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3月1日
ほんとうの勇気
私は一般的に、ほんとうの勇気というものは一つの正義に立脚しないことには、また良心に顧みてこれが正しいと思わないことには、湧いてこないと思うのです。だから、勇気が足りないということは、何が正しいかということの認識が非常にあいまいであるところから出てきている姿ではないかという感じがします。
人びとがそれぞれに自問自答して何が正しいかということを考える。そして、この正しさは絶対譲れない、この正しさは通さなければいけないという確固とした信念を持つならば、そこから出てくる勇気は、たとえ気の弱い人であっても非常に力強いものとなる。そういうような感じを私は持っているのです。
【コラム】筆洗
2014年2月28日 東京新聞TOKYOWeb
▼ウクライナは、なぜウクライナなのか。その国名の由来には諸説あるようだが、「ウ」は場所や所属を表す言葉で、「クライ」は「端、辺境」の意味であるから「辺境なるところ」との説がある
▼確かにウクライナは境目にある。宗教でいえば、西のカトリックと東方正教の勢力圏の境界にあり、政治でいえば、欧州とロシアの綱引きの場である
▼淡水と海水が押しつ押されつ混じり合う汽水域は、豊かな魚介を育む場でもあるが、自然が猛威をふるえば、洪水や高潮に襲われやすい危険地帯でもある。今のウクライナは暴風雨の真っただ中にある
▼親ロシア派のヤヌコビッチ氏は、親欧派の猛抗議で大統領の座から追われた。焦るロシアは国境近くで軍事演習を始めた。ロシア人が大半を占める地域では、ウクライナからの独立を求める動きも出ている。親ロ派・親欧派の対立が、嫌欧・嫌ロ感情の応酬になっている。憎悪をあおり対話を拒む極端な民族主義の台頭が、国を引き裂きつつある
▼日本ではロシア料理としておなじみのボルシチは、ウクライナが発祥の地。食文化史研究家の岡田哲さんは『たべもの起源事典 世界編』(筑摩書房)で、<ボルシチの調理法の面白さは、多種多様な素材を炒めたり焼いたりして、最終的に一つの大鍋に収めること>と書いている
▼ウクライナ伝統の異文化融合の味は、蘇(よみがえ)るだろうか。
【社説】東京新聞TOKYOWeb
首相の「解釈改憲」 立憲主義を破壊する
2014年2月28日
安倍晋三首相は「解釈改憲」をし、閣議決定すると述べた。集団的自衛権の行使容認のためだ。政権が自由に解釈を改変するなら、憲法の破壊に等しい。
フランスの哲学者モンテスキュー(一六八九~一七五五年)は、名高い「法の精神」の中で、こう記している。
「権力をもつ者がすべてそれを濫用しがちだということは、永遠の経験の示すところである」
権力とはそのような性質を持つため、非行をさせないようにあらかじめ憲法という「鎖」で縛っておく必要がある。それを「立憲主義」という。
◆国家権力の制限が目的
政治も憲法が定める範囲内で行われなければならない。先進国の憲法は、どこも立憲主義の原則を採っている。
安倍首相はこの原則について、「王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と述べ続けている。明らかに近代立憲主義を無視している。
若手弁護士がバレンタインデーにチョコレートと故・芦部信喜東大名誉教授の「憲法」(岩波書店)を首相に郵送した。憲法学の教科書は「近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とする」と書いている。
とくに集団的自衛権の行使容認に踏み切る憲法解釈の首相発言が要注意だ。日本と密接な外国への武力攻撃を、日本が直接攻撃されていないのに、実力で阻止する権利のことだ。だが、平和主義を持つ憲法九条がこれを阻んできた。首相はこう語った。
「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける。審判を受けるのは法制局長官ではない、私だ」「(解釈改憲を)閣議決定し、国会で議論する」
◆自ら「鎖」を解くのか
仮に首相が何でも決められる責任者だと考えているなら、著しい議会軽視である。しかも、閣議決定は強い拘束力を持つ。
憲法という「鎖」で縛られている権力が、自ら縛りを解いて憲法解釈を変更するのか。しかも、選挙で国民の審判を仰げば、済むのか…。こんな論法がまかり通れば、時々の政権の考え方次第で、自由に憲法解釈を変えることができることになる。権力の乱用を防ぐ憲法を一般の法律と同じだと誤解している。やはり立憲主義の無視なのか。
憲法九条で許される自衛権は、自国を守るための必要最小限の範囲である。「集団的自衛権はこの範囲を超える」と、従来の政府は一貫した立場だった。
かつ、歴代の自民党内閣は解釈改憲という手法も否定してきた。集団的自衛権の憲法解釈を変更することに「自由にこれを変更するということができるような性質のものではない」(一九九六年)。「仮に集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方であれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ない」(八三年)などの政府答弁が裏付けている。
元内閣法制局長官の阪田雅裕氏は講演で「六十年間、風雪に耐え、磨き上げられてきた相当に厳しい解釈だ」と述べている。
集団的自衛権行使を認めると、海外で自衛隊が武力を行使できることになる。実質的に憲法九条は空文化し、憲法改正と同じ意味を持ってしまう。
阪田氏は解釈改憲の手法を「大変不当だ。法治国家の大原則に違反する」とも語っている。「そんなことが許されるなら立法府はいらない」「一内閣のよくわからない理屈で解釈変更するのは、法治国家の根幹にかかわる」という厳しい批判だ。
政権によって自由に憲法の読み方が変わるというのでは、最高法規が不安定になるではないか。解釈改憲は、憲法の枠を超越する、あざとい手段といえる。
「選挙で審判を受ける」という論理も飛躍している。選挙公約には、国民生活などにかかわる“フルコース”の政策メニューが掲げられる。
選挙で勝ったからといって、解釈改憲という重大問題について、首相にフリーハンドを与えるわけではない。
そもそも憲法九九条には「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ(う)」と定められている。首相は本来、現行憲法を尊重し、守らねばならない立場である。
◆多数者支配を許すな
“芦部憲法”はこうも書く。
<民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった立憲民主主義でなければならないのである>
多数者支配の政治が何でも勝手に決めてしまうならば、もはや非民主主義的である。
☆ 今日から3月です。花粉が飛んでいます。今日も皆様にとって良い一日で有りますように
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