哲学の再学習の流れの中に、この先生がいないわけがない。私にとって、野家先生は、あまりにも大きな存在。
親も含めて、全ての大人たちに否をぶっつけていた時代、それでいてさびしくて、抱きしめられるものを探し回っていた時間。詩に目ざめて、書きなぐった詩たちを、二人の大人には見せることができた。そのことで私は、人との信頼関係を作りたかった。一人は、当時大学病院の研修医だった精神科のお姉さん先生。そしてもう一人が大学で担当教授になってくれた野家さん。野家先生の著作を読むのは「物語の哲学」(岩波現代文庫)、「はざまの哲学」(青土社)に次いで三作目。
以上のような背景があるので、どうしても大学時代にタイムスリップした感覚を覚える。後で気づいたのですが、この本はもともと放送大学のテキストだった。なので余計に大学生に戻って先生の講義を受けている感覚が強かった。
内容は、科学の歴史と、科学とはなんぞやという哲学と、第一次世界大戦から科学と技術が結びつき、国家プロジェクト化したことに伴う社会との関連についての3本立てで科学に立体的に迫るもの。
天動説から地動説へ。ニュートンによる万有引力の法則。学説の正しさをどのように確保するかについての議論。模範となる説は不連続に替わるというパラダイム論。科学と技術は、もともと相容れないもので、技術者はヨーロッパでは見下されていたこと。日本では科学技術として受け入れたこと。科学と技術が一体化したのは核開発だったこと。膨大な国家予算が科学技術に注がれるようになり、期限内で結果を出さなければならなくなった。そこで生じた様々なリスク。水俣病、酸性雨、オゾン層の破壊、地球の温暖化、原子力発電所の爆発。組織化された無責任。責任の所在がよくわからなくなってしまった。太陽光発電も、いいことだらけのように思っていたけど、設置する山で土砂崩れが起きたり、反射して周辺住民が被害を受けていたりとトラブルは多いそう。
科学の恩恵を受けずに生きていくことができなくなった今。だからこそ、科学にはリスクが伴うことを忘れてはいけない。3・11を仙台で体験した先生だからこそ、この結論は説得力があり、重い。リスクは、事故などの人的災害であり、人間自身の自由な選択や意思決定に起因し、制御することが可能。
原子力発電所から発生する使用済み核燃料(核のゴミ)は、10万年経たないと安全にはならない。10万年前といえば、ネアンデルタール人が生きていた。今から10万年後の人類に、核のゴミの危険性をどう伝えられるのか? このことからも引き出されるのは、世代間倫理。これは持続可能性ともつながっている。
専門家にばかり任せてはいけない。どんな人も、科学から無縁ではありえないのだから。科学には、新しく生み出した知識の説明責任があり、一般市民と信頼関係を築く必要もある。そうでなければその科学は偽物だ。
ああ、どんな人もこの時代から無縁ではいられない。
先生は、大学の理学部物理学科を卒業してすぐ哲学科に再入学された。幼稚園と大学院は中退したと言っていたけれど、山登りの趣味ともからめて、一歩ずつ、着実に歩まれ、大学でも責任を果たされた。私みたいな落ちこぼれ学生もしっかりすくいとってくださった。
その先生と続いた年賀状のやりとりが、今年で途絶えた。ちょうど20回で終わり。僕は出したけど、返信がなかった。
2度目の成人式。
「きみには長い助走が必要なようだ」
大学卒業前の進路相談で先生は言った。僕の本質を見極める目を、確かな読解力を持っていたのでしょう。鍛え抜いた読書の力で。客観的な科学の視点も合わせて。
「もう大丈夫だから、思いっきり飛びなさい」
今はそう言ってくれているのでしょうか。
着実に助走を続けたその先に、跳躍のチャンスは訪れる。
私だけの文体に乗って、今、必要な物語を、言葉を、文章を、届けたい。
どこまでも。
書くことのリスクを修めてきた20年でもあったように思います。
野家啓一 著/ちくま学芸文庫/2015
親も含めて、全ての大人たちに否をぶっつけていた時代、それでいてさびしくて、抱きしめられるものを探し回っていた時間。詩に目ざめて、書きなぐった詩たちを、二人の大人には見せることができた。そのことで私は、人との信頼関係を作りたかった。一人は、当時大学病院の研修医だった精神科のお姉さん先生。そしてもう一人が大学で担当教授になってくれた野家さん。野家先生の著作を読むのは「物語の哲学」(岩波現代文庫)、「はざまの哲学」(青土社)に次いで三作目。
以上のような背景があるので、どうしても大学時代にタイムスリップした感覚を覚える。後で気づいたのですが、この本はもともと放送大学のテキストだった。なので余計に大学生に戻って先生の講義を受けている感覚が強かった。
内容は、科学の歴史と、科学とはなんぞやという哲学と、第一次世界大戦から科学と技術が結びつき、国家プロジェクト化したことに伴う社会との関連についての3本立てで科学に立体的に迫るもの。
天動説から地動説へ。ニュートンによる万有引力の法則。学説の正しさをどのように確保するかについての議論。模範となる説は不連続に替わるというパラダイム論。科学と技術は、もともと相容れないもので、技術者はヨーロッパでは見下されていたこと。日本では科学技術として受け入れたこと。科学と技術が一体化したのは核開発だったこと。膨大な国家予算が科学技術に注がれるようになり、期限内で結果を出さなければならなくなった。そこで生じた様々なリスク。水俣病、酸性雨、オゾン層の破壊、地球の温暖化、原子力発電所の爆発。組織化された無責任。責任の所在がよくわからなくなってしまった。太陽光発電も、いいことだらけのように思っていたけど、設置する山で土砂崩れが起きたり、反射して周辺住民が被害を受けていたりとトラブルは多いそう。
科学の恩恵を受けずに生きていくことができなくなった今。だからこそ、科学にはリスクが伴うことを忘れてはいけない。3・11を仙台で体験した先生だからこそ、この結論は説得力があり、重い。リスクは、事故などの人的災害であり、人間自身の自由な選択や意思決定に起因し、制御することが可能。
原子力発電所から発生する使用済み核燃料(核のゴミ)は、10万年経たないと安全にはならない。10万年前といえば、ネアンデルタール人が生きていた。今から10万年後の人類に、核のゴミの危険性をどう伝えられるのか? このことからも引き出されるのは、世代間倫理。これは持続可能性ともつながっている。
専門家にばかり任せてはいけない。どんな人も、科学から無縁ではありえないのだから。科学には、新しく生み出した知識の説明責任があり、一般市民と信頼関係を築く必要もある。そうでなければその科学は偽物だ。
ああ、どんな人もこの時代から無縁ではいられない。
先生は、大学の理学部物理学科を卒業してすぐ哲学科に再入学された。幼稚園と大学院は中退したと言っていたけれど、山登りの趣味ともからめて、一歩ずつ、着実に歩まれ、大学でも責任を果たされた。私みたいな落ちこぼれ学生もしっかりすくいとってくださった。
その先生と続いた年賀状のやりとりが、今年で途絶えた。ちょうど20回で終わり。僕は出したけど、返信がなかった。
2度目の成人式。
「きみには長い助走が必要なようだ」
大学卒業前の進路相談で先生は言った。僕の本質を見極める目を、確かな読解力を持っていたのでしょう。鍛え抜いた読書の力で。客観的な科学の視点も合わせて。
「もう大丈夫だから、思いっきり飛びなさい」
今はそう言ってくれているのでしょうか。
着実に助走を続けたその先に、跳躍のチャンスは訪れる。
私だけの文体に乗って、今、必要な物語を、言葉を、文章を、届けたい。
どこまでも。
書くことのリスクを修めてきた20年でもあったように思います。
野家啓一 著/ちくま学芸文庫/2015