人生2度目の入院生活を送ることになったのが、岩国国立病院(国病)だった。
入院設備の整った整形外科は他にもあったのだけど両親の勧めもありこの病院に
行く事になったようだ。
ここの国病は以前、友人が亡くなった病院だったのであまり良い思いでがない。
おまけにその日以来、看護婦が好きになれないでいたし・・・。
別に看護婦が嫌いになったわけでなく、友人が亡くなったときに当たり前の事だが
彼女達が遺体に対して何の感情も表さないで、てきぱきと作業をこなしていく姿に
職業人としては素晴らしいと思うが女性としては、見れなくなってしまっていた。
実は、私はそれまでに看護婦と2度ほど交際していた事もあったが、職場の姿を
見る事はほとんどなかったので・・・それだけに受けた印象のギャップが大きかったのだ。
話が少し横道にそれてしまうけど、私がレースを始めた理由の一つに
その時の友人の死がある。
あれは忘れもしない1982年の10月10日の夜、10時頃だったと思う。
欽明路有料道路の自販機コーナーの前を走り去ったCBX1000と供に
あの世に飛び立った友人が私には憧れの先輩でもあった。
2輪に乗らせれば敵なしの速さと腕をもっていた友人でも公道では限界があった。
そんな事もあり私はサーキットへ走る場所を移していったのである。
また10月10日の命日は、その16年後に同じ病院で私の父の命日にもなってしまった。
二人の命日は偶然とはいえ私にとって忘れる事が出来ない日になってしまったわけだ。
で、私の入院も26日間の長期入院になったわけだが、最初の1週間ぐらいは
疲れもあってベッドで寝ていられる事が嬉しかった・・・が、1週間も過ぎた頃から
昼間に寝てしまうと夜が眠れなくなり夜、寝つけるまでの時間が苦痛になっていた。
それでも昼間にベッドで横になっているとウトウトとしてしまい気がつくと
寝てしまっていた。
半月も過ぎた頃、鎖骨の骨折だけだった私は自由に歩けるので昼間は病院の
すぐ近所にあった喫茶店に入り浸るようになっていた。
その喫茶店ではまっていたのが高橋留美子先生の「めぞん一刻」でした。
既に単行本になっていたので退院するまでの数日間で一気に読みきってしまった。
入院中、一番楽しかった事だったかもしれない。
次回からは、退院後のレース活動再開について
次回に続く
入院設備の整った整形外科は他にもあったのだけど両親の勧めもありこの病院に
行く事になったようだ。
ここの国病は以前、友人が亡くなった病院だったのであまり良い思いでがない。
おまけにその日以来、看護婦が好きになれないでいたし・・・。
別に看護婦が嫌いになったわけでなく、友人が亡くなったときに当たり前の事だが
彼女達が遺体に対して何の感情も表さないで、てきぱきと作業をこなしていく姿に
職業人としては素晴らしいと思うが女性としては、見れなくなってしまっていた。
実は、私はそれまでに看護婦と2度ほど交際していた事もあったが、職場の姿を
見る事はほとんどなかったので・・・それだけに受けた印象のギャップが大きかったのだ。
話が少し横道にそれてしまうけど、私がレースを始めた理由の一つに
その時の友人の死がある。
あれは忘れもしない1982年の10月10日の夜、10時頃だったと思う。
欽明路有料道路の自販機コーナーの前を走り去ったCBX1000と供に
あの世に飛び立った友人が私には憧れの先輩でもあった。
2輪に乗らせれば敵なしの速さと腕をもっていた友人でも公道では限界があった。
そんな事もあり私はサーキットへ走る場所を移していったのである。
また10月10日の命日は、その16年後に同じ病院で私の父の命日にもなってしまった。
二人の命日は偶然とはいえ私にとって忘れる事が出来ない日になってしまったわけだ。
で、私の入院も26日間の長期入院になったわけだが、最初の1週間ぐらいは
疲れもあってベッドで寝ていられる事が嬉しかった・・・が、1週間も過ぎた頃から
昼間に寝てしまうと夜が眠れなくなり夜、寝つけるまでの時間が苦痛になっていた。
それでも昼間にベッドで横になっているとウトウトとしてしまい気がつくと
寝てしまっていた。
半月も過ぎた頃、鎖骨の骨折だけだった私は自由に歩けるので昼間は病院の
すぐ近所にあった喫茶店に入り浸るようになっていた。
その喫茶店ではまっていたのが高橋留美子先生の「めぞん一刻」でした。
既に単行本になっていたので退院するまでの数日間で一気に読みきってしまった。
入院中、一番楽しかった事だったかもしれない。
次回からは、退院後のレース活動再開について
次回に続く