家持が兵部省の役人として難波で防人たちの歌を献上させた時、記録した者は防人たちに朗詠させたものを書き取ったのだろうか。防人たちが文字を知っていたとは考えにくいから書いて出させたのではないだろう。一人一人、防人たちが記録者の前で朗詠する場面を想像すると興味深い。中には威勢のいい覚悟を表明するものもあったろう。しかし多くは肉親との突然の別れを悲しむ歌を詠んでいる。それを詠むもの、書き取るもの、どんな感慨を持ったのだろうか。
家持は下級官吏が聞き取って上進した歌をすべて採録せず、巧拙を吟味して拙劣を捨てたというが、これは表現された内容でなく(表現の)形式の巧拙を判断基準としたということだろうか。このとき捨てられた歌は海の藻屑のように永遠に失われて、我々にはもはや見るすべはない。歌を作った無名の防人の命が永遠に失われたように(もっとも、ひょっくり捨てられた木簡が難波の古い遺跡から出てくることが絶対ないわけではないだろうが)。
兵部少輔、今なら防衛副大臣か政務官にでも当たる家持が、防人の妻や父母との別れを悲しむ歌を採録し、さらには防人の身になり代わって、家族の身を案じ、無事に家族の元に帰ることを祈る歌を詠んだということは、どういうことだろうか。家持は兵部省の高官である。尚武という考えからすると勇ましい威勢のいい歌ばかり残してもいいはずではないだろうか。文弱、女々しいと言われても仕方ないのではないか。まして大伴氏は建国神話以来の武門の家である。万葉集を政治的に利用しようと考える者からは困ったものだという声が聞こえてきそうだ。
しかし、父母や妻との別れを悲しみ、長く危険な旅を危ぶみ、無事に任期を終えて故郷に帰れることを願うのは人間の自然な情である。その自然な情を偽らずに表明し、偽らずに受け入れ、偽らずに共感するのが人間の姿であると、家持を始め万葉人は考えたのかもしれない。
醜の身盾とか海行かばとか大君のへにこそ死なめとか勇ましい部分ばかり取り上げられ、かつて近代の超克や国民精神総動員にも利用された万葉集だが、トータルで見るとこうした人間味あふれるところもある。(続く)