本屋には、新刊(新しく世に出される本)だけでなく、時事ネタやメディアで紹介などに絡めて、一冊でも多く本を売ろうと努力されている出版社からのFAXが日々山のように届いています。
納品のない日曜にまとめて見るようにしていますが、この本も「なんてタイムリーなんだろう」と思って仕入れた一冊。
発売は2013年ですが、文庫や新書は売れ期が後でやってくることも多い。
パラパラめくると、なんか他人事でない。帯に「男性ひとりに一冊」と書いてあるのも盛り過ぎとは思えなくなってきた。
なので買って読みました。
わかったのは、セクハラという名の女性の人生の無視、ないし抑圧がいかに根深いかということ。
アメリカのハリウッドでも「Me too」(性的いやがらせを受けた女性たちが私も私もと声を挙げ始めた運動)が広がって、あのモーガン・フリーマンさえ断罪された。
「ショーシャンクの空に」が好きなだけに、私もショックでした。
細かい事例研究を読むと、コミュニケーションの不全がある。男はほとんど地位と力を用いている。
それは誤った私的流用でしかないのですが、女性も合意していた、と男たちは一様に訴える、罪の意識などない。
なぜそうなってしまうのか?
若くて経験もない女性は、上司や先生や偉大な俳優など目上の人に対して、おそらく本能的ににっこりしてしまう。
おじさんたちは褒められることにも飢えている。
あるいは、おじさんたちは、自分自身と仕事を不自然に一体化してしまっている。
男としての自分を受け入れてくれる、と勘違いし、ときめきスイッチが入ってしまう。
最初は、本当にお互いを支え合う関係だったかもしれない。それでも、関係が冷え、女性の仕事が奪われるなどして訴えられたとき、男性が罪を認めないとセクハラは大ごとになっていく。
後手後手の対応、見飽きるほど見てきました。パワハラでも、地位と権力を乱用した弱いもの搾取であることに違いはありません。
そんな構造がわかったきて、ふと私が初めて書いた小説を思い出した。
それはもう19年前、大学三年の終わりだったか。
学生寮から出て一人暮らしして、一番チャレンジしたかったのが小説執筆だった。
一人の時間が欲しかったのだと、今ならわかる。
結果出来たのは、若い女性ピアニストが男性の先生ピアニストから性的暴行を受け、何も言えないまま自死するという暗い話。
そんな話、書きたいわけではなかった。私の場合、書いてみないとわからない。だから自分も衝撃を受けた。混乱した。恐ろしかった。
生活も乱れ、一人が孤立になってしまい、未来や社会への不安も高じ、鬱病へとつながっていく。
「演奏」というタイトルでした。何の演奏だったのか?
書いた私自身、長年の謎でした。
が、はっきりした。それはセクハラに命を持ってノーと訴えた女性の話だったのだと。
そう腑に落ちると、金子みすゞの自死も理解できる。
彼女もまた、自らの命と引き換えに、愛する子供を守り、暴力や抑圧に抗したのでした。
「演奏」は、純粋な人としての生きがい。なくてはならないもので、我を忘れられるゆえにその人を最も生かすもの。
それを奪おうとする者への必死の反抗。
私はそれが書きたかったのだし、大事にしたかった。
セクハラを訴える女性たちが求めているもの。それは私自身が大事にしているものと近いのかもしれない。
それが大事だとわからない人たちがけっこういる。権力や肩書や地位や名声や金に目がくらんでしまうのでしょうか。
何のために生きているのでしょうか?
みんな、間違いなく、死にます。
だからこそ今。誰かをおとしめている場合ではないのに。
この本を買ったのは、私の他にもう一人います。
一つの本屋で。私が仕入れたことで、私以外のもう一人は買った。
そんなささやかな試みの積み重ねしかないのでしょう。
社会や偏見や空気やその人が変わるということの実態は。
希望を持って。
牟田和恵著/集英社新書/2013
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