反、平、不擇是非也謂之諛、諂誑也、部豆良不へつらふ、又阿佐牟久あざむく(新撰字鏡)
 譚 投南反、平、誤也、大也、誕也、人姓也、伊豆波利いつはり、又阿佐牟久あざむく(新撰字鏡)

 新撰字鏡の例は、イツハルとも訓む例が多い。古典基礎語辞典に、「真実を隠そうとして虚偽を行ったり言ったりする。……類義語アザムク(欺く)は人の気持ちにかまわず自分の意のままに行動し、人を馬鹿にしあやつる意。」(129頁、この項、白井清子)とある。両語は語義が近い。つまり、イスケヨリヒメはアザムクともイツハルとも訴えている。

 いつはりも 似つきてそする うつしくも まこと吾妹子わぎもこ 吾に恋ひめや(万771)
 以為おもはく、いつはりて己が宝とせむとおもふ。則ちいつはりて天皇に奏して曰さく、……(安康紀元年二月)
 ……いつはよばひして、……(雄略前紀安康三年十月)
 ……、新羅国、背きいつはりて、……(雄略紀八年二月)
 ……かたいつはることを日に増多にあら令めてむ。(西大寺本金光明最勝王経・巻八)
 諼 况遠許无居而三反、忘也、詐也、妄也、和須留わする、又伊豆波留いつはる(新撰字鏡)
 姦 加變反、偽也、盜也、私也、姧也、比曽加尓ひそかに、又伊豆波留いつはる   (新撰字鏡)

 記20・21番歌謡に「雲」が出ている。「立ち渡り」「雲ゐ」とある。雲がかかっていて晴れ晴れしくない。イツ(何時)+ハル(晴)かと投げかけている。偽られるどころか欺かれている。詐欺被害に遭ったら、己の気の緩みを落ち度として悩むことがある。「患苦」するのである。タギシミミに気づかれないようにばかりではなく、恥ずかしいから世間体も気にしてにわかには公にわからないような歌い方をしている。
 記21番歌謡の「雲とゐ」は、「雲と」説に対して「雲ゐ」説が提唱され、多くの支持を集めている。筆者も同意見である。「木の葉」がさやぐのは地震(「なゐ」)や雲のたなびき(「雲ゐ」)あってのことと考えられる。この説に否定的な見解は、万葉集に「とゐなみ」の例しか見られない点を強調する。けれども、「腫浪とゐなみ」(万3339)と訓まれている。浪が腫れている。時代別国語大辞典は、「腫れる意のタタフという語(「脹満太高ハレタタヘリ」(神代紀上))が、一方では水のみなぎる意にも使われる(「瀁タタフ、タタヒアカル・漲タタヘリ」(名義抄))ことも参考になる。」(511頁)と丁寧に解説する。満ち満ちて揺らいでいる感じを示す語である。「腫(脹)る」は、「張る」、「晴る」などと同系の言葉であろうとされている。雲が「ゐ」状態にあると大空を雲が張っている。それがすべて消えて空の方が大きく張ったようになるのを「晴る」としている。そのことが畔や畝と関係して述べられるのは、やはり同系とされる「る」との語つながりである。地面の上に耕作地や道路が広がることを言っている。
 「木の葉さやぐ」のは山が揺れるからであった。地震で木の葉が揺れても風は吹かない。あえて風を起こすには、蛇腹の鞴(ふいご)を使って吹くしかない。タタラ(蹈鞴)の名を冠するイスケヨリヒメ(比売多々良伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめ)が自分で風を吹こうというのである。むろん、鍛冶作業を行うような場所ではない。火の気がないところでたたらを踏んでも、寒い風が吹くばかりである。そういうことを伝えたいから歌にして歌っている。奇妙奇天烈だが、ヤマトコトバを論理的にたどっていけば欺かれたと訴えるのにふさわしく、聞く側になるほどと思わせるに十分な歌となっている。
 記20・21歌謡のヤマトコトバに、今日まで真正面に向き合ってこなかった。暗示の歌、譬喩の歌、寓意の歌など、さまざまに小手先で理解しようとしては失敗してきていた。文字時代と無文字時代では言葉に対する向き合い方、視座が違う。文字を持たない人たちが、その場ばかりでなく、一つ山越えたところの人たちにも語って伝えることができるようにするにはどのようにすればよいのか、知恵を絞って言葉をこしらえていた。結果、言葉を使うのに、実地においてなのに、まるで辞書に書くように使っている。なおかつ、創作する現場のような臨場感にあふれている。それが記紀の説話の言葉の特徴である。わけても歌謡は、大きな声で歌われ、広く聞かれて一気に理解されるものと認識されていたから、いっときその瞬間のもの、くり返されることはないもの、耳をそばだてて聞くものとして設定されている。歌が歌われると逐次に逐語に理解されることが求められており、そればかりで完結した表現形となるようにたしなまれていた。地の文を補完しつつ次元を超越することが歌謡の宿命だったため、“独立歌謡”かと錯覚されるほどであった。しかし、どこかにすでにあった歌謡を古事記の“編纂”の過程でつぎはぎしたものではなく、古事記の書記化にあたって組みこまれたものでもない。ヤマトコトバの音のからくりをもって洒落と頓智をめぐらせることで成り立っている。きわめて高度な言語芸術である。その手法は、我々のような、文字言語にどっぷりと浸かってしまった低級な言語行為者には馴染みのないものである(注13)

(注)
(注1)先行研究の解釈をいくつか示す。
 一首[記20]の意は、狭井河の方に雲のタチ渡て、畝火山の ノの葉どもの喧擾サヤメくは、風の キタヽんとてぞ。如此カク云は、当芸志耳タギシミヽ軍士イクサ シて狭井河に リ汝等イマシタチカクミシセむとする シぞとなり。……一首[記21]の意は、大宮近き畝火山に、昼のホド静まりる雲の、 ルになれば風吹かんとて ノ葉の リさやめくぞといひて、当芸志耳タギシミヽが、昼の間は大宮あたりにさりげなく忍び居て、夜になれば汝等を殺しまつらむとて、ハカリゴつぞと含め給ふなり。(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069688/56~57、漢字の旧字体は改めた)
 一首ヒトウタの意、ウヘは、狭井川の方より雲の発渡タチワタリて、大宮のべなる畝火山の樹葉コノハども喧擾サヤぐを見坐て、風の吹発フキタチなむとすることを所知看シロシメシたるさまにて、然譬シカタトヘ賜へるシタの意は、当芸志美々タギシミミミサカリ事謀コトバカリをしマウクるぞ、汝等ミマシタチを殺さむとてなりと云るにて、雲 チ リ ノ葉さやぐは、事 リする譬へ、風吹カゼフカムトは殺さむこする譬なり、【……さて又雲の立渡るは、風の吹むとするさまなれども、 ノ葉のさやぐは、ミサカリに風の ク時の事にこそあれ、フカむとするさまによみ給へるは、事のさま違へるに似たれども、然細シカコマカに思ふは、 ノ世の意なり、たゞ ノ葉のさやぐは、風の ク事縁コトヨレる故 に、かくはよみたまへるなり、凡てかゝること、 ヘオホらかにこそよめれ、又風は ヅ山上より吹て、後に山下フモトへは キおろすものなる故に、 ヅ山の ノ葉のさやぐが見えて、いまだ山下までは吹 バざるほどなりとも云むか、は殊にくだくだし、】(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/533~534、漢字の旧字体は改めた)
 最初、ただの叙景の歌だったのが、人人の口誦のうちに、畏怖すべき神の意思を認め出したので、こういう伝説が生れたと見られるのである。(相磯1962.85頁)
 歌に寓意が宿り、もしくは事件の前兆が現われるとするのは、上代人の抱いた思想で、……この歌はおそらく、「木の葉さやぎぬ」「木の葉さやげる」に、タギシミミの謀反を寓意したものであろう。遠い昔、荒ぶる神の跳梁した世には、「盤根いはねち、くさ片葉かきは」までも言語した。しかし、治まる御代になって物言いを止めた(参取、『祝詞』六月晦大祓等)とするのが上代人の理解で、今また木の葉がざわざわと音を立てはじめ、物言いをするところに、荒ぶる神の出現を寓意したものであろう。(山路1973.55~56頁)
 通説は「狭井川から畝傍の方に雲が立ち渡ってくる」とするが、それでは、この歌がなぜ危機をしらせることになるのか分らない。この「雲」は狭井川から空に立ち渡っている雲で、皇子たちの住む場所の平和と繁栄の表象なのである。それと相対する畝傍山で、当芸志美々が、嵐(謀反)を起そうとしていることを、再婚した御祖みおや(伊須気余理比売)が、木の葉のさやぎをたとえに、故郷の皇子たちに警告したのである。(古典集成本古事記123頁)
 この「畝火山」は「畝火の白檮原宮」……を受ける。畝火山に風が吹こうとしているとは、都に異変が起ろうとしていることを意味する 。(新編全集本古事記161頁)
 畝傍山の木々の葉がざわめくのを根拠として、その方角から嵐が襲ってきて、平和に治まっている佐韋河(狭井川)あたりを荒らしてしまいそうだ、というのは何よりも、謀反事件の出来を危惧していることになる。この歌では、木々の葉が騒がす「風」が謀反の騒然さの比喩であるのに対して、一面に立ち上っている「雲」は平和な治世の比喩になっている。(鈴木1999.138頁)
(注2)山崎2013.に、「患」「苦」といった用字について検討が加えられている。
(注3)日子八井命は話に登場していない。すでに他界していた可能性もある。
(注4)紀には「媛蹈韛五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと」とある。神武記の一連の騒動は、歌謡を伴わずに綏靖紀に記されている。

 神渟名川耳天皇、神日本磐余彦天皇第三子也。母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也。天皇風姿岐嶷、少有雄抜之気。及壮容貌魁偉、武芸過人、而志尚沈毅。至四十八歳、神日本磐余彦天皇崩。時、神渟名川耳尊、孝性純深、悲慕無已。特留心於喪葬之事焉。其庶兄手研耳命、行年已長、久歴朝機。故、亦委事而親之。然其王、立操厝懐、本乖仁義、遂以諒闇之際、威福自由、苞-蔵禍心、図二弟。于時也、太歳己卯。
 冬十一月、神渟名川耳尊与兄神八井耳命、陰知其志、而善防之。至於山陵事畢、乃使弓部稚彦造弓、倭鍛部天津真浦造真麛鏃、矢部作上レ箭。及弓矢既成、神渟名川耳尊、欲以射-殺手研耳命。会有手研耳命於片丘大窨中、独臥于大牀。時渟名川耳尊、謂神八井耳命曰、今適其時也。夫言貴密、事宜慎。故我之陰謀、本無預者。今日之事、唯吾与爾自行之耳。吾当先開窨戸。爾其射之。因相随進入、神渟名川耳尊、突-開其戸。神八井耳命、則手脚戦慄、不矢。時、神渟名川耳尊、掣-取其兄所持弓矢、而射手研耳命、一発中胸、再発中背、遂殺之。於是、神八井耳命、懣然自服。譲於神渟名川耳尊曰、吾是乃兄、而懦弱不果。今汝特挺神武、自誅元悪。宜哉乎、汝之光-臨天位、以承皇祖之業。吾当汝輔之、奉-典神祇者。是即多臣之始祖也。
 元年春正月壬申朔己卯、神渟名川耳尊、即天皇位。都葛城、是謂高丘宮。尊皇后皇太后。是年也、太歳庚辰。(綏靖前紀~元年)

(注5)近代の詩に見られる表現や、科学的な実験とは無関係である。(注1)にあげた本居宣長は、あまりこまかく思うなとしている。井上2021.は、「木の葉はひとりでに音を立てている・・・・・・・・・・・・と解さざるを得ない」(52頁)とし、「草木がひとりでに音を立てる=物言う様を記した」「天孫降臨以前の様を表した神話的表現としての位相にあると考えられる」(53頁)とする説を唱えている。
(注6)拙稿「「小竹の葉は み山もさやに 乱友」(万133)歌の訓みについて」参照。
(注7)例えば、土橋1972.に、狭井河をタギシミミやイスケヨリヒメの家や故郷の地かと考える議論がある。
(注8)松本2011.は、「神武の象徴として畝火山が詠み込まれている」(152頁)とし、「それは天照大御神の直系である存在としての意味を強く持つ。代々の天皇は天照大神の直系の子孫であり、その皇統に天下統治の正統性はあると主張すること、それが神武記の主題である 。」(163頁)と大きく出ている。柿本人麻呂の近江荒都歌、「玉だすき 畝火の山の 橿原の 日知ひじりの御世みよゆ ……」(万29)の例は、始祖の都を思い起こさせるために用いられている。しかし、畝傍山が神武天皇を必ず思い起こさせるかと言えばそのようなことはない。允恭紀四十二年十一月条に、新羅の弔使が帰国する際に、畝傍山、耳成山を訛って「うねめはや、みみはや」と言ったため、采女と姦通したかと疑われて逮捕された話が載る。また、舒明前紀に、政争に敗れた境部摩理勢の長兄、毛津が畝傍山に逃げ入った際の「時人」の歌がある。「畝傍山 小立こたち薄けど 頼みかも 毛津の若子わくごの 籠らせりけむ」(紀105)とあって、無勢の譬えとして畝傍山が用いられている。
 日本書紀の記述は古事記とは別であると反論されるかもしれないが、言い分が通らない別伝があるとき、わざわざ畝火山を利用して何かを表現しようとするものであろうか。筆者は、それ以上のこととして、無文字時代の人々の思惟に、“象徴”という観念は適さないと考える。言語以前に観念はなく、その言語がヤマトコトバに具体的でありつづけていたとき、言葉そのものに直接のつながりが認められなければ共通の理解は得られない。「磐余いはれ」に「謂はれ」は観念として成り立つが、「畝火山」に「神倭伊波礼毘古かむやまといはれびこ」(神武)は観念に定まらない。「神倭宇泥備夜麻毘古かむやまとうねびやまびこ」とはないのである。柿本人麻呂が歌のなかで“説明”しているように、説明抜きに“象徴”であると理解することは、仮に一人二人思っていたとしても、峠一つ越えたら通用しないものである。ヤマトの版図は広まっている。そこは、ヤマトコトバが通じたところである。
(注9)阿部1987.に、古事記の「娶」は系譜表現に常用されるもので、「天若日子・当芸志美美共に、その婚姻が王権の獲得と結びつくことを示すため、そこに婚姻の政治的意義を表現し得る古事記の系譜用語「娶」を例外を犯して用いてきたと考えられるのである。」(35頁)としている。
(注10)ハヌマンラングールの生態が知られていたとは考え難い。
(注11)山崎2013.は、イスケヨリヒメが、「まず第一点は、前天皇の大后を手に入れることと皇位につくことが密接に結びつくことである。そして第二点は、大后が夫の天皇崩御後、実子を次期皇位継承者に導くことである。」(120頁)という二つの点で皇位継承に大きく関わっていると読み取っている。未亡人の皇后が後継者指名に与るところ大であり、次の皇位と「密接に」関係するのか定めることはできない。同例とされる用明天皇没後時の後継者については、蘇我馬子が皇后であった「炊屋姫尊かしきやひめのみことあがめたてまつりて」とあることが「皇位継承上、困難な事情のある時、先帝の皇后が政治にあずかる一例。」(大系本日本書紀65頁)とされるのは首肯されるが、そのとき物部守屋と蘇我馬子の大豪族間で争いが起きており、皇位継承に支障を来していた。神武天皇没後時に豪族間の争いなど起きていない。
(注12)白川1995.は次のようにツボを押さえた解説を施している。「あざむく〔欺〕 四段。人の欠点につけ入って、誤った方向に進ませる。いつわって人をだますことをいう。「あざ」は「あざ」で欠点。「あざける」「あざわらふ」と同根の語。人の欠点とするところに乗じて、あらぬ方向に進ませるもので、「あざ」「く」の複合語とみてよい。愚弄し、誘惑する意がある。」(62頁)。
(注13)記紀所載の歌謡について、散文との違いを古事記成立時の加工によるものとする説がある。文字化に際して地の文に歌謡が付け加えられたとする向きである。また、歌垣や催馬楽のような他の謡い物、あるいは、おもろそうしのような民謡、また、童謡などに類させ、歌謡一般から演繹されると捉える見方もある。議論の立脚点について、ひとたび始めてしまったことはなかなか顧みられないであろう。それは、古事記というテキストについて、天皇制の正統性を申し述べる目的で創作されたものとする、どこに根拠があるのか不明な立脚点についても同じであろう。それらのラージミステイクについて批判することは、それらと同じ目線に立って語らねばならず、無駄な時間に思われる。記紀万葉に残されている記述をひとつひとつ丹念に繙いて帰納していくことが、適確にして真摯な反論であろうと考える。

(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註釈』有精堂出版、昭和37年。
阿部1987. 阿部誠「古事記・綏靖即位物語の方法─歌謡物語部の生成をめぐって─」『国学院雑誌』第88巻第7号、昭和62年7月。
井上2021. 井上隼人「母の歌─『古事記』二〇・二一番歌の解釈から見た伊須気余理比売像─」『日本文学』第70巻第5号、2021年5月。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
古典集成本古事記 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和59年。
阪倉1978. 阪倉篤義「ひるは雲とゐ」上田正昭・井手至編『鑑賞日本文学 第1巻 古事記』角川書店、昭和53年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。 
鈴木1999. 鈴木日出男『王の歌─古代歌謡集─』筑摩書房、1999年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
松本2011. 松本弘毅『古事記と歴史叙述』新典社、平成23年。
山崎2013. 山崎かおり『『古事記』大后伝承の研究』新典社、平成25年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
横山1936. 横山青娥『物語日本女性鑑』新陽社、昭和11年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258039

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