高見順が、読みたいのです。
手に入るのは、日本図書センターから出ている『愛蔵版 死の淵より』のみ。それはもう持っています。
そして、この本を図書館で見つけました。
三木卓さんの解説によって(『わがキディ・ランド』で第1回高見順賞を受賞)、彼が私生児であったことを知る。永井荷風の父の弟の愛人の子。
血は争えない。しかし憎む。敵視する。そのことで、強く生きてきた。
詩を書き始めたとき、35歳を過ぎていた。父はもう死んでいた。戦争が始っていて、詩をばかにした詩が増えていた。
食道癌になって、また詩を書いた。危機のとき、彼は詩を書いた。生命が後退し、死の扉が開いた時。
生命が充実し、拡散する時、彼は小説を書いた。「二層にわたるかれ自身の心のうちを探索する装置」(三木卓さんの解説より)という理解は、とても納得がいく。詩と小説、どちらかが優れている、ということではぜんぜんない。状況によって、最もふさわしい表現法を使っただけのこと。根にあるものは変わらない。
短いものも長いものも、ぐっと来る、はっとするものはする。
生
手拭は
乾くそばから
濡らされる
手拭は
濡れるそばから
乾かんとする
まったくそうだと思った。たった6行で、「生」を、鮮明に写し出している。言葉をたくさん使えばいいというわけではなかった。
いつからか野に立って
いつからか野に立って
天の一角へ右の手を差しのべ
それだと叫ぶのが
この私のならわしとなったが
いつであったか野に立って
それだと私が叫ぶやいなや
私の指先からさっと爽やかに
私の苦しみが蒸発し去った
どんなに私は喜んだろう
しかしふと気がつくと
この私が透明だ
私は正に消失しかかっていた
思わず地面に両手をついて
生きたい生きたいと
手を通して必死に土から吸いあげたもので
私は私をみたして行った
その日からだ野に伏して
左の手はぴたりと地から離さず
右の手で遠い空を指さすのが
私の祈りの姿となった
ほんとに、どの言葉も、変えようがありません。はっきりと、それだと叫んだ私の喜びが見える。ふと気がつくと、透明になっていた自分にぎょっとして、思わず、両手を地面につく。それから、右で叫びつつ、左は根を下ろしている。この姿、天童荒太の『悼む人』が浮かんだのですが、僕もまた、地に這って草花を写すことが止められない。それでいてもう一方では、未知の世界を求めて止まない。僕もまた『樹木派』(高見順の第1詩集)です。
波
嵐が来た 窓の外に
嵐の木々が 怒涛のようだ
そうだ 木々の葉は 地上の波なのだ
波が海の葉であるように
おお 波の葉よ
木を育てる者が葉であるように
海を育てる者は波なのだ
嵐が迫る 窓の中にも
そうだ 海は常に 嵐の中にいるのだ
人が常に 嵐の中にいるように
おお 嵐の揺れる葉よ
常に苦しんでいる波よ
おお 人間の中にもある葉よ波よ
海を育てる者は波であるように
人間を育てる者は
人間の中の波なのだ
心という字の形を、トイレで(仏教伝道協会からもらった日めくりカレンダーがぶら下がっている)、じっと見ていると、波に見えてくるのです。見えない底から盛り上がり、先端が切れて吹き飛び、散っている。「人間を育てるのは波なのだ」の締めくくりにいたるまでのつながりが自然であるだけに、すとんと詩が入ってきて離れない。波があるということは、それだけ心が大きいんだよ、と言いたい。そして波は、必ず人間を成長させて止まない。
本屋に並んでいるものだけが本でないことを改めて知った。
素晴らしい本。図書館にあるべき1冊。
高見順著/三木卓編/弥生書房/1997
手に入るのは、日本図書センターから出ている『愛蔵版 死の淵より』のみ。それはもう持っています。
そして、この本を図書館で見つけました。
三木卓さんの解説によって(『わがキディ・ランド』で第1回高見順賞を受賞)、彼が私生児であったことを知る。永井荷風の父の弟の愛人の子。
血は争えない。しかし憎む。敵視する。そのことで、強く生きてきた。
詩を書き始めたとき、35歳を過ぎていた。父はもう死んでいた。戦争が始っていて、詩をばかにした詩が増えていた。
食道癌になって、また詩を書いた。危機のとき、彼は詩を書いた。生命が後退し、死の扉が開いた時。
生命が充実し、拡散する時、彼は小説を書いた。「二層にわたるかれ自身の心のうちを探索する装置」(三木卓さんの解説より)という理解は、とても納得がいく。詩と小説、どちらかが優れている、ということではぜんぜんない。状況によって、最もふさわしい表現法を使っただけのこと。根にあるものは変わらない。
短いものも長いものも、ぐっと来る、はっとするものはする。
生
手拭は
乾くそばから
濡らされる
手拭は
濡れるそばから
乾かんとする
まったくそうだと思った。たった6行で、「生」を、鮮明に写し出している。言葉をたくさん使えばいいというわけではなかった。
いつからか野に立って
いつからか野に立って
天の一角へ右の手を差しのべ
それだと叫ぶのが
この私のならわしとなったが
いつであったか野に立って
それだと私が叫ぶやいなや
私の指先からさっと爽やかに
私の苦しみが蒸発し去った
どんなに私は喜んだろう
しかしふと気がつくと
この私が透明だ
私は正に消失しかかっていた
思わず地面に両手をついて
生きたい生きたいと
手を通して必死に土から吸いあげたもので
私は私をみたして行った
その日からだ野に伏して
左の手はぴたりと地から離さず
右の手で遠い空を指さすのが
私の祈りの姿となった
ほんとに、どの言葉も、変えようがありません。はっきりと、それだと叫んだ私の喜びが見える。ふと気がつくと、透明になっていた自分にぎょっとして、思わず、両手を地面につく。それから、右で叫びつつ、左は根を下ろしている。この姿、天童荒太の『悼む人』が浮かんだのですが、僕もまた、地に這って草花を写すことが止められない。それでいてもう一方では、未知の世界を求めて止まない。僕もまた『樹木派』(高見順の第1詩集)です。
波
嵐が来た 窓の外に
嵐の木々が 怒涛のようだ
そうだ 木々の葉は 地上の波なのだ
波が海の葉であるように
おお 波の葉よ
木を育てる者が葉であるように
海を育てる者は波なのだ
嵐が迫る 窓の中にも
そうだ 海は常に 嵐の中にいるのだ
人が常に 嵐の中にいるように
おお 嵐の揺れる葉よ
常に苦しんでいる波よ
おお 人間の中にもある葉よ波よ
海を育てる者は波であるように
人間を育てる者は
人間の中の波なのだ
心という字の形を、トイレで(仏教伝道協会からもらった日めくりカレンダーがぶら下がっている)、じっと見ていると、波に見えてくるのです。見えない底から盛り上がり、先端が切れて吹き飛び、散っている。「人間を育てるのは波なのだ」の締めくくりにいたるまでのつながりが自然であるだけに、すとんと詩が入ってきて離れない。波があるということは、それだけ心が大きいんだよ、と言いたい。そして波は、必ず人間を成長させて止まない。
本屋に並んでいるものだけが本でないことを改めて知った。
素晴らしい本。図書館にあるべき1冊。
高見順著/三木卓編/弥生書房/1997
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