調べものがあって、北堀江にある大阪市立中央図書館へ行く。休日なので来館者が多く大半の席が埋まっている。だが、空間設計がいいのか混雑感はない。4人掛けデスクに座り(もちろんほかの3席は座っている、年配者2名、大学生1名)、ゆったりと資料を読み、書き物をすることができた。途中、珈琲タイムで屋外に出たとき、敷地の片隅に顕彰碑を見つけた。
木村蒹葭堂……この人物は、大阪在住の人なら一度は耳にした名前かもしれない。江戸中期の文人であり蒐集家であり、本草学者であり博学者である。元々家業は酒造業であるが、酒造株を他人に賃貸して生活の糧を得ていた。年に三十両の収入だったというから中流の下の方の暮らしだった。
だがこの多趣多才な男、妻と妾と同居しているのである。本妻は結構嫉妬深かったようだが、それでも妻妾同居をやめない。三人で長崎旅行などもおこなったという。このほかに娘が一人、下女一人の五人暮らしだったというが、女性ばかりのなかに住んでいたということだ。なかなかの人物である。
27歳で『山海名産図会』を著し、その後さまざまなジャンルの書を上梓する。『銅器由来私記』『桜譜』『禽譜』『貝譜』『秘物産品目』『本草綱目解』等々。以前、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で、”イッカク”というふしぎなクジラを特集していたが、ここに登場する日本の古文書は、蒹葭堂が編纂した『一角纂考』だった。また、文学にも精通していて、漢詩を書き書画もうまかったという。語学ではオランダ語やラテン語も解したそうだ。
諸国から来る者に蒹葭堂の名前は知れ渡っていて多くの来客があった。本人はそれに困惑し、「人気があるのも困ったもんや」と言ったところ、朴訥だが口が悪い友人に、「お前に人気があるんやなく、お前が持っている物に人は寄って来るんだ」と言われて、大いに恥じた……と書かれている。
蒹葭堂とは彼の書斎の名称である。ケンカ早い人だったわけではないようだ。同時代の友人には、司馬江漢、上田秋成、頼山陽、本居宣長、伊藤若冲、与謝蕪村、円山応挙、平賀源内などがいて、1700年代後半という時期に町人文化、都市文化が花開いたかが分かる。
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