ペキニーズとDIY-GG日記

ビッキーとDIY大好きGG家族ブログ

第5部:出直し・・・その3(レース活動再開)

2008年01月06日 13時47分08秒 | 日々反省の日記
4時間耐久レースに向けてTT3用マシンを購入したもののレギュレーションの変更で燃料タンクをFRP製のタンクから純正のタンクに変更せざるをえなかった。
同時にシートもノーマルタンクに合わせた物を購入して取り付けることになるのでマシンを購入したショップに取り寄せてもらった。
そのシートの製造メーカーは2輪用のFRP製品を製造販売するショップで後に私が、ジュニアクラスの4時間耐久レースにエントリーした際のチームオーナーでもあった。
そのショップは現在でも活動しており、最近では「仮面ライダーTHE FIRST」でサイクロン号のカウルを製作担当したことでも有名である。

マシンも仕上がり当面、出走するサーキットを鈴鹿と西日本サーキットにしぼり、先ず6月に行われる鈴鹿の200kmレースに併催されるノービスTT3クラスにエントリーしていた。
レース開催日まで鈴鹿サーキットで何度か練習走行をするのだが、当時は空前のレースブームだったこともあり練習走行も予約制になっていた。

その予約も取り難い状況で満足に練習もできず、レース当日がやってきた。
レース前日からトランポ(マシンを運ぶトランスポーター)にマシンや用具を一式積み込み、既に以前いたチームを離れていたので大阪に就職で出てきていた弟にヘルパーを頼んであったので弟にも同伴してもらいサーキットに泊り込んでいた。
当日は、先ず受付を済ませ次にマシンの車検を受けて車検が通るとあとは予選の順番がくるまで待機するのだが、決勝の出走台数は42台(多分)に対し予選出走台数は200台前後集まってくるので予選を通過するだけでも大変である。
チームの中にはノービスクラスでもワークス並みのチームも幾つかあり、実際まったくのプライベーターが決勝に残るには、よほど才能があるライダーでもなければ困難な時代だった。
もっとも才能のあるライダーは既に有力チームから声が掛かっていたと思うが・・・

その頃は私も自分の才能を少しは信じていたので練習さえしっかり出来れば・・・と思っていたわけで、その後の4年間をレースに費やしていた。
ただTT3クラスを勝つには、有力なチームに入るかよほどの才能がなければ無理と言っても過言ではなかった・・・が、その事実を受け入れられるには少し時間が掛かってしまった。

結果は、あえなく予選落ち・・・

次回に続く

第5部:出直し・・・その2(再度大阪へ)

2008年01月04日 18時00分35秒 | 日々反省の日記
1984年2月末
資金もある程度、貯まってきたのでアルバイトも辞めて大阪へ再度出て行くための準備に取り掛かかっていました。
大阪での働き口は、実際に大阪に戻ってから探すことにしてたので若干の不安もあったが「まあ、なんとかなるだろう」という気楽な考えで3月には、再びタウンエースに荷物を積み込み岩国をあとにした。
その当時は、中国縦貫道もまだ開通していなかったので12時間近く掛けて下道を走り大阪へ戻る事に。
ただ車の運転自体は平気なのだが長距離運転で眠たくなる事だけが辛かったのを今でも憶えている。
大阪へ戻ると確保してあった松原市の借家へ戻り、先ず仕事を探すことから始めた。
とりあえず就職情報誌を買い漁り条件の良いところを探したが見つからず、最終的には人材派遣会社の派遣社員になる事にきめました。
週休2日条件と時給の高さが決めてになり、派遣先は松下電器のグループ会社で現在の事業を起こすきっかけになる会社だった。
借家から働き先のある門真市までは電車を3回も乗り換えて1時間以上かけて通う事になり、その通勤時間が辛くて門真市で借家を探し早速引越し、それと同時にレース活動を再会する為の準備も始めていたのですが、当面の目標を8時間耐久レースの前哨戦でノービスクラスの祭典でもある4時間耐久レースに置いていたので出場クラスでもあるTT3(フォーミュラ3)用のマシンを探していたときに以前の働き先のショップオーナーから紹介してもらった別のショップでマシンを購入しました。
そのマシンは、ホンダのVF400をTT3用に改造されたマシンでエンジンはハイカムとマフラーにキャブセッティング程度だったのですが、足回りはTZ350用の物を移植してあり燃料タンクもシートもオリジナルなFRP製でカウルはハーフタイプのもので見た目は完全なレーサーでした・・・が、しかしその年のTT3マシンのレギュレーションが変更されて燃料タンクはFRP製が禁止になるとは、そのときは気付きもしなかった・・・(T T)

次回からは暫くの間、レース活動に重点をおき話を続けていこうと思っています。

次回に続く

第5部:出直し・・・その1(岩国に帰る)

2008年01月04日 16時25分30秒 | 日々反省の日記
3ヶ月ちょっとで岩国(山口県)に一旦帰る決意をした私ですが、その間に結局鈴鹿での
レースは一度も出ずじまいだった。
ただ一度、西日本サーキットに遠征した事があります。
このときは、AR125でプロダクションクラスと同居していた同僚に売ってもらったMT125という市販レーサー(現在のRS125の前身モデル)でGP125クラスのWエントリー。
結果は、3位と4位だったと思います。
その2台のマシンも岩国に帰る前には売り払っていました。
岩国に帰る際も借家の家賃は同僚と折半だったので自分の分は払い続けて再度大阪に戻ってくる際の住居として確保しておいた。

1983年の12月の雪の降る日だったと思うのですが、当時トランスポーターに使用していたタウンエースに大阪に持ってきていたGPz750と荷物を載せ大阪をあとにした。
岩国に戻ると先ず失業保険の手続きをして(実は住所を未だ大阪に移していなかった)
資金稼ぎの為、アルバイト先を探し所有していたGPz750も購入したバイク屋に依頼して売却しました。
アルバイト先は地元でなく広島で見つけて毎日30分以上かけて通う事にしましたが、作業内容はコンビニエンスストア「ポプラ」の各種弁当を詰めて配送する作業で夕方から早朝にかけての深夜のアルバイトでした。
正月は昼間も働いた事を今でも憶えていますが、一番憶えている事はアルバイト先の社員の人に自宅の山口から広島の寮に荷物を運ぶ手伝いをして欲しいと頼まれて行った時のこと。
その人は以前、女子プロレスラーのマネージャーをしていたと言っていたのですが、それもかなり有名だった「ビューティ・ペア」の一人。
ただ真実かどうかは定かでないのですが、本人は自慢げに一緒に写った写真を私に見せてくれましたけど・・・。

そんな生活を1984年の2月末まで続け再度、大阪へ向かう準備にかかっていました。

次回に続く

第4部:大阪へ・・・その5(同僚達との共同生活)

2008年01月02日 22時06分18秒 | 日々反省の日記
この頃、同僚の一人と一緒に借家を借りて共同生活をしていたのですが、
その同僚は数年後に世界GPを走るほどのライダーになりました。
世界GPで表彰台にも何度か立ちました。でもその当時は、それほど早い選手では
なかったのですが・・・

共同生活では、食事の時にもう一人の同僚も加わって
3人で食費と役割を分担していました。
私が食事係りでもう一人が片付け係り、あともう一人が・・・思い出せない(T T)

そんな生活も3ヶ月ちょっとで終わる事になります。
ショップの経営状態が悪くなり人員削減を余儀なくされていました。
私は自ら退職を申し出て暫く田舎に帰ることを決意していました。

次回に続く