叔母から聞いた話なのだが。
昭和37年頃のこと、大阪本町に本社を置く中堅の商事会社の28歳と36歳の男性社員が、打合せのため新潟へ行くことになった。商材を社用車のトヨタ・パブリカに積んで、会社を出たのは午前7時のことだった。
当時は阪神高速はおろか名神高速道路も開通していない時代。翌年7月にようやく尼崎と栗東間が開通するのだが。
2人は国道を東に向かって走り、尾張名古屋に到着した。現在なら北陸自動車道があるから米原付近で北上する。しかし当時は地道しかなかった。それに2人の男は山が好きで、会社の仲間と日本アルプスのいくつかの山々に登っていた。
「長野を抜けて新潟に行くか」
そんなことを言い合って名古屋から木曽路に入った。
季節は晩秋、色づき始めた山々を眺めながらパブリカは軽快に走っていく。
山あいの道を登りきると台地のようになった塩尻の町に着いた。2人はドライブインで親子丼とうどんを食べた。
「いよいよだな」
それは、2人がいとおしむ北アルプスの山容が車窓から眺められるという愉しみの気持ちを表す言葉だった。
どの経路を通って新潟県へ向かったのか詳細は分からない。松本から安曇野へ抜けていくとすれば、左手に北アルプスの連峰が眺められるはずである。2人はかつて登った山々、まだ足を踏み入れたことのない山々の話をしながら車を走らせていった。そして、安曇野を超えて千曲から長野市へ抜け、そこから目的地である新潟を目指した。国道でいくなら飯山から、現在北陸新幹線が走っている新井市(現妙高市)を抜け直江津に抜けるのが最短ルートであろう。しかし2人は、思いのほか順調に走ってきたので、ふと横道に進んでみようということになった。
「先輩、野沢温泉でひとっ風呂浴びますか?」
そんな冗談を言いながら、車は山道を登っていく。
「おお、いいね」
開け放たれた窓の外は錦秋である。
長野市でガソリンは満タンにしてきたし、まだ日暮れまでには時間がある。進んでいくと舗装道路から地道の細い道へと変わっていった。
「狭くなってきよりましたなあ」
「大丈夫や。この道はまもなく峠を越える。そしたら、小さな町があるみたいや」
先輩の男は道路地図を見ながら言う。
しかし、道は緩やかな傾斜が続き、パブリカは粘り強く坂道を登っていく。
秋の日はつるべ落とし。光が橙色に変わってきた。しかし道はまだ登っている。
「峠に出ませんなぁ」
「うーん。しかし、畑もあることだし、もうすぐ町か村に出るやろ。道を聞いてみるわ」
道の周囲には野菜畑が広がっていて、茄子やさやえんどう、瓜などが実っている様子が見える。
「百姓が仕事しておらんかな」
先輩は見渡すが誰もいない。
「ま、そのうち出会うでしょ」
運転する後輩が笑う。
しばらく走ったが、やはり道は上っている。緩やかな坂道のままである。
「あの切り通しを超えたら峠の頂上かもしれんな」
先輩が前方を見て言った時だった。後輩が大きな声を上げた。
「せ、先輩、ガソリンがありません!」
「さっき、長野で満タンにしたばっかりやんか」
「でも見てください、メーターがエンプティーのすぐ上まできてます!」
先輩がのぞき込むと確かにガソリンの量を示す針は下のほうへさがっている。
「そんなに走ったか?」
「いえ、まだ2時間くらいです」
「そうやんなぁ。メーターがおかしなったん違うか?」
そう言った瞬間、車はぷすぷすと音を立てて停車してしまった。
「なんや、止まってしもたがな」
先輩はそういうとドアを開けて外に出た。後輩も降りてきて、ガソリンがどこからか漏れていないか車の下を覗き込んだりした。だんだん日が傾いてきてはいるが、周囲の風景は見えた。あいかわらず野菜の畑が広がっていて、茄子やえんどう、瓜が秋の夕風に揺れている。
「お、きゅうりがあるぞ」
先輩が畑に下りていき、きゅうりを手に取った。
「おい、見てみろこのきゅうり。巨大なきゅうりだぞ」
先輩が手にしたきゅうりはふつうの2倍、いやそれ以上の大きな大きなきゅうりだった。
「こんなきゅうり、見たことないな。取り忘れて、そのままでこうなってしもたんかな」
と、もぎ取った。
「先輩、勝手に取ったりなんかしたらあきまへんやん。お百姓さんに怒られまっせ~」
「一本くらいええやろ。見つかったら金を払うがな」
と大笑いして先輩はきゅうりに齧りついた。
「うまいわ、みずみずしいでこのきゅうり。わし、きゅうり大好物やねん」
「先輩、ぼく、あの峠の向こうにある村までちょっと歩いて行ってきますわ。ガソリン、ちょっと分けてもらえるかもしれんし」
「おお、わしはここで待ってるわ。車が通りすぎたら止めるわ」
そういうことになり、後輩の男は坂道を峠の方向へ歩き始めた。
先輩は車のボンネットにもたれてきゅうりを食べ続けた。それにしてもおいしいきゅうりである。育ちすぎたきゅうりは大味でおいしくないのがふつうだが、そのきゅうりは水気をたっぷりと含んでいて、歯ごたえもよく、甘みもあってどこかなつかしい味がした。
周囲はだんだんと闇の量が増えてきて、切り通しから差し込む夕陽が畑を照らしている程度になり、風も冷たくなってきた。きゅうりを食べ終えた先輩は、ふと風の中に、風の音とはちがう別の音を聞いた。
ヒューロロヒューロ ヒューロロヒューロ……
「なんの音かな?」
先輩は空の上のほうを見上げたが、音の正体はわからない。すると、急にあたりの木々からカラスが一斉に飛び立つのが見えた。先輩はカラスの鳴き声にブルッと体を震わせた。そんなにたくさんのカラスが林の中にひそんでいるとは思ってもいなかったからだ。
「びっくりさせやがるで」
とひとり言をついてた先輩の耳に、今度は、
「んーーーーーーんーーーーー」
という低く長くつづく唸り声のようなものが届いてきた。しかもその唸り声は、一方の方向でなく、先輩のまわり全体から聞こえてくる。「んーーーーー」という声が先輩を中心軸にしてぐるぐると回転しているのだ。
「なんやなんや?」先輩はその変な唸り声に身をすくめたが、鳴りやみそうにない。
「んーーーーーんーーーーーんーーーーー」
先輩はすこし怖くなって、車の中へ入ろうとドアを開けようとしたとき、ふと見上げるとそこに、人間の背丈の倍以上もある黒いマント姿の大男が立っているのを見た。いや、立っているのではなかった。宙に浮かんでいるのだった。車の真上30センチくらいのところに大きな男がマントを広げて浮かんでいる。手には大きな鳥の羽のようなものを持ち、マントはひらひらと揺れ、そして、顔を見ると頭に木の枝や木の葉で作った鳥の巣のようなものをつけている。さらに、鼻がやたらと高くてとんがっていて、焼け焦げた木片のような形だった。
「うわぁ!」
先輩はドアに手をかけたままのけぞった。
するとその大男は先輩の顔の真ん前までグイッと寄ってきて、
「盗んだな」
と不思議な匂いのする息を吹きかけて言った。
先輩は身動きできなくなり、歯を食いしばっていると、大男はまた、
「盗んだな」
と言う。
先輩はなんのことだかわからず、大男の息の匂いが、昔かいだロウソクの匂いに似ていると思った。村の端にあった誰もいないお寺に夏休みの午後に遊びにいったとき、まだ少年だった先輩は、誰もないはずの閉め切った寺の本堂で、10本以上のロウソクがゆらゆらと火をともしているのに遭遇したのだった。誰がともしたともわからないロウソクからは、麦を焦がしたときのような匂いがしていた。25年以上も前、昭和15年の夏の体験を思い出がよみがえったのである。
だが、そんな記憶の感傷にひたってはおられなかった。先輩はいきなり頭をこん棒で殴られたような衝撃を受けた。
「盗っ人にはこれじゃ!」
という声とともに。
そして車の横に、飛び上がるような恰好で先輩は倒れたのだった。なぜ飛び上がるように倒れたのがわかったのかというと、峠方向から少量のガソリンを入れた缶をぶらさげた後輩が、その様子を見ていたからだった。
「せんぱ~い!」
後輩は坂道を駆け下りて、車の横に倒れている先輩に駆け寄った。
「ううう……」
先頭部を押さえて先輩は目が3本の細い小枝になったような表情で痛がっていた。
「大丈夫ですか先輩!急に倒れて、どないなってますのん?!」
ようやく後輩の存在に気がついたのか、先輩は目を開けた。
「あーあーあー」
と車の上のほうを指さす。後輩が見ると、何もない。
しかし先輩は、
「あーあーあー」
と叫んで宙を指さす。
「なんですのんなんですのん?」
「て、て、て、てんぐや。天狗が出た!」
そう叫ぶと先輩は気を失ってしまった。
驚いた後輩は、先輩を抱え上げて車の後ろ座席に引きずりこんだ。そして、ガソリンをタンクに入れ、エンジンをかけるとパブリカはブルルンと震えて動くようになった。あたりはもうすっかり闇が舞い降りてきていて、ヘッドライトをつけた車は峠方向に走り出す。
「いったい、なにがあったんです先輩?」
声をかけても先輩はまだ夢魔の世界に沈没したままだ。峠を超えていく車。その姿を、高い木の上から、あの天狗と呼ばれた大男が見つめていた。
小さな村に到着した車は、軒先で片づけをしている農夫を見つけた。
「すんまへん、水を一杯いただけますか?」
後輩がいうと、農夫は「ああ」とひと言。井戸でタオルを濡らし、まだ起きない先輩の額に当てると、「うううん」と声を出して目を覚ました。
その姿を見ていた農夫が笑いながら、
「もしかして上の畑で天狗様にでも会った顔をしているな」
すると先輩が、
「天狗や天狗が出た!」
と大きな声をあげる。後輩が不思議に思って農夫に聞くと、
「あそこにあるのは天狗様の畑じゃ。そこでお前さん、野菜を盗んだな?」
と笑いながら言う。後輩が先輩の顔を見ると、
「うんうんうん」
とうなづいている。
「日が暮れかけたらわしらもあの道は通らん。あそこは天狗様の細道じゃ。連れていかれなかっただけよかったと思うべし」
と呵々と笑った。
その夜、2人は農夫の家に泊めてもらった。次の町までのガソリンもなかった。
囲炉裏端で夕食がふるまわれたが、先輩はきゅうりの漬物には断固として手を付けなかった。それどころか、以来ずっと先輩はきゅうりが食べられなくなった。後輩は気にせず、きゅうりが好きだ。
とここまで喋って、叔母は「話はこんだけ」と不機嫌そうな声を出した。
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