芦原やすえの気まぐれ便り

原発のない町つくりなど、芦原やすえの日々の活動をご紹介します。

今日は「障がい者差別解消条例を作ろう」講演会

2015-08-30 23:00:43 | 障がい
条例は差別をなくし、問題を解決するための大切なツール


 今日は安保法案廃案を求める集会があり、国会周辺では12万人もの人たちが集まったとのことでした。関連集会は全国でも開催され、ここ松江市でも駅前で集会とデモが行われました。国会に駆けつけたいと思うのはもちろんのこと、松江での集会にも参加したいのはやまやまでしたが、この大規模集会が決まる前に、自ら軽度の障がいがあるAさんが企画した標記の講演会をすでに進めていました。心身ともに二つも三つもあればいいのに!と思ったのですが、障がい者差別の問題も日ごろから目にしていて、私としては片隅に追いやることはできません。ほかにも、障がい者関係のフオーラムまで重なっていて、”これは、参加者は期待できないかも!”と思いながらも、Aさんの企画を実行することにしました。
 それでも、ふたを開けたら35人の方が参加してくださいました。36人の部屋でしたからギリギリの状態でした。また、当事者の方々、そして松江市障がい福祉課の皆さんにも来ていただき、感謝!感謝!でした。安保法案反対集会に参加された皆様。お疲れさまでした。心の片隅で参加させていただきましたので、あしからず!

 さて、障がい者差別の問題ですが、2006年12月13日、「障害のある人の権利に関する条約」が国連総会で採択されています。この時、世界中の障がい者から寄せられた「私たちを抜きに私たちのことを決めないで!」という合言葉のもと、障がい者の意見が反映されました。採択となった時には万雷の拍手が鳴りやまなかったそうです。
 今日、来ていただいた松波めぐみさんは(公財)世界人権問題研究センターの専任研究員・大阪市立大学ほか非常勤講師、日本自立生活センターにて登録介助者という肩書の方です。「障害者権利条約の批准と完全実施をめざす京都実行委員会」事務局員という立場で、京都府の条例づくりに携わってこられました。松波さんのお話を少し紹介しながらこの問題に触れてみます。
 「障害のある人の権利に関する条約」は、日本では2014年にようやく批准され、国内法の整備が進められています。権利条約の特徴は、*原則;インクルージョン(誰も排除されない)、他の者との平等 *「誰とどこで生活するか」は本人が決める。地域で生活することは権利。 *インクルーシブ教育(ともに学び、育つ) *「手話は言語」と明記。 *コミュニケーションや「情報へのアクセス」も保障されるべき権利 *女性障害者への複合差別 に取り組む必要性。 *障害を理由とした差別の禁止。その中でも「合理的配慮」について定めたことです。国内法の整備の一つとして、2013年6月には、障害者差別解消法が成立しました。この法律は二つの類型の差別を禁止しています。一つは、不当な差別的取扱い(「車いすの人は、入店お断り」「見えない方には、部屋を貸せません」など)二つ目は、「合理的配慮を提供しないこと」の禁止です。ただし、どうしても無理な場合は除かれます。(車いすの人が建物に入るためのスロープ設置を求めたが、応じない。聴覚障害の人がお店で、商品の説明を書いてほしいと求めたが拒む、等) 
 「合理的配慮」とは、個別の場面で、社会的障壁のため権利を侵害されている人が、(こうしてほしいと)意思を表明することをきっかけとして、(対話をしながら)社会環境の側を変更・調整すること」を指します。とりわけ、障害者からの意思表明を(やむをえない理由もなく)拒絶することは、「差別」であると明記したことは重要な一歩です。

 この法律が制定されたことを受け、松江市でも、今年度から「障がい者差別解消条例」作りが始まっています。「私たちを抜きに私たちのことを決めないで!」という合言葉を基本とすれば、当然、この策定委員に障がい当事者の皆さんが入っていなければならないはずです。当初、私は策定委員に当事者を入れるよう求めました。しかし、松江市は支援をする側の団体代表と身体障がい者の団体代表だけを選定していました。一口で「障がい」といっても多様な障がいがあり、それぞれに抱えている問題も多様です。そういう意味でも、たった一人はあまりにも不十分です。そこで、Aさんを推薦し、なんとか公募枠で入っていただくことになりました。
 松江市は、この条例策定の会議をわずか4回で済ませ、市が作ってきた案を委員からの意見を少々反映させて、シャンシャンで終わりたいのだと思います。元の国による法律があるからには、似通った条例にならざるを得ない部分があるにしても、そのプロセスでどれだけ障がい当事者の意見を聞き、反映させたかが大きく問われると思います。市はヒアリングをすると言っていますが、もっとたくさんの障がい当事者の皆さんにこの条例つくりを知っていただき、自らの声をあげていただきたいと思うのです。京都の条例づくりには、松波さんが事務局員を務める「障害者権利条約の批准と完全実施をめざす京都実行委員会」から14人(33人のうち)の委員が入り、さらに知的障害・精神障害の当事者、女性障がい者を入れるように交渉し、実現させています。加えて、府民にパブリックコメントを呼び掛け、パブリックコメントの書き方までレクチャーしたそうです。その結果、898通ものパブリックコメントが寄せられ、その多くが女性障がい者の問題を挙げていたとのことです。そして、ついに基本理念の中で、「障害のある女性」の「複合的な困難」があることが明記されました。
 京都の皆さんの取り組みに触発され、松江市の条例策定の過程へ、障がい当事者の意見を反映させるための市民の側の取り組みを進めていくことができたらと思っています。条例策定委員でもあるAさんを通して、松江市にバンバンと提起していきたいですね。


 

発達障がいは多様な個性? ~多様性発達というとらえ方

2015-02-28 21:54:55 | 障がい
 今日は、NPO法人YCスタジオ主催で児童精神科医の高岡健さんをお招きしての後援会でした。
高岡さんは、岐阜赤十字病院精神科部長などを経て、現在は岐阜大学医学部精神病理学分野准教授で、自閉症スペクトラムの臨床研究や少年事件の精神鑑定、不登校や引きこもりの臨床社会的研究などに取り組んでいる方です。以前から、松江には不登校問題で講演にいらっしゃっていて、何度かお話を聞いているのですが、発達障がいについて聞くのは初めてでした。
 
 高岡さんは、まず「発達障がいとは何か?から共通認識を持ってもらいたい」と話し始められました。この言葉は1970年代から使われ始めたのだそうです。1960年代のアメリカでは黒人の方々が白人と同じ権利を持つための公民権運動が高まっていたのですが、障がいのある人たちも同じように社会の中でそのままのびのびと生きていくことを求め始めたということです。発達障がいとは、その中で使われ始めたと言います。そして、これは私も初めて知ったのですが、身体、知的障がいを「発達障がい」と呼んだのだそうです。70年代に入ってから、てんかんなども含めて呼ばれるようになり、その範囲は拡大していったとのことでした。最近は、知的障がいと発達障がいを区別しているのですが、高岡さんは「これは間違っている」と言われます。なぜなら、自閉症と知的を併せ持っている人はいっぱいいることを挙げられます。そして、これらを自閉症スペクトラム(連続)と呼び、凡人とこれら障がいとも境目ははっきりせず連続しているのだとのことです。これは、私も納得します。人を見て障がいを診断するときに、その判断基準となる物差しには「ある範囲に当てはまれば〇〇障がい」というメモリがあるものの、そのメモリに納まらない人たちがたくさんいるのが現実です。実際に、医師から障がい名を付けてもらっている方を見ていて、本当にそうなのか?と首をかしげたくなる場合があるのです。「普通」(高岡さんは凡人と呼ぶ)と言ってもかなり範囲が広く、限りなくボーダーに近い場合もあり、いったいどこで線引きするのかな?と思うのです。私は、全員が線上にというより、三次元的につながりあっているように思うのです。
 ここで、高岡さんは「定型発達」と「非定型発達」という言葉を使って説明されます。これは当事者が作った言葉で、凡人は定型発達していて、自閉症スペクトラムの人は非定型発達しているのだそうです。自閉症スペクトラムの人は「①人と目が合わないなど対人関係が困難②目からの情報処理能力にたける一方で、言葉を文字通りにしか受け止めることができない③物を置く場所や順番などにこだわりが強い」という3つの特徴が挙げられるのですが、これ、すべて否定的な表現です。高岡さんはこれらを次のような見方をするウエブサイトがあると紹介されました。①は「対人関係における独特のスキルを持つ」、②は「自閉症スペクトラム言語を流暢にしゃべる」などです。なるほど、当事者も落ち込まないで済みますよね!また、こういうふうに言語や対人関係とみていくと、「さて、これは障がいと言っていいのか?」との疑問がわき出てきます。そこで、高岡さんは「違う文化ではないか?」とみて、文化多様性と呼ぶと言われます。そして、これを個性と呼ぶとそこでおしまいになってしまう。文化の違いであれば、そこから交流が発生すると!
 こういった障がいについては、なるほど、文化の違いとみてもいいのかもしれませんね。身体的な障がいについては、私は「個性」と言ったほうがピンと来るのですが!高岡さんは、この発達障がいについて、巷では「脳の仕組みが違う」などと言われるが、誰も証明した人がいない。本当はどうなのか?ということについては、やはり当事者に聞くのが一番だと言われます。高岡さんが紹介されたのは、ドラ・ウイリアム(?)という人の自伝でした。そこに書かれているのは、「生まれた時は、周りと自分が区別できていないで一体となっている。発達してくると分離してくる。周りを意識すると自分がなくなってくるので、周りを無視しないと生きていけない。そして、その内、他社と折り合うようになってくる。これが一番つまらなく、自分と周りの区別がつかない状態が一番いい」といった内容なのだそうです。そして、自閉症の人は、この自分と他者の区別がつかない状態が長く続くのだそうです。高岡さんは、そこを人間発達の原点ではないかと言われます。自閉症の方からは、「今必要なのは、定型発達の不思議を研究することではないか」と言われているのだとか。
 どちらに立って考えるかによって、見え方はまるで違うものです。以前、こんな劇がありました。車いすで生活する人をノーマルとする社会では、ドアや棚などの高さは極端に低くてもよく、それが普通なのです。そんな社会では、くるま椅子を使わない人はちょっと不便なのです。その際、障がい者とみなされるのは、どちらなのでしょうか?こんなことを考えていると、なんだか混沌としてきます。要は、どんな人でもそれぞれ違う多様なあり方を認め合うことが必要なのではないかと思います。
 高岡さんの今日のお話は、障がいに対する考えかたをまた一つ改めさせられたような気がします。
 
 

発達障がいは多様な個性?多様性発達というとらえ方

2015-02-21 01:43:55 | 障がい
高岡 健 講演会案内


 近年、発達障がいという概念が広く用いられ、子どもたちは保育園から観察され、早期発見、早期支援、そして投薬が始まります。学校では少しでも手がかかれば養護学校へと、子どもたちにとっての通常の生活圏から分離されることに!
 でも、この子たちは本当に異常なのでしょうか?いつだったか覚えていませんが、このような子供たちが他の子どもたちと自然の中で過ごしているときには何も問題が起きず、都市の中で過ごすと問題が生じるとの新聞記事を読んだことがあります。環境が違うと問題が生じるなら、環境の方に問題(障がい)があるからに違いありません。昔は、少々手のかかる子たちも地域の中で支えられながら、ともに暮らしてきました。現代は、「普通」の範疇が本当に狭くなっているように感じます。そもそも、100人いれば100様の個性があり、一人として同じ人間などいません。人として成長する際にも、皆、多様なのではないでしょうか。そこをわざわざ「障がい」と名付ける必要があるのか、私には疑問に思うところです。日常生活を送る上で支援が必要なら、障がいのラベルを張らなくても支援が受けられるようにすればいいと思うのです。
 さて、直近になるのですが、NPO法人YCスタジオでは、児童精神科医の高岡健さんをお招きし、「発達障がいは多様な個性?多様性発達というとらえ方」と題して講演会を開催されます。ぜひ、お聞き下さい。

2月28日(土)14:30~17:30
松江市市民活動センター2F 研修室
松江市白潟本町43
参加費 無料