(承前)
聖徳
「聖徳」という名については、生前からそれほど尊ばれるのは不思議だから、後の人のつけた名であろうとか、聖徳太子は実在しないという説の根拠に挙げられることもある。紀には、「豊耳聡聖徳」(用明紀)のほか、「東宮聖徳」(敏達紀四年五月)とある。家永1942.は、今日最もポピュラーな称呼である「聖徳太子」という成語は、天平勝宝三年(751)に書かれた懐風藻の序文あたりを最古とするのではないかとする。また、天平十年(738)年頃に作られた令義解の公式令所引の古記に、諡の説明として、上宮太子を聖徳王と称する類のことであるとあるから、死後に付けられた名前であるとされている。東野2011.も踏襲しており、慶雲三年(706)の法起寺露盤銘文に、「上宮聖徳皇」とあるから、その時点では聖徳と言っていたと推考している。新川2007.は、聖徳という名に紀自身は解説を施さないものの、聖という語が圧倒的に多く出て来るので、太子の死亡記事にある「玄なる聖の徳」という表現を経由して聖徳と尊称するようになったと考えている。仁藤2018.は、死後の称号として聖徳と用いられ、それは日本書紀成立段階には既成のものであったとしている。
枚挙にいとまがない説には盲点がある。聖徳はシャウトクと読み慣わされている。紀の写本の「聖徳」部分に、声点の付けられたものがあり、シヤウトクとの傍訓のあるものもある。釈日本紀にも「シヤウトク 私記云、音読」とある。声点は、聖の字に平声(伊勢本用明紀、兼右本用明紀)、徳の字に入声(図書寮本用明紀、伊勢本敏達紀・用明紀、兼右本敏達紀・用明紀)と付けられている。中国では、聖の字は、集韻に式正切、去声敬韻、シャウ(聖)は呉音である。漢語の聖徳という語は、知識・徳行ともに優れ、物事に普く通じた至高の境位を指し、天子の御徳を称しても言った。その意味を伝える諡ならば、四声に混乱があれどもセイトクと読まれて伝えられたはずである。河村秀根・書紀集解は、史記・三王正家の「躬親二仁義一、體行二聖徳一。」などを引いている。8世紀の新羅王興光の諡に聖徳王とある。本邦ではセイトクワウと読んだことだろう。欽明紀に、6世紀の百済・聖明王をセイメイワウと読むとおりである。そこで、シャウトクは寺院側から出た尊称ではないかという説が早くから行われている。延暦六年(787)の日本霊異記に、「進止威儀僧に似て行ひ、加ならず勝鬘・法花等の経の疏を制り、法を弘め物を利し、考績功勲の階を定めたまふ。故、聖徳と曰す。」(上・四)とある。太子の勝鬘経義疏の歎仏真実功徳章の釈に、仏地の万徳円備を称えて「聖徳無量」とあり、まさにその通りなのではないかというのである。だが、もう一方の徳の字を、紀の記載時点ではたしてトクと読んだか確かではない。徳の字は、集韻に的則切、入声職韻で、写本の声点と合致するものの、紀には徳をイキホヒ・ウツクシビといった訓義のほか、音としてトコと読む例が見られる。
(1)トコ
(a)一般の倭人名……檜隈博徳(雄略紀)、[蘇我]善徳・難波徳摩呂(推古紀)、伊吉博徳(斉明・孝徳紀)、書智徳・竹田大徳・赤染徳足・徳麻呂(天武紀)、大伴長徳・耳梨道徳・中臣徳(孝徳紀)、栗隈徳万(天智紀)、巨勢徳太(皇極・孝徳・斉明紀)など
(b)地名 徳勒津宮(仲哀紀)
(2)トク
(a)一般の倭人名……胸形徳善(天武紀)
(b)僧尼の倭人名……鞍部徳積(推古紀)、善徳・妙徳・徳斉(崇峻紀)、義徳(孝徳・持統紀)
(c)朝鮮半島・中国の外国人名……威徳王、徳執得、劉徳高など
(d)百済の官品……施徳、固徳、徳率など
(e)倭の官位……大徳、小徳
万葉集にも、「太徳太理」(万3926)、「物部歳徳」(万4415)、そして、「上宮聖徳皇子」(万415)とある。僧尼に徳をトクの音とするのは、高僧の意に「大徳」(持統紀元年八月)とすることと通じている。おおむね、一般の倭人名の場合、徳はトコと訓む。以上からわかることは、第一に、「聖徳」とあるといって紀の記載がただちに尊号であるとは決められないこと、第二に、太子が得度したとは知られないから「聖徳」はシャウトコと呼ばれていた可能性が高いことである。用明紀の分注に、「更名」と明記されていて、諡などとは一言もない。播磨風土記・印南郡条でも、「聖徳王」はシャウトコノオホギミと訓まれている。
聖の字は、耳と口と壬から成り、耳と口とがまっすぐに伸びていることを表している。まさに鷺である。ヒジリと訓み、ヒ(日)+シリ(知)の意とされる。未然のことを知ることに違いはないが、日とは太陽である。太陽のような円いものが、シリ、すなわち、尻にあるのは円座、藁蓋である。徳をトコと訓むに当たっては、「徳勒津宮」が紀伊続風土記の「薢津郷」に比定されるところから、ヤマイモのことをいうトコロ(野老、冬芋蕷)に同じ音とされ、ト・コはともに乙類である。ただし、この例は上代に遡るものではない。伊吉博徳の用字に「伊吉博得」(孝徳紀)があり、万葉仮名の「得」はト(乙類)なので、トコのトが乙類であることは確かなようである。
正倉院文書の大宝・養老戸籍に「徳太理」、「徳売」とあり、また、「等許太利」、「止許売」ともある。正倉院文書には上代特殊仮名遣いに揺らぎが見られ、これらが同一の人名とは言い切れないながらも、ト・コともに乙類であることを示唆している。
新撰字鏡に、「徳 悳同、都篤(反)、得也。厚也。致也。福也。升也。恵也。」とある。升の意味だけ異質に感じられるが、礼記・曲礼上に、「車に徳りて旌を結ぶ。(徳車結旌。)」とあり、徳車は乗車のことである。紀で「徳」をノリノワザなどと訓むのは、法・則・憲・規・律などのノリ(ノは乙類)の意ばかりでなく、乗車の乗り(ノは乙類)であることを掛けて洒落ているものであろう。洒落でわかったとき、言葉は腑に落ちて理解される。車は馬車、牛車である。牛車の人の乗るところを車の床(ト・コは乙類)という。名義抄に「輫 音裴、トコ、クルマノトコ」とある。つまり、徳は訓仮名としてトコなのである。そして、床とはそもそも、座るために一段高くした場所のことである。頓智として考えれば、車の床とは、車輪のような形をした座布団、すなわち、円座・藁蓋のことだとわかる。また、磔の話において壁に紙を貼り付けるのにも糊(ノは乙類)を使う。ノリと訓む同様の意の規の字は、ぶんまわしを表す。コンパスのことで、円を描くのに使われる。壁を穿つ窓や矢を当てる的も、規を使って下描きしてから作ったのであろう。すなわち、生まれながらにしてコンパスで測ったように正円を描いたような、いわゆるザビエル型の禿げ頭であったということを示している。海苔(ノは乙類)を貼り付けてカモフラージュしたか、海苔を食べると発毛にいいということがすでに俗信としてあったか、定かではない。
聖徳太子はいなかったという現代の噂は、ショウトクタイシはいなかったというには正しく、禿げているショウトコタイシは実在したのであった。
法王
「法王」という名は、一般には仏教から来る語とされている。法は略体で、初文は灋である。説文に、「灋 刑也。平らかなること水の如くして水に从ふ。廌は直ならざる者に触るれば去る所以にして去に从ふ。」とあり、「廌 解廌は獣なり。山牛に似て一角なり。古者訟を決むるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ。」とある。廌は、獬豸などとも呼ばれる一種の神獣で、曲直をただちに知って邪人に触れるとされるところから、中国では糾弾を掌る御史のことを豸史といい、法冠を獬豸冠といった。
「獬豸」(寺島良安編・和漢三才図会、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100249312/1052?ln=ja~1053をトリミング合成)
倭で御史に当たるのは弾正台である。二十巻本和名抄に、「台 職員令に云はく、弾正台〈和名は太々須豆加佐〉といふ。」とあり、養老令・職員令に、尹、弼、大忠、少忠、大疏、少疏、巡察弾正の役職が定められている。尹の職掌は、「風俗を粛清し、内外の非違を弾奏することを掌る。」とある。「風俗」について、古記は、「但し此の条の風俗の字の訓は、法なり、式なり、国家の法式を立て糺正すのみ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949629/90)とあり、官人の綱紀粛正をいうのであるとする。憲法十七条が官人の心構えを説いていたのと同じことに当たる。また、弼・大忠・少忠・巡察弾正に、「内外を巡察し、非違を糺弾することを掌る。」とある。巡察するのが仕事である。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后は巡察中に産気づいていた。生まれた聖徳太子は、生まれながらにして弾正台の性格を有するにふさわしいことになる(注21)。
太子は弾正台のような検察官の性格を担うことになっていた。だから、法王と呼ばれた。用明紀に「豊聡耳法大王」、「法主王」とあり、ノリノオホキミ、ノリノウシノオホキミと訓まれている。後者の「主」は、ヌシ、ウシと訓み、ウシは大人とも書く。領有、支配することを「領く」といい、ハクは佩くの意とされる。土地などをあるじとして持っている。領く人がウシである。大系本日本書紀は、「[上宮聖徳法王]帝説にも見える。法主は仏典によれば仏陀・説法者などを意味するから、太子にふさわしい名号として唱え出されたか。」(55頁)と推測し、新編全集本日本書紀ではさらにすすんで、「「法王」は仏法の主。「主」はウシ(大人)ではなく、ヌシであろう。」(500頁)とし、ノリヌシノオホキミとルビを振っている。しかし、ここはウシと訓むのが正しい。太子は在家信者であり、出家していたわけではない。真面目な意味では、釈尊に比せられるほどではないものの、洒落の意味では、僧侶のように髪の毛がなかったことを指している。
支配することは「食す」ともいう。食す人が「長」である。食べ物を食べる意味から領地を支配することへと語義が展開している。収穫した穀物を税としておさめさせて統治するから「治む」と言った。収税にまわる在地の行政官は「里長」である。中央からは、巡察弾正よろしく農村を検分して回る官僚もいた。彼らは国のあるじに当たる。庶民との違いは服装に一目瞭然である。地べたに座らせた百姓たちを前にして、折り畳み椅子の床几に腰掛け、股を開いて威を張り、訓辞を垂れたかもしれない。貫頭衣姿の庶民とは異なり、官僚はツーピースのスーツを着ている。第一の特徴は、ズボンに当たる袴を履いている点である。領く人たる大人は履くのである。また、牛が草を食すときには、何度も反芻しながら臼のような歯で細かくしている。胃から戻ってきてはいるようだが、牛が吐くのは地球温暖化に負荷の大きいげっぷだけである。古語で「おくび(ビの甲乙不明)」という。着物の部分をいう袵(衽)も、オクミ、オクビという。
その袵のついた袍という上着を羽織っているのが第二の特徴である。官吏の勤務服として、文官は脇を縫った縫腋袍、武官は脇をあけた闕腋袍を着た。これがやがて束帯へと変容する。作りとしては、襖、狩衣、水干も同様である。他の和服との違いは、襟が立っているところである。袍は、盤領にして刳形に沿ってハイカラ(5~6㎝)な襟をめぐらせている。その様子は天寿国繍帳にも見える。和名抄に、「袵 四声字苑に云はく、袵〈如甚反、於保久比〉は衣の前襟なりといふ。」、新撰字鏡に、「衽 人任反、去、又千王反。衿也、袪、裳際也、衣前蔽也、宇波加比。」とある。衣服の部分を指すオホクビには、(1)袍、狩衣などの首の周りをぐるりと囲むように作った前襟、盤領の前襟の称、登ともいう、(2)方領の制の直垂、大紋などの襟の称、(3)おくみのこと、の三つの意がある。現在のエリ(襟・衿)という語は中世末に見られるようになったもので、古くは、新撰字鏡に、「裓 古北反、入。衿也。戒也。古来反、衣襟。己呂毛乃久比。」、和名抄に、「袊 釈名に云はく、袊〈音は領、古呂毛乃久比〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風の寒きを禁め禦く所以なりといふ。」、天武紀元年六月条に、「其の襟を取りて[馬より]引き堕して」とあるように、クビと呼んでいた。エリとクビが共用されたのち、オホクビから転化したオクミとエリとは、意味範囲を分けるようになったとされている(注22)。
和服にいう袵は、前身頃に付け足して左右が重なるように身幅を増やしたところを指す。オホクビが訛ってオクビ、オクミとなったのには、当初、袍のように立てた襟を大きく重なるように廻らせていたことに由来するのであろう。新撰字鏡には、また、「袊 呂窮反、去。領衣上縁也、帬也、己呂毛乃久比乃毛止保之。」とあり、モトホスとは廻繞する意である。袍は、上領から褄となる襴に至るまでダブルに重ねており、その長方形の部分全体をオホクビ(オクミ)と言ったのであろう。盤領の盤の字も、盤曲、盤渦など、蟠る意である。新撰字鏡に、「盤 莫香反、又猛音。佐良、又久比加志。」とあり、首に廻らせて自由を奪う首枷のことをも指している。廻らせているから、衽(袊)は衣の前を蔽ったり、風の寒いのを禁禦したりすると説明されているのである。ウハガヒに同じである。上交はやがて上前のこと、すなわち、衣服を前で合わせるときに上(外側)になる方の部分を指すことになる。服制としては、養老三年(719)に、「初めて天下の百姓をして、襟を右にして、職事の主典已上に笏を把らしむ。」(続紀)とあり、左前から右前に変更している。領く人の領は、牛の吐くのと同じオクビであるという洒落になっている。
ノリノウシと訓んで牛を強調していたのには、廌の姿が牛に似ているとされることにもよる。廌という神獣の訓は知られないが、名義抄に「廌 ススム、タツ、ノボル」とある。草冠のついた薦の字と通用している。薦はまた、和名抄に、「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛〉は席なりといふ。」とある。敷物のむしろのことをコモといい、丸く蟠らせて構成したものは円座・藁蓋であった。また、その材料となる植物もコモと呼んだが、それは今のマコモである。説文に、「薦 獣の食せる艸、廌に从ひ艸に从ふ。古者は神人、廌を以て黄帝に遺す。帝曰く、何を食し何に処すかと。曰く、薦を食し、夏は水沢に処し、冬は松柏に処すと。」とあり、植物の薦を食べて生きていたことになっている。そして、牛同様、角が生えている。牛の角は二つあるが、廌は「似二山牛一一角」(説文)と記されている。当時の成年男性のふつうの髪型は、総角で角が二つあるように作っていた。しかし、太子は束髪於額で、角が一つのようにしていた。ウシはウシでも太子は廌、獬豸に当たる。
左:牛と獬豸(中村惕斎・訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11446248/4をトリミング合成)、右:頭の角(総角?(善財童子像、康円作、鎌倉時代、文永10年(1273)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0010128)と束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p., https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))
マコモは、水辺に群生する大型のイネ科の多年草で、太く横にはった地下茎があって葉と茎を叢生する。茎は太い円柱状で中空、高さは1~3mに達する。秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられた。食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染し、異常に太くなり白っぽくて柔らかい、小さな筍のような状態のものが食べられている(注23)。今日、マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍という。古語に菰角といい、和名抄に、「菰〈菰首付〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆呂、一名に古毛都乃〉」とある。神獣の廌が食べた薦も、このマコモタケのことと推量されていたことだろう。マコモタケはそのままにしておくと、植物体内に黒い胞子が満ちてきて食べられなくなるが、その胞子は集められて塗料に用いられた。黒色の真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨、絵具、彫刻した漆器の塗料に使われる。直径が6~9μと粒ぞろいのため美しく表現できるという。すなわち、廌の一角は菰角であるという洒落である。禿顱部分に黒いチックを塗って目立たなくさせるという意味である。それは、ちょうど、崇峻前紀において、束髪於額姿の太子が、物部守屋討伐の戦場で、ヌルデのフシをもって毘沙門天像を彫塑し、戦勝祈願した時と同じ表現である。ヌルデのフシからも、お歯黒に用いられる黒い染料がとられる。
マコモ(ベランダ園芸にて栽培のため菰角を形成するに至らなかったが、タケの節状の様子は確認された。)
以上から、法大王・法主王という名は、髪が薄いために一つの角の姿の束髪於額にした、道徳を説いて巡察してまわる太子の特徴をよく表した渾名であったといえる。
上宮
「上宮」の名は、父親の用明天皇が、「父天皇愛之、令レ居二宮南上殿一。」(推古紀元年四月)ことによるとされている。「是皇子初居二上宮一、後移二斑鳩一。」(用明紀元年正月)ともある。メグムという語は、端から見るに忍びない意から、いとしくて心にかけることをいう。子ども時分から禿げていては、からかわれ、いじめられていたのであろう。そこで、宮殿内の離れに住まわせた。少女の、美しく黒い髪の毛が、ゆたかになっていくときの髪型は「放り」である。場所は宮の南である。ミナミ(ミはともに甲類)は「蜷の腸(ミは甲類)」のミナと同じ音である。「か黒き髪」に掛かる枕詞である。ヤドカリのことをいうカミナ(蟹蜷)=カミ(髪)+ナ(無)と対照して表現されている(注24)。
宮殿の設計では本殿の南側には大庭を設ける。「南庭」(推古紀二十年是歳)とある。そこに、わざわざ離れを築いている。宮殿の南に面する大きな庭は、朝廷と言われるようにまつりごとを行う儀式の場である。ふだんから広い空間を確保しておかなければ朝賀も行えず、三韓の使節も招き入れることができない。特別に建物を造るのは、大嘗祭のときの大嘗宮である。大嘗宮は朝堂院の南庭に造営され、行事が終われば取り壊された。これは民俗行事の新嘗屋と同じく仮小屋である。「上宮」もまた、飛鳥時代の人にとっては仮小屋であると思念されたであろう。「上」なる敬称を付けて「上宮」とするも、「上(ミは甲類)」は「髪」と同音である。髪の毛は、人体の上に生えるからそう呼ばれたといわれる。万葉集の古訓にはウヘツミヤとあるが、紀では図書寮本永治点にカムツミヤとある。そして、仮小屋で生活をする生き物といえば、宿を借りているという名のヤドカリ、カミナである。髪が無いから「上宮」に住まわせて然りなのである。
上宮の場所を、用明天皇の都した池辺双槻宮か、後に聖徳太子が移った斑鳩の地に求めればいいか、考古学の発掘調査も含め議論されている。しかし、「上宮」は、「上宮大娘姫王」(皇極紀元年是歳)、「上宮王等」(皇極紀二年十月)とあるように、場所の名ではなく一族の名へと移って行っている。ただし、それはむしろ、地名や族名といったものがもとからあるのではなく、名が名としてあったものを、土地や一族に名として当てたと考えたほうがふさわしい(注25)。いわゆる上宮家に与えられたとされる名代、乳部・壬生部との関連から、さらに確認されることである(注26)。
広く知られるように、髪の毛の薄さはAGA(Androgenetic Alopecia)、男性ホルモン型脱毛症によることが多い。男性ホルモン受容体の感受性の強い遺伝子を引き継ぐことで遺伝的に発現していく。聖徳太子の息子の山背大兄王もその一人であったろう。蘇我入鹿によって滅ぼされたことを記す皇極紀に童謡が載り、後文にその解釈が添えられている。山背大兄王は「山羊の小父」(紀107)と歌われ、「山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。」(皇極紀二年十一月)と解説されている。「上宮王等」は、髪の毛に特徴が出る家系の人たちを表す隠喩であると捉えることができる。カマシシは列島固有のニホンカモシカのことである。和名抄に、「麢羊 爾雅注に云はく、麢羊〈力丁反、字は亦𦏰に作る、和名は加万之師〉は羊より大く、大き角なりといふ。内蔵式に云はく、麢羊角は零羊といふ。」とある。カモ(氈)+シシ(鹿)のことといい、和名抄に、「氈 野王曰はく、氈〈諸延反、賀毛〉は毛の席なり、毛を撚りて席に為るなりといふ。」とあって、毛皮を敷物に用いたところからの命名とされている。ニホンカモシカは山奥に生息するものの、クマと違って人を襲うことも少なく、人が呼ぶと近づいてきてしまうため容易に捕えることができたという。皇極二年十一月、入鹿の急襲を逃れていったん胆駒(生駒)山に隠れた後、斑鳩寺に自ら帰ってきて潰え果てた様子が描かれている。ニホンカモシカの生態に似たところがあると思われている。
坂本1989.は、紀にカマシシに山羊という漢字をあてた理由として、山に棲む羊というくらいの意味でカマシシに山羊の字をあてたのであろうとする。しかし、本草和名にはカマシシノツノを零羊角と記している。日本書紀編者が大陸のヤギと混同を起こしたとは言い切れない。時代は下るが、運歩色葉集に「毯 ムクケ」とある。ヤギの最大の特徴は、その尨毛状態にあると捉えられていたようである。ニホンカモシカの場合は夏毛と冬毛の違いがあり、雪が積もっている冬場、ゆたかな冬毛の毛皮を求めて狩猟の対象となっていた。事件は十一月に起こっている。絶好の冬毛の頃であったことが、そう当てさせた遠因ということになる。
尾形2001.は、古代中国の獣毛を素材とした染織品はヤギ以外の例を聞かず、正倉院の花氈と色氈の電子顕微鏡による繊維観察でもすべてヤギの毛であることが判明しているとする。ただ、中国では、絨毯などの毛織物が多く残っているにもかかわらず、本邦にはフェルトばかりが残っているという。西域、中国、日本の、時代的、気候的、文化的な違いが遺物に表れているのではないかとされるが、確かなところは未解明である。言えることは、我が国では、ヤギの毛を使ったフェルトの毛氈を、尻の下に敷くむしろとすることが慣行とされていたらしいということである。聖徳太子のキーワード、円座・藁蓋も敷物であった。太子は、頭にあるべきくるくる巻いているつむじがなくて、尻の下に敷くくるくる巻いた円座・藁蓋をトレードマークにあてられ綽名されていた。同様に、山背大兄王は、巻いて持ち運んだニホンカモシカの毛皮を、やにわに広げて尻の下に敷いていた。それを伝えるための用字として「山羊」が選ばれたのであろう。紀の編者の苦心惨憺ぶりが垣間見られて興味深い。
白氈(東博展示品)
また、カマシシという語については、新撰字鏡には、「狭 侯夾反。隘也、加万志ヽ、古作陿。」とある。そして、カマカマシという言葉を載せる。「佷 又作很、胡墾反。戻也。違也。不測也。顔也。恨也。暴也。世女久、又伊加留、又加太久奈、又加万ヽヽ志。」、「譶 直治反、徒合・徒立二反。利色也。又言音不訥也。疾言利也。加万ヽヽ志。」、「猋 不遥反、平。群犬走㒵。加万ヽヽ志。」とある。うるさくせっつくことを表している。「法王」の件に見た弾正台のように、道徳をうるさく、やかましく言うことと符合する言葉である。あるいは、番犬のけたたましく吠えることをカマフという。新撰字鏡に、「△(㺑の彡部分が氺) 山監反、上。㺝△也。一犬聲、犬加万不也、云々。」とある。「豊耳聡・豊聡耳」の件で見たミトサギが、樋の口を守る様子が主守之官、すなわち、倉庫番のようで、動かずにいながら騒ぎ立てることと一致する言葉である。山背大兄王をカマシシと渾名することは、聖徳太子をミトサギや廌と渾名することと連動しているのである。
聖徳太子が兼ね持つさまざまな名前は、禿頭という身体的特徴から捻られアレンジされた綽名である。用明紀や推古紀に書いてある呼称は、諱ではなく、生前から当人に対して、また、周囲の人同士の間でそう呼ばれていたものである。上代語は現代のわれわれにとってよくわからない言語である。と同時に当時の人にとっても、無文字文化のもと、生活圏を異にしながら共通の言語を話すことにあっては、平板に理解できるものではなかったと推測される。ウィトゲンシュタイン2013.に、「人間に共通の行動の仕方が座標系(参照システム)である。それを手がかりにして私たちは未知の言語を解釈する。」(157頁)とある。当時の人が手掛かりにした参照システムは、ヤマトコトバの間に張りめぐらされた言葉のネットワークであり、それをもって確かなものとして築き上げられ、確かなものと感じられ、確かなものとして利用されていた。言葉が言葉を自己定義するかのように循環論法的な説明をくり返して、頓智、洒落、なぞなぞの如く思われるのは、無文字社会における参照システム構築の都合上、必然の成行きであった。太子のそれぞれの「更名」も、座標系を適切にとれば一つの関数上に定位しているとわかる。太子がさまざまな名前を持つからくりからも、記紀万葉研究の主眼は、上代語であるヤマトコトバの座標系を正確に捉えることに据えられなければならない。そしてまた、ほとんどそれに尽きるとさえ言える。人は言葉で考える。言葉がわかることはすなわち、当時の人のことがわかるということだからである。
(注)
(注1)諸解説による。なお、「厩」という字には各種の異体字があり、本文、解説書に各様に用いられているが、本稿では「厩」字にて統一した。引用文中も「厩」字に改変している。
(注2)「更名」の意味合いを、本名と別称のことと捉えてよいものか実は定かでない。現代のように戸籍名があったとしても、源氏名ばかりで生活して他の誰も本名を知らないこともある。また、無戸籍の人の存在も知られていて、本名を自身でさえ知らない人もいる。固有名詞には一般名詞と違い、個別性を有しており、指示代名詞に近い使われ方をする。違いは、指示する対象が不在の時も、指示することが可能である点で、その名を与えられているものが固有名詞である。すなわち、呼ばれるものが名前である。「更名」として愛称を持っていることがあっても不思議ではない。成年式を経て幼名から変わった、得度して法名になった、死後、戒名が授けられたといった時間的な経過によって複数となることはある。また、同時期にもたくさんの役割をはたしていて呼び名がいくつもあることも、職場では部長、家庭ではお父さん、近所ではおじさん、と呼ばれることもある。ただし、その場合は役割の名、演者の名に従っているにすぎず、代役にとって代わられれば固有名詞とはならない。すると、一人の人を指示するためにある名前が異例ともいえるほどたくさんあって、一見とても一つの範疇におさまりきらないような複数名を同時期に有しているという記述を目にしたら、言葉として検討の価値があると勘づかなければならない。
今日までの聖徳太子研究に、このように真正面から対そうとする姿勢はない。小倉1972.は、「……実に多くの単独称呼があるばかりでなく、それらを組み合せた「厩戸豊聡耳皇子」とか「上宮聖徳法王」とか、種々様々の複合称呼が数々用いられています。この事自体が超人的聖者として伝説化さている証拠というべきでありましょう。」(22頁)と決めてかかっている。日本書紀に書いてあることをそのままそのとおりに読むこと、そこに辻褄を見出すことが肝要であると考える。
(注3)近現代のものの考え方を当てはめても何もわからない。津田1963.119~120頁、新川2007.24頁参照。
(注4)拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/52a67c7e2ae17af11d93d2f433babf41参照。従来の「厩戸」の由来説に、キリスト教、地名、午年、養育氏族を根拠とするものなどが見られるが、それらでは何のために具体的な出生譚が記されているのか説明がつかない。譚は必ず他に還元できない個別具体性を伴う。
(注5)拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9e373aa9a09a27ff911394b6ad7d2077参照。なお、名義抄の「扆 俗に◇(尸たれに衣)に通ず、マト」などから、戸につけられた小窓のことをいうかと考えられるが、厩に戸があって小窓が丸く付いていたという考古資料が確認されているわけではない。
(注6)ハナリである「放髪をした女性は、性愛関係を持つ。」(服藤2005.556頁)とされる。ただし、古代女性の髪型の呼称は訓みが定まらず、時代的にも移ろいがあるらしく未解明な点が多い。
(注7)大阪府八尾市太子堂の大聖勝軍寺、兵庫県揖保郡太子町鵤の斑鳩寺には、「植髪太子」像なるものが祀られている。
(注8)「頭隠して尻隠さず」という諺は、「雉子の草隠れ」と出自が同じであるとされている。真偽のほどはわからないが、雉のオスには肉冠、いわゆる鶏冠がある。つまり、その部分、頭髪がない。それが本稿といかなるかかわりがあるか、何とも言えない。
(注9)角川古語大辞典23頁参照。
(注10)大系本日本書紀53頁、新編全集本日本書紀500頁など。
(注11)石井2016.51頁参照。
(注12)狩谷棭齋の箋注倭名類聚抄に源君の誤りとの記述がある。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/44参照。
(注13)「天尾羽張神は、逆まに天の安の河の水を塞き上げ」(記上)ていた道具は、円座・藁蓋であろう。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。
(注14)これと「蔵人の五位」との関係については、識者の言を俟ちたい。
(注15)蘇我馬子の発言、原文は「凡諸天王・大神王等、助二-衛於我一使レ獲二利益一、願当下奉三為諸天与二大神王一、起二-立寺塔一流中-通三宝上。」である。兼右本に、「使使レ獲二利益一」と傍訓があり、それに従って訓まれている。ただ、下二段活用の動詞ウ(獲・得)は、補助動詞として~できる、の意で上代から用いられている。「もののふの 八十氏川の 早き瀬に 立ち得ぬ恋も 吾はするかも」(万2714)、「しましくも 一人在り得る ものにあれや 島のむろの木 離れてあるらむ」(万3601)などとある。仏典語による表記「利益」を勝つの意に用いているのであり、「使レ獲二利益一」をカチエシメ(タマハ)バと訓むことに実は疑問がない。歌に補助動詞の用例が見られるのだから、会話文中に漢文訓読調のカツコトヲエサシメ……と冗漫に訓むほうが違和感がある。
(注16)大系本、新編全集本とも、敏達紀に「刑部」と振られている。疑問である。
(注17)文献等により確認されているのが平安朝末期以降ということであり、時代を遡る可能性を否定するものではない。
(注18)未来を予知することができた人としては、紀に倭迹迹日百襲姫命がいる。
是に、天皇の姑倭迹迹日百襲姫命、聡明く叡智しくして、能く未然を識りたまへり。(崇神紀十年九月)
倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られ、魏志倭人伝の卑弥呼ではないかと推測されもする人物である。この箇所は、彼女が、少女の歌う歌の「怪」を読み取り、謀反の企てを未然にキャッチして天皇に教え、鎮圧に導いたときの解説である。
(注19)白川1995.239頁参照。この部分の「兼」について、「かねて(あらかじめ)」の意で用いるのは倭習であるとの指摘が、森2011.179~180頁にある。それはそのとおりなのであるが、日本書紀の倭習部分は後人の加筆であるとする理由は不明である。万葉集に使われている使い方で「あらかじめかねて」の意で書いてあるのは、単純に、日本書紀がヤマトコトバを表記したものであることの証左とすべきなのではないか。シャープペンシル、サラリーマンが和製英語、つまりは日本語であるのと同じく、ヤマトコトバを漢字で書いたらそうなったということであろう。日本書紀の区分中、歌謡の音が漢音に忠実に再現できるα群であっても、それはβ群と同じくヤマトコトバの歌謡である。外国人(中国人)にヤマトコトバを伝えようとして、上代語のなかでも使い方を伝えにくい言葉をわざわざとりあげて後人が書き添えて何になるのだろうか。
(注20)筆者は、上代語の、日本書紀や万葉集のなかでの言い方を問題にしている。漢籍、仏典の「兼」字の用法との比較検討をしたいわけではない。事が起こる以前から予測していた、という意味合いを、古語にカネテユクサキノコトヲシロシメスと言うことにしていて、それを文字に起こした時に「兼知未然」と書いている。アンチョコ例文集を参考にしながら工夫して書いている。本邦にしか見られない漢字を国字というが、それを間違いであるとするのは相当にサカシラ(賢)であると笑われたであろう。新しい漢字を作って楽しむことは健全な言語活動である。
(注21)天武紀十一年十一月条の詔に、「親王・諸王及び諸臣、庶民に至るまで、悉に聴くべし。凡そ法を犯す者を糺弾さむには、或いは禁省之中にも、或いは朝廷之中にも、其の過失発らむ処に、即ち見聞かむまにまに、匿弊すこと無くして糺弾せ。其の犯すこと重き者有らば、請すべきは請し、捕ふべきは捉よ。」とあり、背後に弾正台のような組織のあったことをにおわせるという。
(注22)原色染織大辞典に、「「おきみ(置身)」からとの説もある。」(172頁)とある。
(注23)中村2000.参照。
(注24)拙稿「十月(かむなづき)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5c7b0aa4f6be11c563b971d93d6723fc参照。
(注25)仁藤2018.は、「「上宮」号は、宮殿名称から派生し地名化するとともに、上宮王が移住した「斑鳩宮」およびその経済的権益や政治的地位を象徴するものとして一族に対しても二次的に用いられたと考える。」(472頁)と解釈している。
(注26)拙稿「壬生部について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd76d7f03689849b8b6731cc21d5af9参照。
(引用・参考文献)
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森2011. 森博通『日本書紀成立の真実』中央公論新社、2011年。
吉田2011. 吉田一彦「聖徳太子信仰の基調」同編『変貌する聖徳太子』平凡社、2011年。
※本稿は、2013年3~5月稿ほかを、その後に刊行された論考への検討を含めて、2021年2月にまとめて改稿し、2024年7月にルビ形式にしたものである。
(English Summary)
In this article, we will consider that Prince Shōtoku has several names in the Nihon Shoki. It is recorded in the chronicles of Emperor Yōmei and Empress Suiko in the Nihon Shoki being the primary archives of the ancient times. Since the name is what is called, although he was called variously, he must have been identified by each name. We will understand that these names were cleverly named on the basis of his one physical characteristic, baldhead.
聖徳
「聖徳」という名については、生前からそれほど尊ばれるのは不思議だから、後の人のつけた名であろうとか、聖徳太子は実在しないという説の根拠に挙げられることもある。紀には、「豊耳聡聖徳」(用明紀)のほか、「東宮聖徳」(敏達紀四年五月)とある。家永1942.は、今日最もポピュラーな称呼である「聖徳太子」という成語は、天平勝宝三年(751)に書かれた懐風藻の序文あたりを最古とするのではないかとする。また、天平十年(738)年頃に作られた令義解の公式令所引の古記に、諡の説明として、上宮太子を聖徳王と称する類のことであるとあるから、死後に付けられた名前であるとされている。東野2011.も踏襲しており、慶雲三年(706)の法起寺露盤銘文に、「上宮聖徳皇」とあるから、その時点では聖徳と言っていたと推考している。新川2007.は、聖徳という名に紀自身は解説を施さないものの、聖という語が圧倒的に多く出て来るので、太子の死亡記事にある「玄なる聖の徳」という表現を経由して聖徳と尊称するようになったと考えている。仁藤2018.は、死後の称号として聖徳と用いられ、それは日本書紀成立段階には既成のものであったとしている。
枚挙にいとまがない説には盲点がある。聖徳はシャウトクと読み慣わされている。紀の写本の「聖徳」部分に、声点の付けられたものがあり、シヤウトクとの傍訓のあるものもある。釈日本紀にも「シヤウトク 私記云、音読」とある。声点は、聖の字に平声(伊勢本用明紀、兼右本用明紀)、徳の字に入声(図書寮本用明紀、伊勢本敏達紀・用明紀、兼右本敏達紀・用明紀)と付けられている。中国では、聖の字は、集韻に式正切、去声敬韻、シャウ(聖)は呉音である。漢語の聖徳という語は、知識・徳行ともに優れ、物事に普く通じた至高の境位を指し、天子の御徳を称しても言った。その意味を伝える諡ならば、四声に混乱があれどもセイトクと読まれて伝えられたはずである。河村秀根・書紀集解は、史記・三王正家の「躬親二仁義一、體行二聖徳一。」などを引いている。8世紀の新羅王興光の諡に聖徳王とある。本邦ではセイトクワウと読んだことだろう。欽明紀に、6世紀の百済・聖明王をセイメイワウと読むとおりである。そこで、シャウトクは寺院側から出た尊称ではないかという説が早くから行われている。延暦六年(787)の日本霊異記に、「進止威儀僧に似て行ひ、加ならず勝鬘・法花等の経の疏を制り、法を弘め物を利し、考績功勲の階を定めたまふ。故、聖徳と曰す。」(上・四)とある。太子の勝鬘経義疏の歎仏真実功徳章の釈に、仏地の万徳円備を称えて「聖徳無量」とあり、まさにその通りなのではないかというのである。だが、もう一方の徳の字を、紀の記載時点ではたしてトクと読んだか確かではない。徳の字は、集韻に的則切、入声職韻で、写本の声点と合致するものの、紀には徳をイキホヒ・ウツクシビといった訓義のほか、音としてトコと読む例が見られる。
(1)トコ
(a)一般の倭人名……檜隈博徳(雄略紀)、[蘇我]善徳・難波徳摩呂(推古紀)、伊吉博徳(斉明・孝徳紀)、書智徳・竹田大徳・赤染徳足・徳麻呂(天武紀)、大伴長徳・耳梨道徳・中臣徳(孝徳紀)、栗隈徳万(天智紀)、巨勢徳太(皇極・孝徳・斉明紀)など
(b)地名 徳勒津宮(仲哀紀)
(2)トク
(a)一般の倭人名……胸形徳善(天武紀)
(b)僧尼の倭人名……鞍部徳積(推古紀)、善徳・妙徳・徳斉(崇峻紀)、義徳(孝徳・持統紀)
(c)朝鮮半島・中国の外国人名……威徳王、徳執得、劉徳高など
(d)百済の官品……施徳、固徳、徳率など
(e)倭の官位……大徳、小徳
万葉集にも、「太徳太理」(万3926)、「物部歳徳」(万4415)、そして、「上宮聖徳皇子」(万415)とある。僧尼に徳をトクの音とするのは、高僧の意に「大徳」(持統紀元年八月)とすることと通じている。おおむね、一般の倭人名の場合、徳はトコと訓む。以上からわかることは、第一に、「聖徳」とあるといって紀の記載がただちに尊号であるとは決められないこと、第二に、太子が得度したとは知られないから「聖徳」はシャウトコと呼ばれていた可能性が高いことである。用明紀の分注に、「更名」と明記されていて、諡などとは一言もない。播磨風土記・印南郡条でも、「聖徳王」はシャウトコノオホギミと訓まれている。
聖の字は、耳と口と壬から成り、耳と口とがまっすぐに伸びていることを表している。まさに鷺である。ヒジリと訓み、ヒ(日)+シリ(知)の意とされる。未然のことを知ることに違いはないが、日とは太陽である。太陽のような円いものが、シリ、すなわち、尻にあるのは円座、藁蓋である。徳をトコと訓むに当たっては、「徳勒津宮」が紀伊続風土記の「薢津郷」に比定されるところから、ヤマイモのことをいうトコロ(野老、冬芋蕷)に同じ音とされ、ト・コはともに乙類である。ただし、この例は上代に遡るものではない。伊吉博徳の用字に「伊吉博得」(孝徳紀)があり、万葉仮名の「得」はト(乙類)なので、トコのトが乙類であることは確かなようである。
正倉院文書の大宝・養老戸籍に「徳太理」、「徳売」とあり、また、「等許太利」、「止許売」ともある。正倉院文書には上代特殊仮名遣いに揺らぎが見られ、これらが同一の人名とは言い切れないながらも、ト・コともに乙類であることを示唆している。
新撰字鏡に、「徳 悳同、都篤(反)、得也。厚也。致也。福也。升也。恵也。」とある。升の意味だけ異質に感じられるが、礼記・曲礼上に、「車に徳りて旌を結ぶ。(徳車結旌。)」とあり、徳車は乗車のことである。紀で「徳」をノリノワザなどと訓むのは、法・則・憲・規・律などのノリ(ノは乙類)の意ばかりでなく、乗車の乗り(ノは乙類)であることを掛けて洒落ているものであろう。洒落でわかったとき、言葉は腑に落ちて理解される。車は馬車、牛車である。牛車の人の乗るところを車の床(ト・コは乙類)という。名義抄に「輫 音裴、トコ、クルマノトコ」とある。つまり、徳は訓仮名としてトコなのである。そして、床とはそもそも、座るために一段高くした場所のことである。頓智として考えれば、車の床とは、車輪のような形をした座布団、すなわち、円座・藁蓋のことだとわかる。また、磔の話において壁に紙を貼り付けるのにも糊(ノは乙類)を使う。ノリと訓む同様の意の規の字は、ぶんまわしを表す。コンパスのことで、円を描くのに使われる。壁を穿つ窓や矢を当てる的も、規を使って下描きしてから作ったのであろう。すなわち、生まれながらにしてコンパスで測ったように正円を描いたような、いわゆるザビエル型の禿げ頭であったということを示している。海苔(ノは乙類)を貼り付けてカモフラージュしたか、海苔を食べると発毛にいいということがすでに俗信としてあったか、定かではない。
聖徳太子はいなかったという現代の噂は、ショウトクタイシはいなかったというには正しく、禿げているショウトコタイシは実在したのであった。
法王
「法王」という名は、一般には仏教から来る語とされている。法は略体で、初文は灋である。説文に、「灋 刑也。平らかなること水の如くして水に从ふ。廌は直ならざる者に触るれば去る所以にして去に从ふ。」とあり、「廌 解廌は獣なり。山牛に似て一角なり。古者訟を決むるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ。」とある。廌は、獬豸などとも呼ばれる一種の神獣で、曲直をただちに知って邪人に触れるとされるところから、中国では糾弾を掌る御史のことを豸史といい、法冠を獬豸冠といった。
「獬豸」(寺島良安編・和漢三才図会、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100249312/1052?ln=ja~1053をトリミング合成)
倭で御史に当たるのは弾正台である。二十巻本和名抄に、「台 職員令に云はく、弾正台〈和名は太々須豆加佐〉といふ。」とあり、養老令・職員令に、尹、弼、大忠、少忠、大疏、少疏、巡察弾正の役職が定められている。尹の職掌は、「風俗を粛清し、内外の非違を弾奏することを掌る。」とある。「風俗」について、古記は、「但し此の条の風俗の字の訓は、法なり、式なり、国家の法式を立て糺正すのみ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949629/90)とあり、官人の綱紀粛正をいうのであるとする。憲法十七条が官人の心構えを説いていたのと同じことに当たる。また、弼・大忠・少忠・巡察弾正に、「内外を巡察し、非違を糺弾することを掌る。」とある。巡察するのが仕事である。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后は巡察中に産気づいていた。生まれた聖徳太子は、生まれながらにして弾正台の性格を有するにふさわしいことになる(注21)。
太子は弾正台のような検察官の性格を担うことになっていた。だから、法王と呼ばれた。用明紀に「豊聡耳法大王」、「法主王」とあり、ノリノオホキミ、ノリノウシノオホキミと訓まれている。後者の「主」は、ヌシ、ウシと訓み、ウシは大人とも書く。領有、支配することを「領く」といい、ハクは佩くの意とされる。土地などをあるじとして持っている。領く人がウシである。大系本日本書紀は、「[上宮聖徳法王]帝説にも見える。法主は仏典によれば仏陀・説法者などを意味するから、太子にふさわしい名号として唱え出されたか。」(55頁)と推測し、新編全集本日本書紀ではさらにすすんで、「「法王」は仏法の主。「主」はウシ(大人)ではなく、ヌシであろう。」(500頁)とし、ノリヌシノオホキミとルビを振っている。しかし、ここはウシと訓むのが正しい。太子は在家信者であり、出家していたわけではない。真面目な意味では、釈尊に比せられるほどではないものの、洒落の意味では、僧侶のように髪の毛がなかったことを指している。
支配することは「食す」ともいう。食す人が「長」である。食べ物を食べる意味から領地を支配することへと語義が展開している。収穫した穀物を税としておさめさせて統治するから「治む」と言った。収税にまわる在地の行政官は「里長」である。中央からは、巡察弾正よろしく農村を検分して回る官僚もいた。彼らは国のあるじに当たる。庶民との違いは服装に一目瞭然である。地べたに座らせた百姓たちを前にして、折り畳み椅子の床几に腰掛け、股を開いて威を張り、訓辞を垂れたかもしれない。貫頭衣姿の庶民とは異なり、官僚はツーピースのスーツを着ている。第一の特徴は、ズボンに当たる袴を履いている点である。領く人たる大人は履くのである。また、牛が草を食すときには、何度も反芻しながら臼のような歯で細かくしている。胃から戻ってきてはいるようだが、牛が吐くのは地球温暖化に負荷の大きいげっぷだけである。古語で「おくび(ビの甲乙不明)」という。着物の部分をいう袵(衽)も、オクミ、オクビという。
その袵のついた袍という上着を羽織っているのが第二の特徴である。官吏の勤務服として、文官は脇を縫った縫腋袍、武官は脇をあけた闕腋袍を着た。これがやがて束帯へと変容する。作りとしては、襖、狩衣、水干も同様である。他の和服との違いは、襟が立っているところである。袍は、盤領にして刳形に沿ってハイカラ(5~6㎝)な襟をめぐらせている。その様子は天寿国繍帳にも見える。和名抄に、「袵 四声字苑に云はく、袵〈如甚反、於保久比〉は衣の前襟なりといふ。」、新撰字鏡に、「衽 人任反、去、又千王反。衿也、袪、裳際也、衣前蔽也、宇波加比。」とある。衣服の部分を指すオホクビには、(1)袍、狩衣などの首の周りをぐるりと囲むように作った前襟、盤領の前襟の称、登ともいう、(2)方領の制の直垂、大紋などの襟の称、(3)おくみのこと、の三つの意がある。現在のエリ(襟・衿)という語は中世末に見られるようになったもので、古くは、新撰字鏡に、「裓 古北反、入。衿也。戒也。古来反、衣襟。己呂毛乃久比。」、和名抄に、「袊 釈名に云はく、袊〈音は領、古呂毛乃久比〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風の寒きを禁め禦く所以なりといふ。」、天武紀元年六月条に、「其の襟を取りて[馬より]引き堕して」とあるように、クビと呼んでいた。エリとクビが共用されたのち、オホクビから転化したオクミとエリとは、意味範囲を分けるようになったとされている(注22)。
和服にいう袵は、前身頃に付け足して左右が重なるように身幅を増やしたところを指す。オホクビが訛ってオクビ、オクミとなったのには、当初、袍のように立てた襟を大きく重なるように廻らせていたことに由来するのであろう。新撰字鏡には、また、「袊 呂窮反、去。領衣上縁也、帬也、己呂毛乃久比乃毛止保之。」とあり、モトホスとは廻繞する意である。袍は、上領から褄となる襴に至るまでダブルに重ねており、その長方形の部分全体をオホクビ(オクミ)と言ったのであろう。盤領の盤の字も、盤曲、盤渦など、蟠る意である。新撰字鏡に、「盤 莫香反、又猛音。佐良、又久比加志。」とあり、首に廻らせて自由を奪う首枷のことをも指している。廻らせているから、衽(袊)は衣の前を蔽ったり、風の寒いのを禁禦したりすると説明されているのである。ウハガヒに同じである。上交はやがて上前のこと、すなわち、衣服を前で合わせるときに上(外側)になる方の部分を指すことになる。服制としては、養老三年(719)に、「初めて天下の百姓をして、襟を右にして、職事の主典已上に笏を把らしむ。」(続紀)とあり、左前から右前に変更している。領く人の領は、牛の吐くのと同じオクビであるという洒落になっている。
ノリノウシと訓んで牛を強調していたのには、廌の姿が牛に似ているとされることにもよる。廌という神獣の訓は知られないが、名義抄に「廌 ススム、タツ、ノボル」とある。草冠のついた薦の字と通用している。薦はまた、和名抄に、「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛〉は席なりといふ。」とある。敷物のむしろのことをコモといい、丸く蟠らせて構成したものは円座・藁蓋であった。また、その材料となる植物もコモと呼んだが、それは今のマコモである。説文に、「薦 獣の食せる艸、廌に从ひ艸に从ふ。古者は神人、廌を以て黄帝に遺す。帝曰く、何を食し何に処すかと。曰く、薦を食し、夏は水沢に処し、冬は松柏に処すと。」とあり、植物の薦を食べて生きていたことになっている。そして、牛同様、角が生えている。牛の角は二つあるが、廌は「似二山牛一一角」(説文)と記されている。当時の成年男性のふつうの髪型は、総角で角が二つあるように作っていた。しかし、太子は束髪於額で、角が一つのようにしていた。ウシはウシでも太子は廌、獬豸に当たる。
左:牛と獬豸(中村惕斎・訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11446248/4をトリミング合成)、右:頭の角(総角?(善財童子像、康円作、鎌倉時代、文永10年(1273)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0010128)と束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p., https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))
マコモは、水辺に群生する大型のイネ科の多年草で、太く横にはった地下茎があって葉と茎を叢生する。茎は太い円柱状で中空、高さは1~3mに達する。秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられた。食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染し、異常に太くなり白っぽくて柔らかい、小さな筍のような状態のものが食べられている(注23)。今日、マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍という。古語に菰角といい、和名抄に、「菰〈菰首付〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆呂、一名に古毛都乃〉」とある。神獣の廌が食べた薦も、このマコモタケのことと推量されていたことだろう。マコモタケはそのままにしておくと、植物体内に黒い胞子が満ちてきて食べられなくなるが、その胞子は集められて塗料に用いられた。黒色の真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨、絵具、彫刻した漆器の塗料に使われる。直径が6~9μと粒ぞろいのため美しく表現できるという。すなわち、廌の一角は菰角であるという洒落である。禿顱部分に黒いチックを塗って目立たなくさせるという意味である。それは、ちょうど、崇峻前紀において、束髪於額姿の太子が、物部守屋討伐の戦場で、ヌルデのフシをもって毘沙門天像を彫塑し、戦勝祈願した時と同じ表現である。ヌルデのフシからも、お歯黒に用いられる黒い染料がとられる。
マコモ(ベランダ園芸にて栽培のため菰角を形成するに至らなかったが、タケの節状の様子は確認された。)
以上から、法大王・法主王という名は、髪が薄いために一つの角の姿の束髪於額にした、道徳を説いて巡察してまわる太子の特徴をよく表した渾名であったといえる。
上宮
「上宮」の名は、父親の用明天皇が、「父天皇愛之、令レ居二宮南上殿一。」(推古紀元年四月)ことによるとされている。「是皇子初居二上宮一、後移二斑鳩一。」(用明紀元年正月)ともある。メグムという語は、端から見るに忍びない意から、いとしくて心にかけることをいう。子ども時分から禿げていては、からかわれ、いじめられていたのであろう。そこで、宮殿内の離れに住まわせた。少女の、美しく黒い髪の毛が、ゆたかになっていくときの髪型は「放り」である。場所は宮の南である。ミナミ(ミはともに甲類)は「蜷の腸(ミは甲類)」のミナと同じ音である。「か黒き髪」に掛かる枕詞である。ヤドカリのことをいうカミナ(蟹蜷)=カミ(髪)+ナ(無)と対照して表現されている(注24)。
宮殿の設計では本殿の南側には大庭を設ける。「南庭」(推古紀二十年是歳)とある。そこに、わざわざ離れを築いている。宮殿の南に面する大きな庭は、朝廷と言われるようにまつりごとを行う儀式の場である。ふだんから広い空間を確保しておかなければ朝賀も行えず、三韓の使節も招き入れることができない。特別に建物を造るのは、大嘗祭のときの大嘗宮である。大嘗宮は朝堂院の南庭に造営され、行事が終われば取り壊された。これは民俗行事の新嘗屋と同じく仮小屋である。「上宮」もまた、飛鳥時代の人にとっては仮小屋であると思念されたであろう。「上」なる敬称を付けて「上宮」とするも、「上(ミは甲類)」は「髪」と同音である。髪の毛は、人体の上に生えるからそう呼ばれたといわれる。万葉集の古訓にはウヘツミヤとあるが、紀では図書寮本永治点にカムツミヤとある。そして、仮小屋で生活をする生き物といえば、宿を借りているという名のヤドカリ、カミナである。髪が無いから「上宮」に住まわせて然りなのである。
上宮の場所を、用明天皇の都した池辺双槻宮か、後に聖徳太子が移った斑鳩の地に求めればいいか、考古学の発掘調査も含め議論されている。しかし、「上宮」は、「上宮大娘姫王」(皇極紀元年是歳)、「上宮王等」(皇極紀二年十月)とあるように、場所の名ではなく一族の名へと移って行っている。ただし、それはむしろ、地名や族名といったものがもとからあるのではなく、名が名としてあったものを、土地や一族に名として当てたと考えたほうがふさわしい(注25)。いわゆる上宮家に与えられたとされる名代、乳部・壬生部との関連から、さらに確認されることである(注26)。
広く知られるように、髪の毛の薄さはAGA(Androgenetic Alopecia)、男性ホルモン型脱毛症によることが多い。男性ホルモン受容体の感受性の強い遺伝子を引き継ぐことで遺伝的に発現していく。聖徳太子の息子の山背大兄王もその一人であったろう。蘇我入鹿によって滅ぼされたことを記す皇極紀に童謡が載り、後文にその解釈が添えられている。山背大兄王は「山羊の小父」(紀107)と歌われ、「山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。」(皇極紀二年十一月)と解説されている。「上宮王等」は、髪の毛に特徴が出る家系の人たちを表す隠喩であると捉えることができる。カマシシは列島固有のニホンカモシカのことである。和名抄に、「麢羊 爾雅注に云はく、麢羊〈力丁反、字は亦𦏰に作る、和名は加万之師〉は羊より大く、大き角なりといふ。内蔵式に云はく、麢羊角は零羊といふ。」とある。カモ(氈)+シシ(鹿)のことといい、和名抄に、「氈 野王曰はく、氈〈諸延反、賀毛〉は毛の席なり、毛を撚りて席に為るなりといふ。」とあって、毛皮を敷物に用いたところからの命名とされている。ニホンカモシカは山奥に生息するものの、クマと違って人を襲うことも少なく、人が呼ぶと近づいてきてしまうため容易に捕えることができたという。皇極二年十一月、入鹿の急襲を逃れていったん胆駒(生駒)山に隠れた後、斑鳩寺に自ら帰ってきて潰え果てた様子が描かれている。ニホンカモシカの生態に似たところがあると思われている。
坂本1989.は、紀にカマシシに山羊という漢字をあてた理由として、山に棲む羊というくらいの意味でカマシシに山羊の字をあてたのであろうとする。しかし、本草和名にはカマシシノツノを零羊角と記している。日本書紀編者が大陸のヤギと混同を起こしたとは言い切れない。時代は下るが、運歩色葉集に「毯 ムクケ」とある。ヤギの最大の特徴は、その尨毛状態にあると捉えられていたようである。ニホンカモシカの場合は夏毛と冬毛の違いがあり、雪が積もっている冬場、ゆたかな冬毛の毛皮を求めて狩猟の対象となっていた。事件は十一月に起こっている。絶好の冬毛の頃であったことが、そう当てさせた遠因ということになる。
尾形2001.は、古代中国の獣毛を素材とした染織品はヤギ以外の例を聞かず、正倉院の花氈と色氈の電子顕微鏡による繊維観察でもすべてヤギの毛であることが判明しているとする。ただ、中国では、絨毯などの毛織物が多く残っているにもかかわらず、本邦にはフェルトばかりが残っているという。西域、中国、日本の、時代的、気候的、文化的な違いが遺物に表れているのではないかとされるが、確かなところは未解明である。言えることは、我が国では、ヤギの毛を使ったフェルトの毛氈を、尻の下に敷くむしろとすることが慣行とされていたらしいということである。聖徳太子のキーワード、円座・藁蓋も敷物であった。太子は、頭にあるべきくるくる巻いているつむじがなくて、尻の下に敷くくるくる巻いた円座・藁蓋をトレードマークにあてられ綽名されていた。同様に、山背大兄王は、巻いて持ち運んだニホンカモシカの毛皮を、やにわに広げて尻の下に敷いていた。それを伝えるための用字として「山羊」が選ばれたのであろう。紀の編者の苦心惨憺ぶりが垣間見られて興味深い。
白氈(東博展示品)
また、カマシシという語については、新撰字鏡には、「狭 侯夾反。隘也、加万志ヽ、古作陿。」とある。そして、カマカマシという言葉を載せる。「佷 又作很、胡墾反。戻也。違也。不測也。顔也。恨也。暴也。世女久、又伊加留、又加太久奈、又加万ヽヽ志。」、「譶 直治反、徒合・徒立二反。利色也。又言音不訥也。疾言利也。加万ヽヽ志。」、「猋 不遥反、平。群犬走㒵。加万ヽヽ志。」とある。うるさくせっつくことを表している。「法王」の件に見た弾正台のように、道徳をうるさく、やかましく言うことと符合する言葉である。あるいは、番犬のけたたましく吠えることをカマフという。新撰字鏡に、「△(㺑の彡部分が氺) 山監反、上。㺝△也。一犬聲、犬加万不也、云々。」とある。「豊耳聡・豊聡耳」の件で見たミトサギが、樋の口を守る様子が主守之官、すなわち、倉庫番のようで、動かずにいながら騒ぎ立てることと一致する言葉である。山背大兄王をカマシシと渾名することは、聖徳太子をミトサギや廌と渾名することと連動しているのである。
聖徳太子が兼ね持つさまざまな名前は、禿頭という身体的特徴から捻られアレンジされた綽名である。用明紀や推古紀に書いてある呼称は、諱ではなく、生前から当人に対して、また、周囲の人同士の間でそう呼ばれていたものである。上代語は現代のわれわれにとってよくわからない言語である。と同時に当時の人にとっても、無文字文化のもと、生活圏を異にしながら共通の言語を話すことにあっては、平板に理解できるものではなかったと推測される。ウィトゲンシュタイン2013.に、「人間に共通の行動の仕方が座標系(参照システム)である。それを手がかりにして私たちは未知の言語を解釈する。」(157頁)とある。当時の人が手掛かりにした参照システムは、ヤマトコトバの間に張りめぐらされた言葉のネットワークであり、それをもって確かなものとして築き上げられ、確かなものと感じられ、確かなものとして利用されていた。言葉が言葉を自己定義するかのように循環論法的な説明をくり返して、頓智、洒落、なぞなぞの如く思われるのは、無文字社会における参照システム構築の都合上、必然の成行きであった。太子のそれぞれの「更名」も、座標系を適切にとれば一つの関数上に定位しているとわかる。太子がさまざまな名前を持つからくりからも、記紀万葉研究の主眼は、上代語であるヤマトコトバの座標系を正確に捉えることに据えられなければならない。そしてまた、ほとんどそれに尽きるとさえ言える。人は言葉で考える。言葉がわかることはすなわち、当時の人のことがわかるということだからである。
(注)
(注1)諸解説による。なお、「厩」という字には各種の異体字があり、本文、解説書に各様に用いられているが、本稿では「厩」字にて統一した。引用文中も「厩」字に改変している。
(注2)「更名」の意味合いを、本名と別称のことと捉えてよいものか実は定かでない。現代のように戸籍名があったとしても、源氏名ばかりで生活して他の誰も本名を知らないこともある。また、無戸籍の人の存在も知られていて、本名を自身でさえ知らない人もいる。固有名詞には一般名詞と違い、個別性を有しており、指示代名詞に近い使われ方をする。違いは、指示する対象が不在の時も、指示することが可能である点で、その名を与えられているものが固有名詞である。すなわち、呼ばれるものが名前である。「更名」として愛称を持っていることがあっても不思議ではない。成年式を経て幼名から変わった、得度して法名になった、死後、戒名が授けられたといった時間的な経過によって複数となることはある。また、同時期にもたくさんの役割をはたしていて呼び名がいくつもあることも、職場では部長、家庭ではお父さん、近所ではおじさん、と呼ばれることもある。ただし、その場合は役割の名、演者の名に従っているにすぎず、代役にとって代わられれば固有名詞とはならない。すると、一人の人を指示するためにある名前が異例ともいえるほどたくさんあって、一見とても一つの範疇におさまりきらないような複数名を同時期に有しているという記述を目にしたら、言葉として検討の価値があると勘づかなければならない。
今日までの聖徳太子研究に、このように真正面から対そうとする姿勢はない。小倉1972.は、「……実に多くの単独称呼があるばかりでなく、それらを組み合せた「厩戸豊聡耳皇子」とか「上宮聖徳法王」とか、種々様々の複合称呼が数々用いられています。この事自体が超人的聖者として伝説化さている証拠というべきでありましょう。」(22頁)と決めてかかっている。日本書紀に書いてあることをそのままそのとおりに読むこと、そこに辻褄を見出すことが肝要であると考える。
(注3)近現代のものの考え方を当てはめても何もわからない。津田1963.119~120頁、新川2007.24頁参照。
(注4)拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/52a67c7e2ae17af11d93d2f433babf41参照。従来の「厩戸」の由来説に、キリスト教、地名、午年、養育氏族を根拠とするものなどが見られるが、それらでは何のために具体的な出生譚が記されているのか説明がつかない。譚は必ず他に還元できない個別具体性を伴う。
(注5)拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9e373aa9a09a27ff911394b6ad7d2077参照。なお、名義抄の「扆 俗に◇(尸たれに衣)に通ず、マト」などから、戸につけられた小窓のことをいうかと考えられるが、厩に戸があって小窓が丸く付いていたという考古資料が確認されているわけではない。
(注6)ハナリである「放髪をした女性は、性愛関係を持つ。」(服藤2005.556頁)とされる。ただし、古代女性の髪型の呼称は訓みが定まらず、時代的にも移ろいがあるらしく未解明な点が多い。
(注7)大阪府八尾市太子堂の大聖勝軍寺、兵庫県揖保郡太子町鵤の斑鳩寺には、「植髪太子」像なるものが祀られている。
(注8)「頭隠して尻隠さず」という諺は、「雉子の草隠れ」と出自が同じであるとされている。真偽のほどはわからないが、雉のオスには肉冠、いわゆる鶏冠がある。つまり、その部分、頭髪がない。それが本稿といかなるかかわりがあるか、何とも言えない。
(注9)角川古語大辞典23頁参照。
(注10)大系本日本書紀53頁、新編全集本日本書紀500頁など。
(注11)石井2016.51頁参照。
(注12)狩谷棭齋の箋注倭名類聚抄に源君の誤りとの記述がある。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/44参照。
(注13)「天尾羽張神は、逆まに天の安の河の水を塞き上げ」(記上)ていた道具は、円座・藁蓋であろう。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。
(注14)これと「蔵人の五位」との関係については、識者の言を俟ちたい。
(注15)蘇我馬子の発言、原文は「凡諸天王・大神王等、助二-衛於我一使レ獲二利益一、願当下奉三為諸天与二大神王一、起二-立寺塔一流中-通三宝上。」である。兼右本に、「使使レ獲二利益一」と傍訓があり、それに従って訓まれている。ただ、下二段活用の動詞ウ(獲・得)は、補助動詞として~できる、の意で上代から用いられている。「もののふの 八十氏川の 早き瀬に 立ち得ぬ恋も 吾はするかも」(万2714)、「しましくも 一人在り得る ものにあれや 島のむろの木 離れてあるらむ」(万3601)などとある。仏典語による表記「利益」を勝つの意に用いているのであり、「使レ獲二利益一」をカチエシメ(タマハ)バと訓むことに実は疑問がない。歌に補助動詞の用例が見られるのだから、会話文中に漢文訓読調のカツコトヲエサシメ……と冗漫に訓むほうが違和感がある。
(注16)大系本、新編全集本とも、敏達紀に「刑部」と振られている。疑問である。
(注17)文献等により確認されているのが平安朝末期以降ということであり、時代を遡る可能性を否定するものではない。
(注18)未来を予知することができた人としては、紀に倭迹迹日百襲姫命がいる。
是に、天皇の姑倭迹迹日百襲姫命、聡明く叡智しくして、能く未然を識りたまへり。(崇神紀十年九月)
倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られ、魏志倭人伝の卑弥呼ではないかと推測されもする人物である。この箇所は、彼女が、少女の歌う歌の「怪」を読み取り、謀反の企てを未然にキャッチして天皇に教え、鎮圧に導いたときの解説である。
(注19)白川1995.239頁参照。この部分の「兼」について、「かねて(あらかじめ)」の意で用いるのは倭習であるとの指摘が、森2011.179~180頁にある。それはそのとおりなのであるが、日本書紀の倭習部分は後人の加筆であるとする理由は不明である。万葉集に使われている使い方で「あらかじめかねて」の意で書いてあるのは、単純に、日本書紀がヤマトコトバを表記したものであることの証左とすべきなのではないか。シャープペンシル、サラリーマンが和製英語、つまりは日本語であるのと同じく、ヤマトコトバを漢字で書いたらそうなったということであろう。日本書紀の区分中、歌謡の音が漢音に忠実に再現できるα群であっても、それはβ群と同じくヤマトコトバの歌謡である。外国人(中国人)にヤマトコトバを伝えようとして、上代語のなかでも使い方を伝えにくい言葉をわざわざとりあげて後人が書き添えて何になるのだろうか。
(注20)筆者は、上代語の、日本書紀や万葉集のなかでの言い方を問題にしている。漢籍、仏典の「兼」字の用法との比較検討をしたいわけではない。事が起こる以前から予測していた、という意味合いを、古語にカネテユクサキノコトヲシロシメスと言うことにしていて、それを文字に起こした時に「兼知未然」と書いている。アンチョコ例文集を参考にしながら工夫して書いている。本邦にしか見られない漢字を国字というが、それを間違いであるとするのは相当にサカシラ(賢)であると笑われたであろう。新しい漢字を作って楽しむことは健全な言語活動である。
(注21)天武紀十一年十一月条の詔に、「親王・諸王及び諸臣、庶民に至るまで、悉に聴くべし。凡そ法を犯す者を糺弾さむには、或いは禁省之中にも、或いは朝廷之中にも、其の過失発らむ処に、即ち見聞かむまにまに、匿弊すこと無くして糺弾せ。其の犯すこと重き者有らば、請すべきは請し、捕ふべきは捉よ。」とあり、背後に弾正台のような組織のあったことをにおわせるという。
(注22)原色染織大辞典に、「「おきみ(置身)」からとの説もある。」(172頁)とある。
(注23)中村2000.参照。
(注24)拙稿「十月(かむなづき)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5c7b0aa4f6be11c563b971d93d6723fc参照。
(注25)仁藤2018.は、「「上宮」号は、宮殿名称から派生し地名化するとともに、上宮王が移住した「斑鳩宮」およびその経済的権益や政治的地位を象徴するものとして一族に対しても二次的に用いられたと考える。」(472頁)と解釈している。
(注26)拙稿「壬生部について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd76d7f03689849b8b6731cc21d5af9参照。
(引用・参考文献)
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※本稿は、2013年3~5月稿ほかを、その後に刊行された論考への検討を含めて、2021年2月にまとめて改稿し、2024年7月にルビ形式にしたものである。
(English Summary)
In this article, we will consider that Prince Shōtoku has several names in the Nihon Shoki. It is recorded in the chronicles of Emperor Yōmei and Empress Suiko in the Nihon Shoki being the primary archives of the ancient times. Since the name is what is called, although he was called variously, he must have been identified by each name. We will understand that these names were cleverly named on the basis of his one physical characteristic, baldhead.