岩波文庫創刊90周年記念の「図書」で紹介されていて知った。
読み終えて、なんか現代でいうと、SNSを読んだような感じがした。
しかし、作品への批評は鋭い。
正直を何より大事にしていた人ならでは。
世の中を修羅場と心得、喧嘩も辞さない。「坊っちゃん」そのもののような過激さも秘めている。
それも正直ゆえ。自分に正直。
両親、家族問題で大変に苦労した。
親が老齢になってからできた子で、望まれない、恥ずかしい子とされ、すぐ養子に出されてしまう。
兄二人が相次いで死んでしまったので、後継ぎとして夏目家に引き取られる。
が、養父は金をせびり続ける。
義理の父も借金をこしらえ、漱石を頼りにした。
そんなことばっかり。大人の都合には心底怒っていたと思う。
だから胃を痛めてしまった。
だから友人関係、師弟関係ほど、気楽で、自由で、大事なものはなかった。
死ぬまで進歩するつもりで書き続けた。手紙を書くこと、もらうことが大好きだった。
亡くなる年の8月24日、若き作家(芥川龍之介と久米正雄)への手紙がやはりぐっと来たので紹介します。
「牛になることはどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老獪なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵(こし)らえてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
これから湯に入ります」(311頁15行-312頁8行)
私は「漱石」と呼んでいますが、この書簡集の署名はすべて本名の「金之助」です。
夏目金之助著/三好行雄編/岩波文庫/1990
これから湯に入ります」
仮に、世の中の誰もが漱石を否定したとしても(ほぼ、あり得ないことだけどね)、
彼のこういう文章に触れると、私は参ったなあという言葉にしか出てきません。
同時に、すぐ友田不二男の言葉と重なります。
蘇ります。
こういう人たちがかつて生きていたこと、そして後の世に残してくれたことに、感謝せずにはいられなくなります。
この言葉の背後にある態度が、言葉通り、私という人間を押してくれます。
自分に正直、まじめということは、自己一致に他なりません。
そして、自己一致が、途方もなく難しいことも、年を重ねるにつれて身に染みてきます。
最近は、小説を書いているとき、カウンセリング後の充実感と等しい感覚を味わいます。その自己の充実が、作品の土台なのだと。