応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─
一
日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。
はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。
廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰、高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。(応神紀二十八年九月)
これを古訓に従いながら次のように訓んでいる(注1)。
二十八年の秋九月に、高麗の王、使を遣して朝貢る。因りて表上れり。其の表に曰さく、「高麗の王、日本国に教ふ」とまをす。時に太子菟道稚郎子、其の表を読みて、怒りて、高麗の使を責むるに、表の状の礼無きことを以てして、則ち其の表を破つ。(応神紀二十八年九月)
何が問題となるかというと、本当にそのようなことはあったのかということと、「教」という字をヲシフと訓むのが正しいのかということである。
当時の東アジア情勢をかんがみた時、本当にそのようなことがあったのか疑問視されている。「五世紀前半の高句麗は好太王・長寿王父子の治政で、日本とは常に敵対関係にあり、日本に対する朝貢や上表の事実があったとは考えられない。」(大系本日本書紀215頁)、「五世紀前半のこととするならば、『三国史記』によれば、高句麗は広開土王(三九二~四一三)・長寿王(四一三~四九一)父子の治政で、日本への朝貢や上表は疑問。」(新編全集本日本書紀492頁)、「「教二日本国一」との表文が問題になったという話が中心記事であり、目的は太子菟道稚郎子の識見を称讃するにある。表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実と見做し難い。撰者の造作と見る外はない。」(三品1962.253頁)などとある。
撰者の造作であるとして、ならばどうしてそのような造作が行われているのかが次の課題として浮かび上がる。字が読めたら偉いのか、称讃に値するものなのか、筆者は年々疑問に思うことが増えている。この応神紀の文章も、菟道稚郎子が上表文を読んで高麗の使者に無礼であると叱責して破り捨てたというだけである。称讃の話と捉えることはできない。
そこで関わってくるのが、もうひとつの疑問、「教」をヲシフと訓むので正しいのかという点である。
菟道稚郎子が上表文を読んでいることは疑い得ない。読んで意味がわかるということは、まずまず日本語として読んでいるということになる。本居宣長・漢字三音考に、「彼皇子ノサバカリ善了達シタマヒテ。同御世ニ高麗国王ヨリ使ヲ奉遣セシ時ニ。其表ヲ読タマフニ。無礼ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲ責タマヒシヿナドモ見エタレバ。当時既二此方ニテ読ベキ音モ訓モ定マレリシナリ。若音訓ナクバ。イカデカ善読テ其表文ノ無礼ナルヲ弁へ知タマフバカリニハ了解タマハム。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002911/16?ln=ja)とある。どこが「無礼」なのかといえば、「高麗王教日本國也」としか書いてないから「教」字によるのだろうと思われている。
伝本の「教」字付近には、熱田本、北野本、兼右本、内閣文庫本、徳久邇文庫本、寛文版本の傍訓に「ヲシフト云」とある。仮名日本紀、谷川士清・日本書紀通証、河村秀根・書紀集解もヲシフとしている。飯田武郷・日本書紀通釈では、別の箇所の古訓から「ノル」と訓むのがよいと述べている(注2)。瀬間2001.は「ミコトノル」がよいとしている。瀬間氏は多方面から考察し、論拠を確かにしようと努めている。まず、中国周辺諸国での「教」字の意味合いについての検討があり、朝鮮半島やベトナムなどでは「詔」字は中国皇帝以外に認められていないから用いられておらず、それに代えて「教」字を使用していると考証する。次いで日本書紀での「教」字の例について調査している。そのなかに、ミコトノリ、ミコトという古訓が見られるから、当該応神紀二十八年条はミコトノルと訓むべきであろうと述べている(注3)。
瀬間氏は、述作者が「教」字の半島での使い方をよく知っていて、それをここに当て嵌めて詔勅を下している表現とし、そのことに菟道稚郎子が気づいたから「無礼」であると言っているのだとしているようである(注4)。高麗の王様が日本国に対して詔ることをしているとなると、高麗王は日本国をも支配しているということになり、国のメンツを潰そうとしていることになるから親善外交とは言えないというわけである。
とはいえ、そう訓んだところで完全には疑問は解消しない。高麗王は日本国に何とミコトノってきているのかわからない。王様が話をすることをヤマトコトバにミコトノルというだけのことではないのか。日本国の庶民はミコトノルことをしないが、天皇は妻子にひそひそ話をする場合もミコトノルと言っていて、日本書紀では中国皇帝が使うように平気で「詔」字を使っている。高麗王が喋りたいのであればいくらでもミコトノってくれてかまわないような気もするし、確実にミコトノルと訓ませたいのなら、「高麗王詔日本國也」と書けばいいだろう。日本書紀述作者は朝鮮半島での文字使用をよく心得ていたから「教」字を用いているのだと言えばそのとおりなのだが、そんなことを言わんがために、当時、没交渉ともいえる高麗を持ち出している理由はどこにあるのだろうか。
また、ヲシフという訓み方であっても、立場的に上位者が下位者に対してすることに当たる(注5)。白川1995.に、「ことに対処する方法を告げ知らせる。また誤りを正して指導し、あるいは知識や技芸を人に伝えることをいう。……いくらか強制の意を含むものであるから、「治む」との関係などが考えられよう。」(821頁)とある。たとえ知識や技芸の上だけであったとしても、そこに相手を見下している意識がないかといえばやはり存在する。そして、「教」字は「勅」や「詔」と互換可能であることを知っていて適用されたのだとも考えられはする。とはいえ、上下の分別を欠いているから菟道稚郎子は怒ったのだとしても、そんなことを言うために史実にないことをでっちあげ、フェイクニュースを流した動機は奈辺にあるのだろうか。
二
漢字ばかりで書かれている日本書紀の巻第十に55文字紛れ込ませている。日本書紀述作者は何がしたいのか。
高麗との外交文書記事には興味深いやりとりがある。敏達紀に、高麗からの外交文書を王辰爾だけが読み解いたという話が載っている。
丙辰に、天皇、高麗の表䟽を執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸の史を召し聚へて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日の内に皆読むこと能はず。爰に船史の祖王辰爾有りて、能く読み釈き奉る。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「勤しきかな辰爾、懿きかな辰爾。汝、若し学ぶことを愛まざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿の中に近侍れ」とのたまふ。既にして、東西の諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へる業、何故か就らざる。汝等衆しと雖も、辰爾に及かず」とのたまふ。又、高麗の上れる表䟽、烏の羽に書けり。字、羽の黒き随に、既に識る者無し。辰爾、乃ち羽を飯の気に蒸して、帛を以て羽に印し、悉くに其の字を写す。朝庭悉に異しがる。(敏達紀元年五月)
この話が史実によるものかここでは問わない。文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが、三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾のみ能く読み釈いた。天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよ、と言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、多数いても王辰爾一人に負けているではないか、と言っている。
文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は、羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当て、ものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、と言っている(注6)。
これらの不思議な話は、高麗の表䟽に関してのもので、同様の事象がすでに応神紀の表の記事に示されているということらしい。敏達紀の表䟽は手紙であり、草書で書かれるのが大陸の習慣となっていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが、王辰爾は読むことができた。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知らないといけないから、王辰爾はすでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていたのであろう。王辰爾は「学」んでいたが、東西諸史は「習」うことしかしていなかったと日本書紀は語っている。両者の違いを表す示唆深い話をしている。この箇所でも大陸の表䟽の手法を知っていて話が作られている。応神紀で大陸での「教」という字の使用法を知っていたというのと同様の作りになっている。
すなわち、烏の羽に字を書いたという記事と、この菟道稚郎子が礼無しと思った記事とはモチーフとして通じるところがあるということである。史実としてではなく、述作者の話術としてである。
烏の羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美止読。其由如何。○答。師説。昔新羅所レ上之表。其言詞太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後訓云二不美一也。今案。蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡一作二文字一。不美止云訓依レ此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説の、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたと考えられる。「烏」字と「鳥」字とを違えた理由は、全身黒いカラスに目を入れずに表したものという説はよく知られている。
何と書いてあるのかよくわからないとは、どう言っているのかよくわからないということである。「言ひ」(ヒは甲類)がわかるために「飯」(ヒは甲類)の気を用いて対処している。口にするもの、口にすることをイヒ(飯・言)と言っていて、両語は同根の語と考えられている。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.は、「写はもと寫に作り、宀と舃とに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いる履でその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕がバレて犯人の名(「字」)はわかるのである。
説文はまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともする。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないが、ハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「飯」と「言ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたらしい。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定して行ったわけである。もたらされた「表䟽」は「高麗」からのものである。「高麗」は「駒(狛)」と同音であったと考える。「駒」は子馬の約である。「表䟽」は「踏み」と同音で、関連づけられて思われていた(注7)。馬が足に履くものは、馬の草鞋である。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草なのである。草書体で書かれていたことの裏が取れた。
これらはヤマトコトバにおいてのみ理解可能な頓智、なぞなぞである。ヤマトコトバ的思考のなせるワザである。菟道稚郎子の時の上表についても同じように捻られていると予想される。
三
「高麗王教日本國也」の「教」はミコトノリの意味ではあるが、そう訓んでは身も蓋もない。「教」はヲシフと訓んではじめてヤマトコトバとして意味が通じる。ヲシフとはどういうことか考え及んでいるのである。ヲシフのヲシはヲシカハ(韋)のヲシである。
酒君、則ち韋のあしをを其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。(仁徳紀四十三年九月)
韋 唐韻に云はく、韋〈音は闈、乎之賀波〉は柔皮なりといふ。(和名抄)
滑革 ナメシ(運歩色葉集)
Namexi.l,Namexigaua.ナメシ.または,ナメシガワ(鞣.または,鞣革) なめした革(日葡辞書)
……さな葛の根を舂き、其の汁の滑を取りて、其の船の中の簀椅に塗り、蹈むに仆るべく設けて、……(応神記)(注8)
今、大倭国の山辺郡の額田邑の熟皮高麗は、是其び後なり。(仁賢紀六年是歳)
「熟皮」という名前に使われているヲシは動詞ヲス(なめらかにする)の連用形と思われている。応神紀の話では高麗は朝貢したことになっている。高麗からの献納品として有名なものに、虎の毛皮がある。フ(斑)のあるヲシカハ(韋)のことが念頭にあってヲシフと器用に述作されている。
生きている獣を捕獲し、解体処理して皮を取り、腐らないように加工する。付いている肉や毛をとってきれいにしてから、揉んだり乾かしをくり返したり、脳漿に和えたりする方法がとられていた(注9)。鞣しの技法である。だからヲシカハ(韋)のことはナメシガハ(鞣革)とも、ただナメシ(滑)とも言う。刷毛に着いた液を皮に塗ることを、まるで唾液の着いた舌で舐(嘗)めるようなものだと譬え見たのかもしれない。そのナメシと同じ音に、ナメシ(無礼)という言葉がある。宣命の例にあるとおり、「無礼し」は「なめし」とほぼ同じ意味である。今日でも「なめんなよ」と使っている。
仮令後に帝と立ちて在る人い、立ちの後に汝のために無礼して従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。〔仮令後尓帝止立天在人伊、立乃後尓汝乃多米仁无礼之天不従、奈米久在牟人乎方帝乃位仁置許止方不得。〕(続紀・淳仁天皇・天平宝字八年十月、29詔)
倭道は 雲隠りたり 然れども わが振る袖を 無礼しと思ふな〔無礼登母布奈〕(万966)
何の故か二つの国の王、躬ら来り集ひて天皇の勅を受けずして、軽く使を遣せる。(継体紀二十三年四月)
高麗が「教ふ」と言ってきたことがナメシ(無礼)だとして菟道稚郎子は怒っている理由が明らかになった。もちろん、立場の上下を弁えていないことから正そうとしたものではあるが、それを「怒り」にして表すには及ばない。イカリとして表したのは、イカ(烏賊)がスルメイカとして朝廷に献上されていて菟道稚郎子も食べていたであろうからである。菟道稚郎子は太子であり、国を治める人として嘱望されていた。国をヲス(食)人が食べるの尊敬語、ヲスものとしてスルメイカはあった。スルメイカの様態はヲシカハ(韋)ととてもよく似ている。為政者の立場にある人が、朝貢とともに上表された文章のなかにヲシ(フ)とあったから、イカ(リ)を発するに至っている。
人工皮革で作ったスルメイカ
ナメシ(韋、鞣、滑)の話になっているのには、上表を寄こしたのが高麗だからでもある。駒(狛)をもたらした国であり、たくさんの馬が生産された。死ぬと皮はことごとく鞣されて活用された。馬とその使用法、ならびにその生産方法ばかりか、死後の活用法も同時に高麗から移入された(こととして理解されていた)。馬の脳を使って馬の皮を鞣した(注10)。ヤマトの人は、奥深い知恵をヤマトコトバが抱え込んでいることをよく知っていたのである。言葉、いわゆる和訓を造る際、意味を重ね塗り込めていた。それがヤマトコトバであった。それによって書き表された「高麗王教日本國也」の八文字は、簡にして要を得た端的な物言いで、上代語表現のミクロコスモスの感をなしている(注11)。
応神紀で「教」という字を用いたのは、大陸でのその文字の使用法を知りつつ、ヤマトコトバでヲシフという言葉が表す深い意味、頓智を深く理解していたからである。だから、イカリ(怒)の文脈で滞りなく披露している。敏達紀で、大陸で表䟽の書体が草書体であることを知りつつ、ヤマトコトバでイヒやハクという言葉が表す深い意味、頓智を披露していたのと同じである。日本書紀述作者は、ヤマトコトバに通暁した人たちであった(注12)。
(注)
(注1)「王」はキミ、「曰」はイハク、「破」はヤブリツ、ヤブリスツなどとも読まれている。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/321参照。
(注3)日本書紀の他の例に見られる「教」字では、岩崎本平安後期点(10~11世紀)として、「内教」(推古紀元年)、「仏教」(推古紀三年五月)、「釈教」(推古紀十四年五月)、「所教」(皇極紀元年七月)、「周孔之教」(皇極紀三年正月)、前田本(11世紀写)に「脩教」(継体紀元年三月)、書陵部本(12世紀写)に「教」(清寧前紀)、鴨脚本(嘉禎二年(1236)写)に「勅教」(神代紀第九段一書第二)、兼方本(弘安九年(1286)写)・兼夏本(嘉元元年(1303)写)に「奉教」(神代紀第六段本文)などと見える。
なお、ミコトノリスの形の古訓が行われたことはあるが、ミコトノルと動詞に訓んだ例は見出されていない。
(注4)瀬間氏の論文では当初の問題提起、「菟道稚郎子は何故怒ったのか」から議論が逸れて行っていて、断言はされていない。
(注5)日本書紀通証や書紀集解は、「表」と「教」字について釈名を引いている。「下言二於上一書 曰レ表 也。」、「教 倣也下所二法倣一 也」とあり、ベクトルは反対ながら上下の関係にあることを示している。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917894/1/20、https://dl.ndl.go.jp/pid/1157899/1/215参照。
(注6)以下、拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d1a27454f4649223cff842e690462c69で述べたことである。参照されたい。
(注7)フミはカミ(紙)が kan(簡)に i が付いてニがミに交替した形と同じく、フミ(文)は fun(文)に i が付いて交替したものと考えられている。そのばあい、ミは甲類である可能性が高い。
(注8)和名抄に、「㿃 釈名に云はく、痢の赤白を㿃〈音は帯、赤痢は知久曽、白痢は奈女〉と曰ふといふ。滞りて出で難きなるを言ふ。葛氏方に云はく、重下〈俗に之利於毛と云ふ〉は今の所謂、赤白痢なりといふ。下部をして疼き重からしむ故に以て之を名づくと言ふ。」とある。このナメは血を含まない下痢便を指している。皮を鞣すときに使う、馬・鹿・牛などの脳を一年ほど熟成させた脳漿とよく似ていて、白痢のことをナメと言って正しいと思われたと考えられる。
(注9)延喜式・内蔵寮の造皮功条に次のように記されている。
牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除すに一人、膚肉を除すに一人、水に浸し潤釈すに一人、曝し涼し踏み柔ぐるに四人。皺文を染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和ちて染め造るに四人。
鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、脳を和ちて槎り乾かすに一人半。
皂に染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟るに一人、染め造るに二人。(原漢文)
ヲシカハ(韋)の製造法とヲシフ(教)との間には、イメージに似通ったところがある。何かを教える時、そのまま現物を持ってくることは、持って来られるようなものであればそれが最善であるが、その場合、教え教えられの関係にあるのではなく、見て直感しているだけである。本邦に棲息しない虎を教えるのに、その毛皮を見せることで教えることは、教えることの本来の意味に当たるだろう。抽象的な概念でも、鞣しの方法のように、本質を抽出し、相手にわかるように揉みくだいでわからせるようにしている。どうしたらわかってもらえるか脳を使っていて、時にはアレンジを加えながら、どこへ行っても決して腐ることなく説明を続けている。言葉の普及活動は布教活動のようである。それがヲシフ(教)という言葉の眼目である。
(注10)厩牧令・官馬牛条に、「凡そ官の馬牛死なば、各皮、脳、角、胆を収れ。若し牛黄得ば、別に進れ。」とある。
(注11)無文字時代のヤマトコトバの最大の特徴としてかねがね指摘しているところであるが、ひとつの言葉が当該言葉(音)をもって自己循環的に定義し直されながら、そのことにより言葉自体の正しさを証明しつつ言明が進行していっている。この応神紀の55文字からなる挿話では、一つの言葉のなかにある深い知恵について賢明で名高い菟道稚郎子に語らせていて、物語の精度をあげている。
(注12)ヤマトコトバのあり様、上代の人たちの言葉の使い方が問われなければならない。文字時代の今日の言語とは異なる使用法がとられていた。肝心なところを等閑視して進められてきたこれまでの研究は、靴の上から足を掻くようなもの、蹄鉄を外さずに蹄の治療をするようなものである。
(引用・参考文献)
川村1953. 川村亮『皮のなめし方』天然社、昭和28年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2021. 瀬間正之「菟道幼稚郎子は何故怒ったのか─応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に─」『古事記年報』六十三、令和3年3月。(『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
三品1962. 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、昭和37年。(天山舎、平成14年。)
※本稿は、2023年7月稿の誤りを訂正し、2024年9月に新稿としたものである。
一
日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。
はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。
廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰、高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。(応神紀二十八年九月)
これを古訓に従いながら次のように訓んでいる(注1)。
二十八年の秋九月に、高麗の王、使を遣して朝貢る。因りて表上れり。其の表に曰さく、「高麗の王、日本国に教ふ」とまをす。時に太子菟道稚郎子、其の表を読みて、怒りて、高麗の使を責むるに、表の状の礼無きことを以てして、則ち其の表を破つ。(応神紀二十八年九月)
何が問題となるかというと、本当にそのようなことはあったのかということと、「教」という字をヲシフと訓むのが正しいのかということである。
当時の東アジア情勢をかんがみた時、本当にそのようなことがあったのか疑問視されている。「五世紀前半の高句麗は好太王・長寿王父子の治政で、日本とは常に敵対関係にあり、日本に対する朝貢や上表の事実があったとは考えられない。」(大系本日本書紀215頁)、「五世紀前半のこととするならば、『三国史記』によれば、高句麗は広開土王(三九二~四一三)・長寿王(四一三~四九一)父子の治政で、日本への朝貢や上表は疑問。」(新編全集本日本書紀492頁)、「「教二日本国一」との表文が問題になったという話が中心記事であり、目的は太子菟道稚郎子の識見を称讃するにある。表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実と見做し難い。撰者の造作と見る外はない。」(三品1962.253頁)などとある。
撰者の造作であるとして、ならばどうしてそのような造作が行われているのかが次の課題として浮かび上がる。字が読めたら偉いのか、称讃に値するものなのか、筆者は年々疑問に思うことが増えている。この応神紀の文章も、菟道稚郎子が上表文を読んで高麗の使者に無礼であると叱責して破り捨てたというだけである。称讃の話と捉えることはできない。
そこで関わってくるのが、もうひとつの疑問、「教」をヲシフと訓むので正しいのかという点である。
菟道稚郎子が上表文を読んでいることは疑い得ない。読んで意味がわかるということは、まずまず日本語として読んでいるということになる。本居宣長・漢字三音考に、「彼皇子ノサバカリ善了達シタマヒテ。同御世ニ高麗国王ヨリ使ヲ奉遣セシ時ニ。其表ヲ読タマフニ。無礼ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲ責タマヒシヿナドモ見エタレバ。当時既二此方ニテ読ベキ音モ訓モ定マレリシナリ。若音訓ナクバ。イカデカ善読テ其表文ノ無礼ナルヲ弁へ知タマフバカリニハ了解タマハム。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002911/16?ln=ja)とある。どこが「無礼」なのかといえば、「高麗王教日本國也」としか書いてないから「教」字によるのだろうと思われている。
伝本の「教」字付近には、熱田本、北野本、兼右本、内閣文庫本、徳久邇文庫本、寛文版本の傍訓に「ヲシフト云」とある。仮名日本紀、谷川士清・日本書紀通証、河村秀根・書紀集解もヲシフとしている。飯田武郷・日本書紀通釈では、別の箇所の古訓から「ノル」と訓むのがよいと述べている(注2)。瀬間2001.は「ミコトノル」がよいとしている。瀬間氏は多方面から考察し、論拠を確かにしようと努めている。まず、中国周辺諸国での「教」字の意味合いについての検討があり、朝鮮半島やベトナムなどでは「詔」字は中国皇帝以外に認められていないから用いられておらず、それに代えて「教」字を使用していると考証する。次いで日本書紀での「教」字の例について調査している。そのなかに、ミコトノリ、ミコトという古訓が見られるから、当該応神紀二十八年条はミコトノルと訓むべきであろうと述べている(注3)。
瀬間氏は、述作者が「教」字の半島での使い方をよく知っていて、それをここに当て嵌めて詔勅を下している表現とし、そのことに菟道稚郎子が気づいたから「無礼」であると言っているのだとしているようである(注4)。高麗の王様が日本国に対して詔ることをしているとなると、高麗王は日本国をも支配しているということになり、国のメンツを潰そうとしていることになるから親善外交とは言えないというわけである。
とはいえ、そう訓んだところで完全には疑問は解消しない。高麗王は日本国に何とミコトノってきているのかわからない。王様が話をすることをヤマトコトバにミコトノルというだけのことではないのか。日本国の庶民はミコトノルことをしないが、天皇は妻子にひそひそ話をする場合もミコトノルと言っていて、日本書紀では中国皇帝が使うように平気で「詔」字を使っている。高麗王が喋りたいのであればいくらでもミコトノってくれてかまわないような気もするし、確実にミコトノルと訓ませたいのなら、「高麗王詔日本國也」と書けばいいだろう。日本書紀述作者は朝鮮半島での文字使用をよく心得ていたから「教」字を用いているのだと言えばそのとおりなのだが、そんなことを言わんがために、当時、没交渉ともいえる高麗を持ち出している理由はどこにあるのだろうか。
また、ヲシフという訓み方であっても、立場的に上位者が下位者に対してすることに当たる(注5)。白川1995.に、「ことに対処する方法を告げ知らせる。また誤りを正して指導し、あるいは知識や技芸を人に伝えることをいう。……いくらか強制の意を含むものであるから、「治む」との関係などが考えられよう。」(821頁)とある。たとえ知識や技芸の上だけであったとしても、そこに相手を見下している意識がないかといえばやはり存在する。そして、「教」字は「勅」や「詔」と互換可能であることを知っていて適用されたのだとも考えられはする。とはいえ、上下の分別を欠いているから菟道稚郎子は怒ったのだとしても、そんなことを言うために史実にないことをでっちあげ、フェイクニュースを流した動機は奈辺にあるのだろうか。
二
漢字ばかりで書かれている日本書紀の巻第十に55文字紛れ込ませている。日本書紀述作者は何がしたいのか。
高麗との外交文書記事には興味深いやりとりがある。敏達紀に、高麗からの外交文書を王辰爾だけが読み解いたという話が載っている。
丙辰に、天皇、高麗の表䟽を執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸の史を召し聚へて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日の内に皆読むこと能はず。爰に船史の祖王辰爾有りて、能く読み釈き奉る。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「勤しきかな辰爾、懿きかな辰爾。汝、若し学ぶことを愛まざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿の中に近侍れ」とのたまふ。既にして、東西の諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へる業、何故か就らざる。汝等衆しと雖も、辰爾に及かず」とのたまふ。又、高麗の上れる表䟽、烏の羽に書けり。字、羽の黒き随に、既に識る者無し。辰爾、乃ち羽を飯の気に蒸して、帛を以て羽に印し、悉くに其の字を写す。朝庭悉に異しがる。(敏達紀元年五月)
この話が史実によるものかここでは問わない。文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが、三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾のみ能く読み釈いた。天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよ、と言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、多数いても王辰爾一人に負けているではないか、と言っている。
文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は、羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当て、ものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、と言っている(注6)。
これらの不思議な話は、高麗の表䟽に関してのもので、同様の事象がすでに応神紀の表の記事に示されているということらしい。敏達紀の表䟽は手紙であり、草書で書かれるのが大陸の習慣となっていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが、王辰爾は読むことができた。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知らないといけないから、王辰爾はすでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていたのであろう。王辰爾は「学」んでいたが、東西諸史は「習」うことしかしていなかったと日本書紀は語っている。両者の違いを表す示唆深い話をしている。この箇所でも大陸の表䟽の手法を知っていて話が作られている。応神紀で大陸での「教」という字の使用法を知っていたというのと同様の作りになっている。
すなわち、烏の羽に字を書いたという記事と、この菟道稚郎子が礼無しと思った記事とはモチーフとして通じるところがあるということである。史実としてではなく、述作者の話術としてである。
烏の羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美止読。其由如何。○答。師説。昔新羅所レ上之表。其言詞太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後訓云二不美一也。今案。蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡一作二文字一。不美止云訓依レ此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説の、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたと考えられる。「烏」字と「鳥」字とを違えた理由は、全身黒いカラスに目を入れずに表したものという説はよく知られている。
何と書いてあるのかよくわからないとは、どう言っているのかよくわからないということである。「言ひ」(ヒは甲類)がわかるために「飯」(ヒは甲類)の気を用いて対処している。口にするもの、口にすることをイヒ(飯・言)と言っていて、両語は同根の語と考えられている。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.は、「写はもと寫に作り、宀と舃とに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いる履でその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕がバレて犯人の名(「字」)はわかるのである。
説文はまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともする。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないが、ハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「飯」と「言ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたらしい。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定して行ったわけである。もたらされた「表䟽」は「高麗」からのものである。「高麗」は「駒(狛)」と同音であったと考える。「駒」は子馬の約である。「表䟽」は「踏み」と同音で、関連づけられて思われていた(注7)。馬が足に履くものは、馬の草鞋である。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草なのである。草書体で書かれていたことの裏が取れた。
これらはヤマトコトバにおいてのみ理解可能な頓智、なぞなぞである。ヤマトコトバ的思考のなせるワザである。菟道稚郎子の時の上表についても同じように捻られていると予想される。
三
「高麗王教日本國也」の「教」はミコトノリの意味ではあるが、そう訓んでは身も蓋もない。「教」はヲシフと訓んではじめてヤマトコトバとして意味が通じる。ヲシフとはどういうことか考え及んでいるのである。ヲシフのヲシはヲシカハ(韋)のヲシである。
酒君、則ち韋のあしをを其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。(仁徳紀四十三年九月)
韋 唐韻に云はく、韋〈音は闈、乎之賀波〉は柔皮なりといふ。(和名抄)
滑革 ナメシ(運歩色葉集)
Namexi.l,Namexigaua.ナメシ.または,ナメシガワ(鞣.または,鞣革) なめした革(日葡辞書)
……さな葛の根を舂き、其の汁の滑を取りて、其の船の中の簀椅に塗り、蹈むに仆るべく設けて、……(応神記)(注8)
今、大倭国の山辺郡の額田邑の熟皮高麗は、是其び後なり。(仁賢紀六年是歳)
「熟皮」という名前に使われているヲシは動詞ヲス(なめらかにする)の連用形と思われている。応神紀の話では高麗は朝貢したことになっている。高麗からの献納品として有名なものに、虎の毛皮がある。フ(斑)のあるヲシカハ(韋)のことが念頭にあってヲシフと器用に述作されている。
生きている獣を捕獲し、解体処理して皮を取り、腐らないように加工する。付いている肉や毛をとってきれいにしてから、揉んだり乾かしをくり返したり、脳漿に和えたりする方法がとられていた(注9)。鞣しの技法である。だからヲシカハ(韋)のことはナメシガハ(鞣革)とも、ただナメシ(滑)とも言う。刷毛に着いた液を皮に塗ることを、まるで唾液の着いた舌で舐(嘗)めるようなものだと譬え見たのかもしれない。そのナメシと同じ音に、ナメシ(無礼)という言葉がある。宣命の例にあるとおり、「無礼し」は「なめし」とほぼ同じ意味である。今日でも「なめんなよ」と使っている。
仮令後に帝と立ちて在る人い、立ちの後に汝のために無礼して従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。〔仮令後尓帝止立天在人伊、立乃後尓汝乃多米仁无礼之天不従、奈米久在牟人乎方帝乃位仁置許止方不得。〕(続紀・淳仁天皇・天平宝字八年十月、29詔)
倭道は 雲隠りたり 然れども わが振る袖を 無礼しと思ふな〔無礼登母布奈〕(万966)
何の故か二つの国の王、躬ら来り集ひて天皇の勅を受けずして、軽く使を遣せる。(継体紀二十三年四月)
高麗が「教ふ」と言ってきたことがナメシ(無礼)だとして菟道稚郎子は怒っている理由が明らかになった。もちろん、立場の上下を弁えていないことから正そうとしたものではあるが、それを「怒り」にして表すには及ばない。イカリとして表したのは、イカ(烏賊)がスルメイカとして朝廷に献上されていて菟道稚郎子も食べていたであろうからである。菟道稚郎子は太子であり、国を治める人として嘱望されていた。国をヲス(食)人が食べるの尊敬語、ヲスものとしてスルメイカはあった。スルメイカの様態はヲシカハ(韋)ととてもよく似ている。為政者の立場にある人が、朝貢とともに上表された文章のなかにヲシ(フ)とあったから、イカ(リ)を発するに至っている。
人工皮革で作ったスルメイカ
ナメシ(韋、鞣、滑)の話になっているのには、上表を寄こしたのが高麗だからでもある。駒(狛)をもたらした国であり、たくさんの馬が生産された。死ぬと皮はことごとく鞣されて活用された。馬とその使用法、ならびにその生産方法ばかりか、死後の活用法も同時に高麗から移入された(こととして理解されていた)。馬の脳を使って馬の皮を鞣した(注10)。ヤマトの人は、奥深い知恵をヤマトコトバが抱え込んでいることをよく知っていたのである。言葉、いわゆる和訓を造る際、意味を重ね塗り込めていた。それがヤマトコトバであった。それによって書き表された「高麗王教日本國也」の八文字は、簡にして要を得た端的な物言いで、上代語表現のミクロコスモスの感をなしている(注11)。
応神紀で「教」という字を用いたのは、大陸でのその文字の使用法を知りつつ、ヤマトコトバでヲシフという言葉が表す深い意味、頓智を深く理解していたからである。だから、イカリ(怒)の文脈で滞りなく披露している。敏達紀で、大陸で表䟽の書体が草書体であることを知りつつ、ヤマトコトバでイヒやハクという言葉が表す深い意味、頓智を披露していたのと同じである。日本書紀述作者は、ヤマトコトバに通暁した人たちであった(注12)。
(注)
(注1)「王」はキミ、「曰」はイハク、「破」はヤブリツ、ヤブリスツなどとも読まれている。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/321参照。
(注3)日本書紀の他の例に見られる「教」字では、岩崎本平安後期点(10~11世紀)として、「内教」(推古紀元年)、「仏教」(推古紀三年五月)、「釈教」(推古紀十四年五月)、「所教」(皇極紀元年七月)、「周孔之教」(皇極紀三年正月)、前田本(11世紀写)に「脩教」(継体紀元年三月)、書陵部本(12世紀写)に「教」(清寧前紀)、鴨脚本(嘉禎二年(1236)写)に「勅教」(神代紀第九段一書第二)、兼方本(弘安九年(1286)写)・兼夏本(嘉元元年(1303)写)に「奉教」(神代紀第六段本文)などと見える。
なお、ミコトノリスの形の古訓が行われたことはあるが、ミコトノルと動詞に訓んだ例は見出されていない。
(注4)瀬間氏の論文では当初の問題提起、「菟道稚郎子は何故怒ったのか」から議論が逸れて行っていて、断言はされていない。
(注5)日本書紀通証や書紀集解は、「表」と「教」字について釈名を引いている。「下言二於上一書 曰レ表 也。」、「教 倣也下所二法倣一 也」とあり、ベクトルは反対ながら上下の関係にあることを示している。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917894/1/20、https://dl.ndl.go.jp/pid/1157899/1/215参照。
(注6)以下、拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d1a27454f4649223cff842e690462c69で述べたことである。参照されたい。
(注7)フミはカミ(紙)が kan(簡)に i が付いてニがミに交替した形と同じく、フミ(文)は fun(文)に i が付いて交替したものと考えられている。そのばあい、ミは甲類である可能性が高い。
(注8)和名抄に、「㿃 釈名に云はく、痢の赤白を㿃〈音は帯、赤痢は知久曽、白痢は奈女〉と曰ふといふ。滞りて出で難きなるを言ふ。葛氏方に云はく、重下〈俗に之利於毛と云ふ〉は今の所謂、赤白痢なりといふ。下部をして疼き重からしむ故に以て之を名づくと言ふ。」とある。このナメは血を含まない下痢便を指している。皮を鞣すときに使う、馬・鹿・牛などの脳を一年ほど熟成させた脳漿とよく似ていて、白痢のことをナメと言って正しいと思われたと考えられる。
(注9)延喜式・内蔵寮の造皮功条に次のように記されている。
牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除すに一人、膚肉を除すに一人、水に浸し潤釈すに一人、曝し涼し踏み柔ぐるに四人。皺文を染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和ちて染め造るに四人。
鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、脳を和ちて槎り乾かすに一人半。
皂に染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟るに一人、染め造るに二人。(原漢文)
ヲシカハ(韋)の製造法とヲシフ(教)との間には、イメージに似通ったところがある。何かを教える時、そのまま現物を持ってくることは、持って来られるようなものであればそれが最善であるが、その場合、教え教えられの関係にあるのではなく、見て直感しているだけである。本邦に棲息しない虎を教えるのに、その毛皮を見せることで教えることは、教えることの本来の意味に当たるだろう。抽象的な概念でも、鞣しの方法のように、本質を抽出し、相手にわかるように揉みくだいでわからせるようにしている。どうしたらわかってもらえるか脳を使っていて、時にはアレンジを加えながら、どこへ行っても決して腐ることなく説明を続けている。言葉の普及活動は布教活動のようである。それがヲシフ(教)という言葉の眼目である。
(注10)厩牧令・官馬牛条に、「凡そ官の馬牛死なば、各皮、脳、角、胆を収れ。若し牛黄得ば、別に進れ。」とある。
(注11)無文字時代のヤマトコトバの最大の特徴としてかねがね指摘しているところであるが、ひとつの言葉が当該言葉(音)をもって自己循環的に定義し直されながら、そのことにより言葉自体の正しさを証明しつつ言明が進行していっている。この応神紀の55文字からなる挿話では、一つの言葉のなかにある深い知恵について賢明で名高い菟道稚郎子に語らせていて、物語の精度をあげている。
(注12)ヤマトコトバのあり様、上代の人たちの言葉の使い方が問われなければならない。文字時代の今日の言語とは異なる使用法がとられていた。肝心なところを等閑視して進められてきたこれまでの研究は、靴の上から足を掻くようなもの、蹄鉄を外さずに蹄の治療をするようなものである。
(引用・参考文献)
川村1953. 川村亮『皮のなめし方』天然社、昭和28年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2021. 瀬間正之「菟道幼稚郎子は何故怒ったのか─応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に─」『古事記年報』六十三、令和3年3月。(『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
三品1962. 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、昭和37年。(天山舎、平成14年。)
※本稿は、2023年7月稿の誤りを訂正し、2024年9月に新稿としたものである。