はじめに
聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。
元年の春正月の壬子の朔に、穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。是四の男を生れます。其の一を厩戸皇子と曰す。更は名けて豊耳聡聖徳といふ。或いは豊聡耳法大王と名く。或いは法主王と云す。是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。豊御食炊屋姫天皇の世にして、東宮に位居す。万機を総摂りて、行天皇事たまふ。語は豊御食炊屋姫天皇の紀に見ゆ。(用明紀元年正月)
皇后[穴穂部間人皇女]、懐姙開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きて、失ちたまはずして能く辨へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす。且、内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覚哿に学びたまふ。並に悉に達りたまひぬ。父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を称へて、上宮厩戸豊聡耳太子と謂す。(推古紀元年四月)
聖徳太子のもつさまざまな呼び名のバリエーションをまとめると、(a)厩戸、(b)豊聡耳、(c)上宮、(d)聖徳、(e)法王に大別される。それぞれの名の由来は、文字に記されているとおりとされている。けだし、厩戸という名は、母親の穴穂部間人皇后が禁中巡行の際、馬官の厩の戸にぶつかって安産したことによる、豊聡耳という名は、一度に十人の訴えを聞いて間違えることがなかったという故事に基づく、上宮という名は、父親の用明天皇が溺愛して、宮殿の南の上殿に住まわせたという出来事からくる、聖徳という名は、神聖視されるようになってからの抽象的な美称である、法王という名は、法華経譬喩品にある仏教用語に由来し、仏教との立場から神聖化した抽象的な美称である、というのである(注1)。
それらの説明は説明としてみても、それ以前のこととして、なぜこれほどたくさんの名を持っているのか疑問である。用明紀に「更名」とあるのは、別称、渾名のことであろう。当時、本名という概念があったか、また別名との間に位置づけの違いがあったか定かではない(注2)。命名の謂れとなっている説話は、紀を編んだ人がわざわざ譚として記すに値すると認めていたものである。古代の人の思考法として捉え返さなければならない(注3)。
記紀には人名の命名説話がいくつかあり、天皇や太子のそれには次のようなものがある。
既に産れませるときに、宍、腕の上に生ひたり。其の形、鞆の如し。是、皇太后の雄しき装したまひて鞆を負きたまへるに肖えたまへり。肖、此には阿叡と云ふ。故、其の名を称へて、誉田天皇と謂す。上古の時、俗、鞆を号ひて褒武多と謂ふ。(応神前紀)
初め天皇生れます日に、木菟、産殿に入れり。……大臣、対へて言さく、「吉祥なり。復昨日、臣[武内宿禰]が妻の産む時に当りて、鷦鷯、産屋に入れり。是、亦異し」とまをす。爰に天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表なり。以為ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉の契とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子に名けて大鷦鷯皇子と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に名けて、木菟宿禰と曰へり。(仁徳紀元年正月)
生れましながら歯、一骨の如し。容姿美麗し。是に、井有り。瑞井と曰ふ。則ち汲みて太子を洗しまつる。時に多遅の花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖の花なり。故、多遅比瑞歯別天皇と称へ謂す。(反正前紀)
[白髪武広国押稚日本根子]天皇、生れましながら白髪にましまし、長りて民を愛みたまふ。(清寧前紀)
イタドリ開花時
反正天皇の名、多遅比瑞歯別は、生まれながら歯が一本の骨のようにきれいな歯並びで、瑞井という井戸の水を産湯にしたところ、タヂの花、すなわち、今のイタドリの花が井戸のなかに落ちた。それで名とした。イタドリはタデ科の多年草である。茎を噛むと酸っぱく、スカンポと呼ばれる。タヂが持ち出されたのは、一つには、酸っぱくて歯を剥き出すから歯並びのことが思い起こされ、二つには、そのイタ(板)+ドリ(取)という名から、板を取る鋸、古語にノホギリといわれるものを連想させるからである。歯を剥くと鋸のようなきれいな歯並びをしていた、ないしは出っ歯だったということを、直接的には「如二一骨一」といいつつ、間接的には井戸にイタドリの花が落ちたとの逸話を拵え、伝えているものと思われる。ただし、その際、「瑞井」と称しており、仁徳紀の瑞祥話と同じく、太子の名にするにふさわしいとのこじつけが含まれている。仁徳天皇の名以外は、生得的な肉体的特徴を名としている。今日でも渾名としてよく聞かれるものである。
聖徳太子の名の場合、あまりに数が多く、また、直接、身体的な特徴を語ることもなく、盛んに逸話めいた話ばかり出てくる。名の由来を語るものが命名説話であるとしても、名は周囲の人から呼ばれてはじめて名となる。数が多すぎてはアイデンティティが拡散してしまう。逸話を真に受けてばかりでは本質に迫ることはできない。本稿では、彼の名が一つの身体的特徴に由来し、多様に言い換えられたものであることを明らかにする。
厩戸
厩戸皇子については、誕生譚に述べられている厩について大掛かりな検討が必要となる。その点については別に論じた(注4)。ここでは結論のみ述べる。厩において戸に当たるものとして、馬が出て来れないようにするもの、マセバウ、マセガキがある。たった一本棒が横に架されただけで馬は出られない。厩戸の本質とは何かと言われれば、そのことだと言って間違いないだろう。だから、ませた餓鬼やませた坊やのこととして命名されている。洒落となぞなぞと知恵を駆使して綽名にうまく嵌め込んでいる。
では、彼の身体的特徴とは何か。皇后は諸司の監察を行っている。いろいろな部署を見てまわっており、馬官の一箇所を重点的に見ているわけではない。馬官では馬の様子をちょっと見たいだけに過ぎない。厩舎を開けて建物の具合や室内の衛生状態をチェックする必要はない。馬の顔を見れば、大事にされているかどうか見通せるからである。つまり、彼女にとっての厩の戸とは、厨子の上部に付けられた観音開きの戸と同じく、覗き窓で十分であった。窓(ドは甲類)は、マ(間、目)+ト(戸)の意といい、和名抄に、「牖 説文に云はく、牖〈与久反、字は片戸甫に従ふなり。末度〉は壁を穿ちて木を以て交へと為す窓なりといふ。」、「窓 説文に云はく、屋に在るを窓〈楚江反、字は亦、牎に作る。末度〉と曰ひ、墻に在るを牖〈已に墻壁具に見ゆ〉と曰ふといふ。兼名苑に一名に櫳〈音は籠〉と云ふ。」とある。諸字の載る名義抄に、「牖 音誘道、マド、向」、「窓 楚江反、マド、亦牎 𤗉 和ソウ」、「扆 俗通〓(尸たれに衣)字、マト」などとあり、清濁両用あった可能性が高い。
マトという言葉には、円、的がある。円いさま、形状のマドカナル点から的のことをいう。的は和名抄に、「的 説文に云はく、臬〈魚列反、万斗、俗に的の字を用ゐ、音は都歴反〉は射る的なりといふ。纂要に云はく、古は射る的を謂ひて侯〈或は堠に作り、音は侯と同じ〉と為、皮を以て的を為るを鵠〈今案ふるに鴻鵠の鵠は射る処なり、古沃反、唐韻に見ゆ〉と為といふ。」とある。鵠には、正鵠を射ると使われる射る的のほかに、鳥の名のクグイの意もある。古語に、クグヒ、クビ、コヒ、コフなどというハクチョウのことである。豊後風土記速見郡条に、餅を的にしたら白い鳥になって飛んで行ったとする説話があり、山城風土記逸文(存疑)にも見える。また、「白鳥の」という枕詞は「鷺」にかかることがあり、「白鳥の 鷺坂山の 松蔭に 宿りて行かな 夜も深け行くを」(万1687)といった例がある。的は、白鳥や鷺とイメージが通じていたもののようである。
窓も、当初は円形に開けられるものとして認められていたのではないか。絵巻物では民家に円い窓が開けられている。そして、その円い窓を塞ぐように蓋をするに値するものとして円座、藁蓋(わらうだ)がつけられている(注5)。
窓と窓ふさぎの藁蓋(慕帰絵詞模本、鈴木空如・松浦翠苑模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)
円座は、稲藁や藺草などを渦巻き状に編んだもので、主に板の間で用いられた。今日でも神殿や囲炉裏の周り、和風の内装にこだわる蕎麦屋などで使われている。宮中では、縁取りに布を縫い付け、官位によってその色を使い分けたという。また、家の壁面に円いものがつく光景としては、家の破風に的を掲げる風習が知られる。正月に行われる的の神事で頭屋を務める家が、的を描いたものを入口の上に出して印としていた。
板葺の家の的(志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574277/21をトリミング)
では、このマト(窓・的・円)は、太子の何を表しているのであろうか。それを推察させるものに彼の髪型がある。物部守屋と蘇我馬子との戦いの際の記述に次のようにある。
是の時に、厩戸皇子、束髪於額にして、古の俗、年少児の、年十五六の間は、束髪於額にし、十七八の間は、分けて角子にす。今亦然り。軍の後に随へり。自ら忖度りて曰はく、「将、敗らるること無からむや。願に非ずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木を斮り取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、白膠木、此には農利泥といふ。「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子大臣、又誓を発てて言はく、「凡そ諸天王・大神王等、我を助け衛りて、利益つこと獲しめたまはば、願はくは当に諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝を流通へむ」といふ。誓ひ已りて種種の兵を厳ひて、進みて討伐つ。(崇峻前紀)
古代における年齢階梯と髪型については、江馬1976.ほかに論じられている。髪の毛が伸びるにしたがいまとめ方を変えていっていた。ただし、いまだ確定的なことはわかっていない。そもそも髪型は、若者組や職業による決まりごとによって制約を受ける一方、風俗の流行り廃りの影響もあり、また、個人的な好みによっても大きく違ってくる。したがって、一概にどのような髪型をしていたかを定め切れるものではない。むしろ、記紀や万葉集に出てくる言葉によって、個々のケースでどのようなニュアンスを込めているかを見ていくことが大切になる。
束髪は、ヤマトタケルの熊襲征伐の際の記述に見える。
此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。……爾くして、其の楽の日に臨みて、童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿と成り、女人の中に交り立ちて其の室の内に入り坐す。(景行記)
……日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。時に年十六。……是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿と作りて、密に川上梟帥が宴の時を伺ふ。(景行紀二十七年)
童女の髪とあるのは、髪を束ね揚げずに垂らした髪をいっている。髪型の名としては、髪が短くて束ねられずにばらばらのままの子どもの髪型のワラハ(童)、髪を垂らしたまま項にまとめた形のウナヰ(髫髪)、伸びて長い髪を垂らしたままにした髪型のハナリ(放髪)などがある(注6)。この個所の記述については、結局のところ垂らした髪によって女装したという以上のことはわからない。
一般には、ヤマトタケルと聖徳太子の記事の二つに額に髪を結うことが記されているため、太子はこのとき十五・六歳であったと考えられている。吉田2011.によれば、聖徳太子の年齢については、伝記類ごとに、物部守屋征伐の時に、十六、十四、十五歳説があるという(44~45頁)。崇峻前紀の分注を吟味せずに解釈したところから派生した説であるように思われる。この部分には奇妙なところがある。「古俗……」と紹介しておきながら、「今亦然之」と終っている。昔も今も同じであるにもかかわらず、言わずもがなのことを勿体ぶって言っている。不可解な断り書きの分注を付けるにはそれなりの理由があるのだろう。実は太子の年齢は十七八の間で、「角子」(総角)にすべきところを、あえて「束髪於額」にしていたということではないか。ヤマトタケルも変装のために髪型を変えていた。太子が年相応の髪型をしていたり、年齢以上の早熟性を語りたいのなら、「古俗、年少児、年十三四間、髫髪、十五六間、為二束髪於額一。今亦然之。」と記せばよいことだろう。
瓢箪の花(しぼみかけ)
角子(総角)は、頭上に髪を両分して左右に揚げて巻き、輪をつくったものをいう。そして、「束髪於額」はヒサゴハナと訓まれている。これはあまりにも洒落た不思議な訓であり、深い意味合いが隠されているものと考えられる。髪を額に一束に束ねると、形状がヒサゴの花、つまり、ユウガオの花に似ているからとされる。花の形が似ているばかりか、下につける実を人間の頭と対照させたことによるものと思われる。実からは干瓢を取る。厩戸に連想されたマド(窓・窗)は、簡略した字体が囱である。囱のなかの字は夕に見えるが、これは木を以て交わらせた格子窓、櫺子窓を意味する字形である。ただ、囱に似た囟は、ひよめきを表す。すなわち、国構の部分が頭部、つまり、顔である。顔が夕となっているから夕顔である。この夕顔については後述する。
太子の身体的特徴、特に、渾名で揶揄される特異点を示しているのである。髪型の名を「束髪於額」と断っている。「額」は和名抄に、「額 楊雄方言に云はく、額〈五陌反、和名は比太非〉は東斉に之を顙〈蘇朗反〉と謂ひ、幽州に之を顎〈五各反〉と謂ふといふ。」、「顱〈髑髏付〉 文字集略に云はく、顱〈落胡反、字は亦、髗に作る。加之良乃加波良〉は脳の蓋なりといふ。玉篇に云はく、髑髏〈独婁の二音、俗に比度加之良と云ふ〉は頭骨なりといふ。」とある。万葉集にも、「吾妹児が 額に生ふる 双六の 特牛の 鞍の上の傘」(万3838)という歌が載る。ヒタヒとは顔面上部のおでこの部分である。太子は頂髪、つまり、髻に四天王像を置いている。白膠木とはヌルデのことで、それを彫塑した。仏像に象るとは、当時、金銅像や脱活乾漆像のように中空であることが一般的であったから、なかが空洞であるほうがふさわしい。ヌルデには、ヌルデノミミフシ(ないし、ヌルデシロアブラムシ)という虫がついて虫瘤ができる。付子(五倍子)である。薬用のほか、染色に用いられる。同じく誓いを立てた蘇我馬子はそのようなことはしていない。太子は付子のことを知っていたから、身近に生えていたヌルデの虫瘤を斮り取って彫像している。付子は鉄漿に混ぜてお歯黒に使われた。ヌリデの語源も塗ることと関係するからとされている。白膠木と記されるが、字とは裏腹に黒く塗ることがあった。いかにもわざとらしい話に拵えられている。すなわち、ヌリデによって禿が目立たないようにカモフラージュしたことを表すのだろう。太子の頭は真ん中が禿げていて、窓が開いているようであるとも、正月の奉射の頭屋の印の的のようであるとも譬えられた。十七八歳になっているけれど、髪を両分すると真ん中の禿が目立ってしまい、見た目が変なことになる。厩の戸にぶつかった後遺症であるかのような、髪の脱落したたん瘤に見えるし、それはまた、ヌルデノミミフシのようなつるっとした膨らみになっていたのだろう。みっともなくないように、太子はヒサゴハナに結っていた。夕顔の実にはわずかに柔らかい毛が生えている。
左:ヌルデの虫こぶとヌルデシロアブラムシ、右:ヌルデミミフシ標本(多摩動物公園昆虫館展示品)
太子は、「疾作二四天王像一、置二於頂髪一。」している。頂髪は、髪を手繰り上げて房のように束ねたところ、頭髻である。
是を以て、箭を頭髻に蔵し、刀を衣の中に佩く。或いは党類を聚めて辺界を犯し、或いは農桑を伺ひて人民を略む。(景行紀四十年七月)
時に武内宿禰、三軍に令して、悉に椎結げしむ。因りて号令して曰はく、「各儲弦を以て髪中に蔵め、且木刀を佩け」といふ。(神功紀摂政元年三月)
それぞれ「是以箭蔵二頭髻一」、「各以二儲弦一蔵二于髪中一」とあり、弓で使う箭や予備の弦の儲弦を、束ねてたくし上げてまとめた髪の中に入れて隠していた。髪の毛があるから隠すことができるのであり、太子の場合だけ顕れている。四天王とは、仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。四つの像を作ったのか、あるいは代表して一つを作ったのか明らかではない。信貴山に伝わる伝承のように、毘沙門天、すなわち、多聞天を彫り上げたとも考えられるが、ヌルデについた虫瘤の、凸部が四つあるものをそれぞれの四天王の様子に見立てられるように、四面一像に象ったと考えたほうがわかりやすい。誓いを立てて建てると言っていた「寺塔」、塔は、東西南北それぞれに顔を持つ。
「置於」という状況も不思議である。「置く」という言葉は、何かを持ってきて安定したところにものを設置することで、手を放して放置することでもある。自然現象の、雪や霜の降り積もってとどまることにもいう。古典基礎語辞典の「おく【置く・措く】」の解説では、「物に位置を与える意と、手から離してそのままにする意とがある。」(226頁、この項、筒井ゆみ子)とする。また、白川1995.は、「「おく」のうち、ものを置くことには置、ものをとり除くのには除を用いる。「おく」はその両義をかねる語で、〔万葉〕では置をその両義に用い、「隈も置かず」〔九四二〕、「雨間も置かず」〔一四九一〕のようにいう。〔記〕〔紀〕などでは、置と除との字義は正確に使いわけられている。」(174頁)としている。
太子の束髪於額と記される髪型は、夕顔の花のような膨らんだ形をしていたのであろう。通常のタキフサであれば、そこに白膠木で作った四天王像を差し込むことはできても、太子が曲芸師であったとは記されていないから、フィギュアをそこに「置く」ことは不可能である。髪の束の上は安定せず、ゆたかな髪の毛に滑り、反発を受け、転げ落ちるであろう。手を添えていた場合、それは「置」ではなく「載」という字が、また、髷の先を切りそろえてその頂点に貼りつけたのなら、それは「置」ではなく「着」などという字が選ばれるだろう。タキフサに置けたのは、束髪のなかに四天王像を安置して揺るがないスペースがあったことを示す。すなわち、髪の毛が生えていない平らな部分が頭部にあったということである。四天王像をもって相手を威圧しようというのだから、「蔵し」や「蔵め」ではなく、遠くから見て像が見えなければならない。バーコード状の髪の毛が透け、外から確認できるようによく見えたということだろう(注7)。
太子の頭部には丸い的のように窓が開いていた。円座・藁蓋との関係で言うなら、尻に敷くものと頭に開いた窓との洒落になっている。紀では「頂髪」と断られている。髻のことである。景行紀、神功紀の北野本別訓にはタブサとある。崇峻紀にタキフサときちんと訓じられてあるのは、尻を隠すべきタフサキ、すなわち、「犢鼻」という褌とを関連させて洒落としたものではないか。頭部が臀部のようであるとの謂いを強めたいための物言いである。冠位十二階を設けて官人に冠を被らせたことも、実はあれは禿隠し、頭の尻隠しなのであると、無冠の者たちの口さがないささやきが聞こえてくる(注8)。
豊耳聡・豊聡耳
「豊聡耳」については、巷間に、聖徳太子は十人の人が一度に言うことを聞き分け、とても耳が良かったので名に冠するとされている。後に作られた伝記にもある。
王の命、幼く少くして聡敏く智有り。長大るに至りて、一時に八人の白す事を聞きて其の理を辨む。又一を聞きて八を智る。故、号を厩戸豊聡八耳命と曰ふ。(上宮聖徳法王帝説)
八人時に声を共にして事を白す。太子一一を能く辨じ、各情を得、復た再び訪ふこと無し。聡敏叡智なり。是を以て名を厩戸豊聡八耳皇子と称す。(上宮聖徳太子伝補闕記)
政を聴しめす日、宿の訴の未だ決せざる者八人、声を共に事を白す。太子一一に能く辨じ答へ、各其の情緒を得て、復た再び諮ふこと無し。大臣、群臣已下を率ひて敢て御名を献る。厩戸豊聡八耳皇子と称す。(聖徳太子伝暦)
太子三つの名あり。一つには厩戸(豊聡耳)皇子と申しき。王の厩のもとにて生まれたまひ、十人一度に愁へ申すことをよく聴きて一事を漏さずことわりたまふによりてなり。二つに聖徳太子と申す。生まれたまひての振舞ひ、よそほひみな僧に似たまへり。勝鬘経、法花経等の疏を作り、法を弘め、人を度したまふによりてなり。三つに上宮太子と申す。推古天皇の御世に太子を王宮の南に住ましめて、国の政をひとへに知らしめたまふによりてなり。(三宝絵詞)
伝暦には、また、慧慈・慧聡に学ぶに、「一を問て十を知り、十を問て百を知る。」というふうに数が出てくる。伝記類での解釈では、十人ではなく八人であるとの説も多い。そして、一見、「耳」をもって聞く能力とするかに見える。「耳」という言葉の付いた名は古代に散見されている。「天忍穂耳尊」(神代紀)、「手研耳命」・「神渟名川耳尊」・「神八井耳命」(綏靖前紀)、「豊耳」(神功紀元年二月)、「陶津耳」(崇神紀七年八月)などである。神功皇后は、「紀直が祖豊耳」なる人物に、怪異現象の理由を問うている。そこから、「耳」には天文異変の原因を判断できる能力を表すと考える向きもある。しかし、記事では、その人は答えられずに「一老父」が答えている。陶津耳の名は、スヱ(地名)+ツ(連体助詞)+ミミ(霊霊)、すなわち、男子の尊称のことで、スヱ村の村長さんほどの意かという。この伝でいけば、豊聡耳とは、トヨは美称、ミミは男子の尊称だから、実質的にはト(甲類)という名であったことになる。厩戸のト(甲類)と同じ音である。
新撰字鏡に、「聆 令丁反、聡也、聴謀也、止弥々、又弥々止志。」とある。「聡し」のトも甲類で、「研(磨)ぐ」と同根の語である。研ぐものは砥石で、古語に「砥」といい、粗い目のものは荒砥、細かい目のものは真砥と呼ばれた。和名抄に、「砥 兼名苑に云はく、砥〈音は旨〉は一名に䃤〈音は篠、末度〉、細かき礪石なりといふ。」とある。「砥」でありつつ「窓」、「的」、「円」なものがマトである。
玉砥石(古墳時代、国学院博物館展示品)
紀の原文に、「生而能言、有二聖智一。及レ壮、一聞二十人訴一、以勿レ失能辨、兼知二未然一。」とある。「生而……。及壮……。」の構文である。大人になって生来の聖智ぶりがこれでもかというぐらいに見られたということにはなっても、「耳」という言葉自体に聖明叡智さを表す意はない。「聞く」という言葉には、(1)音声・言葉などを耳に感じ取る、耳にする、注意して耳を傾ける意、(2)聞いて内容を知る、知識を得てそうだろうと思う、言い伝えや噂を耳にする意、(3)相手の言葉に従う、承知する、聞き入れる、許す意、(4)訊く、人に尋ねて知る、考えや気持ちなど相手の答えを求め問う意、(5)訴えを取り上げて裁く、よく聞いて政治的な処理をする、是非を判断する意、(6)香をかぎ味わう意、(7)酒の良し悪しを味わってみる意、などがあげられ、中古まで(4)の例は確認しがたいとされる(注9)。このうちの(5)は、「聴訟」の和訓に由来する言い方ではないかという。彼が聞いているのは「訴」である。憲法十七条の五には次のようにある。
五に曰はく、餮を絶ち欲することを棄てて、明かに訴訟を辨めよ。其れ百姓の訟、一日に千事あり。一日すら尚爾るを、況や歳を累ねてをや。頃訟を治むる者、利を得て常とし、賄を見ては讞すを聴く。便ち財有るひとが訟は、石をもちて水に投ぐるが如し。乏しき者の訴は、水をもちて石に投ぐるに似たり。是を以て、貧しき民は所由を知らず。臣の道亦焉に闕けぬ。(推古紀十二年四月)
裁判官の心得、司法へのアクセスの保障をうたったものと評価のある条文である。「訴」の訓には、ウルタヘ、ウタヘ、促音便化したウッタヘの形がある。「憂へ訴ふる人」(孝徳紀大化元年八月)とあるように、訴えるとはもともと神に憂いを告げることをいい、審判を仰ごうとしたものである。つまり、推古紀の話は、「訴」を「辨」ずること、裁判の話である。「辨」は、ややこしいことにけじめをつけてわけ、処理すること、とりさばくことで、辨理の義である。ワキダムとも訓み、紀では「別」や「節」字も当てている。また、コトワル(判・断)といった古訓でも表される。いずれにせよ、聴覚能力が優れているという話ではない。
用明紀に、「豊耳聡」・「豊聡耳」の両用が記されている。これまで、天寿国繍帳銘に「等已刀弥々乃弥等」、元興寺丈六光背銘に「等与刀弥々大王」などとあることから、「豊耳聡」は「豊聡耳」の誤りであるとされてきた(注10)。ただ、それらの証拠となるものが、はたして当時のものであったかという疑問点も添えられている(注11)。彼が実際に、トヨトミミとしか呼ばれず、トヨミミトとは呼ばれなかったと断定することは不可能である。諸本に「豊耳聡」と書いて伝わっているので、そういう呼び方もあったと考えられる。
「豊耳聡」は呼び名であり、音として空中を行き交う。漢字の字義に限って伝えるものではない。トヨミミト(ト・ヨは乙類、ミ・ミは甲類、トは甲類)と連なる音には、トヨミ(ト・ヨは乙類、ミは甲類)(響鳴・動)+ミト(ミ・トは甲類)(水門)という意がある。「響む」とは、あたり一面に音が鳴り響く、どよめく、とどろくことである。また、ミトには、(1)港(湊)、(2)水門、(3)港湾の船を航行させる水路、澪、の三つの意がある。上代には、(1)の意が確かとされ、(3)は見られず、(2)は和名抄に、「水門 後漢書に云はく、水門の故処は皆、河中に在りといふ。〈日本紀私記に水門は美度と云ふ〉といふ。」とある(注12)。この意味が確かにあった証拠に、ミトサギと呼ばれる鷺がいる。和名抄のサギ類の記事を示す。
蒼鷺 崔禹食経に云はく、鷺に又、一種有り、相似て小さく色、蒼黒く、並びに水湖の間に在りといふ。〈漢語抄に蒼鷺は美止佐岐と云ふ〉
鵁鶄 唐韻に云はく、鵁鶄〈交青の二音〉は鳥の名なりといふ。弁色立成に云はく、鵁鶄〈伊嶶〉は海辺に住み、其の鳴くこと極めて喧き者なりといふ。
鸅鸆鳥 唐韻に、鸅鸆〈澤虞の二音、漢語抄に護田鳥、於須売止利と云ふ〉と云ふ。爾雅集注に云はく、鴋〈音は紡〉は一名に沢虞、即ち護田鳥なり、常に沢中に在りて人を見れば輙ち鳴き、主守官に似ること有るが故に以て之を名づくといふ。
鷺 唐韻に云はく、𪅖◆(鋤偏に鳥)〈舂鋤の二音〉は白鷺なりといふ。崔禹食経に云はく、鷺〈音は路、佐岐〉の色は純白にして其の声は人の呼ぶに似れる者なりといふ。
アオサギ(多摩動物公園)
水門にいる鷺がミトサギである。常陸風土記逸文にも「青鷺」(塵袋・第三、存疑)とあり、名義抄に「鶂 五狄反、水鳥、アヲサキ」とある。蒼鷺は、今日いうアオサギのことであろうが、動物分類学上の同定に定まらないところがあり、江戸時代にはゴイサギ(五位鷺)やミゾゴイ(溝五位)とする説があった。上の和名抄にも、鵁鶄、イヒ、鸅鸆、護田鳥、オスメドリ、鴋などとある。また、ウスメドリ、ヒノクチマモリと呼ばれるものもいる。爾雅・釈鳥に「鶭 沢虞」とあり、注に「今の婟沢鳥、水鴞に似る。蒼黒色、常に沢中に在り、人を見て輒ち鳴き喚びて去らず。主守之官を象する有り。因りて名けて云はく、俗に護田鳥と呼び為す。」とある。ヒノクチ(樋の口)とは、樋の水門のことである。水路などで水量、水位を調節するために戸口がたてられ、必要に応じて開閉した。導管の樋が丸ければ、土手から覗く口の戸、窓には、円い弁をもって塞ぐことになる。開閉して動くベンの意の弁は瓣の略字である(注13)。辨の略字も弁であり、髪を被うかんむり、冕冠の意の㝸の略字も弁でもある。獄訴の時に誓いをたてる辯も略字は弁で、崇峻前紀で太子は戦勝祈願をしていた。
水をどの田にどの程度配分するかは、洋の東西を問わず人々の利害争いにつながる。 rival という語が river をもととすることによく表れている。正しく分水するとは、水の量を適切に捌くことである。それを守る神のような存在がミトサギで、田の水を管理していると譬えられ、護田鳥と呼ばれたのだろう。単にヒというだけで樋の口の意もあり、水を堰き止める仕切りの弁を表したらしく、「人をして塘の楲に伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛を持ちて、刺し殺すことを快とす。」(武烈紀五年六月)とある。弁を開けて水とともに流れてくるところを、十文字の矛で突き殺したようである。和名抄に、「池〈楲付〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は以介〉は水を蓄ふるなりといふ。淮南子注に云はく、塘を决りて楲〈音は威、和名は伊比〉を発くといふ。許慎に曰はく、楲は陂に竇を通す所以なりといふ。」とある。イヒのイ音の脱落した形というが、鵁鶄の訓みのイヒとの関係も注目されよう。主守之官とは倉庫番のことである。じっとして動かずに、泥棒が来ても逃げずに声をあげて助けを呼ぶ(注14)。
ミトサギはウスメドリとも呼ばれる。目のところに丸メガネのような模様がある。眼つきが鋭い印象からオスメドリと言われ、訛ったものとされている。あるいは、鷺一般にみられる特徴の、臼に舂くしぐさになぞらえられたことによるものかもしれない。首が長く、その先の頭には前に嘴、後ろに勝とも呼ばれる冠羽をつけている。崇峻前紀で太子が四天王像に彫った白膠木は、別名にカチノキとも呼ばれ、馬子の誓いの言葉にある「利益」という訓と符合するものでもある(注15)。鷺が餌を啄む時、まさに横杵で臼を搗くように見え、ウスメドリと呼ぶに値する。また、蹲るというように、じっとしていることはウズと表現する。名義抄に、「踞 シリウタグ、シリウケヲリ、シリソク、ウズクマル、オゴリ、音據、ウズヰ」とある。
冠毛は、また、耳毛ともいう。サギと同様に、耳の形が長く特徴的な動物をウサギ(ギは甲類)と言っている。また、サギの耳毛は細く長いから、中国では𪆓、糸禽ともいう。頭の後ろに糸を二本引いたように見え、針に糸を通した様子に譬え得る。針の孔、めどのことは耳といい、「はりのみみ」(宇津保物語・俊蔭)と言った。耳の付いた縫い針は、弥生時代から見られ、舞錐によって開けられたとされている。細かい砥石のマトを使って毛羽立ったバリを取って仕上げたことだろう。バリを取ってハリ(針)の耳ができあがる。トヨ(豊)+ト(砥)+ミミ(耳)となっている。
糸は針に付いている。ハリがツクのは磔である。裁きによって磔刑が命じられた。ハリツケには、ほかに貼り付けがある。壁などに紙を貼り付けたものをいう。裁判所のことは「刑部」と記されている。養老令・職員令に刑部省は置かれている。ウタヘタダスツカサと訓まれ、貞観七年三月七日官符に「訴訟之司」を「定訟之司」と改めたとある。紀には「刑官」(天武紀朱鳥元年九月)、「判事」(斉明紀四年十一月・持統紀三年二月)とあるほか、氏姓として、「神刑部」(垂仁紀三十九年十月)、「刑部」(允恭紀二年二月、允恭記)、「刑部靫部阿利斯登」(敏達紀十二年是歳)(注16)、「刑部造・刑部連」(天武紀十二年九月)などとある。地名の「忍坂」(神武即位前紀戊午年十月)と関係するらしい記事があり、「於佐箇」(紀9)と言っている。また、万葉集にも刑部氏の歌がいくつか載る。
壁土がボロボロと落ちて来ないように、押さえの紙を貼り付けたものが貼り付けである。磔は、裁判の判決が申し渡され、体を柱、十字架、板、壁に張り付け、動けなくして殺し、晒し者にした。壁に磔にされた場合、雨曝しになったとしたら、ちょうど受刑者の体の跡だけ壁土が残ったのであろう。貼り付けの役を果たして果てている。
磔台(明治大学博物館展示品)
そして、ミトサギ(アヲサギ)も、頭は糸の付いた針のように見えるし、魚を捕るために彫像のようにじっとして動かずまるで磔にあっているようである。ハリツケなのだから、壁の紙、刑部ということになり、鷺は磔の刑を下してあの世へ送る役割をしているとも見なされる。仏教でいえば閻魔に当たる存在である。記上に、「鷺を掃持と為、」とある。アメワカヒコの殯の場面に登場している。遺体を棺に入れて行う儀式であり、箱張付に相当するものといえる。死者の魂をあの世へ掃くように送るのは、ヒノクチマモリのミトサギが水門を開けて、あるいは箒を使って水を捌(吐)くようにしたという譬えであろう。灰色がかったアオサギの頭部をみると、黒っぽい耳の毛が二筋に後ろに伸び、頭頂部は白くて禿げているように見える。さらに、水門を調節する弁について、樋の口を塞ぐ形が丸く、窓を塞ぐようなものと同じと捉えれば、それは藁蓋のような円いもの、つまり、的であると思われたことであろう。ここに、トヨミミトとトヨトミミとは、ともにアオサギの肉体的、行動的、象徴的特徴を表していることになる。
新撰字鏡に、「磔 古文㡯、竹格反、入、張也。開也。死身乎市尓保度己須。」とある。藤澤・伊藤2010.に、「磔には、元来、裂く、割る、張る、開く、解くなどの意義があり、刑屍を裸体のまま城上に磔するいいであったが、日本においては、幡物、機物、機、肇、罧、八付、張付と呼び、平安朝末期以降、木、板、柱または杭に結び付ける仕方であった。」(49頁)とある(注17)。日本では、拷問の際に身動きを取れなくするやり方もハリツケと言ったようである。串刺、車裂、牛裂、逆磔、水磔、土八付、板張付、箱張付など、いろいろあった。磔の架のことを「幡物」(今昔物語・巻二十九の三・十)と呼んでいる。寺院で灌頂幡を吊り下げるのには、T字型の旗竿を使う。そのような形の農具に、朳がある。
朳(柄振)(愛知県知多郡東浦町郷土資料館(うのはな館)蔵、「ひがしうらの民具」http://www.medias.ne.jp/~hunohana/nougiyou-1.html)
エ(柄)+フリ(振)の意かという。竿の先に横板をT字形にしたもので、穀物の実を集めたり、水田の土を均すのに用いられた。朳の字は扒、捌に通用する。数字の八は大字に捌と書く。伝記類に十人ではなく八人とあったのは、このようなところに生じた異伝かもしれない。すなわち、磔にすること、また、磔刑を申し渡す判断をすることを、サバクといったのではないか。上代に、サバク(裁・捌)という語の用例は確かめられない。やがて、手に取って巧みに扱うこと、ばらばらにほぐすこと、入り組んだ物事を適切に処理すること、理非を裁断し裁判すること、意のままにふるまうこと、料理において動物や魚類を解体することを指す語として用いられた。それぞれをそれぞれとして分けることである。裁判で裁くことを指す語の由来は、はっきりと身をもって捌くことをいうのであろうから、十字架に縛するような極刑にこそ当てはまる言葉であろう。
推古紀に、「兼知二未然一。」とつづいている(注18)。この世界の「未然」のことを「知」る予知能力は、きわめて特殊な能力と考えられていたのであろう。それほどのことを「兼ねて」するとある。紀の通例として、「兼ねて」は、合わせて、統合して、かつまた、兼任して、といった意で使われている。推古紀の文章は、何と何とを兼ねていたのかが問題となる。裁判官は重要な役職であり、間違えることがない名判事は偉い。補闕記には、「太子一一能辨、各得レ情、無二復再訪一」、伝略に、「太子一一能辨答、各得二其情緒一、無二復再諮一」とある。裁きの結果が、訴え出た申立人それぞれのいずれをも得心させ、異議を挟むことがなかった。とはいえ、一つ一つの主張や一つ一つの判決を「兼ねて」いるとするのは当たらない。この「兼ねて」の用法は、万葉集に見られるような「予め 兼ねて」の意であり、それを伝えるのに必要な何事かを物語ろうとして、「知二未然一」と言っていると考えられる。
将来の見通しを含め、兼ね合わせて考え、予測する意味の「兼ねて」の例は万葉集にある。
…… かけまくも あやに恐く 言はまくも ゆゆしく有らむと 豫め 兼ねて知りせば ……(万948)
アラカジメはク語法の「有らく」たる未来を含めて予測する語で、「兼ねて」と畳み掛けて使われており、事を予知する意である(注19)。「兼ねて知りせば」(万151・3959・4056)の形で用いられている。将来のことは人にはわからないのがふつうである。それが聖徳太子には知れている、だから、聖、すなわち、日知りと言われる所以であるという論調になりがちであるが、なぜわざわざ、「兼ねて」の紀の常法と異なる使い方をし、しかもヤマトコトバの口語の通例である「兼ねて知りせば」とも異なる使い方をしているのか(注20)。おそらく、まわりの誰でもがそうなると知っている事柄を、しかし常人ならわかっていても認めたがらない事柄を自覚していた、だから聖であるということなのであろう。すなわち、いずれは頭頂に日が出ることを知り、つるっ禿になることを悟っていたのである。蒼鷺が鶴に進化するであろうと自虐的な冗談まで飛ばすほどの鷹揚さがあったということになる。
(つづく)
聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。
元年の春正月の壬子の朔に、穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。是四の男を生れます。其の一を厩戸皇子と曰す。更は名けて豊耳聡聖徳といふ。或いは豊聡耳法大王と名く。或いは法主王と云す。是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。豊御食炊屋姫天皇の世にして、東宮に位居す。万機を総摂りて、行天皇事たまふ。語は豊御食炊屋姫天皇の紀に見ゆ。(用明紀元年正月)
皇后[穴穂部間人皇女]、懐姙開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きて、失ちたまはずして能く辨へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす。且、内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覚哿に学びたまふ。並に悉に達りたまひぬ。父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を称へて、上宮厩戸豊聡耳太子と謂す。(推古紀元年四月)
聖徳太子のもつさまざまな呼び名のバリエーションをまとめると、(a)厩戸、(b)豊聡耳、(c)上宮、(d)聖徳、(e)法王に大別される。それぞれの名の由来は、文字に記されているとおりとされている。けだし、厩戸という名は、母親の穴穂部間人皇后が禁中巡行の際、馬官の厩の戸にぶつかって安産したことによる、豊聡耳という名は、一度に十人の訴えを聞いて間違えることがなかったという故事に基づく、上宮という名は、父親の用明天皇が溺愛して、宮殿の南の上殿に住まわせたという出来事からくる、聖徳という名は、神聖視されるようになってからの抽象的な美称である、法王という名は、法華経譬喩品にある仏教用語に由来し、仏教との立場から神聖化した抽象的な美称である、というのである(注1)。
それらの説明は説明としてみても、それ以前のこととして、なぜこれほどたくさんの名を持っているのか疑問である。用明紀に「更名」とあるのは、別称、渾名のことであろう。当時、本名という概念があったか、また別名との間に位置づけの違いがあったか定かではない(注2)。命名の謂れとなっている説話は、紀を編んだ人がわざわざ譚として記すに値すると認めていたものである。古代の人の思考法として捉え返さなければならない(注3)。
記紀には人名の命名説話がいくつかあり、天皇や太子のそれには次のようなものがある。
既に産れませるときに、宍、腕の上に生ひたり。其の形、鞆の如し。是、皇太后の雄しき装したまひて鞆を負きたまへるに肖えたまへり。肖、此には阿叡と云ふ。故、其の名を称へて、誉田天皇と謂す。上古の時、俗、鞆を号ひて褒武多と謂ふ。(応神前紀)
初め天皇生れます日に、木菟、産殿に入れり。……大臣、対へて言さく、「吉祥なり。復昨日、臣[武内宿禰]が妻の産む時に当りて、鷦鷯、産屋に入れり。是、亦異し」とまをす。爰に天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表なり。以為ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉の契とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子に名けて大鷦鷯皇子と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に名けて、木菟宿禰と曰へり。(仁徳紀元年正月)
生れましながら歯、一骨の如し。容姿美麗し。是に、井有り。瑞井と曰ふ。則ち汲みて太子を洗しまつる。時に多遅の花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖の花なり。故、多遅比瑞歯別天皇と称へ謂す。(反正前紀)
[白髪武広国押稚日本根子]天皇、生れましながら白髪にましまし、長りて民を愛みたまふ。(清寧前紀)

反正天皇の名、多遅比瑞歯別は、生まれながら歯が一本の骨のようにきれいな歯並びで、瑞井という井戸の水を産湯にしたところ、タヂの花、すなわち、今のイタドリの花が井戸のなかに落ちた。それで名とした。イタドリはタデ科の多年草である。茎を噛むと酸っぱく、スカンポと呼ばれる。タヂが持ち出されたのは、一つには、酸っぱくて歯を剥き出すから歯並びのことが思い起こされ、二つには、そのイタ(板)+ドリ(取)という名から、板を取る鋸、古語にノホギリといわれるものを連想させるからである。歯を剥くと鋸のようなきれいな歯並びをしていた、ないしは出っ歯だったということを、直接的には「如二一骨一」といいつつ、間接的には井戸にイタドリの花が落ちたとの逸話を拵え、伝えているものと思われる。ただし、その際、「瑞井」と称しており、仁徳紀の瑞祥話と同じく、太子の名にするにふさわしいとのこじつけが含まれている。仁徳天皇の名以外は、生得的な肉体的特徴を名としている。今日でも渾名としてよく聞かれるものである。
聖徳太子の名の場合、あまりに数が多く、また、直接、身体的な特徴を語ることもなく、盛んに逸話めいた話ばかり出てくる。名の由来を語るものが命名説話であるとしても、名は周囲の人から呼ばれてはじめて名となる。数が多すぎてはアイデンティティが拡散してしまう。逸話を真に受けてばかりでは本質に迫ることはできない。本稿では、彼の名が一つの身体的特徴に由来し、多様に言い換えられたものであることを明らかにする。
厩戸
厩戸皇子については、誕生譚に述べられている厩について大掛かりな検討が必要となる。その点については別に論じた(注4)。ここでは結論のみ述べる。厩において戸に当たるものとして、馬が出て来れないようにするもの、マセバウ、マセガキがある。たった一本棒が横に架されただけで馬は出られない。厩戸の本質とは何かと言われれば、そのことだと言って間違いないだろう。だから、ませた餓鬼やませた坊やのこととして命名されている。洒落となぞなぞと知恵を駆使して綽名にうまく嵌め込んでいる。
では、彼の身体的特徴とは何か。皇后は諸司の監察を行っている。いろいろな部署を見てまわっており、馬官の一箇所を重点的に見ているわけではない。馬官では馬の様子をちょっと見たいだけに過ぎない。厩舎を開けて建物の具合や室内の衛生状態をチェックする必要はない。馬の顔を見れば、大事にされているかどうか見通せるからである。つまり、彼女にとっての厩の戸とは、厨子の上部に付けられた観音開きの戸と同じく、覗き窓で十分であった。窓(ドは甲類)は、マ(間、目)+ト(戸)の意といい、和名抄に、「牖 説文に云はく、牖〈与久反、字は片戸甫に従ふなり。末度〉は壁を穿ちて木を以て交へと為す窓なりといふ。」、「窓 説文に云はく、屋に在るを窓〈楚江反、字は亦、牎に作る。末度〉と曰ひ、墻に在るを牖〈已に墻壁具に見ゆ〉と曰ふといふ。兼名苑に一名に櫳〈音は籠〉と云ふ。」とある。諸字の載る名義抄に、「牖 音誘道、マド、向」、「窓 楚江反、マド、亦牎 𤗉 和ソウ」、「扆 俗通〓(尸たれに衣)字、マト」などとあり、清濁両用あった可能性が高い。
マトという言葉には、円、的がある。円いさま、形状のマドカナル点から的のことをいう。的は和名抄に、「的 説文に云はく、臬〈魚列反、万斗、俗に的の字を用ゐ、音は都歴反〉は射る的なりといふ。纂要に云はく、古は射る的を謂ひて侯〈或は堠に作り、音は侯と同じ〉と為、皮を以て的を為るを鵠〈今案ふるに鴻鵠の鵠は射る処なり、古沃反、唐韻に見ゆ〉と為といふ。」とある。鵠には、正鵠を射ると使われる射る的のほかに、鳥の名のクグイの意もある。古語に、クグヒ、クビ、コヒ、コフなどというハクチョウのことである。豊後風土記速見郡条に、餅を的にしたら白い鳥になって飛んで行ったとする説話があり、山城風土記逸文(存疑)にも見える。また、「白鳥の」という枕詞は「鷺」にかかることがあり、「白鳥の 鷺坂山の 松蔭に 宿りて行かな 夜も深け行くを」(万1687)といった例がある。的は、白鳥や鷺とイメージが通じていたもののようである。
窓も、当初は円形に開けられるものとして認められていたのではないか。絵巻物では民家に円い窓が開けられている。そして、その円い窓を塞ぐように蓋をするに値するものとして円座、藁蓋(わらうだ)がつけられている(注5)。

円座は、稲藁や藺草などを渦巻き状に編んだもので、主に板の間で用いられた。今日でも神殿や囲炉裏の周り、和風の内装にこだわる蕎麦屋などで使われている。宮中では、縁取りに布を縫い付け、官位によってその色を使い分けたという。また、家の壁面に円いものがつく光景としては、家の破風に的を掲げる風習が知られる。正月に行われる的の神事で頭屋を務める家が、的を描いたものを入口の上に出して印としていた。

では、このマト(窓・的・円)は、太子の何を表しているのであろうか。それを推察させるものに彼の髪型がある。物部守屋と蘇我馬子との戦いの際の記述に次のようにある。
是の時に、厩戸皇子、束髪於額にして、古の俗、年少児の、年十五六の間は、束髪於額にし、十七八の間は、分けて角子にす。今亦然り。軍の後に随へり。自ら忖度りて曰はく、「将、敗らるること無からむや。願に非ずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木を斮り取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、白膠木、此には農利泥といふ。「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子大臣、又誓を発てて言はく、「凡そ諸天王・大神王等、我を助け衛りて、利益つこと獲しめたまはば、願はくは当に諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝を流通へむ」といふ。誓ひ已りて種種の兵を厳ひて、進みて討伐つ。(崇峻前紀)
古代における年齢階梯と髪型については、江馬1976.ほかに論じられている。髪の毛が伸びるにしたがいまとめ方を変えていっていた。ただし、いまだ確定的なことはわかっていない。そもそも髪型は、若者組や職業による決まりごとによって制約を受ける一方、風俗の流行り廃りの影響もあり、また、個人的な好みによっても大きく違ってくる。したがって、一概にどのような髪型をしていたかを定め切れるものではない。むしろ、記紀や万葉集に出てくる言葉によって、個々のケースでどのようなニュアンスを込めているかを見ていくことが大切になる。
束髪は、ヤマトタケルの熊襲征伐の際の記述に見える。
此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。……爾くして、其の楽の日に臨みて、童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿と成り、女人の中に交り立ちて其の室の内に入り坐す。(景行記)
……日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。時に年十六。……是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿と作りて、密に川上梟帥が宴の時を伺ふ。(景行紀二十七年)
童女の髪とあるのは、髪を束ね揚げずに垂らした髪をいっている。髪型の名としては、髪が短くて束ねられずにばらばらのままの子どもの髪型のワラハ(童)、髪を垂らしたまま項にまとめた形のウナヰ(髫髪)、伸びて長い髪を垂らしたままにした髪型のハナリ(放髪)などがある(注6)。この個所の記述については、結局のところ垂らした髪によって女装したという以上のことはわからない。
一般には、ヤマトタケルと聖徳太子の記事の二つに額に髪を結うことが記されているため、太子はこのとき十五・六歳であったと考えられている。吉田2011.によれば、聖徳太子の年齢については、伝記類ごとに、物部守屋征伐の時に、十六、十四、十五歳説があるという(44~45頁)。崇峻前紀の分注を吟味せずに解釈したところから派生した説であるように思われる。この部分には奇妙なところがある。「古俗……」と紹介しておきながら、「今亦然之」と終っている。昔も今も同じであるにもかかわらず、言わずもがなのことを勿体ぶって言っている。不可解な断り書きの分注を付けるにはそれなりの理由があるのだろう。実は太子の年齢は十七八の間で、「角子」(総角)にすべきところを、あえて「束髪於額」にしていたということではないか。ヤマトタケルも変装のために髪型を変えていた。太子が年相応の髪型をしていたり、年齢以上の早熟性を語りたいのなら、「古俗、年少児、年十三四間、髫髪、十五六間、為二束髪於額一。今亦然之。」と記せばよいことだろう。

角子(総角)は、頭上に髪を両分して左右に揚げて巻き、輪をつくったものをいう。そして、「束髪於額」はヒサゴハナと訓まれている。これはあまりにも洒落た不思議な訓であり、深い意味合いが隠されているものと考えられる。髪を額に一束に束ねると、形状がヒサゴの花、つまり、ユウガオの花に似ているからとされる。花の形が似ているばかりか、下につける実を人間の頭と対照させたことによるものと思われる。実からは干瓢を取る。厩戸に連想されたマド(窓・窗)は、簡略した字体が囱である。囱のなかの字は夕に見えるが、これは木を以て交わらせた格子窓、櫺子窓を意味する字形である。ただ、囱に似た囟は、ひよめきを表す。すなわち、国構の部分が頭部、つまり、顔である。顔が夕となっているから夕顔である。この夕顔については後述する。
太子の身体的特徴、特に、渾名で揶揄される特異点を示しているのである。髪型の名を「束髪於額」と断っている。「額」は和名抄に、「額 楊雄方言に云はく、額〈五陌反、和名は比太非〉は東斉に之を顙〈蘇朗反〉と謂ひ、幽州に之を顎〈五各反〉と謂ふといふ。」、「顱〈髑髏付〉 文字集略に云はく、顱〈落胡反、字は亦、髗に作る。加之良乃加波良〉は脳の蓋なりといふ。玉篇に云はく、髑髏〈独婁の二音、俗に比度加之良と云ふ〉は頭骨なりといふ。」とある。万葉集にも、「吾妹児が 額に生ふる 双六の 特牛の 鞍の上の傘」(万3838)という歌が載る。ヒタヒとは顔面上部のおでこの部分である。太子は頂髪、つまり、髻に四天王像を置いている。白膠木とはヌルデのことで、それを彫塑した。仏像に象るとは、当時、金銅像や脱活乾漆像のように中空であることが一般的であったから、なかが空洞であるほうがふさわしい。ヌルデには、ヌルデノミミフシ(ないし、ヌルデシロアブラムシ)という虫がついて虫瘤ができる。付子(五倍子)である。薬用のほか、染色に用いられる。同じく誓いを立てた蘇我馬子はそのようなことはしていない。太子は付子のことを知っていたから、身近に生えていたヌルデの虫瘤を斮り取って彫像している。付子は鉄漿に混ぜてお歯黒に使われた。ヌリデの語源も塗ることと関係するからとされている。白膠木と記されるが、字とは裏腹に黒く塗ることがあった。いかにもわざとらしい話に拵えられている。すなわち、ヌリデによって禿が目立たないようにカモフラージュしたことを表すのだろう。太子の頭は真ん中が禿げていて、窓が開いているようであるとも、正月の奉射の頭屋の印の的のようであるとも譬えられた。十七八歳になっているけれど、髪を両分すると真ん中の禿が目立ってしまい、見た目が変なことになる。厩の戸にぶつかった後遺症であるかのような、髪の脱落したたん瘤に見えるし、それはまた、ヌルデノミミフシのようなつるっとした膨らみになっていたのだろう。みっともなくないように、太子はヒサゴハナに結っていた。夕顔の実にはわずかに柔らかい毛が生えている。


太子は、「疾作二四天王像一、置二於頂髪一。」している。頂髪は、髪を手繰り上げて房のように束ねたところ、頭髻である。
是を以て、箭を頭髻に蔵し、刀を衣の中に佩く。或いは党類を聚めて辺界を犯し、或いは農桑を伺ひて人民を略む。(景行紀四十年七月)
時に武内宿禰、三軍に令して、悉に椎結げしむ。因りて号令して曰はく、「各儲弦を以て髪中に蔵め、且木刀を佩け」といふ。(神功紀摂政元年三月)
それぞれ「是以箭蔵二頭髻一」、「各以二儲弦一蔵二于髪中一」とあり、弓で使う箭や予備の弦の儲弦を、束ねてたくし上げてまとめた髪の中に入れて隠していた。髪の毛があるから隠すことができるのであり、太子の場合だけ顕れている。四天王とは、仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。四つの像を作ったのか、あるいは代表して一つを作ったのか明らかではない。信貴山に伝わる伝承のように、毘沙門天、すなわち、多聞天を彫り上げたとも考えられるが、ヌルデについた虫瘤の、凸部が四つあるものをそれぞれの四天王の様子に見立てられるように、四面一像に象ったと考えたほうがわかりやすい。誓いを立てて建てると言っていた「寺塔」、塔は、東西南北それぞれに顔を持つ。
「置於」という状況も不思議である。「置く」という言葉は、何かを持ってきて安定したところにものを設置することで、手を放して放置することでもある。自然現象の、雪や霜の降り積もってとどまることにもいう。古典基礎語辞典の「おく【置く・措く】」の解説では、「物に位置を与える意と、手から離してそのままにする意とがある。」(226頁、この項、筒井ゆみ子)とする。また、白川1995.は、「「おく」のうち、ものを置くことには置、ものをとり除くのには除を用いる。「おく」はその両義をかねる語で、〔万葉〕では置をその両義に用い、「隈も置かず」〔九四二〕、「雨間も置かず」〔一四九一〕のようにいう。〔記〕〔紀〕などでは、置と除との字義は正確に使いわけられている。」(174頁)としている。
太子の束髪於額と記される髪型は、夕顔の花のような膨らんだ形をしていたのであろう。通常のタキフサであれば、そこに白膠木で作った四天王像を差し込むことはできても、太子が曲芸師であったとは記されていないから、フィギュアをそこに「置く」ことは不可能である。髪の束の上は安定せず、ゆたかな髪の毛に滑り、反発を受け、転げ落ちるであろう。手を添えていた場合、それは「置」ではなく「載」という字が、また、髷の先を切りそろえてその頂点に貼りつけたのなら、それは「置」ではなく「着」などという字が選ばれるだろう。タキフサに置けたのは、束髪のなかに四天王像を安置して揺るがないスペースがあったことを示す。すなわち、髪の毛が生えていない平らな部分が頭部にあったということである。四天王像をもって相手を威圧しようというのだから、「蔵し」や「蔵め」ではなく、遠くから見て像が見えなければならない。バーコード状の髪の毛が透け、外から確認できるようによく見えたということだろう(注7)。
太子の頭部には丸い的のように窓が開いていた。円座・藁蓋との関係で言うなら、尻に敷くものと頭に開いた窓との洒落になっている。紀では「頂髪」と断られている。髻のことである。景行紀、神功紀の北野本別訓にはタブサとある。崇峻紀にタキフサときちんと訓じられてあるのは、尻を隠すべきタフサキ、すなわち、「犢鼻」という褌とを関連させて洒落としたものではないか。頭部が臀部のようであるとの謂いを強めたいための物言いである。冠位十二階を設けて官人に冠を被らせたことも、実はあれは禿隠し、頭の尻隠しなのであると、無冠の者たちの口さがないささやきが聞こえてくる(注8)。
豊耳聡・豊聡耳
「豊聡耳」については、巷間に、聖徳太子は十人の人が一度に言うことを聞き分け、とても耳が良かったので名に冠するとされている。後に作られた伝記にもある。
王の命、幼く少くして聡敏く智有り。長大るに至りて、一時に八人の白す事を聞きて其の理を辨む。又一を聞きて八を智る。故、号を厩戸豊聡八耳命と曰ふ。(上宮聖徳法王帝説)
八人時に声を共にして事を白す。太子一一を能く辨じ、各情を得、復た再び訪ふこと無し。聡敏叡智なり。是を以て名を厩戸豊聡八耳皇子と称す。(上宮聖徳太子伝補闕記)
政を聴しめす日、宿の訴の未だ決せざる者八人、声を共に事を白す。太子一一に能く辨じ答へ、各其の情緒を得て、復た再び諮ふこと無し。大臣、群臣已下を率ひて敢て御名を献る。厩戸豊聡八耳皇子と称す。(聖徳太子伝暦)
太子三つの名あり。一つには厩戸(豊聡耳)皇子と申しき。王の厩のもとにて生まれたまひ、十人一度に愁へ申すことをよく聴きて一事を漏さずことわりたまふによりてなり。二つに聖徳太子と申す。生まれたまひての振舞ひ、よそほひみな僧に似たまへり。勝鬘経、法花経等の疏を作り、法を弘め、人を度したまふによりてなり。三つに上宮太子と申す。推古天皇の御世に太子を王宮の南に住ましめて、国の政をひとへに知らしめたまふによりてなり。(三宝絵詞)
伝暦には、また、慧慈・慧聡に学ぶに、「一を問て十を知り、十を問て百を知る。」というふうに数が出てくる。伝記類での解釈では、十人ではなく八人であるとの説も多い。そして、一見、「耳」をもって聞く能力とするかに見える。「耳」という言葉の付いた名は古代に散見されている。「天忍穂耳尊」(神代紀)、「手研耳命」・「神渟名川耳尊」・「神八井耳命」(綏靖前紀)、「豊耳」(神功紀元年二月)、「陶津耳」(崇神紀七年八月)などである。神功皇后は、「紀直が祖豊耳」なる人物に、怪異現象の理由を問うている。そこから、「耳」には天文異変の原因を判断できる能力を表すと考える向きもある。しかし、記事では、その人は答えられずに「一老父」が答えている。陶津耳の名は、スヱ(地名)+ツ(連体助詞)+ミミ(霊霊)、すなわち、男子の尊称のことで、スヱ村の村長さんほどの意かという。この伝でいけば、豊聡耳とは、トヨは美称、ミミは男子の尊称だから、実質的にはト(甲類)という名であったことになる。厩戸のト(甲類)と同じ音である。
新撰字鏡に、「聆 令丁反、聡也、聴謀也、止弥々、又弥々止志。」とある。「聡し」のトも甲類で、「研(磨)ぐ」と同根の語である。研ぐものは砥石で、古語に「砥」といい、粗い目のものは荒砥、細かい目のものは真砥と呼ばれた。和名抄に、「砥 兼名苑に云はく、砥〈音は旨〉は一名に䃤〈音は篠、末度〉、細かき礪石なりといふ。」とある。「砥」でありつつ「窓」、「的」、「円」なものがマトである。

紀の原文に、「生而能言、有二聖智一。及レ壮、一聞二十人訴一、以勿レ失能辨、兼知二未然一。」とある。「生而……。及壮……。」の構文である。大人になって生来の聖智ぶりがこれでもかというぐらいに見られたということにはなっても、「耳」という言葉自体に聖明叡智さを表す意はない。「聞く」という言葉には、(1)音声・言葉などを耳に感じ取る、耳にする、注意して耳を傾ける意、(2)聞いて内容を知る、知識を得てそうだろうと思う、言い伝えや噂を耳にする意、(3)相手の言葉に従う、承知する、聞き入れる、許す意、(4)訊く、人に尋ねて知る、考えや気持ちなど相手の答えを求め問う意、(5)訴えを取り上げて裁く、よく聞いて政治的な処理をする、是非を判断する意、(6)香をかぎ味わう意、(7)酒の良し悪しを味わってみる意、などがあげられ、中古まで(4)の例は確認しがたいとされる(注9)。このうちの(5)は、「聴訟」の和訓に由来する言い方ではないかという。彼が聞いているのは「訴」である。憲法十七条の五には次のようにある。
五に曰はく、餮を絶ち欲することを棄てて、明かに訴訟を辨めよ。其れ百姓の訟、一日に千事あり。一日すら尚爾るを、況や歳を累ねてをや。頃訟を治むる者、利を得て常とし、賄を見ては讞すを聴く。便ち財有るひとが訟は、石をもちて水に投ぐるが如し。乏しき者の訴は、水をもちて石に投ぐるに似たり。是を以て、貧しき民は所由を知らず。臣の道亦焉に闕けぬ。(推古紀十二年四月)
裁判官の心得、司法へのアクセスの保障をうたったものと評価のある条文である。「訴」の訓には、ウルタヘ、ウタヘ、促音便化したウッタヘの形がある。「憂へ訴ふる人」(孝徳紀大化元年八月)とあるように、訴えるとはもともと神に憂いを告げることをいい、審判を仰ごうとしたものである。つまり、推古紀の話は、「訴」を「辨」ずること、裁判の話である。「辨」は、ややこしいことにけじめをつけてわけ、処理すること、とりさばくことで、辨理の義である。ワキダムとも訓み、紀では「別」や「節」字も当てている。また、コトワル(判・断)といった古訓でも表される。いずれにせよ、聴覚能力が優れているという話ではない。
用明紀に、「豊耳聡」・「豊聡耳」の両用が記されている。これまで、天寿国繍帳銘に「等已刀弥々乃弥等」、元興寺丈六光背銘に「等与刀弥々大王」などとあることから、「豊耳聡」は「豊聡耳」の誤りであるとされてきた(注10)。ただ、それらの証拠となるものが、はたして当時のものであったかという疑問点も添えられている(注11)。彼が実際に、トヨトミミとしか呼ばれず、トヨミミトとは呼ばれなかったと断定することは不可能である。諸本に「豊耳聡」と書いて伝わっているので、そういう呼び方もあったと考えられる。
「豊耳聡」は呼び名であり、音として空中を行き交う。漢字の字義に限って伝えるものではない。トヨミミト(ト・ヨは乙類、ミ・ミは甲類、トは甲類)と連なる音には、トヨミ(ト・ヨは乙類、ミは甲類)(響鳴・動)+ミト(ミ・トは甲類)(水門)という意がある。「響む」とは、あたり一面に音が鳴り響く、どよめく、とどろくことである。また、ミトには、(1)港(湊)、(2)水門、(3)港湾の船を航行させる水路、澪、の三つの意がある。上代には、(1)の意が確かとされ、(3)は見られず、(2)は和名抄に、「水門 後漢書に云はく、水門の故処は皆、河中に在りといふ。〈日本紀私記に水門は美度と云ふ〉といふ。」とある(注12)。この意味が確かにあった証拠に、ミトサギと呼ばれる鷺がいる。和名抄のサギ類の記事を示す。
蒼鷺 崔禹食経に云はく、鷺に又、一種有り、相似て小さく色、蒼黒く、並びに水湖の間に在りといふ。〈漢語抄に蒼鷺は美止佐岐と云ふ〉
鵁鶄 唐韻に云はく、鵁鶄〈交青の二音〉は鳥の名なりといふ。弁色立成に云はく、鵁鶄〈伊嶶〉は海辺に住み、其の鳴くこと極めて喧き者なりといふ。
鸅鸆鳥 唐韻に、鸅鸆〈澤虞の二音、漢語抄に護田鳥、於須売止利と云ふ〉と云ふ。爾雅集注に云はく、鴋〈音は紡〉は一名に沢虞、即ち護田鳥なり、常に沢中に在りて人を見れば輙ち鳴き、主守官に似ること有るが故に以て之を名づくといふ。
鷺 唐韻に云はく、𪅖◆(鋤偏に鳥)〈舂鋤の二音〉は白鷺なりといふ。崔禹食経に云はく、鷺〈音は路、佐岐〉の色は純白にして其の声は人の呼ぶに似れる者なりといふ。

水門にいる鷺がミトサギである。常陸風土記逸文にも「青鷺」(塵袋・第三、存疑)とあり、名義抄に「鶂 五狄反、水鳥、アヲサキ」とある。蒼鷺は、今日いうアオサギのことであろうが、動物分類学上の同定に定まらないところがあり、江戸時代にはゴイサギ(五位鷺)やミゾゴイ(溝五位)とする説があった。上の和名抄にも、鵁鶄、イヒ、鸅鸆、護田鳥、オスメドリ、鴋などとある。また、ウスメドリ、ヒノクチマモリと呼ばれるものもいる。爾雅・釈鳥に「鶭 沢虞」とあり、注に「今の婟沢鳥、水鴞に似る。蒼黒色、常に沢中に在り、人を見て輒ち鳴き喚びて去らず。主守之官を象する有り。因りて名けて云はく、俗に護田鳥と呼び為す。」とある。ヒノクチ(樋の口)とは、樋の水門のことである。水路などで水量、水位を調節するために戸口がたてられ、必要に応じて開閉した。導管の樋が丸ければ、土手から覗く口の戸、窓には、円い弁をもって塞ぐことになる。開閉して動くベンの意の弁は瓣の略字である(注13)。辨の略字も弁であり、髪を被うかんむり、冕冠の意の㝸の略字も弁でもある。獄訴の時に誓いをたてる辯も略字は弁で、崇峻前紀で太子は戦勝祈願をしていた。
水をどの田にどの程度配分するかは、洋の東西を問わず人々の利害争いにつながる。 rival という語が river をもととすることによく表れている。正しく分水するとは、水の量を適切に捌くことである。それを守る神のような存在がミトサギで、田の水を管理していると譬えられ、護田鳥と呼ばれたのだろう。単にヒというだけで樋の口の意もあり、水を堰き止める仕切りの弁を表したらしく、「人をして塘の楲に伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛を持ちて、刺し殺すことを快とす。」(武烈紀五年六月)とある。弁を開けて水とともに流れてくるところを、十文字の矛で突き殺したようである。和名抄に、「池〈楲付〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は以介〉は水を蓄ふるなりといふ。淮南子注に云はく、塘を决りて楲〈音は威、和名は伊比〉を発くといふ。許慎に曰はく、楲は陂に竇を通す所以なりといふ。」とある。イヒのイ音の脱落した形というが、鵁鶄の訓みのイヒとの関係も注目されよう。主守之官とは倉庫番のことである。じっとして動かずに、泥棒が来ても逃げずに声をあげて助けを呼ぶ(注14)。
ミトサギはウスメドリとも呼ばれる。目のところに丸メガネのような模様がある。眼つきが鋭い印象からオスメドリと言われ、訛ったものとされている。あるいは、鷺一般にみられる特徴の、臼に舂くしぐさになぞらえられたことによるものかもしれない。首が長く、その先の頭には前に嘴、後ろに勝とも呼ばれる冠羽をつけている。崇峻前紀で太子が四天王像に彫った白膠木は、別名にカチノキとも呼ばれ、馬子の誓いの言葉にある「利益」という訓と符合するものでもある(注15)。鷺が餌を啄む時、まさに横杵で臼を搗くように見え、ウスメドリと呼ぶに値する。また、蹲るというように、じっとしていることはウズと表現する。名義抄に、「踞 シリウタグ、シリウケヲリ、シリソク、ウズクマル、オゴリ、音據、ウズヰ」とある。
冠毛は、また、耳毛ともいう。サギと同様に、耳の形が長く特徴的な動物をウサギ(ギは甲類)と言っている。また、サギの耳毛は細く長いから、中国では𪆓、糸禽ともいう。頭の後ろに糸を二本引いたように見え、針に糸を通した様子に譬え得る。針の孔、めどのことは耳といい、「はりのみみ」(宇津保物語・俊蔭)と言った。耳の付いた縫い針は、弥生時代から見られ、舞錐によって開けられたとされている。細かい砥石のマトを使って毛羽立ったバリを取って仕上げたことだろう。バリを取ってハリ(針)の耳ができあがる。トヨ(豊)+ト(砥)+ミミ(耳)となっている。
糸は針に付いている。ハリがツクのは磔である。裁きによって磔刑が命じられた。ハリツケには、ほかに貼り付けがある。壁などに紙を貼り付けたものをいう。裁判所のことは「刑部」と記されている。養老令・職員令に刑部省は置かれている。ウタヘタダスツカサと訓まれ、貞観七年三月七日官符に「訴訟之司」を「定訟之司」と改めたとある。紀には「刑官」(天武紀朱鳥元年九月)、「判事」(斉明紀四年十一月・持統紀三年二月)とあるほか、氏姓として、「神刑部」(垂仁紀三十九年十月)、「刑部」(允恭紀二年二月、允恭記)、「刑部靫部阿利斯登」(敏達紀十二年是歳)(注16)、「刑部造・刑部連」(天武紀十二年九月)などとある。地名の「忍坂」(神武即位前紀戊午年十月)と関係するらしい記事があり、「於佐箇」(紀9)と言っている。また、万葉集にも刑部氏の歌がいくつか載る。
壁土がボロボロと落ちて来ないように、押さえの紙を貼り付けたものが貼り付けである。磔は、裁判の判決が申し渡され、体を柱、十字架、板、壁に張り付け、動けなくして殺し、晒し者にした。壁に磔にされた場合、雨曝しになったとしたら、ちょうど受刑者の体の跡だけ壁土が残ったのであろう。貼り付けの役を果たして果てている。

そして、ミトサギ(アヲサギ)も、頭は糸の付いた針のように見えるし、魚を捕るために彫像のようにじっとして動かずまるで磔にあっているようである。ハリツケなのだから、壁の紙、刑部ということになり、鷺は磔の刑を下してあの世へ送る役割をしているとも見なされる。仏教でいえば閻魔に当たる存在である。記上に、「鷺を掃持と為、」とある。アメワカヒコの殯の場面に登場している。遺体を棺に入れて行う儀式であり、箱張付に相当するものといえる。死者の魂をあの世へ掃くように送るのは、ヒノクチマモリのミトサギが水門を開けて、あるいは箒を使って水を捌(吐)くようにしたという譬えであろう。灰色がかったアオサギの頭部をみると、黒っぽい耳の毛が二筋に後ろに伸び、頭頂部は白くて禿げているように見える。さらに、水門を調節する弁について、樋の口を塞ぐ形が丸く、窓を塞ぐようなものと同じと捉えれば、それは藁蓋のような円いもの、つまり、的であると思われたことであろう。ここに、トヨミミトとトヨトミミとは、ともにアオサギの肉体的、行動的、象徴的特徴を表していることになる。
新撰字鏡に、「磔 古文㡯、竹格反、入、張也。開也。死身乎市尓保度己須。」とある。藤澤・伊藤2010.に、「磔には、元来、裂く、割る、張る、開く、解くなどの意義があり、刑屍を裸体のまま城上に磔するいいであったが、日本においては、幡物、機物、機、肇、罧、八付、張付と呼び、平安朝末期以降、木、板、柱または杭に結び付ける仕方であった。」(49頁)とある(注17)。日本では、拷問の際に身動きを取れなくするやり方もハリツケと言ったようである。串刺、車裂、牛裂、逆磔、水磔、土八付、板張付、箱張付など、いろいろあった。磔の架のことを「幡物」(今昔物語・巻二十九の三・十)と呼んでいる。寺院で灌頂幡を吊り下げるのには、T字型の旗竿を使う。そのような形の農具に、朳がある。

エ(柄)+フリ(振)の意かという。竿の先に横板をT字形にしたもので、穀物の実を集めたり、水田の土を均すのに用いられた。朳の字は扒、捌に通用する。数字の八は大字に捌と書く。伝記類に十人ではなく八人とあったのは、このようなところに生じた異伝かもしれない。すなわち、磔にすること、また、磔刑を申し渡す判断をすることを、サバクといったのではないか。上代に、サバク(裁・捌)という語の用例は確かめられない。やがて、手に取って巧みに扱うこと、ばらばらにほぐすこと、入り組んだ物事を適切に処理すること、理非を裁断し裁判すること、意のままにふるまうこと、料理において動物や魚類を解体することを指す語として用いられた。それぞれをそれぞれとして分けることである。裁判で裁くことを指す語の由来は、はっきりと身をもって捌くことをいうのであろうから、十字架に縛するような極刑にこそ当てはまる言葉であろう。
推古紀に、「兼知二未然一。」とつづいている(注18)。この世界の「未然」のことを「知」る予知能力は、きわめて特殊な能力と考えられていたのであろう。それほどのことを「兼ねて」するとある。紀の通例として、「兼ねて」は、合わせて、統合して、かつまた、兼任して、といった意で使われている。推古紀の文章は、何と何とを兼ねていたのかが問題となる。裁判官は重要な役職であり、間違えることがない名判事は偉い。補闕記には、「太子一一能辨、各得レ情、無二復再訪一」、伝略に、「太子一一能辨答、各得二其情緒一、無二復再諮一」とある。裁きの結果が、訴え出た申立人それぞれのいずれをも得心させ、異議を挟むことがなかった。とはいえ、一つ一つの主張や一つ一つの判決を「兼ねて」いるとするのは当たらない。この「兼ねて」の用法は、万葉集に見られるような「予め 兼ねて」の意であり、それを伝えるのに必要な何事かを物語ろうとして、「知二未然一」と言っていると考えられる。
将来の見通しを含め、兼ね合わせて考え、予測する意味の「兼ねて」の例は万葉集にある。
…… かけまくも あやに恐く 言はまくも ゆゆしく有らむと 豫め 兼ねて知りせば ……(万948)
アラカジメはク語法の「有らく」たる未来を含めて予測する語で、「兼ねて」と畳み掛けて使われており、事を予知する意である(注19)。「兼ねて知りせば」(万151・3959・4056)の形で用いられている。将来のことは人にはわからないのがふつうである。それが聖徳太子には知れている、だから、聖、すなわち、日知りと言われる所以であるという論調になりがちであるが、なぜわざわざ、「兼ねて」の紀の常法と異なる使い方をし、しかもヤマトコトバの口語の通例である「兼ねて知りせば」とも異なる使い方をしているのか(注20)。おそらく、まわりの誰でもがそうなると知っている事柄を、しかし常人ならわかっていても認めたがらない事柄を自覚していた、だから聖であるということなのであろう。すなわち、いずれは頭頂に日が出ることを知り、つるっ禿になることを悟っていたのである。蒼鷺が鶴に進化するであろうと自虐的な冗談まで飛ばすほどの鷹揚さがあったということになる。
(つづく)