ヤマザキマザック美術館で開かれている浅井忠の展覧会にちなみ、タイトルの講演会があり聴講してきました。(タイトル・本文中の大学名は京都工芸繊維大学がフル表記ですが、短縮で表記しています。)
講師:京都工繊大美術工芸資料館館長 並木誠士氏
前半は資料館の「資料」がどのように収集され活用されたか、浅井忠がどのようにかかわったかについて収蔵品の説明がありました。
要約すれば学校設立以前に教授陣に予定された人たちが、パリ万博などに派遣されているときに現地で収集して、実際に教材として使ったものがもとになっているということのようです。実際教材として持ち運びがしやすいように、掛け軸のように表装していたものもあったとか。
資料館のパンフをいただきましたが、どんなものが収集されていたか大よそ判ります。(表示は一部のみです。)同資料館では54,000点に及ぶコレクションは、順次企画展を催して一般公開しています。
後半では、浅井忠らの授業内容が当時の京都工芸界に、どれくらい影響を及ぼしていたかという内容でした。残念ながら伝統を重きに置く工芸会全体には受け入れられなかったようで、いわゆる琳派などの長い伝統は強かった?ようです。
決定的なことは浅井忠が開学して数年後に51歳で亡くなってしまうということが強く影響したようです。浅井忠没後は建築教育にシフトしていったとのことです。浅井忠が長生きしておれば、また違った展開をしていたのかも知れません。