精巧な、あまりにも精巧な作品集。こんなに完成度の高い短編を読んだことはありませんでした。
著者のボルヘスはアルゼンチンの人。リョサもそうだったけど、南米の作家の描くものはちょっと違う。
アメリカ、ヨーロッパから日本まで続くシルクロードから外れているからか、馴染みのない文体だったり構成だったりする。
その違いが新鮮で、ときに強烈で、面白く感じます。ボルヘスの後に、ガルシア・マルケスだったりリョサだったりが続く。その意味で、ボルヘスは大事な人。
この作品集は1944年に刊行されています。
代表的と言われている「円環の廃墟」と「バベルの図書館」、さらに個人的には一番良かった「隠された奇跡」をそれぞれ2回読みました。
読むたびに味わいが変わってくる。まるで万華鏡のよう。
東京国立博物館で観た国宝たちも思い出しました。特に、「硯箱」や「縫箔」。よくもこんなに細かい作業を根気強くやり通したものだ、と感心せずにはいられないものたち。
「円環の廃墟」は、あるとき、ある村外れの森に、廃墟と化した神殿があり、そこにある男がやってきた。男は眠ることが仕事だった。夢の中で、あるもう一人の男を細部まで思い描き、現実の世界に現すことが最大の目標。苦労し時間もかかったがなんとか成功。男は、その息子を大事に大事に育てた。ただ一つ、自分が幻に過ぎないことを知ることだけを恐れて。二人は別れ、それぞれの神殿で暮らしていたが、やがて大火に襲われた。男は、死ぬときがきたのだと悟って逃げずに火に包まれる。しかし、熱いどころか火は彼を撫でた。そして彼は知った。自分もまた誰かによって作られた幻の炎でしかなかったのだと。
「バベルの図書館」は、宇宙を図書館に見立てたもの。六角形に書棚は並べられ、階段でつながっていて、その階段の数は「永遠」。六角形の階層に所々司書としての人がいる。人々は、この図書館にある蔵書に全てが書かれていると信じて希望を持っている。だからこそなのか、自分のことを書いてある「弁明の書」がもてはやされたことがあり、人々はその書を求めて階段を駆け上がり、狭い回廊で争い、六角形の真ん中に空いている穴に落とされるものも出た。この本はイカサマだと決めつけて穴に放り込む人々もいた。しかし、本は無数にあるので、人々に処分されても影響はなく、また「弁明の書」に辿り着く人々もまたいない。結果的に、人々の孤独(個性)が浮き彫りになる。
「隠された奇跡」は、第二次世界大戦の最中、ドイツ兵に捕えられてしまったユダヤ人の話。彼は処刑を待つ身となってしまいます。彼には作りかけの戯曲がありました。処刑の日が近づき、その時間が来ます。彼は処刑場に立ち、ドイツ兵の銃にさらされている。そのとき、奇跡が起こる。彼以外の時間が止まり、彼の創作の自由が許される。彼は処刑の前の最も恐ろしい晩、闇のなかで神に語りかけていました。
「仮りにわたしがなんらかの意味で存在するものであり、仮りにわたしがあなたの反復と錯誤のひとつであるならば、わたしは『仇敵たち』の作者として存在するものです。わたしに根拠を与え、あなたに根拠を与える可能性を持ったこの戯曲を完成するためには、さらに一年が必要であります。あまたの世紀と時そのものの主であるあなたよ、それだけの日時をわたくしにお授けください」 (207ページ12行~208ページ1行)
時は許された。彼は完成させた。その瞬間、彼は殺されます。
人間は完璧なものではなく「錯誤」だとボルヘスはとらえる。錯誤であればこそ永遠性を宿す作品を残すことで己の生まれた意味を宇宙に刻もうとする。宇宙という図書館の蔵書の中の1冊の1ページの1文字として。それこそ、永遠に、何度も何度も読める作品を作った。「隠された奇跡」が、どれだけ多くの人たちを励ますだろうと思う。
私が描こうとしてる小説も、要するに「隠された奇跡」の私だったら編と言いましょうか。神に願ったものがそのまま叶えらるということで言えば、ロングランとなっている映画「ザ・ファースト・スラムダンク」で主人公リョータのライバル、沢北が「自分に足りない経験をください」と願い、敗北したことを思い出します。
人は神に比べれば不完全で、あたかも幻かと思うほどにあっという間に死んでしまう。それでも、人には人にできることができる力が備わっている。それを文芸作品で証明したのがボルヘスなのかもしれません。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス作/鼓直 訳/岩波文庫/1993
著者のボルヘスはアルゼンチンの人。リョサもそうだったけど、南米の作家の描くものはちょっと違う。
アメリカ、ヨーロッパから日本まで続くシルクロードから外れているからか、馴染みのない文体だったり構成だったりする。
その違いが新鮮で、ときに強烈で、面白く感じます。ボルヘスの後に、ガルシア・マルケスだったりリョサだったりが続く。その意味で、ボルヘスは大事な人。
この作品集は1944年に刊行されています。
代表的と言われている「円環の廃墟」と「バベルの図書館」、さらに個人的には一番良かった「隠された奇跡」をそれぞれ2回読みました。
読むたびに味わいが変わってくる。まるで万華鏡のよう。
東京国立博物館で観た国宝たちも思い出しました。特に、「硯箱」や「縫箔」。よくもこんなに細かい作業を根気強くやり通したものだ、と感心せずにはいられないものたち。
「円環の廃墟」は、あるとき、ある村外れの森に、廃墟と化した神殿があり、そこにある男がやってきた。男は眠ることが仕事だった。夢の中で、あるもう一人の男を細部まで思い描き、現実の世界に現すことが最大の目標。苦労し時間もかかったがなんとか成功。男は、その息子を大事に大事に育てた。ただ一つ、自分が幻に過ぎないことを知ることだけを恐れて。二人は別れ、それぞれの神殿で暮らしていたが、やがて大火に襲われた。男は、死ぬときがきたのだと悟って逃げずに火に包まれる。しかし、熱いどころか火は彼を撫でた。そして彼は知った。自分もまた誰かによって作られた幻の炎でしかなかったのだと。
「バベルの図書館」は、宇宙を図書館に見立てたもの。六角形に書棚は並べられ、階段でつながっていて、その階段の数は「永遠」。六角形の階層に所々司書としての人がいる。人々は、この図書館にある蔵書に全てが書かれていると信じて希望を持っている。だからこそなのか、自分のことを書いてある「弁明の書」がもてはやされたことがあり、人々はその書を求めて階段を駆け上がり、狭い回廊で争い、六角形の真ん中に空いている穴に落とされるものも出た。この本はイカサマだと決めつけて穴に放り込む人々もいた。しかし、本は無数にあるので、人々に処分されても影響はなく、また「弁明の書」に辿り着く人々もまたいない。結果的に、人々の孤独(個性)が浮き彫りになる。
「隠された奇跡」は、第二次世界大戦の最中、ドイツ兵に捕えられてしまったユダヤ人の話。彼は処刑を待つ身となってしまいます。彼には作りかけの戯曲がありました。処刑の日が近づき、その時間が来ます。彼は処刑場に立ち、ドイツ兵の銃にさらされている。そのとき、奇跡が起こる。彼以外の時間が止まり、彼の創作の自由が許される。彼は処刑の前の最も恐ろしい晩、闇のなかで神に語りかけていました。
「仮りにわたしがなんらかの意味で存在するものであり、仮りにわたしがあなたの反復と錯誤のひとつであるならば、わたしは『仇敵たち』の作者として存在するものです。わたしに根拠を与え、あなたに根拠を与える可能性を持ったこの戯曲を完成するためには、さらに一年が必要であります。あまたの世紀と時そのものの主であるあなたよ、それだけの日時をわたくしにお授けください」 (207ページ12行~208ページ1行)
時は許された。彼は完成させた。その瞬間、彼は殺されます。
人間は完璧なものではなく「錯誤」だとボルヘスはとらえる。錯誤であればこそ永遠性を宿す作品を残すことで己の生まれた意味を宇宙に刻もうとする。宇宙という図書館の蔵書の中の1冊の1ページの1文字として。それこそ、永遠に、何度も何度も読める作品を作った。「隠された奇跡」が、どれだけ多くの人たちを励ますだろうと思う。
私が描こうとしてる小説も、要するに「隠された奇跡」の私だったら編と言いましょうか。神に願ったものがそのまま叶えらるということで言えば、ロングランとなっている映画「ザ・ファースト・スラムダンク」で主人公リョータのライバル、沢北が「自分に足りない経験をください」と願い、敗北したことを思い出します。
人は神に比べれば不完全で、あたかも幻かと思うほどにあっという間に死んでしまう。それでも、人には人にできることができる力が備わっている。それを文芸作品で証明したのがボルヘスなのかもしれません。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス作/鼓直 訳/岩波文庫/1993
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