古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

壬生部について

2021年02月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 壬生部みぶべ(ミは甲類)とは、有力な皇子の養育のために置かれた部民で、厩戸皇子のために設定されたものと考えられている。「乳部みぶべ」とも書き、上宮王家にのみ所有され、その軍事的・経済的基盤になっていたとされる。また、皇子の養育のために作られたいわゆる名代・子代の普通名詞称ともいわれる(注1)。現在までのところ確かなことはわからず、ミブという語の意味すらはっきりしていない。壬の字は妊の通用とすれば、乳、妊、生とも関係がありそうだから、養育と関連する語であろうとか、壬生をミブと訓むのはニブからの音転であるとか論じられている。その程度の解釈を越えて、上代の人たちが熟慮していた言葉の痕跡を辿る必要がある。
 ミブ、ミブベに関連する記紀の記述は、以下の五例である。

 此の天皇すめらみこと御世みよに、大后おほきさき石之日売命いはのひめのみこと御名代みなしろと為て葛城部かづらきべを定め、亦、太子おほみこ伊耶本和気命いざほわけのみことの御名代と為て壬生部みぶべを定め、亦、水歯別命みづはわけのみことの御名代を為て蝮部たぢひべを定め、亦、大日下王おほくさかのみこの御名代と為て大日下部おほくさかべを定め、若日下部王わかくさかべのみこの御名代と為て若日下部わかくさかべを定めき。(仁徳記)
 大兄おほえの去来穂別皇子いざほわけのみこの為に、壬生部みぶべを定む。(仁徳紀七年八月)
 壬生部みぶべを定む。(推古紀十五年二月)
 又ふつくに国こぞおほみたからあはせて百八十ももあまりやその部曲かきのたみおこして、あらかじ双墓ならびのはか今来いまきに造る。一つをば大陵おほみさざきと曰ふ。大臣おほおみの墓とす。一つをば小陵こみさざきと曰ふ。入鹿臣いるかのおみの墓とす。ねがはくはみまかりて後に、人をいたはらしむることまな。更にことごとく上宮かみつみや乳部みぶの民をあつめて、乳部、此には美父みぶといふ。塋垗所はかどころ役使つかふ。是に、上宮かみつみやの大娘姫王いらつめのみこ発憤むつかりて歎きて曰はく、「蘇我臣、たくめ国のまつりごとほしきままにして、さは行無礼ゐやなきわざす。あめに二つの日無く、国にふたりきみ無し。何に由りてかこころままに悉によさせる民をつかふ」といふ。これよりうらみを結びて、遂にともほろぼされぬ。(皇極紀元年是歳)
 第一はじめ大海宿禰おほしあまのすくねあら(草冠に𢑑)かま壬生みぶの事をしのびことたてまつる(天武紀朱鳥元年九月)

 仁徳記には、伊耶本和気命の名代として壬生部が定められたと明記されている。今日の歴史学では、それほど早い時期に壬生部が設置されていたとは確かめられていない。しかし、「名代なしろ」とあるからには、イザホワケという名前とミブベという部の名称とは、言葉の上で密接なつながりがあるに違いあるまい。石之日売命の名代が葛城部というのは、皇后の出身が葛城氏で、父の名は葛城之かづらきの曽都毘古そつびこによっている。大日下王の名代は大日下部、若日下部王の名代は若日下部というように、本人の名前によって部の名は決まってくる。水歯別命の名代が蝮部というのも、反正前紀に次のように記されていることから理解できる。

 れましながらみは一骨ひとつほねの如くにして、容姿みかたちみすがた美麗うるはし。是に有り。瑞井みつのゐと曰ふ。則ち汲みて太子ひつぎのみこあむしまつる。時に多遅たぢの花、落ちて井の中に有り。因りて太子のみなとす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。かれたたへて多遅比たぢひの瑞歯別みつはわけの天皇すめらみことまをす。(反正前紀)

 水歯別命は、瑞々しいと称賛されるほどに歯がきれいであったらしい。出っ歯の謂いであろう。多遅の花とは、虎杖の花のこととある。イタドリとは、板を取るもの、つまり、大工道具でいえば鋸、古語にノホギリを連想させる。出っ歯の形容として鋸はふさわしい。そのタヂと音のつながりのあるタヂヒ、たぢひが名代の名に持ちあがったわけである。
イタドリ開花時
 では、伊耶本和気命の場合はどうであろうか。イザホという音は、船で帆を張る掛け声を思わせる。さあ、帆を掛けようという合図である。帆を一気にかけるために用いられた道具に、帆柱の先に付けられている滑車がある。それをせみという。和船では、帆の上げ下げ以外にも、碇や舵、伝馬船、荷物など、重量物の上げ下ろしにも利用された。蝉本、セビともいう。昆虫の蝉は、地面から幼虫が木を登って行き、ある所で止まり、まるで帆を張るように殻を破って羽を広げる。イザホワケの名代が壬生部ということは、ミブという言葉の由来は蝉という言葉と密接にかかわっているということだろう。昆虫の蝉と壬生部(乳部)との関係については後述する。
左:蝉(「飛蝉」金沢兼光・和漢船用集、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018378/viewer/428をトリミング)、右:船の蝉(江戸東京博物館展示品)
 ミブのミには壬の字が当てられている。任那みまななどとあるように、ミ(甲類)と読む。壬の字は、藤堂2006.によれば、糸巻きの棒に糸を巻いて、その腹がふっくらとふくれた姿であるという。紝の初文が壬で、腹の膨らんだ女が妊、大きな荷物を抱える旅人が任であるとする。説文には、「壬 北方に位するなり。陰極まりて陽生ず。故に易に曰く、龍、野に戦ふといふ。戦は接なり。人の裹妊の形を象る。亥壬を承くるに子を以てするは、生の敍なり。巫と同意なり。壬は辛を承け、人の脛を象る。脛は体を任ふものなり。凡そ壬の属、皆壬に从ふ」とある。同じく説文に、「巫 祝なり。女、能く無形につかへ、舞を以て神を降す者なり。人の両褎もて舞ふ形に象る。工と同意なり。古者いにしへ、巫咸、初めて巫とる。凡そ巫の属、皆巫に从ふ」、「工 巧飾なり。人の規榘有るに象る。巫と同意なり。凡そ工の属、皆工に从ふ」と互訓である。工の字の上下の横棒の二は、天と地とを表し、縦棒の|はその間に立つ人を表すという。巫の字は工に加えて、舞うことで両袖のひらひらしている形になっている。天と地とをつなぐから神降ろしができる。同様に、天地の間に真直ぐに立ち、両側に膨らんでいるものは船の帆であると見立てられよう。したがって、さあ、帆を掛けようという掛け声は、壬の形を生もうということであり、壬の意の糸巻き滑車にあたる蝉をくるくる回るようにするということでもある。
 壬は十干のみずのえである。十干は、五行の木・火・土・金・水にそれぞれおとの別があって全部で十ある。ミズノエ(エはヤ行の ye)というからには、水の江のことを意味するのであろう。水辺を表す語には、浜、磯、浦などいくつかあるが、江は、海が陸に入り込んだところを指す。人工的に船が泊まれるようにしたところは堀江である。浚渫などして一定の深さが保たれるようになっており、船の航行に都合がいい。という語については、「埴生はにふ」が赤土の陶土となる埴のあるところ、「蒲生かまふ」が植物の蒲のあるところというように、「粟田あはふ」、「園圃そのふ」、「茅生ちふ」、「豆田まめふ」、「麻原をふ」などといろいろある。すると、壬生という表記は、江であって帆船のたくさん集まっているところであることをきちんと表そうとした用字ということになる。
 くるくる回る蝉が帆のてっぺんにある。頭部にくるくる回るものは旋毛つむじである。船の呼び名の古語に「つむ」という語がある。「帆舶ほつむ」(神功前紀十月)、「大舶つむ」(皇極紀元年八月)などとあり、対馬海峡を渡るほどの大きな船のようで、帆船を意味するようである。古く帆は莚帆である。船上に巻いていた莚帆を、風向きがかなうと身縄(水縄)を引いて帆を張った。横から風を受けるようにはできておらず、風向きが変われば帆は降ろされ、巻かれたという(注2)。莚はもともと敷物として作られていたから、頭上の毛むくじゃらと尻の下のもわもわが対比、類推され考えられるに至ったということだろう。頭の上にあるべき旋毛と、尻の下にくるくる巻かれた円座・藁蓋とを引っかけて譬えられ、厩戸皇子という名前が捻られていたことがあり(注3)、それと照応する比喩としてツムという語は確かなものとなっている。
筵帆(神功皇后縁起絵巻、室町時代、永享五年(1433)、誉田八幡宮蔵、サンプル画像https://www.ksk-jp.com/publication_sample/18jingu/00005.jpgをトリミング)
 帆は風を受ける。「帆風ほかぜ」という言葉は、帆に受ける追手の風のことを表すとともに、時を得た勢い、時流に乗った勢いのことをいう。羽振りがいいと言う場合のハフリと同じである。和名抄に、「飛翥 唐韻に云はく、翥〈音は恕、字は亦、䬡に作る。文選射雉賦に軒々と波布流はふると云ひ、俗に波都々はつつと云ふ〉は飛び挙ぐるなりといふ。」とある。鳥が羽ばたいて飛ぶさまを指すから、帆船が高速に進むさまを同様に捉えたものであろう。そのハフリという語には、「はふり」がある。巫女みこかむなきなどと同様、神道の祭祀者である。和名抄に、「巫覡〈祝附〉 説文に云はく、巫〈音は無、和名は加无奈岐かむなき〉は祝女なりといふ。文字集略に云はく、覡〈下激反〉は男祝なり、祝〈音は之育反、和名は波不利はふり〉は祭主にして詞を読むといふ。」とある。壬の字の説明に出てきた巫である。穢れを祓い散らす者の意で、「はふる」、「はふる」と同根の語とされる(注4)
 皇極紀に、蘇我臣が上宮の乳部(壬生)の民を「塋垗所はかどころ」の造作に使役したことについて、上宮大娘姫王は「行無礼ゐやなきわざ」と憤っていた。「天無二日、国無二王。」とは、蘇我氏が国政を私物化して、上宮家の封民までを身勝手に私用しているという正論のようである。しかし、壬生部はイザホ、つまり、帆を張ってハフリにするのが仕事だから、「はふり」関連の墓所建設こそふさわしい仕事であると、蘇我臣は強引ながらも洒落た解釈を下していた。上宮大娘姫王はその頓智を理解できず、「何由任意悉役封民。」と言っている。歴史的な結果は、「自玆結恨、遂取倶亡。」であった。同様の表現に、「是に由りて、ふたりの臣[蘇我馬子と物部守屋]、やくやく怨恨うらみす。」(敏達紀十四年八月)がある。ウラミという語は、うらのうちに不満を持つこと、晴らされれば済むことで、一方の勝利、他方の滅亡に終わるものである。上宮王家、蘇我氏の双方が滅亡したとするこの記事は、書紀編纂者の巧みな叙述である。当時は言霊信仰の下にあり、事(歴史)=言(言葉)であった。飛鳥時代は基本的に無文字社会であり、言葉はほぼ音声言語でしかなかった。つまり、こじつけであれ洒落がわからないことは、お粗末にも言葉が理解できていないことを物語る。そして、ウラ(心・卜)をひとたび表にしてコト(言)に出してしまったら、そのままコト(事)、すなわち、歴史になった、ないしはそういう話にされたのである。人々の間での理解のされようが他になかったからであり、言葉の十分な理解こそが歴史であった時代ということになる。
 ミブは、皇極紀に乳部と記されている。乳は、皇子の養育のための部民だからそのような表記がされたという。天武紀に、しのびことを言う人の記述がある。「大海宿禰おほしあまのすくねあら(草冠に𢑑)かま」(天武紀朱鳥元年九月)という人は、天武天皇の養育に携わった人ではないかとされている。この人は男性である。男性が乳様のものを与えたとすれば、人工的なミルクである。現在でこそ粉乳等があるが、当時は、乳虫を使ったものがあった。乳虫は、昆虫のセミの幼虫のことで、それを集めて潰して絞り、その汁と米粉を蒸して乳の代わりとして与えていた(注5)
セミの幼虫
 セミは不完全変態の昆虫である。幼虫は、すくも虫ともいう。和名抄に、「蠐螬 本草に云はく、蠐螬〈斉曹の二音〉は、一名に蛣𧌑〈吉屈の二音、須久毛牟之すくもむし〉といふ。爾雅注に云はく、一名に蝤蠐〈上は才尤反〉といふ。」とある。また、幼虫が成長して大きくなったものは、にしやどっち、にしどち、にしどっち、入道虫、西向にしむけと呼ばれる。指でつまんで西はどっち、東はどっちと、虫が体を左右に動かすのを答えとする子どもの遊びがあった。和漢三才図会に、「腹蜟〈俗に爾之止知にしどちと云ふ〉 本綱に、王充が論衡に云はく、蠐螬は腹蜟に化し、腹蜟背を拆き出でて蝉と為るといふ。則ち是、腹蜟とは腹に育つ也。△按ずるに、腹蜟は土中に在り。大きさ一二寸、其の形・色、櫟の実に似て長し。又、蠐螬・蝎の形を帯びて褐色、皮は堅く厚く漆器の如し。曲れる尾然り有り、亦堅くして銅のつまみに似て、一身動くこと能はず。惟だくびすぢおもふ処のみ蠢動うごめき、生類たることを覚ゆる也。小児之れを捕へて西は何地どち、東は何地と問へば、則ち頸を旋らして東西を答ふる者を彷彿さもにたり。此の虫、土中を出でて高処に升り、背の殻を拆きて蝉と為り出で去る也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596384/8)とある(注6)
 にしやどっちは、蠁とも書く。爾雅・釈虫に、「国貉は虫蠁なり」とあり、博雅に、「土蛹は蠁虫なり」とある。郷は向かう意で、漢字に蠁とあるところから、西何方にしどちなる和訓が生まれている。もともと中国の観念であったものを導入したともいう。その際、セミの幼虫が、西を向きたがる理由としては、セミの音が、セ(背)+ミ(見、ミは甲類)と聞こえるからであろう。確かに、セミの目は甲虫のなかでもかなり背側に付いている。すなわち、方角を向くと言えば、東を向くこと、古語にヒ(日)+ムカシ(向)が基準である。蠁が向きたいのは東となると、背に付いた目で追うべき方角は、反対の西ということになる(注7)
 上代、セミの幼虫のことは、和名抄のとおりスクモムシであった。スクモは細かなゴミ状のものを表し、藻屑や米糠をいう。糠のことは、また、ふすまともいう。フスマという語には、また、襖や衾という字を当てるものもある。襖とは唐紙障子、衾とは膨らんだ掛布団である。麸が混ぜ物によって容量をごまかすように、中に竹組や真綿を入れて覆い隠して用をなすようになっている。衾とは、伏す間、寝床のことである。スクモムシが上宮かみつみや(ミはともに甲類)にいることは、上宮がカミ(髪、ミは甲類)+ツ(連体助詞)+ミヤ(宮、ミは甲類)、髪結いの床屋のことであることから納得できる。また、聖徳太子の髪型は、「結髪於額ひさごはな」(崇峻前紀)であった。額の上に髪が結われていた。上宮が髪ツ宮の意であるとすると、髪ツ宮におわします処とは、すなわち、「於額」の額である。額は上代にぬかと同音のヌカである。語の義と音とが一致している。
 髪とは、髪の毛のことである。和名抄には、「鬢髪〈髪根附〉 説文に云はく、鬢〈卑吝反〉は頬の髪なりといふ。野王案に髪〈音は発、加美かみ〉は首の上の長き毛なりといふ。蘇敬本草注に云はく、髲〈仁詣音義に音は被と云ひ、楊玄操に採髣〈走孔反、又、私国反〉に作る。和名は加美乃禰かみのね。今案ふるに楊説は是なり。髲は頭髲なり。容飾具に見ゆ〉は髪の根なりといふ。」とある。(ケは乙類)と同音の語には(ケは乙類)がある。時間の単位としての日、日数の意味として、「長くなりぬ」(記87)といった例がある。また、昼、昼間の意味として、「朝にに」(万377)という慣用句になって朝ごとに昼ごとにという使い方がされている。日、昼とは、朝から夕方までの一日中の意であり、古語では「暮らし」ともいう。「…… 我が大君を けぶり立つ 春の日暮ひくらし まそ鏡 見れど飽かねば ……」(万3324)とある。ヒグラシは、セミの蜩、カナカナゼミのこともいう。万葉集では「せみ(蝉)」を歌ったものが一首、「ひぐらし(日晩、日晩之、日具足、日具良之、比具良之)」を歌ったものが九首ある。題詞に「詠蝉」、「寄蝉」とあっても歌中にはヒグラシとあり、特徴的な鳴き声が詩情をそそったから代表選手になっていたのだろうとか、漢詩文とのかかわりから歌われているなどとも考えられている(注8)

 石走いはばしる たきもとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ(万3617)
 こもりのみ ればいぶせみ なぐさむと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし(万1479、大伴家持晩蝉謌一首)
 黙然もだもあらむ 時も鳴かなむ ひぐらしの 物思ふ時に 鳴きつつもとな(万1964、詠蝉)
 ひぐらしは 時と鳴けども 恋ふるにし 手弱女たわやめ我は 時わかず泣く(万1982、寄蝉)
 夕影ゆふかげに 鳴くひぐらし 幾許ここだくも 日ごとに聞けど 飽かぬ声かも(万2157、詠蝉)
 萩の花 咲きたる野辺のへに ひぐらしの 鳴くなるなへに 秋の風吹く(万2231、詠風)
 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそが来る 妹が目をり(万3589)
 恋しげみ 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島陰に いほりするかも(万3620)
 今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松蔭やままつかげに ひぐらし鳴きぬ(万3655)
 ひぐらしの 鳴きぬる時は 女郎花をみなへし 咲きたる野辺を きつつ見べし(万3951)

 特定のセミの名称にヒグラシとあったから、それをおもしろがって歌を詠んでいると考えることは重要であろう。無文字時代において上代語、ヤマトコトバは音声言語である。そしてまた、脱皮した時に翅の伸びていく様について、髪の毛が伸びて行くようでいて、透明だからなかったことを例えているものと見立てられたのだろう。つまり、乙類のケ(毛)が生える蝉は、翅に色が濃くて透けないアブラゼミのことである。壬生に使われる壬の字は、毛の字と比べて象形となる毛が一本足りない。カナカナとは、助詞のカナの畳語、そうだろうかそうだろうか、と疑問で仕方がない様を示しているように聞こえる。どうして髪は生えないのだろうか、どうして髪は生えないのだろうか、という訴えが聞こえてくる。壬生部が聖徳太子の家系に授けられたのには、禿の家系と目されたからと考えられる(注3)
 大海宿禰〓(草冠に𢑑)蒲という人名は、凡海宿禰麁鎌とも作られる。紀の諸本にある〓(草冠に𢑑)という字は、アラクサの意である。延喜式に載る祝詞、出雲国造神賀詞に、「いつの真屋に麁草を厳のむしろと苅敷きて」とある。すなわち、莚帆や、円座・藁蓋、衾などと同様、敷物に関係のある草である。また、前出の糠という字は、ヌカ以外にアラとも訓む。スクモムシは、実際にはほとんど毛のない幼虫だから、それがスクモの語の表すフスマ、衾という敷物の中綿のことであるというのが上代の人の洒落のオチであった。麻やからむしなどは、採取した茎を蒸してその皮から繊維をとる。ムシ(虫)は、す、す、と同系の言葉なのである。皇極紀三年七月条に載る新興宗教の逸話から、スクモムシのことを衾と同じものと思念していたことがわかる(注9)
 今日でも議論される話題として、聖徳太子が天皇になれなかった、ないしは、ならなかったのはなぜかといったテーマがある。天皇に即位するに当たり、大嘗祭が執り行われる。その際、衾にくるまって寝る儀式がある。ひょっとすると、スクモムシと渾名に囁かれていたかもしれない太子は衾そのものであって、くるまるには当たらないと人々に思われていたか、自身の信念としてそう主張していたのではなかろうか。あるいはまた、冠位十二階の制において、蘇我氏が位を授ける側の立場にあったように、太子も天皇の位を定める側に立っていたのかもしれない。無文字社会に生きた人々は、今日、時に合理的、科学的と呼ばれる思考とは別の思考法によっていた可能性が高く、そのことを理解することが肝要である。現代の考え方を押しつけても、その探究から得られることは少ないどころか矮小化でしかないだろう。そして、すべてを解くヒントはヤマトコトバのなかに宿っている。

(注)
(注1)加藤1998.、仁藤1998.、森田2005.ほか参照。
(注2)石井1983.参照。寺島良安・和漢三才図会に、「按ずるに帆は昔は藁筵わらむしろを用ゐ、中古はちわらを用ゐ、近年は木綿を用う。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596370/25)とある。網代帆という形態もあったがひとまず措く。
(注3)拙稿「聖徳太子のさまざま名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bc/?img=f07d11fdaf5bde8c79f37aa49ffe0fb9ほか参照。遣隋使船の帆の様子まで活写されているということになる。
(注4)白川1995.626頁参照。
(注5)寺島良安・和漢三才図会に、「乳虫〈一名は土蛹〉 本綱に、地を掘りてあなぐらを成し、粳米の粉を以て窖の中に鋪き入れ、之れを蓋ふに草を以てし、之れをふさぐにあくたを以てし、雨の過ぎて気の蒸せるを俟ちて則ち発開ひらけば、米の粉は皆化して蛹と成る。蠐螬すくもむしの状の如し。蛹を取り、汁に作り、梗の粉にぜて蒸して乳食と成す。味は甘美にして虚を補ひ、胃の気を益し、目を明らかにす。又、黍を溝の中に置けば、即ち蠐螬を生ずるも亦此の類なり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596384/6)とある。
(注6)王充の論衡・無形に、「蠐螬化して復育と為り、復育転じて蝉と為り、蝉に両翼を生ずるや蠐螬に類せず。(蠐螬化為復育、復育転而為蝉、蝉生両翼、不類蠐螬。)」とある。また、柳田1999.に、「小児が西はどつちだと言つて、振向かせて笑ひ興じて居たのは実は尻の方で、指につまんで居る方が頭であつたといふことゝ、第二には此名の始まつたのは他の虫で、蚕の蛹は後に其仲間入りをしたのだといふ事である。」(248頁)とある。
(注7)筆者は、この頓智話が上代から楽しまれていたと思っているが、ニシドチに類する語は古い文献に確認されない。ただし、本邦から西に当たる隋に正式に遣使を送ったのは推古朝のことである。蝉を使って船に帆をかけて海峡を渡った。「日没処天子」とはヒグラシのことだと使節の下級官吏が伝えてしまっていたら、煬帝が「不悦」にして「蛮夷」、「無礼」と思ったであろう。煬帝が禿げていたかどうかは不明である。
 ちなみに、和英語林集成に、「Aᴍᴇ,-ʀᴜ アメル i.v. To be bald:𝑎t𝑎m𝑎 𝑔𝑎 ー.」(14頁)、「Bᴀʟᴅ, 𝑎. Hageta, ametaru, kaburo.」(788頁)とあり、山形県置賜・庄内地方、新潟県に方言としてある。「天子あめのこ」は禿頭であると解される。
(注8)井上2008.、宋2009.参照。
(注9)拙稿「皇極紀の新興宗教─太秦(うつまさ)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1430274385156262117fb735a44aeed9参照。

(参考文献)
石井1983. 石井謙治『図説和船史話』至誠堂、昭和58年。
井上2008. 井上さやか「「日晩ひぐらし」という表語─漢字文化圏における万葉歌の位置を探るために─」『万葉古代学研究所年報』第6号、2008年3月。奈良県立万葉文化館HP http://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report6_3_higurashi.pdf
加藤1998. 加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
宋2009. 宋成徳「蝉、ひぐらしを詠む万葉歌と中国文学」『京都大学国文学論叢』第20号、2009年2月。京都大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.14989/137380
藤堂2006. 藤堂明保『漢字の起源』講談社(講談社学術文庫)、2006年。
仁藤1998. 仁藤敦史『古代王権と都城』吉川弘文館、平成10年。
森田2005. 森田悌『推古朝と聖徳太子』岩田書院、2005年。
柳田1999. 柳田国男「西は何方」『柳田國男全集 第十七巻』筑摩書房、1999年。
和英語林集成 J・C・ヘボン著、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。

※本稿は、2013年8・9月稿を、2021年2月に訂正を施し、改稿し、2024年6月にさらに加筆しルビ形式にしたものである。

(English Summary)
壬生部 was a group of private servants who were appointed to belong to Prince Shotoku by the Yamato Dynasty. It was called Mibube and was also written as 乳部 that means the milk group. In this article, by considering why it was called and written as such, we aim to notice the vocabulary network of ancient Japanese, Yamatokotoba. This consideration will be very helpful for learning about ancient language activities and also give us many important clues about how people think at the time. As a result, it will tell us about the characteristics of Prince Shotoku who had a connection with Mibube, too.

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